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透明なまなざし

 穏やかな陽射しの中、日に日に空気が冷たさを増して行く。荘園全域では作物の取り入れがようやく終盤を迎え、この屋敷でも冬支度が進められていた。正門へと続く広い庭園と豪華な中庭の植木には夫々に藁が巻かれ、調理場周辺は肉を燻す香りが一日中絶えない。


「ふう」


 大きな鍋で一年分のジャムを煮詰めながら、侍女のミリイは汗をぬぐった。周囲には誰もが忙しく働いている。彼女は働く者達をぐるりと見渡した。


「本当に何処に行っちゃったのよ、レアンったら……」


 ミリイは軽く溜め息をつくと、再び鍋をかき混ぜ始めた。


 侍従のレアンが失踪した噂はとっくに屋敷中に回っていた。だが真相は隠されたまま、屋敷の誰もが気付かないふりをし続けている。それが彼女にはとても歯痒い。


「……解雇で故郷に帰されたか、それとも大旦那様の所に移されたのか。何にしても心配だわ……元気だといいけど」


 心の中でミリイは呟いた。


「そうだわ。冬は確か、お館様は兄君である大旦那様のお城で過ごされる筈。その時にお休みが頂けたら、彼のご実家を訪ねてみましょう」


 彼女はジャムを一滴冷えた皿に垂らした。




 その時レアンは、空を見ていた。……




 寒々しい灰色の空を、羽音を立てて一羽の黒い烏がよぎる。パージェはそれを目で追った。烏は滑るように裏庭の更に奥、藪を越えた先に降り立った。草越しに鉛色の建物が見える。


 この奥にまだ道があるなんて何年間も気付かなかった。胸の奥に寄せては返す暗いさざ波をどうにかしたくて、パージェは藪に踏み入った。放置された小道には網のように草が絡んでいる。彼女は蟲を使って邪魔な草を何とか出来ないものか、しばし思案に暮れた。


「こんにちわ、パージェ様。どちらへ行かれるんですか?」


 背後からの突然の声。自分でも驚くほどビクリと身を縮め、彼女は習慣的に人懐こい笑顔を作って振り向いた。


 礼儀正しく頭を下げる黒髪の少年の姿がそこにある。


「……相変わらず無礼だね。君のような下民が、僕に気安く声を掛けて許されるとでも思っているのかい?」


 金色の瞳をにっこりと細め、パージェは表情とは不釣り合いな口調で尋ねた。


「とんでもございません。ですが、私は……以前からパージェ様にお会いしたいと思っておりました」


 少年は黒い瞳を伏せがちにしたまま答えた。


 さらさらと背後で藪が鳴る。葉のまばらな木々が冷たい風に震えている。風に煽られ、パージェの中にも波紋が広がる……。


「……以前だって? ふん、莫迦莫迦しい」


 彼女は咄嗟に動揺を笑顔で押し殺した。


「だけど、そうだね……多少は目をつぶってあげても構わないよ。丁度憂さが溜まっていた処なんだ」


 パージェは半ば恍惚とした笑みを浮かべ、手を少年に差し延べた。寒さのせいかびっしりと鳥肌が立っている――いや、それは鳥肌に見紛うイボだった。皮膚を覆う無数のイボから産毛のような糸が現れて絡み合い、群体となって白い鞭を形成してゆく……。


「君は、つまり伯母様の客人なんだよね?」


 しゅるり。白い鞭はしなってクーイの首に巻きついた。


「……もし僕が君を壊したら、伯母様は困って下さるかな?」


挿絵(By みてみん)


 そして彼女は蟲に思いきり少年の首を締めさせた。


 少年の顔がどす黒く膨らんで見えた。首筋にぎりぎりと生きた鞭が食い込んでいく。クーイの頬も唇も、顔中が葡萄のような赤紫色に染まった。本能的に彼の指がもがき、大地から足が浮く。


 獲物をいたぶる猫のように、パージェは一旦蟲から少年を解放した。クーイは剥き出しの地面に座り込み、ゲホゲホと激しく咳込む。


「さて、ご注文を戴こうか? 折るでも千切るでも、選り取り見取りさ。或いは……そうだね、そのまま弾けてしまうのも綺麗かも知れないよ?」


 くすくすと笑いながらパージェは獲物に視線を流し――刹那、びくりと身を強張らせた。笑顔の仮面が剥がれ落ちる。


 澄んだ黒水晶の瞳が彼女を見つめていた。恐怖でも怒りでも絶望でもない、獲物らしからぬ透明なまなざし――それは、確かに彼女の封印に触れた。


 ……ぼんやりと白い幻が揺れる。晴れゆく霞のその向こうに……



「やめろ!」



 自分でも気付かぬうちに、パージェは少年に飛び掛かっていた。まだ苦しげに肩を上下させる彼を地面に引き倒し、殴り、蹴る。体の奥で何かが悲鳴を上げ続けていた。壊れる、何か――何か大切なものが!



 ゴキッ。音を立てて彼女の脆く細い手首が曲がった。拳はとうに腫れて熱く膨らんでいる。続いて華奢な足首が。


「……パージェ様……お体が……」


 だが、肉体の痛みよりも激しい痛みがパージェの全身を貫いた。足の下で獲物が同情するような、痛々しげな視線を彼女に向けていたのだ。いたたまれず遂にパージェは逃げ出した。裏庭を出、旧館の暗い自分の部屋へ。足音が、息遣いが廊下に響き、ばあんと扉の音が壁を震わせる。


 がらんとした空っぽの部屋。扉を勢い良く閉めると、薄闇と静寂が部屋を満たす。己れの息遣いと鼓動だけが耳の奥に谺する。


 ようやくパージェは息を吐き出した。力なく扉にもたれかかると、今更のように足の痛みが這い上がってきて、そのままズルズルと彼女は床に崩れ込んだ。全身がカタカタ震えている。

 彼女は燃える両手で自分の肩を抱いた。

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