霞む視線
すっかり葉が落ちた裏庭の木々。寒々とした風に吹かれ、パージェは彼女だけの神聖な遊び場を訪れていた。
離れへと続く裏庭の一角。パージェは薪小屋の薄汚れた壁にもたれ、両手に抱えた豆を少しずつむき出しの地面にこぼし始めた。ざらざらと流れる豆の音が空に響き、やがて小鳥たちが集まってきた。木々の梢から地面をもの欲しそうに見つめ、そしてついと小鳥が舞い降りる。
彼女は目だけを動かしてそれを見た。小鳥たちは次々と地面に降り、豆を小さなくちばしでつついた。豆は簡単に転がり、小鳥たちは夢中になって彼女の周囲をはね回った。パージェは目を細めた。
その時、彼女の視界に離れの建物が映った。不意に彼女は、大切な裏庭を下賤の民が汚れた靴で踏み荒らしたことを思い出した。その下民どもは今、あの建物を間借りしているのだ……。
苛立ちが全身を巡った。刹那、パージェの腕から白い糸が伸びた。絡めとられた一羽の小鳥が悲鳴にならない声を上げるが、他の小鳥は気付かない。パージェは微笑むと、自分の苛立ちをぶつけるように、蟲を操ってゆっくりと獲物をいたぶった。血と羽毛が散る。やがて気が済むと、彼女は哀れな小鳥にとどめを刺し、死骸をゴミのように投げ捨てた。白い糸は死骸に群がり、残酷な悪戯の痕跡を消してしまう。
地面に残った僅かな染みのすぐそばで、無邪気な小鳥たちがまだ一心不乱に豆をつついていた。
――かさり。
突然足音がして、小鳥たちが一斉に飛び立った。バサバサと羽音の雨の中、パージェは一瞬びくりと身を竦め、咄嗟ににこやかな微笑を作って振り向いた。
「……下賤の者が『僕の』大切な庭に何の用さ?」
微笑んだまま金色の瞳に敵意を宿らせ、彼女は尋ねた。
そこには、窓越しに見たあの少年が立っていた。すらりと伸びた華奢な体つき、幼さの残る顔だちが何処か擬視感を誘う。少年の黒い髪がさらさらと風に揺れた。彼は黒水晶を思わせる瞳でまっすぐにパージェをみつめ、唇に笑みを浮かべた。
「初めまして。私はベスキュイ・ザッカム、医学生を代表して参りました。医学生一同、暫くの間あちらの別館をお借り致しております。どうぞ宜しくお願い致します。ご挨拶が遅れまして誠に申し訳ございません」
幼い雰囲気のただよう声で、彼は礼儀正しく膝を折った。
「……ふうん。それで挨拶の仕方くらいは知っているってつもりなのかい?」
屈託のない笑顔のままパージェはせせら笑った。だが少年は穏やかな微笑みを返した。好意?……哀れみ? その不思議な瞳の色はどこか懐かしく、記憶の襞を揺り動かす。
――母の面差し。或いは、もっと昔に見た記憶――
彼女はまじまじと目の前の少年を見つめた。自然と笑顔が剥がれ落ちる。空気が夢の中のように、白く白く霞んでいく。
「……何者なんだい……君は」
風に溶けてしまいそうな微かな呟きに、少年は微笑んだ。
「皆にはクーイと呼ばれております。どうぞお見知りおき下さいませ」
声の割に大人びた流暢な返事が、幻を破った。パージェは我に返り、そしてクーイに対抗心を覚えた。彼女は出来るだけ背を伸ばすと、精一杯傲慢な態度で言った。
「本来なら下民に名乗る名などないのだけど、特別に名乗ってあげるよ。僕はここの荘園主の妹の子――これでも両性だからね、姪でも甥でも好きに呼びたまえ――パイベルジェレア・ローオル・ゲゼントラーレアさ」
「存じております、パージェ様。お目にかかれて光栄です」
だがクーイは嬉しそうに言うと、丁寧に頭を下げた。
パージェは胸の内にどす黒い塊が溜まっていくのを感じた。
「……本当にパージェ様に申し上げるつもりなの?」
夜が訪れ、夕食を用意しながら侍女のミリイはレアンに囁いた。
「勿論、そのつもりでさあ」
レアンはこっそり頷いた。今夜は初めて彼がパージェの部屋に食事を届けるのだ。進言するにはまたとない機会である。
食事の支度が整うと、彼は先輩侍従の注意を受けた。
「いいですか、くれぐれも口は慎むこと、出来る限りお邪魔にならぬよう気をつけること。分かりましたね」
「はい。分かってまさ……とと、分かっております」
田舎訛りを慌てて頭から追い出すと、レアンは初めての暗く何もない廊下へと足を踏み入れた。