ソロスコ奮闘
先程感じた魔法の気配は、明らかに濃厚さを増していた。書棚に近付くにつれて頭がずぅんと重くなってゆく。冷や汗が吹き出し、やがて一歩も進めなくなった。
「ソロスコ、早く明かりを……あれ、どうかした?」
棚越しに友人の目がこちらを覗いた。ソロスコは精一杯彼に顔を向け、歯をガチガチ言わせながら必死に現状を訴えようとした。だが舌がもつれて言葉にならない。巨大な医療用魔法機器すら比較にならないほどの強い魔力に、彼は完全に圧倒されていた。
「あ、そっか。君は『空の民』だから、こういう系には敏感なんだね。ちょっと待ってて、何とか抑えてみるから」
すると部屋の空気が澱んだままの状態で且つざわざわと動いたような、不思議な感じがした。ソロスコは魔法を感じるのと全く同じようにそれを感じた。目に視えない精霊が翼を微かに震わせて荘厳な音楽を奏でている、そんなイメージだ。やがて彼を竦み上がらせていた魔力がふっと弱まった。
「これで動ける?」
「……あ……ああぁぁ……たぶん……」
友人の言葉に力なく頷き、ソロスコは再び書架へ向かった。弱まったとは言え魔法の気配は相変わらずねっとりと絡みつき、まるで泥沼を泳いで渡っている気がした。漸く書架に辿りついた頃には息が切れてへとへとになっていた。
「お疲れ様。で、明かりは?」
……失念していた。燭台か何かを取ってくれと頼まれていたのだった。燭台は部屋の入り口横の棚に置いてある。何事も無ければすぐ取りに戻れる距離なのに、濃厚な魔力に阻まれてまた苦労すると思うと動くに動けない。代用品を求めてソロスコはポケットを探った。カチカチにプレスされた皺々のハンカチが見つかったので、それに『発光』の魔法をかけて友人に手渡した。
「有難う。すごく助かるよ。……パージェ様、そちらに金具がございますでしょう、それを外して頂けますでしょうか」
クーイが台詞の後半で急に語調を変えた。小さな声が「これのこと?」と答えるのが聞こえる。
「~~~~!! ひっ、ひ・ひ・ひい……さんっ!?」
体温が一気に下がった。ソロスコは真後ろに飛びすさっていた。否、自分ではそうしたつもりだったが、実際には魔力に押さえ込まれてよろよろと尻餅をついただけだった。忘れていた。あの気狂い姫様がここに居るのだ。この書架の向こうに、手を伸ばせば届くほど近くに。目の前でタルヴァッカを嬲った時の残忍な笑顔が、蛇の如く這い回る白い鞭が鮮やかに浮かび、血の気が引いた。そうだ、先刻確かにクーイはパージェが一緒に居ることを口にしていた。だが友人の無事に気を取られていたソロスコは、あっさり聞き流してしまっていたのだ。
逃げ出そうと魔法の気配を必死に掻き分けていると、後ろでガチャンと金属音がした。書架が重たく軋み、床に散乱する本をゆるゆると押し流しながら半回転してゆく。隠し扉が開くにつれて魔法も更に強まり、ソロスコはその場に這いつくばるだけで進むことも戻ることも出来無くなってしまった。
「ただいま~」
朗らかな友人の声に漸く顔を回し、彼はあの残酷な姫君が心細そうにクーイに身を寄せているのを見た。だがそれよりもギョッとしたのは、友人の無残な姿だった。落ち着いていて穏やかで明るい声とは余りにも違っていた。さらさらした黒髪はもつれ、服は所々がほつれて汚れている。こんなに乱れた格好の彼を見るのは初めてだった。立ち居振る舞いもぎごちない。顔色も悪く、呼吸する度に苦しそうに肩が動いていた。
「ソロスコ、苦しい思いをさせちゃってて本当に御免ね。きついなら暫く僕から離れててよ。パージェ様をお部屋へお送りして暖炉と浴室とお食事のお世話を済ませたら、何とかするから」
クーイはにこっと微笑むと、「参りましょう」とパージェを誘った。明らかに口調と表情だけが嘘をついていた。友人の全身は傍目に見ても分かるほど憔悴しており、無理をしているのは一目瞭然だった。
何か変だとソロスコの直感が告げた。こんなクーイは見たことがない。普段の彼は多少の怪我や病気では顔色ひとつ変えない。それだけ今回は具合が悪いと言うことでは無いのか。
「まっ、待てよクーイ!! んーな雑用オレが手伝ってやっから、そんなカラダで無茶すんじゃねーよっ!!」
心配の余り咄嗟にそう叫んでいた。叫んでから、何もかも独りで背負い込むヤツだから、こんなコト言ってもきっと取り合っちゃ貰えねーんだろーな、と心の片隅で呟いた。
だがクーイは足を止めた。
「……じゃあ……悪いけど……お言葉に甘えて、お願いしちゃおうかな。ついでに僕のコートを取って来て貰えると有難いのだけど……」
しんどそうに見えるほどゆっくりと友人は振り向いた。予想を裏切る反応にソロスコは驚き、そして嬉しさをも覚えた。
「おいおい、ンなカラダでまだどっか行く気なんじゃねーだろーな?」
今はやめとけよ、と続けようとした時、彼が人差し指で上を示しているのに気付き、ふと言葉を切った。
友人は疲れたような困ったような微笑みを浮かべていた。
「……多分、屋根の上に置いてきたんだと思うんだけど。いまいち自信が無いんだよね……」
それから数時間はソロスコにとって、この世の終りが来たような慌ただしさだった。パージェの部屋へ先回りして暖炉と浴室を掃除し、部屋まで水を運び上げ(何往復もしなくてはならなかったため、これが一番重労働だった)、炉に火を入れ、講義中の静まり返った廊下を人に見つからないように自室に向かい、防寒着を着込み、窓を開けて空へと舞い上がり、予想以上にだだっ広くて入り組んでいる屋根を愕然と見下ろし、……初めて我に返ったのであった。
「や、屋根ったって何処だよー! スッゲー広れーじゃんかー! こ、こん中からコートを見っけろったって~……」
彼は恨めしく見渡した。幾つもの塔や尖塔がごちゃごちゃと虚空を突きあげ、複数の勾配屋根が装飾的に重なりあっている。眺めているだけで眩暈を覚え、それまでの疲れが三倍に増した。
「……フケちまおーかな。いちおー頼まれごとはあんだけやったんだし、コートくらい放っといたって構わねーよ、なあ……」
ちょっぴり甘い誘惑が頭を掠める。だが空を飛べない友人にはこの屋根を探し回ることなど出来ないとすぐに気付き、溜め息をついた。
「は~あ、やっぱオレが探してやるっきゃねーかー。どーせ今やんなくたってまた別の日に頼まれんだろーし」
ふと気付いた。あの二人は飛べない。つまり屋根の何処かに彼等が歩いてあがれる場所がある筈だ。そう言えばタルヴァッカを襲うパージェを止めた時、クーイはバルコニーがどうとか言っていた気がする。ソロスコは腕を組んで記憶を巻き戻しにかかった。昨日の事件は固唾を飲んで一部始終を見守っていたから、思い出せる筈だ。ええと、ええと……何だっけ、こんな時間からバルコニーへ、そうそう確か『夕暮れのバルコニー』だった気がする。そこへ行っても風邪をひくとか曇ってるから夕暮れが見えないだろうとか……。
ソロスコは空を見上げた。雲で覆われた冬空はひたすら白くて太陽の位置など分からない。だが『空の民』である彼は鋭く方角を嗅ぎ分け、夕日が見える位置を手掛かりにコートを探し始めた。




