部屋への帰還
扉を通り過ぎる鐘の音にソロスコは慌てて飛び起きた。外はもう明るい。部屋を見回すが、彼が眠りに落ちる前と全く変わっていなかった。蝋燭の長さは昨夜吹き消した時のままだし、冷め切った夕食も変わりなく置いてある。長椅子にも使われた形跡は無い。部屋の主はまだ帰って来ていないのだ。ソロスコは着替えを済ませ、ベッドを直し、そして廊下を覗いた。医学生たちはいつも通りに慌ただしく朝を過ごしているようだ。至る所で扉の開閉音と足音、そして賑やかな話し声が響いている。
「どうしちまったんだろ、あいつ……」
ソロスコはクーイの部屋を出た。大食堂へ向かう足をふと止め、くるりと向きを変える。
「もしかして、まだ姫さんトコに居んのかな……」
彼は階段を駆け上がった。一段ごとに朝の喧騒が遠のき、やがて静寂に包まれる。パージェの部屋に近付くにつれて足がガクガク震え出した。
「う……やっぱ、こ、こえーよなぁ……チクショー」
脳裏に昨日の事件が蘇った。パージェの残酷な笑顔と、しなる白い鞭と、悲鳴と、タルヴァッカの哀れな姿が浮かんだ。大人たちの張り詰めた話し声が衝立越しに微かに聞こえていたこと、今夜は部屋に戻れそうにないと告げて処置室に籠った父の難しい顔が次々と過ぎった。
ぶるぶるぶる。全身を羽の先まで震わせ、ソロスコはおずおずと歩を進めた。息を殺して周囲の気配を窺うが、まるで無人の館に思えた。
遂に意を決してパージェの部屋の扉を叩いた。ノックの音が静かな廊下に谺する。反応は無い。ノブを探ると鍵は開いていた。ソロスコは恐る恐る扉を引いた。荒らされたままの部屋が細長く切り取られて見えた。
バタン。彼はすぐさま戸を閉めた。中に誰も居ない以上、こんな恐ろしい場所に長居をしたく無かった。だが、ならば二人は一体何処に居るのだろう?
ふとクーイが、この荘園には数知れぬ仕掛けがあると言っていたことを思い出した。離れの建物も含め、どの建物も見た目の三倍以上は大きい筈だと。
『来賓客を泊めるための建物である以上、当然来賓客が連れてくる使用人も滞在する筈でしょ。でも、ここの客間のベッドには従者の寝る下段棚はついて無い。つまり、従者のための部屋がすぐ側にあるってことなんだ。余り離れていては主君に何かあった時に対応出来ないからね』
その時クーイは微笑んで、意味ありげに壁をコツコツ叩いていた。
『それに、お客様の使う豪奢な廊下や階段を、使用人が使う訳にはいかないじゃない。そういう人達の使う通路は景観を損なわないような所に隠してある筈なんだ、普通はね』
「……けどよー……隠してあるったって、どーやって探せば良ーんだよ。オレにゃーそんなムツカシーこと分かんねーよ~」
でもオヤジらは忙しーだろーし……と呟いて、ソロスコはとにかく手近なところから部屋を順に覗いてみることにした。パージェの滞在するフロアを全て回ってしまうと階段を下り、別階の部屋を見て回る。
不意に使われていない部屋のひとつで奇妙な気配を感じた。ソロスコの全身にブルッと震えが走る。
「お……おーい? だ、誰か居るのかよ?」
呼び掛けても無人の部屋から返る声は無い。だが気配は益々強まってくる。ごくり。ソロスコは唾を飲み込んだ。逃げ出したい気持ちを堪え、膝をカクカクさせながらそろそろと部屋に踏み込む。
気配は壁一面を覆う書架から漂ってきた。『魔力感知』の呪文など唱えて居ないのに、全身の毛穴がそそけ立つほど強く魔法を感じる。ソロスコは背筋が寒くなった。魔法の込められた雑貨類は店でたやすく購入出来るが、これ程までに強い魔法はそうは無い。禁忌に触れるような思いでやっと書架の前まで来るが、体が竦んで身動ぎも出来ない。
カタ……カタン。壁の奥から物音がした。
「ひ、ひぃぃぃぃっっっ!!」
情けない悲鳴を上げ、ソロスコは逃げ出した。だが実際に逃げ出せたのは気持ちだけで、体は腰が抜けてその場に座り込んでいた。
カタ、カタ、カタ……音と気配は徐々に近くなる。
「はわぁ、あわ、わ、わ……」
ソロスコの歯も同じリズムでカチカチと鳴った。再び絶叫し、床を半ば泳ぐように這いずって逃げ出す。
ガタン。音が間近でした。バサバサッという音に振り向くと、書棚から次々と本が落ちていた。全力で逃げ出した筈なのに、ソロスコと書架との距離はまだ一メートルも離れて居ない。魔法の気配はいよいよ濃厚になり、肌がチリチリと焼けるように痛くなる。
ふと目には視えないが確かに翼を持つ何かの存在を感じた。それも人間が持ち得る類いの翼では無い。どちらかと言うと機械に似ているが、機械でも無い。有機物と無機物の中間の材質、例えば蝋や象牙や結晶化した樹木や琥珀のようなもので作られているようなイメージが浮かぶ。翼の気配は何処か悠久の時間を連想させ、畏ろしさと神々しさが同時に湧き上がった。まるで古の精霊と向き合っているかのように。
本が全て払い落とされて空いた棚からにゅっと人間の腕が伸びた。
「ッギャァァァ~~~!! オ、オヤジ~~~ッ!! たっ、たすっ!!」
急に呪縛が解けた。ソロスコは悲鳴を喉からありったけ絞り出すと、白い翼で空を掻きながら扉へ向かってひた走った。
「やあソロスコ、おはよう……だよね? 窓の外明るいし」
と、聞き覚えのある声が背後から彼に追いついた。ソロスコは勢い良く転倒し、そのままボールのように数度も弾んだ。
「……ク……クー……イ……!?」
「ここに居てくれて丁度良かった。悪いんだけど、明かりを――燭台でも何でもいいから、ひとつ持ってきてくれないかな。この中結構暗くて、パージェ様がちょっと難儀なさってるんだよ」
書架から聞こえたのは紛れもなく昨夜から行方知れずだった友人の声だ。しかも特別なことなど何ひとつ無かったような、いつも通りの声。ほっとした途端に力が抜け、ソロスコはそのままべちゃっと床に潰れた。
良かった。声もいつも通りだし、本当に無事だったのだ。一晩中嫌な想像に苦しめられていたことが嘘のようにふっ飛んだ。安堵が全身を駆け巡り、怒りの形をとって吹き出した。
「ちょ……ちょーど良かったじゃねっだろ! オレ一晩中お前が戻んの待ってたんだぜッキャローっ!! 今まで何処行ってやがったんだよー!!」
そう怒鳴りつけると、ソロスコはぐるぐる拳を振り回した。
「御免御免。心配かけて本当に御免ね。有難うソロスコ」
書架の奥に隠された空間から悪びれた様子も無い友人の声。ソロスコは軽く息をつき、ズボンをはたいて立ち上がった。つかつかと歩み寄ろうとして――途中で立ち竦んだ。




