後悔
――暗い。いや、昏くて、冥い。そして仄かに暖かい……。
夢を見ている。パージェはひとり呟いた。呟きは暗く昏く冥い闇に余韻を響かせ、紛れて混ざって揺らいで溶けて融けて釈けて――
『ここへおいで、パージェ』
ふと声に誘われて、誰かを見上げた。懐かしい声、大好きな優しい笑顔。ふわり、と鼻を掠める日だまりの香り。パージェは喜んで小さな両手を差し上げた。大きな手が彼女を抱き上げる。急にとても近くなる黒水晶の瞳。眩しげに細められたそれが優しげに笑った途端、朧気に見えていた誰かの顔がみるみる小さくなって、そしてあの黒髪の少年になった。はっと息を飲んだ矢先、遠い何処かで誰かが悲鳴をあげた。
『アナタヲ返シテ!!』
悲痛な、呪詛の籠った悲鳴がどろどろと渦を巻き、闇がぬくもりを奪い去ってゆく。彼女は赤子のように泣いた。誰かの声は徐々に大きさを増し始め、やがて生き物のように彼女に巻き付き、首を締め上げた。しなやかな白い指、形よく伸びた爪が、皮膚にじりじりと食い込んで来る。怖い。苦しくて息が出来ない。やめて、伯母様……。
『パージェ。伯母様の言うことをよく聞いてね』
ふっといつも耳の奥に響いている声が現れた。今度は誰の声かすぐ分かる。母様の声だ。
『伯母様はとても哀しいお人なの。とても哀しい辛いことがおありだったの。あなたまで哀しい顔をしたら伯母様はもっともっと苦しくなってしまわれるわ。だからパージェ、伯母様の前では何があっても笑顔でいてね。どうか伯母様をお楽にしてさしあげてね』
幾度となく、幾度となく、記憶の中に繰り返されて来たやさしい桎梏。
――笑わなきゃ。
彼女は本能的な抵抗を無理やり放棄し、精一杯笑みを浮かべた。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……
心臓が早鐘のように鳴っている。
パージェは息を殺したまま自分自身の鼓動に耳を傾けた。手足にぞくりと寒気を感じて、出来る限り身を縮こめる。バルコニーから避難した時にはあんなに暖かく感じたのに、微睡んだせいか今はやけに寒く感じる。冷えきった腕に掌の温もりが心地好い。床はふかふかした苔で覆われていて絨毯のようだ。僕はまだ夢を見ているのだろうか――空気中に漂う緑がかった淡い光をぼんやりと見つめた。仄かな光なのに、真っ暗な闇に慣れた目にはとても眩しく思える。
光? パージェは鉛のように重い半身を起こした。途端に咳が迸る。外套を変な風に着込んだまま眠りに落ちたため、服が喉に深く食い込んでいたのだ。苦労して外套のボタンを全て外すと、急に体が軽くなり、今までの数倍にも感じられる冷気が押し寄せてきた。彼女は更に身を縮こめ、たった今見失ったばかりの重たく温かい盾をふと手で探り、
――突然、少年の存在を思い出した。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。呼吸が顎の辺りまでせり上がり、耳の内側が痛いほど早く脈打つ。パージェは自分の胸をぎゅっと掴んだ。皮膚から指を直接つっ込んで掻き毟りたい程に、何かがふつふつと躍り立っている。違う!! 僕は如何かしてたんだ、でなきゃ誰がこんな下民なんか――!! 自分を、或いは事実を消し去りたい衝動に身悶えしながら、彼女は声にならない言葉で必死に弁解した。
殺してしまえばいいじゃないか。唐突に脳裏に閃光が走った。彼さえ居なければバルコニーでの件は全て無かったことになる。思わず口走った言葉も、無我夢中で彼を助けてしまった事実も。例え寒くてここでは蟲が使えなくても、相手は酷い怪我をしていて、しかも気を失っている。もしかしたら既に怪我が治っているかも知れないけれど、今なら非力な自分でも……パージェは拳を握りしめた。徐々に呼吸が落ち着いてくる。そうさ、殺るなら今しか無い。彼女は心を決めて振り返った。
そこには信じられないような光景が待っていた。少年の体が淡く発光していたのだ。先程から空気全体を仄かに覆っていたあの光……いや、彼自身が光っているのでは無く、彼に接している苔から湯気のような光が放たれていた。霧のようなうすあお緑い光はクーイを神秘的な色に染め、へし折れたままの二の腕と脇腹を汚す血を照らし出し、彼を「彼女がよく知っている誰か」から「人形めいた造形物」に変貌させている。パージェは視線を外すことが出来なくなった。息をするのが怖いほど幻想的な光景……自然に両手足から力が抜け、そのまま崩れるように座り込む。 何て――何て光景なんだろう、これは。
うす緑の光の中、夢が続いているような気持ちのまま彼女は見入った。改めて見ると、勾配屋根でちらりと感じた通り、クーイは結構小柄で、とても幼く見えた。顔は意外に上品な造りで、哀しみとも苦しみともつかぬ類の感情を噛み殺した結果穏やかに見えているようにも思える。……こんな奴だったかな? パージェはぼんやり瞬いた。彼の印象と目の前の容姿とが一致しない。それにしても何て綺麗なんだろう。顔を縁取る緑色の影はとても滑らかで、磨かれた大理石を思わせる。
本当に彼は人間なのだろうか? 彫像か何かに魔法を吹き込んで作られた者では無いのか。蟲に襲わせても殴っても蹴っても、怯えもせず、恐れもせず、抵抗もせず、ただ穏やかに微笑っている。会ったことなど無い筈なのに僕の記憶を刺激する。この屋敷に無数に在る装飾品のどれかに良く似ていて、そのために既視感を感じていた可能性だって――
パージェは恐る恐るクーイに屈み込み、頬に指を触れた。光の湯気は彼女が触れた部分だけ雪が溶けるようにはかなく消える。だが指先に感じたのは大理石では無く、少し汗ばんで冷えた肌の弾力だった。少年の息遣いが指先から彼女へと伝わってくる。
ぴくん、微かに体が揺れたと思うと、突然彼の目が開いた。至近距離で交わる二つの視線。呼吸と鼓動を見失い、パージェは動けなくなった。黒水晶の瞳は淡い光と同じ色を点して彼女を見つめている。
だが刹那クーイの姿がかき消えた。怪我をしているとは思えぬ俊敏さで彼女をすり抜けたのだ。そして次の瞬間、明らかな殺気と共に、彼の掌がパージェの目を狙って真っ直ぐに飛んで来た。




