救出
……ざわざわと木々は鳴っているのに、とめどない潮騒に合わせて視界が揺れているのに、彼女は時間が止まったように感じた。呼吸が凍りついた。ドクン、ドクンと、眼球の熱が耳の内側へ突き上げる。
「お……い」
やっと声らしきものが喉を掠めた。彼女は唇を湿すと、ぐったりしたままのクーイをもう一度呼んだ。
「おいってば、起きろよっ!……」
殴ろうと構えた瞬間、声が喉につっかえる。振り下ろしかけた手を急に止め、パージェはそっと彼に触れた。掌に痛みが走り、すぐにひっ込める。熱い。炎に触れたみたいにピリピリする。彼の顔に手を翳すと、荒い呼気が蒸気となって張り付いてくる。
「何とか言えよ! 今まで喋っていたのに、急に狸寝入りをするなんて酷い、じゃないか……」
揺する掌に再び熱と息遣いが流れ込む。彼の服と髪は闇に溶け、その身を貫く槍がやけに白々しい。うっすらと闇に浮き上がる顔は、普段の言動が信じられない程幼く見える。パージェはもう一度、今度は強めに揺すった。棟飾りの穂先が密やかに抵抗する。
棟飾り。再び彼女の息が塞いだ。屋根の端を飾る石魔像は、彼を貫く槍を誇らしげに掲げている。彼の体はこんなに熱いのに、息だってちゃんとしているのに! ドクン、ドクン、瞼が熱く痙攣を始める。気道が閉塞して、上手く呼吸出来ない。
無我夢中で彼女は穂先を押し戻そうとした。だが非力な腕に精一杯力を込めても、びくともしない。今度は彼の体を持ち上げて穂先から引き抜こうとするが、踏ん張った足が滑り、危うく勾配屋根から転落しそうになる。押しても引いてもどうにもならない。
何だってここはこんなに寒いのさ。パージェは息を整えながら少年を見つめた。あの暖炉の部屋くらい暖かければ、蟲さえ使えれば、あいつを棟飾りから引き抜くなんて、たやすいことなのに。ふと非力さを嘲笑われた気がして、棟飾りを睨みつける。僕が――この僕が、蟲なんかに頼らなくちゃ何も出来ないなんて。
彼女は再び少年に近付いた。彼の外套はじっとりと水分を吸い込み、羊毛で出来ているとは思えないほど重くなっていた。悴んだ手で苦労して外套を脱がせ、その体に腕を回す。ビリビリと服越しに熱が染みてくる。パージェは足を踏ん張ると、一気に少年を担ぎ上げた。
動いた! 彼女の胸が躍り上がった。と、布の裂けるような音がして、急に天地が回った。屋根から落ちる! 彼女は全身を強張らせた。咄嗟にひねった体が棟飾りの槍の柄の部分に衝突する。
衝撃が収まり、彼女は恐る恐る目を開けた。すぐ横に、棟飾りから解放されたクーイが倒れている。パージェは胸に溜めていた息を全部吐き出し、這い寄った。
「おい……」
そろそろと触れると抉れた脇腹は冷たいものでぐっしょりと濡れていた。湿った服が濡れた絨毯を思い起こさせる。かつて自分が気紛れに散らせた下男みたいに、彼も血をいっぱい流して、そのまま冷たくなってしまうのだろうか?――再び気道が詰まった。感情の波が潮騒のように押し寄せ、押し寄せ、ぐるぐると渦を描き、やがてひとつの風を生んだ。
何とかするんだ。
パージェは立ち上がり、外套を脱いだ。一旦少年を背に担ぎ、その上から再び外套を着込み、届くボタンを全て止める。背後へ偏る重心を制しつつ勾配屋根を見上げると、露台はここからは全く見えない。屋根は全体にびっしょりと露が降って滑りやすく、掴まる場所も見当たらない。だが彼女は出来るだけ姿勢を低くして勾配屋根に挑んだ。
背負った荷の重さに、あっけない程すぐに息が上がった。腕も膝も情けない位ガクガクと震え出す。四肢は凍えているのに、背中だけが火傷しそうに熱い。彼女はずれ落ちそうになる度に少年を揺すり戻し、休み休み斜面を這い上がった。元来の非力さに加えて、疲れと寒さ、滑りやすい傾斜、そして二人分の体重が進行を阻み、幾度となく軽い滑落を繰り返す。露台が空よりも遠ざかり、勾配屋根が何処までも伸びていく感覚に捕らわれる。
しかしパージェは地道に登り続けた。今の一歩と次の一歩を機械的に繰り返すうち、硬直した時間が実体を失い、やがて意識と現実がずれ始める。視界が自分自身の内部へと深く深く沈み込んでゆく。
指先が突然水平な場所を捕らえた。だが冷えきった指先は感覚を失っており、彼女はまだ斜面が続いているつもりで足を持ち上げた。途端にがくんと体が前にのめる。崩れかけたバランスを危うく取り戻し、そしてパージェはぼんやりと見上げた。意識と切り離された視界に、二体の石魔像が映る。散漫だった瞳の焦点が合い、急速に意識と現実が重なる。露台に戻って来たのだ! 認識と同時に四肢に力が戻り、彼女はズルズルと露台の上へ這い上がった。
最初に目に入ったのは、散らばった白い四角だった。母様の手紙……少年を背負ったまま露台にぺたりと座り込み、目だけを動かしてそれを数えた。四肢は石のように重く、疲労が全身を押し潰す。だが、風が耳元で唸る度に胸の奥がざわざわと波打ち、彼女は重い体に鞭打って立ち上がった。傾いていない足場にやや戸惑いを覚える。悴んだ指と笑う膝を意志だけで制し、濡れた露台に貼りついた手紙を一枚ずつ回収した。全てが済むと、冷たい風から逃げるように隠し通路へ進んだ。
淡い光を放つ夜が遠ざかり、澱んだ空気が二人を包んだ。風が当たらないだけなのに、何てあたたかいんだろう……張りつめていたものがぷつりと切れ、彼女は少年を背負ったまま崩折れた。きつく体を締め付ける外套、首筋に貼りつく自分の巻き髪、妙にふかふかした地面、耳の中に谺する潮騒の音、そして他者の息遣いと背中を灼く熱。それらの感覚が霞む意識を取り囲み、布団のように優しく受け止め、包み込んでゆく。
「ねえ……どうしたら、もう一度返事をしてくれるのさ……?」
自分にしか聞こえないほど小さく囁き、パージェはやがて微睡みの中に身を投じた。




