第三章 魔女の告白
遊具の影から出てきた安堂君を見つけるなり、つかつかと乙葉は歩いて行った。最後まで見届ける必要はない、私はベンチから立ち上がって公園を出た。二人に悟られないように、出来るだけひっそりと。決して振り返るまい、と自分に言い聞かせた。振り返ったら、もう進めなくなるような気がしたから。
公園の出口に差し掛かった時、乙葉の叫び声が聞こえてきた。感情をむき出しにした怒声はびりびりと私の耳にも響いた。……「親しみなんか、いらないから!」「君に何が分かるの? あたしはお気楽な君とは違うの! 音草乙葉らしく、完璧に振舞わなきゃいけないの!」矢継ぎ早に、乙葉が憤る。多分、今日まで誰にも見せずに来た本音をありのままに、彼に向かって吐き出している。ずっと体の底で澱になって淀んでいたものを、やっと体の外に掻き出すことが出来たのだ。
私は立ち止まった。振り返りはしないけれど、足を止めて心の中だけでお祝いの言葉を述べる。おめでとう、乙葉。もうあなたは大丈夫。魔女の物語がなくても、あなたは聖者の奇跡を手に入れることが出来る。
乙葉の叫び声が途切れる。そのあと、彼女がどんな言葉を続けたのか分からない。公園の出口から耳を澄ませても遠すぎて聞こえなかった。
もう、あそこに……あの二人の元へ戻るつもりはなかった。これは今日だけじゃない、未来永劫の話だ。私がいるべき、居場所は失われた。もうどこにもいけない。いってはいけない。
私は人食い魔女。誰も食らわぬうちに、悲劇を生みださないうちに、己の命を食らわなければならない。
私、静江寧なんて、もともとはありふれた事柄で構成された人間だったのだ。確かに小学校低学年の時に両親が離婚して父子家庭というのは世間で一般的とまでは言われないし、幼少時から本を読むのが好きで、ジュブナイル文学に飽き足らず、父の蔵書にまで手を伸ばしていたというところは一応特徴として認めてもいいのかもしれない。でも、決して珍しいものではない。周囲を探せば、私のような人間はきっと見つかる。やっぱり私はいくら誇張してもありきたりな一人の少女だった。日が暮れるまではずっと友達と一緒に遊んでいて、近所の人も面倒を見てくれた。それに普段会えないからこそなのかもしれないけれど、父が帰ってきたときはとても嬉しかった。何の不足もない生活だった、とは言い過ぎだけれども、大きな不満はなく、それなりに幸せな生活を送っていた。こんな穏やかな生活がいつまでも……中学校や高校に入って、大学に行って、就職してそれから……という具合で続いていくのだろう、と漠然と思っていた。
だから、と言うべきなのかもしれない。私がありきたりでそれなりに幸せな生活を送っていたからこそ、父の呪縛に苛まれた安堂杏里のように、あるいは幼少時から賢すぎたが故に誰も信じられなくなった音草乙葉のように、どこを探しても見当たらない不思議なおとぎ話に囚われずに済んだのかもしれない。そう、私は彼らほど『人食い魔女の死』に執着していなかった。
そういうわけで、頭の中にしかない物語をわざわざ文章に起したのは、大層な理由があったわけじゃない。小学校五年生の夏休み、私は暇を持て余していた。友達はみんな田舎に帰省していたり、旅行に出ていたりしてなかなか会えなかった。父は当然のごとく仕事で家にはあまりいない。近所の人がときどき構ってくれるぐらい。図書館で本を借りて読むにしたって、毎日続けていれば飽きも来る。私は学校のない長期の休みをひたすら持て余していた。
元から本を読むばかりなくて、一度でいいから自分で本を書いてみたいという欲求はあった。ただどんな話を書きたいか、という具体的なアイデアを持っていなかった。そこで、アイデアは拝借することにして文章を自分で考えるところからやってみようと思った。『人食い魔女の死』を題材に選んだ理由はあらすじを知っていて、でも本文を見たことがなかったから、という二点だけ。話の内容に関して特別な思い入れは一切なく、思い出すことから始めなければならなかった。
執筆に取り掛かる前に、まずは一度話を整理しなければならなかった。覚えているあらすじを書き出してみると、だいたいこんな感じだった。……人を食べる魔女がいて、色んな人たちが退治しようとするが果たせない。騎士が魔女を退治するが、なぜか倒しても蘇ってきてしまう。そこに聖者が出てきて、魔女を改心させるけれど、結局食べられてしまう。兵士を率いてきた王様が魔女を見つけ、誰かの墓の前で佇んでいるところを発見する。王様は兵士に知らせることなく、魔女を放置する。以降、魔女の被害はなくなった。年月が経って王様が魔女の元を訪れると、やせ細った魔女の亡骸がある。王様は魔女の墓を作って葬ってやった。……あらすじを書きだした後、今からでも題材を変えたほうがいいかもしれない、と思った。たしか変な話だったな、という認識はあったけれど、改めて書き出すとそのおかしさが身に染みる。
前半はまあ、いい。昔々おっかない化け物がいましたとさ、でもなかなか退治されませんでした、というのはテンプレート化した導入だ。聖者の存在もまあ、よくある。剣でダメならコミュニケーションを、という文脈で解決する話は珍しくない。騎士が魔女を倒しても蘇ってくるのは、聖者と対比させるためだろう。
が、その後は疑問点のオンパレード。意味ありげに出てきたくせに聖者はあっさり話から退場してしまう。その後、魔女はどうして墓の前に立っている? そもそも誰の墓なんだ? 王様も何でさっさと兵士をけしかけないわけ? しかも、魔女はなぜかその後死んでいるみたいだし、王様もわざわざお墓を立ててやってるし……分からないことだらけだ。
これを書くのか、と尻込みもした。けど、一度決めた以上放り出すのは勝負に負けたみたいで嫌だった。意地でも書いてやる、とやる気がめらめらと燃え上がってきた。あらすじを表面的になぞっておしまい、なんてプライドが許さなかった。理解が及ばなかった点に関しては徹底的に考え抜いた。この物語が一体何を語ろうとしているのか、私なりの解釈を組み立てた。そのうえで執筆を始めた。あらすじでは語られていない部分を補強し、会話を挿入し、逆にあらすじから感じたこの物語がわざと語るまいとしている部分についてはそのままにした。小さな子供向けの童話にするつもりはなかったから、難しい漢字だって辞書と首っ引きになりながら書いた。執筆そのものにかかった時間は精々一日。しかし書きあがった時の達成感は一塩だった。
苦心して書き上げた原稿を棚の中で眠らせておくなんてもったいない。誰かに読んでほしい、とすぐに思った。けど、誰か、というのが難しかった。私自身は本が好きで図書館にも足繁く通うけれど、友達に読書が趣味の子はいなかった。読書と聞くと、誰もがそろって国語の授業を連想するらしくてあまりいい顔をしない。大人には見せる意味なんてない。「わあ、よく書けてるね」とまともに読んでもいないくせに言うだろう。決してうまいとはいえない子供の絵をほめるように、私のよく分からないおとぎ話を褒めてくれるだろう。
じゃあ、きちんと読んでもらえそうなところに原稿を置けばいいじゃないか。思いつくまでに一週間かかった。私は思い立ったら、すぐに行動せずにはいられないタイプだった。原稿を持って、思いついたその日に図書館に走った。司書の目を盗んで、適当に取った人魚姫の絵本に原稿を挟み込んだ。その後は何食わぬ顔をして、いつも通り借りていた本を返して新しいものを借りて帰った。その日は挟んできた原稿の行方を思い、わくわくして眠れなかった。
今になって思い返すと、なんとまあ大胆で向こう見ずないたずらで、と嘆息してしまう。原稿を挟んだ絵本を誰も手に取ってくれなければおしまいだし、仮に取ってくれたとしても原稿に見向きもしないかもしれない。最悪、せっかくの力作をゴミ箱に捨てられる可能性だってある。にも関わらず、当時の私は極めて楽天的だった。図書館に通うぐらいの人だから、意味ありげに挟まれている原稿があればひとまず目を通すだろう、と考えていた。上手くいけば感想だってもらえるかもしれない、そんなことさえ夢見ていたのだ。
幼く、向こう見ずな当時の私は、借りた本は一冊も読んでいないくせに意気揚々と翌日も図書館に向かった。当然、用事があったのは人魚姫の絵本だ。周囲の目を気にしながらも、胸の高鳴りと共に本を開く。私が昨日仕込んだ原稿の束は捨てられることなく、きちんと挟まれていた。それと……いれた覚えのない封筒が原稿と一緒に挟んであった。にわかに信じがたいことだけれども、幼い日の私が望んだとおりのことが実際に起こったのだ。
当時の私は驚くよりも前に、素直に喜びに目を輝かせた。原稿ごと絵本から抜き去って、封筒を開けた。中には一枚紙が入っていた。便箋なんて気が利いたものじゃなくて、破ったノート片だった。国語用の升目入りのノートで、鉛筆を使って丁寧な文字で書かれた手紙だった。
『人食い魔女の死の作者さまへ
はさまっていた原こう用紙は全て読みました。ぼくはこれを読んで、びっくりしました。だって、ずっと探していたんです。だれかから教えてもらったわけでもないのに、ずっと昔からこの話を知っていて、どこで知ったのか知りたかったのです。
聞きたいことがたくさんあるんです。知りたくてたまらないことがたくさんあって、もしあなたが知っているなら教えてほしいんです。だから、一度会ってもらえませんか。お願いです。……来週の水曜日、お昼の二時に絵本のコーナーで待ってますから……』
短い手紙だった。でも、受けた衝撃は今まで読んだどの長編小説よりも大きかった。
繰り返しになるけれど、私は筆を執るまで『人食い魔女の死』に大した興味を持っていなかった。誰が教えてくれたのか分からない、という不思議な点に関しても、どこかで偶然知った物語なのだろう、と軽く考えていた。まさか全く同じことが起きている人に出会う日が来るなんて、全く思いもしなかったのだ。
もう一つ衝撃的だったのは、手紙をくれた彼の切羽詰まった嘆願だった。藁にも縋る想いで、というのはこのことだろう。激流の中から、最後の望みを託してぬっと突き出された人の手を見たような気がした。その手を取るということは、彼と共に自分も激流の中に取り込まれる可能性があるということだ。
来週水曜日の、お昼二時。私は手紙の締めくくりの部分をじっと見つめていた。どうすべきか、その場で考え始めて……ひとまず封筒と原稿を持って一度家に帰った。色々考え、悩んだ結果、私は翌日もまた図書館に向かった。彼がくれた封筒を抜いて、代わりに私が書いた手紙を入れた封筒と一緒に原稿を人魚姫の絵本に挟み込んだ。
『親愛なる読者様へ
読んでくださってどうもありがとう。あなたの手紙もしっかり読ませてもらいました。あなたは私の原稿を読んで驚いたとおっしゃっているけれど、私も驚かされました。まさか、私と同じことを体験した人がいるとは思いませんでしたから。
申し訳ないけれど、あなたの期待には応えられません。この物語に関して、知っていることはあなたとさほど変わりないのです。こんな風に文字にしてしまったから、私をこの物語の作者のように考えてしまったのかもしれませんけれど、違います。もう一度言いますが、私もあなたと同じ立場です。何故だか知らないけれど昔から知っている物語を、単に手慰みに書いてみただけなのです。実際に会っていろいろたずねられてもきっと困ります。だから、来週水曜日はいきません。ごめんなさい』
たしか、こんな感じの内容だったと思う。落ち着いて振り返ってみれば、ここまで冷たくあしらわなくてもいいのでは、と思う。けど、当時の私は必死だったのだろう。彼に引きずられて、一緒に冷たい水底まで引きずり込まれることを何よりも恐れたのだ。
そのあと、しばらく人魚姫の絵本には近寄ろうとしなかった。彼が抱える事情に巻き込まれたくない、という感情はもちろん強く残っていたけれど、冷たくしすぎたのではないかという後ろめたさもあった。私が返事を出したのが火曜日の出来事だったけれど、土曜日まで人魚姫の本に近寄らなかった。つまり、土曜日には放置し続けた罪悪感に負けて、もう一度こわごわと原稿用紙をはさんだ絵本を開いた。私が挟んだ封筒は消えていて、見覚えのない封筒が挟んであった。前と同じく、ノートを切り取った用紙が折りたたんで入れてあった。
『作者さまへ
おどろかせてしまったようで、ごめんなさい。確かに、とつぜんあんなこと書かれたらびっくりしますよね。全然、考えてなかったです。
ぼくはちょっと、まい上がってしまったみたいです。『人食い魔女の死』について知っている人を見つけて、とてもとても嬉しくて、それでついついあんなことを書いてしまいました。……本当にごめんなさい。もうぼくのことは忘れてください』
ここで手紙は終わっている。手紙にはおびただしいほどの消しゴムの跡があった。とても短い文章だったけれど、書いては消して書いては消して……彼はどれぐらい時間をかけて、この手紙を書いたのだろう? すっかり消し跡で汚くなったノート片を呆然と眺めていた。そうしているうちに、ひらりと封筒から一枚紙が落ちた。手紙とは別にもう一枚あったらしいのだ。拾い上げて、折りたたんであるその紙を広げる。紙面のほとんどを絵が占めていた。……私は絵を見て、思わず息をのんだ。
描かれているのは、一人の細身の女と王冠を被った男の絵だった。うっそうと生い茂る木々を背景にしているけれど、木々の隙間をぬって画面を明るく照らす光が差し込み、長い髪の合間から覗いた女の頬をすべる涙をきらめかせている。その足元にはこんもりと盛った土には可憐な野草が添えられている。……登場人物は二人とも画面に顔を見せていない。けれども魔女の透き通った悲しみは、王様の深い憐みは、表情など描かれていなくても、鉛筆と色鉛筆が生み出す柔らかなタッチを通してこれ以上ないほど表現されている。断言してもいい、図書館にあるどの絵本よりも、素敵な絵だった。
『人食い魔女の死』のワンシーンを描いたすばらしいイラストには、手紙と同じ丁寧な文字が短いメッセージを綴っている。
『何回も読み返しました。とても上手でした。ぼくもきみみたいに上手く文章が書けたらなあ、と思いました。どうやったら書けるようになりますか? ……ちなみにこれは読んでいるうちに、こんな風なシーンなのかな、と想像がわいてきたので描いてみたものです』
書かれているメッセージはひどくたどたどしい。しかし、その上に描かれているイラストはプロの画家かと思わせるほどの完成度を誇っている。一体、彼は何者なんだ? むくむくと好奇心が湧き上がってくるのを感じて、大慌てで筆記用具を探し、手紙を書いた。
『私の方こそ謝ります、ごめんなさい。私だって何もかも知っているわけじゃないですけれども、意見とか考察でよければお話しします。ただ、お会いするのは少し恥ずかしいので、今まで通り手紙をやり取りしましょう。そこでなら、なんでも聞いてください。……P.S.何回も見返しました。どうやったらあんな絵が描けるんですか? 私は絵がそれは……それはとても下手なので羨ましい限りです。あと、文章がうまくなる方法は……知ってる限りだと、とにかく本を読むことだと思います。漫画とか雑誌じゃなくて、本を』
会うのは少しためらったけれど、手紙のやり取りなら続けてもいい……いや、続けたい。大急ぎで手紙を書き上げ、絵本に突っ込んだことを思い出す。
この日から、毎日手紙をやり取りした。決まった時間にやってきて、絵本を開けて封筒を取り出し読んで、図書館で返事を書く。何度も繰り返していたが、悪戯をされて封筒が捨てられたことはなかった。私と彼のやり取りに気付いていた人も少なからずいた。一度は声まで掛けられた。
「お手紙のやり取り、してるのねえ」
人魚姫の絵本を開いて手紙を差し込んでいるときに、声を掛けられた。縮み上がって振り返ると、若い女性が私の後ろに立っていた。寝ぐせの付いた髪を無造作に束ね、眠たそうな目で微笑んでいた。私が突然の出来事に固まっているうちに、女性はどこかへ行ってしまった。
そんな中、彼とは色んなことをやり取りした。真っ先に話題に上がったのは、物語の解釈だ。私があらすじを書き出したときに躓いた箇所をそっくりそのまま、彼も理解が及んでいなかった。あくまで私の解釈だけれど、と前置きをつけたうえで色んなことを伝えた。何故王様が魔女を見逃したのだとか、魔女はどうして最後に死んでいるのだとか……それだけにとどまらず、この物語は魔女の救いの物語なんだ、というところまで便箋を何枚も費やして講釈した。
彼は尋ねるばかりではなかった。私のつたない講義に対するお礼、とばかりに毎回一枚絵を添えてくれた。大概が『人食い魔女の死』のワンシーンだった。最初と同じように鉛筆と色鉛筆で華やかな場面を描いたり、はたまた鉛筆一本の濃淡でおどろおどろしい魔女のすみかを書いたり……。興味深いのは、聖者や王様の姿は一定しているけれど、魔女の姿がなかなか定まらないのだ。手紙の中で指摘すると、彼からはこう返ってきた。
『いや、ぼくもよく分からないんです。魔女がどんな姿をしているのか、これだというイメージにまだ出会えていないんです。前は三角帽子にほうきを持ったおばあさんの姿しか思いうかばなかったんですけど、きみの文章を読んだり話を聞くうちに変わってきました。前とちがって、色んな姿を想像するようになったので、一つに決まらないんです』
彼の反応を誇らしく思ったのを覚えている。私が書いた物語が、彼の考え方に影響を及ぼしているということが、とても嬉しかった。創作の喜びとはきっとこういうものなのだろう。他人の考え方に影響を与えることなんて、日常生活の中ではそうそうない。でも、フィクションと言う形を取ればずっとハードルは低くなる。偉い人じゃなくても、平凡な私にだって人々をほんの少しだけでも変えることが出来る。書くことの楽しさ、その一端を知った私はこう返事を書いた。
『将来の夢なんて、今までまじめに考えたことはありませんでした。漠然と、中学高校大学と進んでいって、どこかの会社に就職して、結婚して、親になって、祖母になって孫に囲まれて死んでいく。そんな風に思っていました。そうしなければ、そうでなければ、と思っていたわけではありません。自然とそうなるだろう、と思っていたのです。……けど、最近ちょっと違うことも考えるようになりました。どこかで何かをしている誰かでなくて、自分の好きな作品を書いている小説家になるのもいいな、って思うようになりました』
たった一つ作品を仕上げただけ……しかも自分でアイデアを出したわけでもないのに、ずいぶん気の早いことだ。実際の仕事の大変さなんてまったく知らずに、ただ憧れだけでお花屋さんになりたいとかお医者さんになりたいとか言うのと変わりない。でも、彼は私の夢を笑わなかった。
『小説家、いいですね! 本を出したらぜったい教えてください、読みますから。そのときはまたお手紙書きますし、いいなと思うシーンも絵にして送ります。……応えんしてます、がんばってください!』
たぶん、彼ほど熱心に私の子供らしい夢を励ましてくれる人はどこを探したっていないだろう。一番仲のいい友達にしたって、私にはとても優しい父にしたって、そして望んだ私自身にしたって、彼ほど真剣に考えることはないだろう。
このころには夏休みは残りわずかだった。宿題はたくさん残っていた。彼との手紙のやり取りに一日の多くの時間を費やしていて、ほとんど手を付けていなかった。それでも、私はまた原稿用紙を手に取った。『人食い魔女の死』ではない。まっさらな白紙の原稿用紙にペンを走らせる。
今度は全て自分で考えた新しい物語にしたかった。けれども、全く新しい物語を描くには時間がなさすぎた。『人食い魔女の死』ではもちろんない、だが、自分で作った物語、と胸を張れる代物ではなかった。それでも書いたのは、彼の想いに応えた証を示したかったから。
彼の手紙を受け取って、家に帰って書き始めた。夜遅くまで執筆を続け、朝早くにまた続きを書いて、なんとか普段図書館を訪れる時間に間に合わせた。でも原稿は入れない。その代わり、折り畳んだ便箋に短い手紙をしたためて絵本に差し込んだ。手紙は短いけれど、彼の熱心な応援にきちんと正面から向かい合った。できる限りの、私の精一杯の気持ちを込めて書いた。
描いたのは、決意の現れだけではなかった。彼にどうしても伝えたい私の願いを書いた。……絶対叶えてくれる、という確証はなかった。嫌だ、ときっぱり拒絶されるかもしれない。それでも、書いた。断られたら、もう夏休みの宿題なんてこなす気力が残らないほど心が折れてしまうだろう、と予想はついたけど、黙っていられなかった。私は待てなかった、一秒でも早く返事が欲しかった。願いをかなえてくれるまで、一生懸命になって仕上げた原稿を見せるつもりはなかった。
当然、次の日も図書館に向かった。いつもの時間まで待てなくて、開館と同時に駆け込んだ。そして、もどかしく人魚姫の絵本を開いた。……私が挟んだ封筒も消えていた。ただ、新しい封筒も便箋もなにも見当たらなかった。全てのページをめくっても、絵本を逆さにひっくり返しても、何も出てこなかった。
その後も、図書館には通った。人魚姫の絵本は何度も開いた。でも、彼からの手紙はもう二度と来なかった。
小学校五年生の夏は、こうして終わった。
公園を出ると、寄り道せずに自宅への帰路をたどる。授業終了時刻からそこそこ時間が立っているけれど、部活動が終わる下校時間にはまだ遠い。家路につく生徒たちは少なく、まばらに見かける程度だった。この程度でよかった、と思う。同じ年頃の少年少女たちの、穏やかな話し声や楽し気な笑い声が今の私には痛い。私の手のひらからこぼれ、遠くへ流れ去ってしまったものを見せつけられるのは苦しい。
私に残されているのは、思い出だけだった。あたたかな過去の記憶だけを杖にして、前に進んでいる。もうその記憶だって時の流れと共に形を変えてしまっているけど、構わない。今はもう、ささやかな郷愁さえ許さず、苦しみと痛みばかり与える姿になっていても、確かにあった思い出をなくすことはできない。
小学五年生の夏のあっけない幕切れは、確かに寂しかった。……きっと嫌われたんだ、やはり私の願いがまずかったんだ、あんな大それたことを頼むから。憂鬱に沈んで、山のように残っていた宿題は結局片付かなかった。先生にはこっぴどく叱られたし、友達にも笑われた。でも、私は大して傷つかなかった。もっと大きな傷があったので、かすり傷の痛みを気に掛ける余裕がなかった。
あの日以来、私は小説を書くことはなかった。彼はもういない。書いたって誰にも読まれない。読まれないものを私は書きたいと思わない。小説はもう、読むだけでいいや。授業や宿題で求められない限り、白紙の原稿用紙を手に取ることはなくなった。小説家になりたい、という夢は、卒業した子供の夢の一つになってしまった。
秋が過ぎて、冬が訪れるころにはあの夏の日の思い出はずいぶん遠のいていた。夏に行った、声一つ交わさないやり取りは、友達と過ごすにぎやかな日常とは全く違っていて、まるで私のアルバムに紛れ込んだ見知らぬ写真のように思われた。そのまま時が過ぎれば、思い出には埃が積もって、少しずつ記憶から消えていっただろう。昔々の夏休みに起こった夢のような出来事として、くったくなく笑いながら友達に語ってみせる日が来たかもしれない。
彼のことを、思い出さなければ。
彼に会える、と……あの日の続きが訪れると、期待なんかしなければ。
そう、私は思い出してしまった。彼は手紙の上でしか息をしていない生き物ではない、ということを。升目入りのノートを使い、習っていない漢字をひらがなで書き、でも絵だけは小学生とは思えないほどうまい男の子があの手紙を書いていたのだということを。
気付いたきっかけは、夏休みの宿題だった。一番面倒な環境保全を呼びかけるポスター制作。私は絵を描くのが苦手で、どうやって手抜きするかしか考えていなかった。提出さえできればよくて、その後のことなんてどうでもよかった。
私の作品は確かに提出した段階で役割を終えていた。私に限らず、大半はそうだ。でも、そうじゃない人たちがいる。先生に見いだされ、顔も知らない審査員の人たちに選ばれる人たち……彼はそのうちの一人だった。
地元の市民ホールに、環境保全ポスターのコンクール結果が貼りだされていた。興味は全くなかったので、目には入ったけれどそのまま通り過ぎるつもりだった。一枚の絵が飛び込んでくるまでは。
その絵は画面いっぱいに森が広がっている。細部まで綿密に書き込まれ、うっそうと生い茂る深い森がそこに再現されている。しかし、画面は木々の合間から差し込む光で明るく照らされている。その光を受けて、細身の女の頬を滑り落ちる涙はきらきらと輝いている……。
私が見たあの絵から、一人登場人物が減っている。冠を被った王様の姿が消えていて、その代わりレタリングされた文字がありきたりな「自然を壊すな」という文句でポスターに付け加えられている。
いったい、何の冗談かと見た瞬間、思った。明朝体風に描かれた文字がたまらなく邪魔だった。「自然」の代わりに「場面」を壊すな、と書き換えてやろうかと思った。……まさか『人食い魔女の死』のとびきり素敵なワンシーンの構図を面倒くさい夏休みのポスターにそっくりそのまま流用する阿呆がいるとは夢にも思わなかった。卓抜した技術がなければ、画面とメッセージがちぐはぐなこの絵が賞を取ることはなかったに違いない。
ほんとうに、あの時は呆れかえった。怒りも感じた。せっかくの綺麗な絵を台無しにして何をやっているんだ? いくら何でもこれはないんじゃないのか?
手紙の文面から、きっと彼は頭のいいタイプの人間ではないのだろうな……とうすうす思っていたけれど、確定した。彼は馬鹿で、阿呆で、間抜けだ。思わず、声に出して笑ってしまった。周りに誰もいなくて、よかった。
その場を立ち去る前に、ポスターについていた札を見る。そこには「自然を壊すな」という工夫の欠片もないタイトルと小学校の名前と作者の学年、氏名が記載されている。学年は同じ、学校は別。隣町の小学校……彼がわざわざ遠い私立を選んだりしなければ、中学校は一緒になるはず。札の情報を全てしっかり頭に刻みつけてから、その場を立ち去る。
一年と数か月後が、私はたちまち待ち遠しくなった。どんな顔しているか知らないけど、間抜け面にちがいない。絶対、ひっぱたいてやる。とても楽しく、懐かしい出会いが、私を待っているのだと予感した。当時は、まだ何も知らなかったから。中学の入学式の日に何が起こるのか、小学生だった私には知る由もなかったのだから……無邪気に喜んでいることが出来た。
過去の記憶に浸っているうちに、周囲の景色が変わっていることに気付いた。自宅の周辺の光景だった。
基本的に人の出入りが少なく、人の姿を見かけることもそう多くない。ただ、今日は私の他にも人影があった。数メートル前方に二人組の男女が歩いている。同じ中学校の生徒だった。片方は背中の半ばまで黒髪を伸ばした女子で、もう片方は赤っぽい茶髪の男子。周囲が静かなので、二人の会話は筒抜けだった。
「おとといの、このあたりだったの。あの……あの女とやりあったの、って」
乾いた声が女子から聞こえてくる。声で、彼女が誰か分かった。同時にあの女というのが誰かも理解した。彼女があの、恵美鈴。
おととい、私は彼女と乙葉のやり取りを最初から最後まで聞いていた。私は乙葉に対して恐怖に近い感情を抱いた。彼女を恐れることが精いっぱいで、正直なところ恵美鈴に強い関心はなかった。良くも悪くも感情と行動が一直線につながった女子、という印象があるだけの人物だった。
「さっき、言ってたやつ?」
茶髪の男子が軽い調子で相槌を打った。派手な色の髪に乱れた服装からして、学内ではおそらく悪い意味で有名人なのだろうが、教室に縁がない私は知らない。ただ、恵美鈴と繋いだ手が彼女との関係を物語っている。
「あいつとまともに口喧嘩して勝てるやつなんか、そうはいねえ。気にすんな」
普段の彼の口調なんて知らないけれど、多分、恵美鈴の前でだけ使う声音なのだろうな、と思う。柄の悪そうな身なりとは違って、声はひどく優しい。
誘惑、という単語が思い返される。恵美鈴が発して、乙葉がやり玉に挙げた言葉だ。会話からすると彼は事件の概要は確実に知っているようだけれど、どこまで知っているのだろうか?
乙葉の揺さぶりが効果を発したのは、十中八九、恵美鈴の側に心当たりがあるからだ。安堂君に対する誘惑は、彼が語る通りなかっただろう。ただ、彼以外に対してはどうかと言えば、恵美鈴の声の悲痛さからして、あったのだろうと思う。……前を歩く彼は分かっているのだろうか? 何も分かっていないからこそ、優しいのだろうか? それとも、何もかも分かっているけれど、それでも優しいのだろうか? たまたま通りすがっただけの私には判断材料がなさすぎた。でも、どちらでもありえるだろう。乙葉は後者を奇跡と呼ぶのだろうけど、奇跡なんて必要ない。何故なら、彼ら二人のように、互いを思いあう二人の間に限れば、奇跡なんかお呼びじゃない。この程度のことは奇跡がなくても、起こることだ。
だって、私は身をもって体験した。私は最初、乙葉を殺すつもりだった。でも、変わった。殺せない、殺してはいけない、と思った。さらに変わった。殺したくない、と。そして、今はこう思う……生きてほしい、と。このような変化でさえ、奇跡なんていらなかった。
ぎゅっと握りしめた手の皮膚に爪が深々と突き刺さる。ああ、この手に本当の奇跡が起こればいいのに。魔法の杖を一振りしたように、ありえないことが、絶対に起こらないことが本当に起こってくれればいいのに。……小さく、ため息をつく。
ため息をつき終わると、茶髪の男子が足を止めてこちらを振り返っていたことに気付いた。何気なく振り返ったら目が合った、という感じだった。派手な髪や耳にいくつも埋まったピアスや服装に埋もれないほど、目鼻立ちがはっきりしていて人目を引く顔立ちをしていた。端正な顔の作りだとは思うけれど、見るからに不良って感じであまり好きなタイプじゃないな。そんなことをぼんやり考えていると、彼がいつまで経っても視線を逸らさないことに気付いた。よく見れば、彼の足も止まっている。
「い―君?」
いぶかる恵美鈴の声が聞こえた。それでも、彼は動かない。……何かがおかしい。私も遅まきながら、この状況の異常さを理解する。見知らぬ彼が、何故をこれほどまでに凝視するのだろう? ひょっとして、どこかで何か関係があったのだろうか……? 彼がしているように、私も彼を見返す。そして……心臓がどくん、とひと際大きな鼓動を刻み、冷たい汗が背中を伝う。
私は理解してしまった。私と彼とを結ぶ、たった一つの縁が何であるかを悟ってしまった。私と同じように、私たちを繋ぐ唯一の関係を理解したらしい。彼は、呻いた。
「魔女……!」
空を覆う霧が吹きはらわれたように彼の目に獰猛な光が輝く。魔女に対する憎しみと殺意で塗りこめられた、あの瞳……! 会ってはいけない人に出会ってしまった。彼は騎士だ! 人食い魔女を殺すために、騎士が長い眠りから目覚めてしまったのだ。
足に力が入らず、ふらりとよろけそうになるが、私は背を向けた。猟師に追い立てられた鹿のように、走り出す。後ろから駆け出す音が聞こえる、迫ってくるのが分かる。足音は段々近づいてくる、濃密な殺意がだんだん近づいてくる……!
私は走った。精一杯、逃げた。でも、ほんの少しの時間でしかなかった。腕に蛇が食らいついたような痛みが走り、私の意志とは裏腹に前に進んだ足が引き戻される。したたかに地面に体を打ち付け、衝撃に思わず目を瞑る。その隙に、首にぬっと冷たい手のひらの感触が迫り……首を絞める両手に力が入る。
首にかかった手をほとんど反射的に引き剥がそうとするが、岩に爪を立てているかのようにぴくりともしない。苦しい! やめて! 声にならない声で私は叫んだ。
誰かが叫ぶ声が聞こえる。遠い遠い外国から叫んでいるみたいに聞こえてくる。誰かの悲鳴で、誰かの怒号だった。何を言っているか、さっぱり分からない。大声で叫んでいるのだろうけど、遠すぎて聞き取れない。はっきりと聞こえるのは、頭上でささやかれる呪いの言葉だけ。
「化け物は殺す、化け物は死ね……!」
繰り返し何度も、他の言葉を何一つ知らないのではないかと思うほどに繰り返す。人間らしいあたたかさは一欠けらもない。恵美鈴にかけた優しい声の彼は今はなく、騎士の亡霊に憑りつかれ、怨嗟の言葉を吐いている。
急速に目の前の景色は移り変わる。輪郭を失い、明るさを失い、全ては闇へ、黒一色の中へ沈んでいこうとする。……ああ、私、本当に死ぬんだな。都会の星空よりも暗くなった目の前の光景と向き合いながら、思う。仕方ない、だって彼は騎士で、私は魔女だもの……一人、誰に呼びかけるわけでもなく心の中だけで呟いた。
目の前が急に、明るくなった。大きく喘いで、予想とは裏腹に新鮮な空気が大量になだれ込んできた。首にかかった両手が離れ、急に手に入った酸素を反射的に貪り、一気に吸いきれなくて激しくせき込んだ。
何が起こったのか、すぐには理解できなかった。目は突然の明るさにくらんでいて、頭はろくに働かない。ただ、音は聞こえてきた。耳になじみのある声が必死で叫んでいた。
「誰か、呼んで! 早く!」
目の前にあったのは、小柄な背中。十字に手を広げ、壁のように私の前に立ちふさがる。恐らく不意打ちで突き飛ばされたのだろうか、騎士の少年は住宅の柵にぶつかってうずくまっている。頭を打ち付けたのか、軽い脳震盪を起こしているように見えた。だが、起き上がるまでにそう時間はかかるまい。が、乙葉は動こうとしない。
「元君、これはいったいどういうこと?! どうして寧ちゃんを襲うの? 君が乱暴者なのは百も承知だけど、まったくどうしちゃったんだよ!」
乙葉は亜麻色の髪を揺らして叫んだ。だが答えはない。彼は唇を固く引き結び、うずくまっているだけ。……うるさい、とっとと逃げなさいよ! 私はそう叫んだ。だが、まだ咽ていて実際には声が出なかった。
むくり、と彼の垂れ下がった首が伸びる。前髪に隠れた瞳が乙葉をとらえた。
「魔女は殺す!」
雄たけびと共に、彼がとびかかる。目覚めた獅子が牙を剥く様に、立ちはだかる乙葉に腕を伸ばす。彼女の細い腕を掴み、地面に引き倒す。体格と力の差は歴然で、乙葉はあっさりと地面に転がる。転がった乙葉を乗り越え、彼は歩き出す。騎士に憑りつかれた瞳が爛々と光り、私を真正面から捉えた。……ぞっとして、私は動けない。無様に尻餅をついて慄いている。
私の首に再び、彼の腕が伸ばされる。やっぱり、死ぬしかないのか? 極限まで目を見開いて、迫る腕をじっと見ている。彼の手にかかって、死ぬしかないのか? 喉に指が食い込む寸前になって――彼は片膝をついて、体勢を崩した。
乙葉だった。地面に這いつくばった乙葉が、彼の右足に両腕を絡ませていた。全身を使って、彼を抑え込む乙葉は、再び叫んだ。
「早く逃げて!」
だが、次の瞬間、彼の右足が乙葉の拘束を振り切って、彼女を蹴りぬいた。まるで紙のように乙葉が吹き飛んだ。腹を穿つ痛みにうずくまって、可憐な顔を歪めて、でもすぐに立ち上がった。もう一度、おぼつかない足取りで立ち上がり、前へ進む。
すると、彼が私に背を向けた。乙葉の方を振り返った。……いけない、と思う間もなかった。ぞっとするような鈍い音が響き、顔を蹴られた乙葉が足元に崩れおちた。
それでも、彼女の手は彼の足を離さない。震える手でこれ以上行かせまいと彼の足を握りしめている。
彼はじっと乙葉を見下ろした。それから、ひどくゆっくりと腰を落とした。……だめだ、と思った。このままにしてはいけない、と思った。彼は魔女を殺す前に、魔女を守ろうとする邪魔者を排除するつもりだ。止めなければ、と思った。
でも、どうやって? 乙葉よりも、私よりも体格も力も勝っている少年相手にどうやって? 私は全然、動けなかった。怖じ気づいて腰を抜かしている。勇敢な乙葉と違って、彼の前に立ちはだかるどころか立ち上がることさえ出来なかった。
逡巡している間に、彼の手が乙葉の無防備な首に伸びた。触れた指に力が入り、彼女の首に巻き付いていく。……乙葉の表情が苦悶に歪む。巻き付いた指に手を掛けるが、ほとんど皮膚を撫でているだけだ。かわいらしい唇で喘ぎ、必死に酸素を求めてもがいている。……死んでしまう、このままでは乙葉が死んでしまう! やっと私は動き出した、無我夢中で腕を伸ばした。
「離せ! 乙葉を離せ!」
乙葉の首を絞める彼の腕に掴みかかる、引き剥がす。力いっぱい引いた、思いっきり叩いた、爪で引っ掻いた。でも、腕はぴくりとも動かない。私の妨害に耐えきり、全ての神経を乙葉の首に巻き付く指に注いでいる。
どうすれば、どうすればいい? 必死に考える。どうすれば、この指をどうにかできる? 分からない。全然思いつかない。でも、なんとかしなければ……乙葉を救わなければならない。だって、もう彼女を見捨てないと誓った、彼女に生きていて欲しいと誓った。奇跡もおとぎ話も関係ない、ただ私が誓ったからだ。私は何が何でも、乙葉を守らなければならない。……でも、どうやって? ためらいが、弱気が、私の腕から力を奪った。彼の腕を引く力がわずかに緩み、乙葉の手がずるりと彼の手から滑り落ちた。
その瞬間、私は悟った。もう手段は選んでられない、と。もうそんな余裕を持っていられる時期は過ぎたのだ、と。
私は彼の腕から手を離した。その代わり、顎を開いて口をあける。息をすっと吸い込む。吸い込んだ息を吐き出さないよう、唇で栓をする。見上げるほどに高い彼の背中を目を細めて、にらみつける。心の中だけでつぶやく。
そう、あなたはたかが騎士――それに引き換え、私はおそろしい人食い魔女なのよ!
心の中の叫びと同時に、顎を閉じる。肉を噛みしめるように水を啜るように、彼の命に歯を立て魂を齧りとる。
どんな極上の料理にだって出せない、天にも昇るような魂の味がこの身に刻まれる。全身に身震いするほど甘美な疼きが、走る。
ああ、そうだ。あの日もそうだった。素晴らしい魂の味がきっかけになって、私は過去の記憶を呼び戻す。
一年と少し前のこと。……中学校生活最初の一日目のこと。
私が魔女として目覚めた日のことを。安堂杏里が、初めて私の前に姿をあらわしたときのことを。
中学校の入学式の前日、私は全く眠れなかった。彼に……あの安堂杏里に、会える喜びで満ちていた。
下駄箱の前に掲げられていたクラスの表を見て、私は自分の幸運に感謝したものだ。私の名前と安堂杏里の名前は同じクラスの欄に書かれていた。
すでに教室にはたくさんの生徒がいた。全く知らない別の小学校の生徒、同じ小学校のなじみの顔。一時間もたっていないのにさっそく仲良くなっている初対面の人たちがいる一方で、なじみの友達とつるんで動こうとしない人たちもいる。私はそのどちらにも属さなかった。自分の席に座って、とある一つの席をじっと観察していた。
出席番号順に座席は決められていた。安堂杏里はとても分かりやすい出席番号一番。窓際の列の最前列の席。
私は教室に到着してからその席をずっと見ていたけれど、なかなか席の主は姿をあらわさなかった。……朝早くから張り切って学校に来るタイプではないだろうな、と予想していたことではあるけれど。
安堂杏里の噂は隣町にも聞こえてきていた。彼は希代の殺人鬼の安堂保の息子。小学校でも浮いた存在で、仲の良い友達一人いない……という話だった。
別に私はそんなことどうでもよかった。希代の殺人鬼の息子だろうが、友達の一人もいない寂しい人間だろうが、彼は間違いなく小五の夏に手紙を交わしたあの男の子なのだ。文章はへたくそだけれど、絵はびっくりするほどうまい。それから、ひたむきで純朴。彼はいい子だということを私は知っている、他のことなんてどうだっていいのだ。
時々なじみの顔に声を掛けられつつも適当にあしらって、出席番号一番の席を見ていた。ホームルームが始まる三分前ほとんどの席が埋まったころ、一人の少年が教室に入ってきた。身長は高くもなければ低くもない、顔だちもこれと言った特徴がない。ただ、誰とも目を合わせず、気配さえ殺しているかのように教室を進む姿は、学校生活初日の喧噪に包まれる教室においては異様に映った。……彼だな、と席に着くまでもなく分かった。
私は席を立った。目指すは、出席番号一番の席。机に鞄を置いて、彼は席についていた。誰かに声を掛けることもかけられることもなく、一人ぼっちで頬杖をついて黒板を見上げていた。机の列の隙間を通り、生徒たちの波をかき分け、彼の元を目指した。
なんといって声を掛けるかは決めている。……君が安堂君? 私は静江寧。××小学校出身なの。君は△△小学校出身だよね?
多分、彼は知らない女子に突然話しかけられて、しかも名前と小学校を言い当てられて驚くだろう。たじろぐか、あるいは、何で知っているのと問い返してくるかのいずれかだろう。私はこう答えるのだ。……小五の夏の環境保全のポスター、見たよ。「自然」を壊すな、じゃなくて「場面」を壊すな……だよ。
緊張と興奮で今にもはじけ飛びそうな鼓動の音を聞きながら、私は一歩ずつ彼への距離を進めていた。すると突然、彼が振り向いたのだった。何がきっかけかは知らない、知る由もない。とにかく重要なのは、彼が後ろを振り返り、近づきつつあった私と目が合ったという一点なのだ。
かちりと視線が合って、彼はちょっと驚いたように目を見張った。けど、すぐにばつが悪そうに顔を背け、前に向き直って黒板の上の時計を見上げていた。まるで何事もなかったかのように。……そう、彼にとっては。
私にとっては、違った。彼と目が合った瞬間、世界が凍り付いたような感覚に襲われた。私と彼、それ以外の生徒も物もなにもかもが灰色に沈み、動きをやめた。何が起こったのか、私にも分からなかった。突然、異世界に放り出されたような不思議な感覚。彼が振り返るのをやめ、時計を見上げた時――ぱきん、とガラスが割れるような音が胸の内から聞こえてきた。今思えばあれは――魔女の殻が破れる音だった。
あらゆる記憶が、あらゆる感情が、奔流のようにあふれだす。知らない人間、知らない時代、知らない世界が私を包み込む。ある時は年を食った老婆、ある時は若い女。私じゃない誰かの目を通して、魔女の世界の欠片を知る。
老婆は小屋に泊めた旅人たちの一団をもてなしていた。ふくよかな商人、彼を取り巻く屈強そうな護衛の男たちが杯を掲げ、老婆の出した料理に手を伸ばす。だが、彼らは杯の酒を一滴も飲まず、スープの一さじさえも口にしないうちに息絶えた。老婆は満足そうに微笑む。彼らの命と魂を啜って、その至上の味に舌鼓を打っている。
若い女は戦場に立っていた。この場にそぐわぬ華美なドレスをまとい、周囲を見渡している。華麗な甲冑を着込んだ騎士やその従卒たちも、軽装の傭兵たちも、みな死者となって静かに横たわっている。剣も槍もまだ血しぶき一つ浴びていないのに、戦いは終わってしまった。彼らの命と魂を食らい、若い女は優雅に微笑み、暗闇に消えた。
最後によぎったのは、比較的近い時代の光景だった。映ったのは学校の教室。掲示物と生徒たちの姿から言って、これは小学校だった。
三十名にも及ぶ児童たちは、みな静かな眠りについていた。机に突っ伏して、あるいは後ろの席を振り返ったところで息絶えている。ところが、一人だけ顔を上げている。クラスの女子がそろって羨ましがったかわいらしい花柄のワンピースを着た少女が、教卓に腰掛けて物言わぬ同級生たちを見下ろしている。教室の生者は彼女ただひとり。同じクラスの児童たちの命と魂の味を噛みしめ、彼女は――幼い魔女は幸福そうに微笑んでいる。……ここで映像は終わらない。続きがまだあった。
静かな教室内にがらりとドアの音が響く。担任の教師がやって来たのだ。まだ若く新米教師と言っていい男性だった。彼は静かに眠る大勢の子供たちを見て、次にただ一人命を保つ少女を見た。
少女は微笑みかけようとした、次の犠牲者の教師に向かって。だが、微笑みは不完全に終わった。少女は、教師の正体を悟ったからだ。魔女を殺す騎士、それが彼女の担任教師の正体だった。
担任教師は授業の作業用に持っていた、カッターナイフの刃を押し出す。魔女たる少女は恐怖する。判断能力をなくして、慌てて教卓から飛び降りる。飛び降りた少女に教師が迫る。少女の体にぶつかり、カッターナイフが花柄のワンピースを貫き、骨の隙間を通って心臓を貫く。……少女の唇から苦痛の悲鳴が零れ落ちる。
少女の命の灯は消える寸前だった。だが、そのまま何一つ足掻けずに死んでいったわけではない。最後の力を振りしぼって、幼い魔女は騎士たる教師の命に歯を立て、食いちぎる。そのすべてを食らいつくすことはかなわない。だが、決して少なからぬ魂が魔女の腹に納まった。唇の中に広がる魂の味に身を震わせながら、小さな魔女の意識は薄れていく。
唐突に世界が戻る。中学校の入学式の朝の教室に色彩が宿り、動かなかった生徒たちは再び時間を取り戻す。
同時に私は膝から崩れ落ちる。口元を抑え、全身には震えが走る。舌に広がる得も言われぬ魂の味に、全身が歓喜に沸き立ち、小刻みに震えを発する。
大丈夫? と横から心配そうな声を掛けられる。気分でも悪いの、と気づかわし気な声が聞こえる。聞いたことがある、聞きなじんだ声のような気がする、でも思い出せない。鳴き声で個々の豚を聞き分けることが出来ないみたいに、誰の声かなんて分からない。話し声がばらばらに分解されて、今にも意味を持たない雑音になってしまいそう。……顔を上げても、個々の生徒の顔が分からない。顔面は全て肌色で塗りつぶされ、美味な魂の塊たちにしか見えない。
――食べごろの熟れた魂の群れどもだ! お前の腹を満たすのは人間の命と魂だけ! さあさ、おあがりなさい! 肉や魚なんぞでは及びもつかない、至福の味がお前を待っているのだよ……!
私の内側から叫ぶ声が聞こえる。それは老婆の顔をしていて、若い女の顔をしていて、幼い少女の顔をしている。脈々と受け継がれてきた魔女の魂は私に囁きかける――人間どもを食え、食ってしまえ! と。
私必死にしゃがみこんだ私の周りを囲む彼らを見ないようにした。こんがりと焼けたおいしそうな肉を見まいとするように。泉のように唾が込み上げてくる口元を必死で抑えた。芳醇な香りを放つ人間の命と魂に歯を立ててしまわないように……!
視線を落とし、口を押え、ただただ湧き上がる食欲と餓えと戦った。頭上を飛び交う雑音が何を言っているのか、自分がどこに連れていかれるのがどこか、さっぱり分からなかった。腕を引かれるがままに歩いていたら、気付けば保健室にいた。私の目の前にいたのは、一人の人間だった。顔のつぶれた魂の一つではなく、白衣を着た優し気な雰囲気の女性教師一人だった。彼女は付き添いの生徒が立ち去るなり、口を開いた。
「あら、随分お早いお目覚めで。お久しぶり、というべきかしら?」
親しい友人に見せるような気さくな微笑だった。どこかで会ったことがあるような気がしたが、思い出せない。
「あんた、誰よ」
口元を覆う手をずらして、知らないはずの女性教諭をにらみつけるが、剣呑な視線に微笑を崩さない。
「私は夕川優里、保健室の教員。ううん、そんなことはどうでもいいわね。あなたが知りたいのは、そういうことではないのでしょう」
女性は白衣の上から胸に手を置いた。
「改めて、自己紹介するわね。……私は王様の夕川優里。あなたの目覚めを待っていたのよ」
夕川優里は胸に置いた手を、握手を求めるかのように私を差し伸べる。
「あなたの死を看取るまで、どうぞよろしくね魔女さん」
差し伸べられた手を、私はじろじろと眺めた。友好的に握手を交わそう、という気分には全くなれなかった。
その後、夕川優里は『人食い魔女の死』がただのおとぎ話ではないことを教えてくれた。
「この物語に出てくる主要な登場人物は実在する。魔女だったり王様だったりね。彼らは教えられなくても、『人食い魔女の死』の物語を覚えている。誰かに教えられずとも、魂におとぎ話そのものが刻みつけられているから」
入学式の式典を済ませた後、夕川先生はゆっくり時間を取って私に話をしてくれた。
「ただし、おとぎ話を知っていることのほかには基本的には何も知らない。己の物語上の役割はもちろん、『人食い魔女の死』が単なるおとぎ話ではないことでさえもね。……でも王様だけは特別。物語以外の知識も備えている」
「何で?」
夕川先生が買ってきた缶コーヒーを開けながら、問い返す。夕川先生は肩をすくめた。
「物語のすべてを見届け、魔女の死を弔うため。知らないうちに全てが終わっていたら、意味がないでしょう?」
「それじゃあ、あんたは全部知っているの?」
「全部じゃないよ。現に、誰が魔女なのか分からなかった。きっかけがなければ、他の登場人物が一体誰なのか私だって知らないよ。静江さんが魔女と分かったのもそう、あなたと出会ってから」
一方、ずず、とお茶でも飲むみたいに夕川先生は私と同じコーヒーを啜り、テーブルに置いた。
「王様が余分に知っているのはたった三つだけ。おとぎ話は世代を超えて受け継がれる呪いだということ、登場人物の魂を受け継ぐ人間たちが存在していること、それから……彼らはおとぎ話の展開を外れることはできない、ということ」
「展開を外れることはできない? それは、どの程度……?」
「期待しないほうがいい」
夕川先生は、ぴしゃりと言った。
「魔女が人間を食らって生きることも、騎士に殺されても何度も蘇ることも……世代が変わって、次の魔女が生み出されるだけだということも確かなのよ」
私のわずかな希望の糸を断ち切るように、夕川先生は言葉を続けた。
「魔女が永遠の死を迎えるには、物語と同じように聖者を食らわなければならない。言っておくけど、自殺なんてしたって解決にはならない。次の世代に魔女の呪いが持ち越されるだけだからね」
私は、ぐっと唇をかんだ。考えていたことを先回りして釘を刺されるのは、快いことではなかった。
教室で起こったフラッシュバックの意味は、夕川先生の解説を待つまでもなく理解した。あれは過去の魔女たちだ。現実にあった出来事だ。老婆は小屋におびき寄せた商人たちを、若い女は戦場の兵士たちを残らず食い殺した。歴史の闇やオカルトの中を探せば、謎に彩られた人々の大量死、という形で魔女の痕跡を探し出すことが出来る。魔女の呪いはとうとう、今まで解かれずに来た。聖者に巡り合うことなく魔女は密かに世代を重ね、現代まで続いて、私の代にまで至った。
入学式の日、教室で私の身に起こった変化はひとまず落ち着いた。人の顔はきちんと認識できるし、何を言っているのかも分かる。でも、ふとした瞬間に蘇る。記憶の中で味わった人間の魂の味を思い出して、魔女の本能と戦わなければならない時が度々あった。
魔女としての自覚が生まれ、人混みを避けるようになった。魔女の欲求が込み上げてきたとき、咽返るほどの人の気配にそそられて暴発しないとも限らなかったから。人通りの多い道は避けるし、教室なんてもってのほか。物語上、魔女の餌食にならないと確定している王様ぐらいしか普段いない保健室ならば、まだ安全だろう。入学式以来、私は二度と自分のクラスには足を踏み入れなかった。体調面を理由に保健室登校を続けた。
聖者を食らえば、魔女は永遠の眠りにつく。安らかな死を求めて、私は聖者を探す必要があった。だから家に引きこもらず、例え保健室登校でも学校に来るようにした。どこの誰か分からない相手を探すなんて、砂場でたった一つの砂粒を探すようなものだけれども、まず外に出なければ可能性はゼロだ。
無論、事故が起きる危険性だって十分にあった。保健室でも極力たずねてきた生徒の前には出ないようにしたし、心配してやってきてくれた友達だって皆すげなく追い返した。私は誰も殺したくなかったし、さらに言えば私の次の魔女にだって誰にも殺させたくなかった。
見知らぬ聖者には何の恨みもなかった。魔女が自ら命を絶つことで解決するのなら、私はとっくにその手段を選んでいるだろう。聖者には聖者の人生があるのだ。出来ることなら、聖者の命を食らいたくない、幸せに生きてほしい。でも私には聖者の幸せよりも、どうしても叶えたい願いがあったのだ。魔女の呪いを私の代で終わらせたい、という願いを。
魔女は人々に大きな悲しみをもたらす。小屋で逝った商人や護衛たちも、戦場で倒れた無数の兵士たちも……十二年前に幼い命を散らした子供たちにも、彼らみんなに親しい友人がいて、愛する家族がいたのだ。魔女に食われた命を惜しみ、嘆く人々の存在を決して忘れてはいけない。……たとえば、安藤杏里のような。
私の足元には、騎士の少年が倒れている。手加減はした。幼い魔女が安堂保の命を全て食らいきれなかったように、私も倒れた彼の命を奪わなかった。でも、命以外をどこまで残せたのかは分からない。
乙葉は倒れた彼の下敷きになっていた。殴打に晒された顔には、理解の及ばない光景に対する驚きがあった。ぴくりとも動かない彼を見上げながら、聡明な彼女は驚きつつも必死にこの不可解な状況を理解しようとしているのだろう。
そして、そのさらに後方に人影が現れた。安堂杏里が肩を弾ませて立っていた。探し続けて、走り続けてようやくたどり着いた。
「何が、あったの?」
安堂杏里は、まっすぐに私を見据えて問いかける。地面に倒れた彼にでもなく、彼を見下ろす乙葉でもなく、この私――静江寧に対して。
私は答えようとした。でも、口を開けることすら出来なかった。言葉が出るよりも先に、魔女の牙が姿を現そうとしたのを感じ取って、口元を強く抑え込んだ。
安堂君よりもさらに向こう側に、誰かが立っている。黒髪を腰まで伸ばし、中学校の制服をまとった少女。でも、肌色に顔は塗りつぶされて誰だか分からない。知っている人のような気がする、さっきまで誰だか分かっていたはず、でも今は全然分からない……。
私は全身に広がる甘美な魂の味に打ち震え、求めている。誰だっていい、人間どもを食らいたい。見えざる牙を突き立て、その命を、その魂を貪り食って、この腹の中に納めてやりたい。そう、私は魔女だから。人間を食う恐ろしい魔女……人ならざる化け物なのだ。
私は駆け出した。飢えと渇きにうなされる体に鞭打って、逃げ出した。後ろから声が、私を呼ぶ声が追いかけてくる。でも、絶対に足を止めてはいけない、振り返ってはいけない。……振り返れば、きっと食べてしまうだろう。
私が逃げ込んだのは、自宅だった。父はどうせしばらく帰ってこないので、私の他には誰もいない。玄関に入るや否や、即座に鍵を閉めて自室に上がった。鞄を放り出して、カーテンを閉め切り、布団を頭から被り、ぎゅっと目を瞑った。
この身で齧りとった命の味は、過去の記憶とは比べ物にならなかった。しめたばかりの魚介のような新鮮さで満ち溢れていて、歯を立てた瞬間に滴った魂はまるで濃厚な肉汁のよう。ああ、あれを一欠けら残さず食べたかった! お腹いっぱい食べられたら、どんなに幸せだっただろう!
魂への渇望は一向に収まらなかった。命を食べたい、魂を啜りたい、誰でもいいから人間をよこせ! 布団の中で私は震えている、麻薬が切れた中毒者のように人間の命と魂を欲している。
――おめでとう、おめでとう! お前はやっと本物の魔女になったのだ! ようこそ魔女の世界へ! 人間どもを食らう化け物の世界へ、ようこそ!
胸の内から、老婆が、若い女が、そして幼い少女が……過去の魔女どもが私を覗き込んでいる。仲間を迎える笑顔は揃いもそろって毒々しい。地獄の窯に降りてきた同じ罪人を迎えるように、魔女たちはかしましく騒ぐ。……うるさい! お前らは黙ってろ! 胸の内に叫び返すが、全く効果がない。魔女たちはけたたましく笑い声をあげるばかり。
嫌だ嫌だ嫌だ! 私はこいつらと一緒なんかじゃない、私は静江寧、私はただの平凡な中学生、そのうち高校生になって大学生になって、どこかの会社に勤めて普通に結婚して子供が出来て、それから孫に囲まれて死ぬだけのありきたりのつまんない人間なんだ! 私は魔女じゃない、人間なんか食べない、いらない!
顔を押し付けた枕にじわりと涙が浸み込む。布団からはみ出た肩が嗚咽と共に跳ね上がる。今、泣かないでいられるなら、一体いつ泣くというのか? 私は泣いた、泣き叫んだ。失われた未来を惜しんだ。もう叶えられない願いを想って、涙した。
一体、私が何をしたというのだろう? 何か悪いことをしたか? 許されないことをしたか? いいや、私は何もしていない。ごくごく普通のありきたりの生活を送っていて、こんな酷い目にどうしてあわされなければならない? 物語の魔女と違って教えられるまでもなく人間の喜びも、悲しみも全て知っているのだ。人を食うなんておそろしいことにどうして苦しまずにいられるだろう?
一体、誰がこんなことを? 己の正体を知ってから何度も考えた。こんな惨たらしいことを誰が、どうして? 保健室で暇を持て余しているとき、夕川先生にも何度か尋ねた。毎回、答えは大差なかった。
「運命とか、神様とか……そういった類のものなんでしょうね。いずれにしたって、私たちには分かりっこない世界の出来事だよ。人間に課せられた試練、そう思っておくしかないんでしょうね。洪水だとか、地震だとかそんなものと同じように」
少し困ったように肩をすくめて、そう言うのだ。もちろん、全然納得できない。神様だか運命だか知らないけれど、そいつらのわけの分からないお遊戯で苦しめられているのは事実なのだ。恨まないでいられるほうがおかしい。
布団の中で長い間うずくまっていて、カーテンの隙間から見えた外の景色はもう夜だった。日は完全に落ちて、夜空には月が浮かんでいる。……早いな、と思う。知らないうちに時が過ぎていたらしい。魔女の私を置いて世界は進んでいく、ということがなんだか急に身に迫ってきた。
普段なら、とっくにお腹がすいている頃だった。晩御飯のお弁当を買いに出るなり、それも面倒なら冷凍のピザを開けたり、何らかの方法で空腹を紛らわせている頃。でも今はそんなことでは、とても飢えを満たせない。一階の台所に降りて何らかの食べ物を口に含んだところで、どうせ紙でも食べているような感覚に陥るだけだろう。
本当に私は魔女だったのだ。一年以上前に分かっていたはずのことなのに、それでも最後の最後まで信じたくなかった、けれどももう目を逸らすのも限界の時が来ている。私は魔女、人を食らう恐ろしい魔女……。
布団をはねのけて、立ち上がった。中学に入って以来すっかり埃を被ってしまった学習机の前に立ち、引き出しを開ける。取り出したのは小さな茶色の紙袋だ。入学式の翌日夕川先生に、どうしようもなくなったら……と手渡された。これを使う日が今日だろうか? 渡された紙袋を抱え、開いた引き出しの前で考えている。……次の世代の魔女へ、この忌まわしい呪いを押し付ける日が今日だろうか。
紙袋の口を開き、中身をつまみだそうと手を入れる。……紙袋がかさ、と音を立てるのとほとんど同時だった。きい、とドアが開く音がした。続くのは、靴下がフローリングの床を踏む音。ひた、ひた、と足音が続き……私の背中で止まった。背中には温かい人のぬくもりが生じる。うなじをくすぐるのは、二つに結った柔らかい髪の毛。
「そんなもの、いらないよ」
伸びてきた腕が私の手から、紙袋を奪い取る。そしてゴミでも投げ捨てるかのようにフローリングに落とした。空いた腕が私を抱きすくめる。
「こんな中途半端な方法じゃなくて、もっといい方法がある。……そうでしょう?」
密やかな乙葉の囁き声。耳朶をくすぐる甘い声に、抱きすくめられた体が思わずびくりと震える。何もわからずに乙葉が言っているわけがない。もっといい方法。彼女の言葉が意味するところを、私も彼女自身も分かっている。分かっていて、乙葉はここにいる。
「何で、あんたここにいるの? 戸締りはちゃんと確認したわよ」
でも、私は真っ向から聞けない。聞きたいこととはまた別のことを聞いて、誤魔化そうとしている。……そんな私の動揺がおかしいのだろうか? 乙葉はくす、と笑った。
「うん、完璧だった。だからさ、リビングの窓を割って入ってきたの。手ごろなものがなくてね、一回家に戻ってハンマー取ってきたらさ、こんな時間になっちゃったわけ」
「空き巣の手口じゃない」
大胆なやり口に呆れてしまった。乙葉はあたしの背中に身を埋めたまま、肩をゆすって笑った。
「ごめんね? 弁償はちゃんとするよ」
「ガラスって結構高いのよ?」
「平気。あたし、お年玉はちゃんと貯めてあるの」
私の胸を抱く腕に、一層力がこもる。
「君に会いに来るためだと思えば、全然安い」
「やめてよ」
乾いた布を振り絞るように、私は呻いた。
「だって、あたしは誓ったのよ。あんたを……絶対殺さない。大事な友達だから、絶対に食べたりしない……だから……」
もっと大きな声で言わなければ、強い口調で言わなければ、説得力がない。乙葉を止めることが出来ない。けれども声に全然力が入らない。また、乙葉が笑う。
「ううん、それは君の一方的な誓いであってあたしの知ったことじゃない。……ねえ、寧ちゃん、君はもう今日の夕方に交わした約束を忘れてしまったの?」
部屋に響く笑い声は、私のか弱い声をあっさりとかき消してしまった。
「ずっと一緒にいてあげる。君は確かにそう言った。だったら、一緒にいてよ。君が一番、あたしにいてほしいときぐらい一緒にいてよ」
人間の魂に餓えた魔女の腹に腕を回しながら、乙葉はぴったりと寄り添っている。今にも食らいつきたい芳醇な命の香りをまき散らしながら、乙葉は私の傍を離れようとしない。鼻をくすぐる香りを振り払うように、小さく首を横に振った。
「やめて。お願いだから、やめて。ねえ、勘違いしないでよ。あたしはあんたの思うような人間じゃないの」
声が震える。涙がとめどなく瞳から溢れ出す。
「もっと嫌なやつなの、最低なやつなの。格好つけで、嘘吐きで……最初はあんたを殺すつもりだった。気が変わって、殺さないと決めたのだって、それは」
「分かってるよ」
乙葉が私が息を吸ったタイミングで、口をはさんだ。
「最初にあたしと出会う前に聖者を殺そうと決心したのも、あたしと出会ってから考えを変えたのも……あたしのためなんかじゃない。全部、君の都合。……そうでしょう?」
彼女の言葉は鋭く、ずきりと胸に刺さる。そう、その通りなのだ。私が彼女を殺そうと思ったのも、やめようと考えを切り替えたのも、乙葉に対する愛着も憐みも全く関係がない。私の個人的な事情によって、彼女の命の扱いは百八十度転換しただけ。
魔女として目覚めてすぐに聖者を殺そうと思ったのは、あの人に対する罪悪感からだった。彼の父を死に追いやったのは魔女だったから、もう二度と魔女を生み出さないことが贖罪になると思ったからだ。
でも、その方針は覆った。保健室で彼と出会ったとき、傍らにはとても可憐な女の子がいた。私には高圧的でいけすかない感じの少女として映ったけれど、彼にとってはどうだろう? 少女に対する腰の低い態度に、密かな羨望とほのかな好意がちらちらと見え隠れした。
あの人が可憐な少女に差し向ける感情を示す証拠は、度々見つかった。お昼休みの中庭で、彼が友人とその彼女に囲まれて少女の話で盛り上がっているのを聞いた。彼は度々否定の言葉を発していたけれど、照れ隠しに違いない。事実、恵美鈴が後日、少女に向かって叫んでいたではないか。
――分かっているのよ、あんたが杏里君を傷つけたんだってことは。
少女はとぼけてみせる、誰がそんなことを言ったのか、と問いかける。恵美鈴はこう答えた。
――……杏里君が言っていた。
なるほど、そうか。人が誰かに何かをされて傷つくのは、関心があるからだ。彼がそう言っていたのなら、そうに違いない。
極め付けは、初めて二人で話をしたあの日のこと。あの人が好いているかもしれない少女を殺すなんて出来やしない、けれども一人で抱え込むのが苦しくて助けを求めてしまった。少女を守るため、という私の口実にあの人は疑いもしないでやってきた。やはり少女に好意を寄せているに違いない、と確信を深めた。
それに引き換え、私に対するあの人の態度。……三年前の出来事を彼は素直に話そうとしない。何故、断片的にしか語らないの? 何故、私の正体を疑うようなことばかり言うの? 何故、私に素直に全てを打ち明けてくれないの? ……いったい、どうして?
そうか、だから手紙も返ってこなかったのだ。三年前のことなんて、もう今は関係ないのだ。あの人にとって、私の存在なんてどうでもよかったのだ……。
ああ、だから私はあの可憐な少女を憎み、嫌ったのだ。最初の態度が云々、なんて全部後付けなのだ。彼女が心の底から清らかな天使のような少女であっても、きっと変わらなかっただろう。だから、ずっと殺してやりたかった。彼女の命と魂を跡形も残さずに食らいつくし、あの人の傍らから消してやりたかった。
でも、出来ない。だって、彼女はあの人の好きな女の子だから。それに、私の大事な友達でもあったから。だから、私は乙葉を殺せない。絶対に、殺したくない。彼女を殺すぐらいなら、私が自分を殺そう。
乙葉はこんな私の想いを全部、理解している。しかし、その逆は成立していない。
「じゃあ……そこまで分かっていて、あんたはどうして? 聖者が魔女に食われたって、あんたが望む奇跡は起きないってもう分かっているでしょう?」
問いかけずにはいられない。彼女は全部分かっていて、それでも尚、私のそばにいると……私に食われて死ぬと言う理由が分からない。
だって、乙葉は変わったはずなのだ。だから、私に固執する必要なんてない。人間はみな醜く、利己的で、気を抜けば蹴落とされる……そういう考えから一歩踏み出したところなのだ。ちゃんとその証拠だって、耳にした。かえる公園に響き渡る、音草乙葉らしからぬ感情的な怒声……それから、先は分からない。私の知らない二人だけのやり取りが続いただろう。
皺の付いたブラウスの下で、じくりと胸が痛む。魔女の魂への餓えではなかった。これは人間としての悲しみであり、苦しみだった。……ぐしゃ、とブラウスを握りしめる。込み上げてきた痛みを握りつぶすかのように。
「いいんだよ。最初はそうでなかったかもしれない。でも、最後には君があたしを変えてくれた、あたしを本当に想って諭してくれた。ただそれだけで十分なの。過程なんて、理由なんてどうだっていいの」
すると、ブラウスを掴んだ手にふわりと乙葉の手が重なる。
「あたしは全てを受け入れるよ。寧ちゃんの綺麗なところも、汚いところも関係なく。君があたしにそうしてくれたようにね」
水が乾いた布に染み入るように、乙葉の言葉が私の胸に吸い込まれていく。高ぶることなく落ち着いていて、でも決して冷たくはない。教え諭すような、穏やかで優しい声……まるで聖者のように。
その声を聞いた途端、胸の内に溢れていた魔女の飢えも、人間としての悲しみも苦しみも、音を立ててはじけ飛んだ。振り返って身をかがめ、小柄な乙葉の胸に顔を埋める。
溢れた涙が頬を滑り落ちていく。しとしとと降る雨のようにとめどなく、柔らかに。ああ、きっと母親の胸の中で涙を流す子供はこんな風に泣くのだろう。母を生まれてすぐに亡くした私には一度もなかった、でもその幸福はなんとなく想像がつくのだ。
「あたしを食べたいなら食べればいい。君の飢えを満たすために、この呪われた運命を終わらせるために」
乙葉の腕が私を包み込むように抱き寄せる。私を包む心地よいぬくもりは、何もかも許してくれそうな予感がする。
「色々、やってみたかったな。同じ教室で授業受けて、お昼ご飯食べて、放課後は一緒に帰ったり、買い物をしたり……君と一緒の時間をもっと過ごしたかったな」
乙葉はため息のような声でつぶやいた。私はどれだけ乙葉を苦しめれば気が済むのだろう。私がしたこと全ては、彼女を傷つけることでしかない。……ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい。そう大声で叫びたかったけれど、込み上げてきた嗚咽で喉をふさがれてしまった。
背中にあたたかい手のひらのぬくもりが伝わる。乙葉の手が私の背を優しくなでている。
「大丈夫、君が寂しくないようにずっと……ずっと、一緒にいてあげる。この命が尽きた後でも」
私のために、彼女は全てを投げ出してくれる。きっと母の胸の中で感じる幸福はそういったものに対する確信と安心感だろう。
乙葉はしばらくの間、黙って私の背を撫でていた。私の嗚咽が少し落ち着いて、彼女が再び口を開くまでにたっぷりと時間がかかった。
「それにね……」
でも、続く言葉はなかった。何か言いかけて、やめた。
彼女が何を言いかけたのか、私には測りかねた。でも、先を促そうとは思わなかった。優しい穏やかな声色、それに私にはばかるように最後まで言わなかったこと。全く想像がつかないわけでも、ない。
私は目を閉じる。乙葉の体に身を委ねて、意識を魔女の飢えから目を背ける。
あの人は何をしているのだろう。私に問いかけた、あの人は今頃一体、何を想っているのだろう。
声に出さずに、虚空に問いをぶつける。当然のことだけれども、答えるものは誰もいなかった。