第二章 聖者の使命あるいは少女の望み
話があるから、ちょっと来てほしいと言われた。指定された場所は屋上、時間は放課後の午後四時。まだ日が長い季節なので、見上げた空は青く夕暮れ時には少し早い。待ち合わせの五分前に着いたのだけれど、相手は既にいた。
「好きです。付き合ってください」
多分そう言われるのだろうな、という予感はあった。だから、驚きはしなかった。あたしは少し考えるそぶりを見せた。言われるだろう、と思っていたけれど、どう答えるか考えてはいなかった。
「しばらく、考えさせて」
一年前のことだったと思う。中学一年生の春、四月頃。
屋上の背の低いフェンスに体を預けている。といっても、校庭や学校の外に並ぶ家々を見ているわけじゃない。景色は目に映っているだけで、頭の中を素通りしている。今日は風が強い。結った髪が風に舞い、視界にちらつく。
あの日のことを思い出したのは、場所が悪いのか、それとも一年後という時期が悪いのか。いずれにしても、不愉快なことに変わりなかった。馬鹿なことをした、と一年前の自分の浅はかさを詰るためだけの思い出でしかない。
しばらく、考えさせて。あたしは真面目にその約束を守った。一日、二日、三日。授業中ノートを取りながら、家でピアノの練習をしながら、ベッドの中で目を瞑りながら、考えた。決めることはただ一つ、イエスか、ノーか。けれどもそのたった一つのことを決めるには、何故イエスと答えるべきなのか、何故ノーと答えるべきなのか、考えることは無数にあった。
相手は同じクラスの生徒だった。中学校生活は幕を開けたばかりだから、他のクラスメイトたちと同じで、彼の性格やクラス内の立場を完全に把握したわけではない。でも、ある程度は掴んだ。おそらく、これから劇的な変化は見込めないだろう。この一月見た限りでは、彼は教室の中で特別目立つような生徒ではなかった。特徴らしい特徴は、何もない。勉強や運動が抜きんでてできるわけじゃないし、クラスメイトの笑いを取るような存在でもない。過去に人の噂に上るようなことをした様子もなく、素行も特に問題なし。休み時間は同性の友達同士で固まっていて、女子と口をきく機会はあまりない。そういうありきたりな、普通の男の子。
自分の目による観察と周囲から聞いた噂から判断すると、女子に告白なんて彼にとっては初めてだろう。きっと崖から飛び降りてみせるぐらい、勇気が必要だったに違いない。想いを告げるとき、彼はひどく緊張していた。あたしの目を見ることさえ出来なくて、唇は重しをつけたみたいに動きが鈍かった。
口をきいた回数も数える程度で、内容さえ覚えていない相手だった。それでも屋上で何を伝えられるか、なんとなく察しはついていた。しかし同時に、半分ぐらいは疑っていた。どこかに実は彼の友達が隠れていて、からかわれているのだろう、とも思っていた。表情を見て、声を聴いて、疑った自分を恥じた。まちがいなく本気なんだ、と。
他人に好意を向けられることそのものには慣れている。敬意を表す声、憧れの眼差し。そういったものはただ、涼やかに微笑み一つ返しておけば丸く収まる。反対に、悪意を向けられることだって慣れている。嫉妬の声、憎悪の眼差し。これはもっと簡単、向けられた悪意をそのまま返すだけ。……要するに似たようなことなのだ。好意であれ、悪意であれ、まともに相手をしない、という一点では。あたしはずっとこのやり方を通してきて、改めるべきと感じたことはない。それでついてくる人間はついてくるし、離れる人間は離れる。したいようにさせておけばいい、誰があたしの傍に寄ってきてもあるいは去ったとしても構わない。
けれども、あたしは改めるよう迫られていた。求められているのは、イエスか、ノーか。微笑一つで解決する問いかけではない。ごまかしが許されない答えを求められている。
だから、一つ一つ考えるしかなかった。相手に答えをゆだねるのではなく、自分自身の答えを見つけるために。何の手がかりもなく、宝探しをさせられているような気分だった。そんなものが本当にあるのかないのかすら分からないのに、探し続けるのは苦痛以外の何物でもない。
答えを探し当てたのは、三日目。これまでで一番長い三日間だった。とてつもない難題から解放され、喜びは一塩だった。さっそく、伝えるべき相手の姿を探した。教室に彼の姿はなかった。離れた校舎の廊下に友人たちと共にいた。彼らは声を小さくして、周囲に人の気配を探りながら、何か話し込んでいる様子だった。声は不明瞭で、内容は聞き取れない。……何を話しているんだろう? あたしは興味が沸いて、足音を立てない様に近づいた。彼とその友人の間では、ひそめた笑い声が交わされ、秘密の集会の雰囲気を漂わせていた……そこで、あたしが聞いたのは……。
「よーっす、乙葉。なんだ、飛び降りでもするつもりか? 相変わらず辛気臭ぇ面してやがる」
突然、背後から聞こえてきた声が回想から現実にあたしを引き戻した。声を聴くだけで、相手が誰か分かった。振り返って顔を確かめるまでもない。
「しないよ、そんな迷惑なこと。他人に迷惑をかける天才の元君じゃあ、あるまいしさ」
壱原元、それが小憎たらしい声の主の名前。遠慮なく投げ返した嫌味を鼻で笑い飛ばしながら、足音が近づいてくる。
「へえ、そんなら首吊りはどうだ? 準備は手軽だし、後片付けも……飛び降りよりはましか。ただし無茶苦茶苦しいのときれいな死に様が期待できないことはご注意を」
足音が止む。
「ご忠告、ありがとう。死にたくなったら服毒でいくつもりだから、心配しないで」
「おめーは本当に、可愛げがねーわ」
はあ、とこれ見よがしにため息をつく音が聞こえてくる。
横目でちらりと隣に立つ人物を見やる。派手に染めた茶髪を風にそよがせ、耳にはいくつもピアスが光っている。ネクタイを外したシャツをだらしなく着込んで、ズボンは当然のように腰丈。ダサ、と鼻で笑ってやりたいところだけれども、目鼻立ちのはっきりとした顔立ちのせいでちゃんと様になっているので笑えない。
昔なら小柄なあたしよりも尚低い身長を嘲笑うことが出来たのだが、完全に追い抜かれたのでそれも使えなくなった。ここ一、二年で急に背が伸びたのだ。眩しげに切れ長の目を細め、校庭を見下ろしている彼の横顔を、腹立たしく見上げる。
彼との付き合いは誰よりも長い。幼稚園から中学までずっと同じだし、家はお隣さん。幼馴染、と世間ではそういう関係を指すのだろうけど、あたしに言わせれば腐れ縁だ。高校は絶対に彼の学力では到底入れないところに進学してやる、と固く誓っている。
別に、品のない喋り方だとか身なりだとか、先生から目をつけられる素行の悪さを嫌っているわけじゃない。彼がきちんと制服を着て、何の問題も起こさない生徒であったとしても、性格や考え方が変わらない限り、好意を向けることはないだろう。初対面は幼稚園のときだったけれども、絶対こいつとは生涯仲良くできない、そう幼心に直感した。結果は大当たりだ。
「あのな、乙葉よ。そういうことはな、いくら冗談でも言っちゃダメなの、分かる? ほれ、答えろ優等生」
上から目線で説教垂れるんじゃない、と言ってやりたい。そもそも元君が飛び降りがどうの、と言い出したんじゃない、とうんざりしている。でも、それを言ったところでたぶん話が進まない。
「世間体が悪い」
むっつりと唇を引き結んで答える。すると、
「はい、ブッブー! 音草さん、道徳のテストぜろてーん! らくだーい!」
とってもうざい声が聞こえてきた。楽しそうにはしゃいでるように聞こえなくもない。こういう彼の態度が嫌いで嫌いで仕方ない。はん、と鼻で笑いたくなって、そうしてやった。
「あたしが死んだら一日ぐらいは悲しんでくれるだろうね。でも、二日目以降はどうかな。みんな、悲しむふりもそろそろ疲れてくる頃合いなんじゃない」
唇は三日月の形で、声はちょっと低めの平たいトーン。どちらも教室では絶対に使わない、何故なら優等生・音草乙葉に似つかわしくない表情だから。
下を見下ろせば、放課後のクラブ活動でグランドには人が溢れていて、下校する生徒の列がほそぼそと伸びている。野球部やサッカー部の掛け声が地鳴りのように響いてくる。汗を散らして腹の底から声を張り上げ、くたくたになって家に帰るのだろう。クラブ活動なんてなにが楽しいんだか、と不思議に思う。内申点のため、以外に面倒くさい活動に加わる理由があるのだろうか?
いや、クラブ活動に限ったことじゃない。楽しいことなんて、あるのだろうか? 授業も、友達とおしゃべりをすることや遊びに出かけること、家族と旅行にいくこと、テレビも、読書も、何もかも……心の底から楽しいと思えることなんてあるのだろうか? 楽しいことがないなら、死んだっていいじゃないか。人が死ぬには十分な高さから、屋上の下に広がるコンクリ―トの道を見つめた。
それなりに時間は経過していたと思う。ぼんやりと屋上から下を見下ろしていると、まだ隣に人の気配が消えていないことに気付いた。
「乙葉さあ、誰か好きなやつとかいねーの?」
「は?」
寝起きみたいな声が出た。反射的に隣の人物の顔をまじまじと見てしまう。元君は、小憎たらしい笑みを浮かべてあたしを見返している。
「いやー、そりゃあいるに決まってるよな? 完璧超人ザ・リア充音草乙葉様だもんな? 彼氏の二人や三人、いて当然だよな?」
今なら元君への怒りでお湯が沸かせる気がした。下世話な笑顔からつんとそっぽをむく。
「複数人いるのは問題じゃないかな」
「じゃあ、一人はいるんだな?」
小気味よいラリーのようなテンポで、元君が言った。ぐっ、とその瞬間言葉に詰まった。
「いらないよ、そんなもの」
答える声に苦みが混ざったかもしれない。……離れた人気のない校舎に、数人の男子が声を潜めている。嫌な、記憶が脳裏をよぎった。
あの後、あたしに想いを告げる男子が皆無というわけではなかった。むしろ、カレンダーが進むごとに増えてきた。クラスメイトから隣のクラスへ、挙句の果てには上級生まで。もう少し季節が進めば、下級生も加わるだろう。告白してきた男子の数は数えていないから分からないけれど、付き合った人の数は自信を持って断言できる。ゼロだ。だって、告白してきた身の程知らずは全部、ごめんなさい、の一言、困ったような微笑一つで追い返してきたから。次の日には、もう相手の顔も思い出せない。そう、即答を避けたのは、あの一度きり。
「はー、もったいねー。それ、人生の四分の三ぐらい損しているぞ、マジで」
元君は本日三回目のため息と一緒に、がっくりと肩を落とす。呆れかえった口ぶりが、憐み交じりなのが猛烈に腹立たしい。
元君には彼女がいる。名前は恵美鈴。同級生だけれども、とてもそうは見えない。恵美鈴の方から言い寄ってきたから仕方なく、というのが発端らしいが、今や元君はおきれいな彼女に首ったけ。彼女に三回回ってワンと鳴け、と言われれば、泣く子も黙る壱原元はくるくる回ってワンと鳴くに違いない。……知らないというのは、幸せなものだとしみじみ思う。いくつかの単語をそっと彼に耳打ちするだけで、態度は百八十度転換するだろうに。
恵美鈴の悪名は、既に学校中に広まっている。次から次へと男を乗り換える女。男好きする外見に甘ったるい声、媚びるしぐさを武器に、彼氏が途切れたためしはない。被害者は同級生から上級生まで、果てには先生まであるんじゃないかともっぱらの噂。元君もそのうちの一人だけれど、気付いていないのはひょっとしたら彼だけなのではないか?
彼氏だの、彼女だの、くだらない。唾を吐きかけたくなるぐらい、虫唾が走る。皆そろいもそろって、くだらない。恋愛ごっこに浮かれて騒いで、一体何が残る? 授業よりもクラブ活動よりも、時間と精神の無駄。きっと世界で一番無駄な行為で、エネルギーの浪費でしかない。
「いないなら、相手を見つけろ。探せよ」
元君がまだしぶとく話しかけてくる。
「なに、お見合いでもしろって言うの?」
投げやりに答える。すると元君は歯を見せて、にやりと笑う。
「見つけられないなら、紹介するぜ?」
「あたし、セールスとテレビの集金は追い返せ、ってママから教えられてるから」
「安藤杏里とかどう?」
思わぬ名前が、元君の口から出てきた。あたしは眉をひそめた。
「結構です」
答えは即決。セールスと集金を断るより早かったと思う。
安藤杏里と言えば、今年に入って同じクラスになった男子だ。彼の父親のことは学校の誰もが知っている。謎に包まれた事件の殺人鬼。彼に対して何を思うか、ともし聞かれたら、好きでも嫌いでもなんでもない、としか答えようがない。彼の父親のこととか元君のことなんて、あたしには直接関係のない話だ。コメントをつけるなら、ふぅん、そう。無関心以外に、彼に向ける感情はない。
「まあまあ、話は最後まで聞けよ? 結論下すには、まだ早いぜ?」
渋るあたしに、元君が言う。
「つまらない話だったら、続きは聞かないよ」
真面目だとか誠実だとか、月並みなセールスポイント程度ではあたしの興味は引けない。それぐらい分かっているはず。けれども元君は自信たっぷりに頷いて見せる。
「ああ、そりゃもちろんさ。任せておきな、お前が裸足であいつの元すっとんでいくのが目に見えてんだ」
「へえ、それは大層な」
自らハードルを上げたのだ。くだらなかったら、一発その憎たらしい面をひっぱたく権利ぐらいもらってもいいかもしれない。あたしが挑戦的にたたきつけた視線もものともせずに、元君は口を開いた。
「杏里の奴は、『人食い魔女の死』を知っている」
元君は、余裕の笑みであたしを見下ろす。そう、そうだこの顔。彼が腹立たしいのはいつものこと、でもその中でもこの顔はとびっきりだ。
「その話、詳しく」
ぎろり、とねめつける。元君は浮かべた余裕の笑みを一切損なうことなく頷いた。
「よろしい、話してやるよ」
安藤杏里を救った朝から、一週間前のことだった。
『人食い魔女の死』を、なぜ知っているのか分からない。誰かに教えられたわけでもないのに、物心ついたころには知っていた。まるで生まれる前から知っていることのように。
小さな頃は母がたくさんの絵本を読み聞かせてくれたから、『人食い魔女の死』の他にも色んな童話やおとぎ話に触れている。にもかかわらず、十年以上経っても色褪せずにあたしの記憶の中で輝いている話はたった一つ、『人食い魔女の死』だけ。
物語を知った瞬間がいつなのか分からないけれど、あたしは知ると同時に気付いたはずだ。聖者は魔女に食われ、魔女は聖者を食った悲しみで人を食うことが出来なくなって、死んでしまう。化け物としての生を終える。きっと大概の人は甚だ説明不足なこの物語に首を傾げるだろうけれども、あたしはそうじゃなかった。これは美しい悲しみに包まれ、最後は悲しみを知る生き物として救われる物語なのだと誰かに教えられることなく悟った。
数多のおとぎ話とこの物語を分ける境界線はどこにあるのだろう? 難しいことじゃない。十年以上変わらない答えは、至極シンプルだ。
あたしは聖者が羨ましかった。あたしは聖者に――なりたかった。
だから、彼女に出会えた奇跡にこの上なく感謝している。あの日、あの時初めて知ったのだ。
あたしは聖者だった。そして、魔女は彼女だった。そうと分かれば、あたしがやるべきことはただ一つだけ。……あたしの望みをかなえるだけ。
魔女と出会った次の日。学校に着くなり、教室ではなく保健室へ真っ先に足を向けた。
朝礼の時間から二十分前。保健室の鍵はすでに開いていた。一応ノックしてから、引き戸を開ける。一歩足を踏み入れると、すぐに声が出迎えてくれた。
「あなたの頭につける薬はここにないの。行くなら病院へどうぞ、と昨日言わなかった?」
辛辣な声だった。二つあるベッドのうち、奥のベッドはさっそくカーテンが閉まっていた。夕川先生の姿はない。彼女一人のようだ。
帰れ、と言われて、帰るようなら最初から来ていない。気にせず、奥へ歩みを進める。
「やだなあ、あたしはどこも悪くないよ。薬をもらいに来たわけじゃないの」
声の主の姿は厚いカーテンに遮られ、見えない。たぶん向こうからだって、あたしの姿は見えないだろうし、表情なんて分かりやしないだろう。でも、あたしの唇は誰に見せるわけでもない微笑を刻んでいる。何の役にも立たない微笑を絶やさないうちに、あたしはベッドのカーテンの前に立った。
「ただ、会いに来ただけ」
声と同時に、カーテンを引く。すると、ベッドの上に身を起こしている彼女の姿が露になる。手にはカバーの付いた文庫本、そして目には鋭い光。待ち受けていたように眼鏡のフレームに手をやって、その奥の瞳を細めた。
「帰って」
どう贔屓目に見ても友好的な態度ではない。
最初から分かっていたことだ。彼女の非友好的な態度は、別段気を落とすようなことではない。ちゃんと備えてきた。針のような視線を、春の日差しでも浴びるように受け止めながら、鞄に手を入れる。
「たしか、コーヒー好きなんだよね? よかったら、これどうぞ」
意気揚々と鞄から取り出したのは、タンブラー。某有名店のロゴ入り、季節限定の桜柄。
「中身はドリップコーヒーね。学校行く前にお店に寄って来たから、まだ全然冷めてないよ。シュガーとフレッシュはいる?」
本当はもっと気の利いたものを頼みたかったのだけれども、好みがわからないので、今回はシンプルなチョイスで。不本意だけれども、コンビニコーヒーで及第点が出るなら、これで落第にはならないだろう。
あたしが差し出したタンブラーに対して、彼女はぴくりと片眉を跳ね上げただけだった。
「全部いらない」
冷え切った声と共に、カーテンがもう一度引かれる。再びあたしと彼女の間に、布切れ一枚の壁が立ちはだかる。さすがにもう一度開けようとは思わない。開けた瞬間に閉められるのがオチだろう。あたしはベッドを離れ、テーブルに受け取ってくれなかったタンブラーとシュガーとフレッシュを置いた。
「また、お昼休みに来るね」
ベッドに向かって声を掛けるけれど、返事はない。誰もいないかのように、しんと静まり返っている。
これは手ごわい。まともに口さえ聞いてくれない。でも落胆しているわけではなかった。
時間がかかるのは、覚悟の上。カーテンが下りたベッドを名残惜しく振り返りながら、保健室を出た。
授業中も、休み時間も上の空だった。あたしはただぼんやりと考えていた。無論、他でもない彼女のことについて。繰り返し、繰り返し彼女のことだけを考え続けている。
あの子が、魔女。聖者は――あたしは彼女に食べられるために、生まれてきた。
彼女はあたしをいらないと言う。でも、どうせ今だけだ。辛抱強く待ち続ければ、その日は訪れると信じている。だから、今、彼女があたしにどんな態度を取るかなんて問題にならない。大切なのは、これからのことだ。
いつも一緒にお弁当を食べている女子グループに適当な言い訳をしてから、昼休みは宣言通り保健室を訪れた。引き戸を開けると、彼女がいた。ベッドから出て、テーブルでおにぎりにかじりついているところだった。あたしを見るなり、「げっ」といかにも嫌そうな声で出迎えた。構わず彼女の隣に腰を下ろす。
「あれ、もしかしてお昼ってコンビニのおにぎりだけ?」
彼女の手元には、コンビニ製のおにぎりが二つとペットボトルのお茶だけ。
「何か悪い?」
じろり、と眼鏡の奥の瞳が威嚇するようにあたしを睨む。
悪いよ、栄養バランスとかその他諸々……と言い返したいところだが、それでは会話が途切れてしまうだけだ。ちょっと思案して、持参していた自分のお弁当を取り出す。蓋を開けると、隣で息をのむ音が聞こえてきた。慣れている反応だけれども、いつもよりなんだか誇らしい。お弁当の中身は、一口サイズのおにぎりは鮭を混ぜたものに、梅紫蘇の二種類。メインのおかずは卵焼き、大根の葉の和え物、ニンジンのサラダ。野菜たっぷりで、彩りも豊か。
開けた蓋をテーブルに置く。箸を手に取り、おかずをつまむ。卵焼きを一切れ、大根の葉の和え物とニンジンのサラダを少々、それからプチトマトを一つ、蓋に載せる。
「よかったら、どうぞ」
お米とおにぎりのちょっぴりの具材でお昼を終わらせるつもりの彼女の前に置く。彼女は、警戒する野生の動物みたいにじぃっとおかずを見ている。
「……いらない」
ぼそりと低い声でつぶやく。でも、まだ目は諦めきれないみたいで、おかずをちらちら見ている。食べたい、と心の声が今にも聞こえてきそうだ。栄養バランスがどうのこうの、とか、それじゃあお腹すかない? だとか、お説教じみたことをしても余計にへそを曲げそうなタイプというのは、なんとなく察している。
「そっか、いらないのかぁ」
残念そうに言って、おかずが載った蓋をひっこめる。視線がずるずると追いかけてくるのを確かめながら、気付かないふりをして箸を伸ばす。狙いは卵焼き。こんがりときつね色に焼けていて、断面はきれいなうずまき模様。つまみあげて、ぱくり。頬に視線が突き刺さっているけれども、気にせずもぐもぐ。
「残念だなあ、こんなにおいしいのに。口の中で、砂糖と白だしの優しい甘さがふんわりと広がるなあ。だし巻き卵もいいけど、やっぱり普通の卵焼きが一番だよ」
返事は無言。言葉はなくても、必死にこらえているのがよく分かる。彼女の食べかけのおにぎりが全然進んでいない。それでもやっぱり無視続行。箸をそろそろと次なる獲物に近づけていく。
「甘い卵焼きの次は、ちょっとピリッとしたものがいいよね。大根の和え物には鷹の爪がね……」
「……ちょうだい」
白旗を上げる、か弱い声が聞こえてきた。恥じ入るような、かわいらしい悲鳴にあたしは大いに満足した。
「好きなだけどうぞ」
寄り分けた蓋ではなくて、お弁当を彼女の方へ差し出した。
結局、彼女はおかずだけではなくて、おにぎりの方も鮭と梅紫蘇を一つずつ食べた。有名な料亭でご飯を食べているわけでもないのに、一口食べるごとにかすかに目を見開いて、おいしい、とつぶやいていた。
「あの、大げさだよ。たかがお昼のお弁当……」
大仰なリアクションに、思わず呆れてしまう。すると彼女が振り返るなり、鋭い視線が飛んできた。
「たかが? 毎日食べてるあんたには、このありがたみが分からないだけよ」
目をとがらせて、ずいぶんとお冠の模様。自分のお弁当をけなされて怒るのはまだわかるけど、それはあたしのお弁当だ。「うーん、まあ毎日だからね……」と口を濁す。すると、その煮え切らない態度が気にくわなかったらしく、彼女は声をいっそう荒らげた。
「もっとちゃんと感謝しなさいよ! あんたみたいな薄情者をもって、お母さん泣いてるわよ今頃!」
びし、と人差し指を眉間に突きつけられる。……お母さん? なんでここで? あたしは目を丸くして、突きつけられた指を見た。
「お弁当、作ったのあたしだけど……?」
困惑のつぶやきを漏らす。すると、彼女の眼鏡がずるりとずり落ちる。眼鏡のフレームに手をやりながら、レンズの向こうの目を丸くしている。
「えっ……中学生の分際で?」
まるで小学生に三次方程式を解かれたような目で見られた。あたしはこっくりと頷く。
「中学生の分際だけど、朝起きてちゃんと作ってるよ」
ママは弟たちの朝の支度であたしのお弁当どころじゃないので、あてにならない。ちなみに今日はコーヒーを買いに行く用事があったので、手抜き仕様。卵焼きとおにぎり以外は作り置きしたものを詰めただけ。女子といえども、中学生は大概お弁当は母親だのみなので、驚かれること自体は別段珍しくない、というかこれもよくある反応だ。……とはいえ。
「卵焼きは、十年の修行と下積みが無ければ作れない究極の一品だったはず……」
深刻な表情で腕を組みながら、真顔でこんなことを言われるのは初体験だった。
「えっと、今度作り方教えてあげようか……?」
この様子では、卵の割り方講座から開始だろう。
保健室に通うようになってから、三日が経った。朝に一度行って、昼休みにもう一度行く。放課後は残念ながら、彼女は一足早く帰っているらしく会えない。その気になれば自宅に押し掛けることはできるだろうが、そこまでやるつもりはない。朝と一番大きな休み時間を一緒に過ごすだけでも十分だ。
最初の頑なな様子に、長くなるかもしれない、と覚悟したけれど、お弁当の効果は絶大だった。次の日から二人分のお弁当を用意して、昼休みに彼女の元に行く。すると、彼女は律儀に保健室のテーブルに座ってあたしの到着を待ちわびている。意外と律儀な性格らしく、お弁当のお返しとして毎日食べきれないぐらいのおやつをあたしに分けてくれるのだが、残念ながら持って帰って弟たちに渡すだけの荷物と化している。朝に関しても、初日の店のモノは手を付けずに現金を突っ返されただけで終わったが、次の日から家の残りで……と言って渡して、あたしも自分の分を用意しておくと一緒に飲んでくれた。どうやら譲れるラインと譲れないラインがあるらしい。
そんな風に一緒に過ごしていると、彼女の人となりだけではなくて、彼女を取り巻く環境も見えてくるものだ。
「料理に限ったことじゃないけど、誰も教えてくれる人いないからさ。私、父子家庭なのよ。お父さんだって、仕事の関係で一年の半分ぐらいは家にはいなくって」
お弁当を並んでつついていると、彼女がふいにそうつぶやいたことがある。
「どうせ教室に行かないなら、家にいてもいいんだけどね。でも、そうなるとさ、本当に誰にも会わなくなっちゃうから」
その時の彼女は笑っていた。自嘲めいた寂しげな笑顔だった。普段はおしゃべりの最中でも止まらない箸が、この時はぴたりと止まっていた。寂しい笑顔を振り払うように頭を振ると、再び彼女は元気にお弁当をつつき始めた。
「ああ、忘れて忘れて。せっかくのお弁当が、まずくなっちゃう」
そういって、不器用に笑って見せる。無理して笑っているのが、見え見えで下手な作り笑いだと思った。あたしだったら、もう少し上手く笑えるだろうし、そもそも話題の転換ももっと滑らかにできる。
初対面から思っていたのだ。彼女は間違いなく、世渡りはうまいほうじゃない。思ったことは素直に口にするし、その言い方にも棘がある。よくも悪くも、まっすぐすぎる。……ひょっとすると、保健室登校の理由はそこにあるのかもしれない。
彼女の下手なごまかしに付き合って、話題を打ち切ってもよかった。いや、事実そうするつもりだった。でも、閉め忘れた蛇口から水滴がこぼれるように、唇から言葉が零れ落ちた。
「寂しかったら、いつでも呼んで。……絶対、会いに行くから」
こう言おう、という気負いはなかった。本当に、意識していない言葉だった。
静江さんの箸が再び、止まった。目を丸くして、あたしをじっと見ている。驚いているらしい。それは彼女だけじゃなくて、あたしもそうだった。あたしじゃない誰かが、体を乗っ取って勝手に喋ったみたいだった。
静江さんを魔女と呼んだときに少しに似ているが、大分違った。あのときほどの衝撃はない。あの時起こったのが、一つの国を沈めてしまうような大洪水だとすれば、今起こったのは足元をさざ波が浸したぐらいのもの。もっとささやかで小さな衝撃だった。
自分で自分の発言に驚いていた。一度生じてしまった微妙な空気をどう取り繕うか、すぐに分からなかった。こんな夢見るような言葉を吐いて、誰かを困惑させたことなんて経験したことがなかったから。どうやって収拾をつけようか? 悩んでいるうちに、静江さんのお箸があたしのお弁当に忍び寄ってきていた。
「そうね。……あんたも私のこと、呼びたくなったら呼べばいいわよ」
静江さんの声が、静寂を破る。彼女の好みに合わせた甘いだし巻き卵が、忍び寄ってきたお箸に捕まった。声を上げるまでもない。あっという間に、ぱくりと食べられる。
「そういうわけで、これは前渡しの報酬としていただいておくわね」
澄ました口調で告げているけれども、表情には照れくささが隠しきれていない。鐘の音の余韻まで聞き入るときのように、あたしはぼうっとその声を聞いた。はっとして我に返るまでに少々間があった。
「ありがと、その時はよろしく」
慌てて取り繕うように笑った。鏡はないけれど、きっと彼女よりも下手な笑顔を作っていることだろう。
彼女がいないときに、夕川先生に尋ねたことがある。どうして彼女は保健室登校をしているのですか、と。
「ちょっと我の強いところはありますけど、でも普通の子……いい子ですよね。なにか……昔にあったんですか?」
静江さんは中学に入って、入学式の日以降は教室に姿をあらわしていない。彼女と同じ小学校出身のクラスメイトを捕まえて聞いても、小学校時代は明るく活発な女の子で、学校にも楽しそうに通っていたという。なぜ、彼女が一日足を踏み入れただけの中学の教室を恐れているのか? 大概、不登校や保健室登校にはなんらか理由があるものだが……。
問いかけるあたしに、先生は綿のようにふわりと微笑んで、首を横に振った。
「私の口から言うことじゃないよ」
口調は柔らかい。でも、答えは取り付く島もない。
「そうですか」
保健室の先生なら、きっとそう答えるだろうと思っていた。本人の許可がないかぎり、話してくれないだろう。そして、肝心の静江さん本人に話したがっている様子はない。
しつこく聞き出そうとは思わなかった。こういうことは本人が語りたいと思ったときでなければ聞けないのが相場だし、そもそもあたしが一番知りたいのは彼女の生い立ちではない。
あたしの目的の果たし方だ。そこを忘れてはいけない、と自分に言い聞かせた。彼女に近づくのは何故か、それだけは何があっても忘れてはいけない。願いをかなえるその時までは。
「音草さん、少しお時間いいかしら?」
放課後、教室を出たところで後ろから声を掛けられた。
あたしに声を掛けてきたのは、隣のクラスの恵美鈴だった。話題に上ったことはあっても、直接話をしたことはない相手だった。彼女は腰まで伸びた長い髪を手で払いながら、泣きぼくろのある瞳を細めている。
「ごめんなさい、あたし、この後用事があるの。悪いけど、また今度聞かせてくれる?」
関わったことはなくとも、仲良くしたい相手だとは到底思えない。ひとまずこの場を逃げ出すべく、回れ右。
「じゃあ、一緒に帰りましょ?」
許可も取らないで、あたしの歩みに合わせて恵美鈴が並んできた。この強引さでは好きにさせるしかない、どうやら諦めるしかなさそうだ。
恵美鈴は自分から声をかけてきたくせに、なかなか話そうとしなかった。校門をくぐり、視界から同じ学校の生徒が消えたところで、ようやく恵美鈴は口火を切った。
「音草さん、最近保健室によく行ってるみたいね。朝、昼と規則正しく。……何してるの?」
探るような視線を向けながら、あたしに迫る。何してるの、と問う声ときたら明らかに詰問調だ。
あたしだって千里眼は持っていない。何を言われるかなんて、聞かれる瞬間まで分からなかった。でも、ここで答えに詰まるほど口下手ではない。
「うちのクラスにね、保健室登校の子がいるって最近知ってさ。その子、教室が怖いっていうんだけど、そんなことないよって話をしてるの。怖がらずに早く教室においで、ってね」
嘘か本当かはどうでもいい。重要なのは、優等生・音草乙葉の行動理由としていかにもっともらしいか、だ。
恵美鈴は押し黙った。長い黒髪を揺らして、あたしの返答なんてなかったみたいに歩いている。ややあって、彼女は口を開いた。
「ねえ、それと杏里君……安藤杏里がどう関係しているの?」
思いもよらぬ切り返しに内心驚く。いくらでも誤魔化しがきく質問は怖くないが、核心をつく問いかけは侮れない。動揺したせいで最適な答えを見つけ出すまでに、一瞬間が開いた。
「安堂君? 何、言ってるの?」
答えるまでに間が開いたのは、むしろよかったかもしれない。否定が早すぎると演技くさく思われるから、とぼけるふりとしては致命傷にはならない。ミスじゃない、と冷静に判断する。
しかしいくらうまく演技をしようとも、最初から態度を決めてかかっている人には……特に思い込みの強い人には大した効果が上がらない。何も知らない、と装うあたしに、恵美鈴が向ける視線は敵意で一色に染め上げられている。
「分かってるのよ、あんたが杏里君を傷つけたんだってことは」
恵美鈴はあたしの首元に刃物を突き付けるように、鋭い視線を向けながらすごんでいる。さながら銀行に押し入る強盗団のよう。
こんな物騒な表情なんて、きっと男の前では使わないんだろうな。このおっかない顔を写真に撮ってばらまいてやろうか? 意地の悪い悪戯をふと思いついて、皮肉な笑みが思わずこぼれそうになるけれども。
「うん? そんなこと、誰が言ったの?」
実際はかわいらしく、無垢に小首を傾げて見せる。目の前のメッキが剥げた女とは違って、凶悪犯に怯える少女らしく振舞う。すると、一瞬ひるんだように恵美鈴の目線が泳ぐ。
「……杏里君が言ってた」
絞り出された声には、先ほどまでの勢いもすごみもない。……ああ、嘘か。核心を突かれれば、人は動揺する。個人差が出てくるのは、顔に出すか出さないかだ。あたしはさほど顔には出ていなかっただろうが、恵美鈴のむなしい抵抗は目にも明らかだった。あたしをひやりとさせた言葉にはどうも裏付けが乏しいらしい、と分かると行動の底の浅さも見えてきた。
あたしがどうして保健室に繰り返しやってきているのか、知っている人間は少なければ少ないほどいい。邪魔は誰にもさせない。だから、安堂君には釘を刺した。それも、かなりきつめに。手ごたえはあった。失敗した、とは思えない。
安藤杏里は恵美鈴には、何も話していないだろう。ただし、態度には出したかもしれない。憂鬱に沈んでみたり、物思いにふけってみたり、ということはあったかもしれない。あたしが保健室に通い始めた時期、安藤杏里の変化が起きた時期が重なっている。そこから恵美鈴が想像を巡らせて、あるいは断片的な証拠を頼りに物語を描き出した。それから、何も言わない安堂杏里に愛想をつかして、ならばとあたしを問い詰めに来た。これが彼女があたしの元を訪れた理由と見た。
物証どころか、証言さえない。あるのは、ただの妄想と直感。いくら正しくても、証拠がなければただのたわごと。……それであたしを追いつめられると思ったの? 腹を抱えて、馬鹿な女を指さして、笑いたくなる。
でも、それはもう少し後で。あたしは「ふうん」と困った様子で、何の心当たりもない様子でつぶやいてみる。
「悪いけど、あたしの方からは心当たりはないなあ……でも、安堂君がそう言っていたってことは、何かしら、あたしが意識していないことで傷つけちゃったってことだよね。それは申し訳ないなあ」
もちろん、申し訳ないことをした意識はない。あたしのせいで傷ついたと言われても、勝手に石に躓いて転んだ傷をあたしのせいにされるようなものだ。恨むなら、転ぶ間抜けさ、傷つく弱さを恨めばいいのに。
恵美鈴の視線は敵意を纏ったまま。あたしのきちんと取り繕った建前の口上なんて、ろくに聞いていないに違いない。なぜなら、人は聞きたい言葉にしか耳を傾けない。彼女が聞きたいのはあたしの謝罪であって、言い訳なんて求めていない。
「音草さんって残酷よね。なんで、そう人の痛みに鈍感でいられるわけ?」
起伏の少ない声はかえって、漏れ出た苛立ちを目立たせる。触れれば火傷しそうなほどお怒りだ。普通のかわいらしいだけの女の子なら、たぶん泣かせられる。悪くなくても、ごめんなさいの一言を引き出せる。
……が、あたしには普通のかわいらしいだけの女の子の自覚はない。ちょっと過激なジョークに辟易したみたいに、ひょいと肩をすくめる。それから、こまったねえと言わんばかりの苦笑い。
「ごめんねえ、気を付けるよ。ああ、そうだ。そういう優しいところ、あたしは恵さんを見習わなきゃね」
思い出したようなふりをやって、一言付け加える。わざとらしい一言に、恵美鈴が振り返り、胡乱げにあたしを見た。
かちりと目が合う。今なら、恵美鈴に謝罪以外の言葉がまともに届く。あたしはその瞬間を逃さない。狙撃手が最高の一瞬に合わせて銃の引き金を絞るように飛び切りの笑顔をたたきつける。
「特に、男の子に対しては?」
噛みついてきた輩の首に、言葉の弾を捻じ込むには一番のタイミングだから。
恵美鈴の瞳が、はち切れんばかりに見開かれる。映画でよく見るワンシーンだ、と思った。急所を撃たれ、あるいは切られ、スローモーションで血しぶきが舞う場面で、最期の瞬間数秒前に見せるあの間抜け面。信じられない、と目を見開き、傷口を抑えるあのしぐさ……くすくす、とくすぐったがるような笑い声があがる。だって、笑いをこらえるなんて今はナンセンス。
「恵さんは色んな人に優しかったよね? 年上だろうが、同い年だろうが、年下だろうが色んな人に……博愛主義って、恵さんみたいな人を指すんだと思う。誰が相手でも、あなたは区別しないんだもの」
そこまで言って、一旦区切って相手の反応をうかがう。
瞳には理性が戻っていた。あたしの言葉の意味はすっかり理解できたみたいで、驚きから覚めれば次の段階が訪れる。
「な、なにをいって……」
恵美鈴は震える声でうめく。己が置かれた状況を理解して、この後襲い掛かる事態もぼんやりと予想がついて……そうなれば、たどり着くのは恐怖。次の弾丸が身を抉る痛みに恐れおののく。まばゆい光に抗うように目を細めている。
人に好かれる秘訣と嫌われる秘訣は、実は一緒なのだ。やることは同じ、ただ受け取られ方が真逆なだけ。いつ気付いたかは分からない、でも昔から……子供たちの小さな社会に放り出されて間もなく覚えたことだと思う。
そう、それは――予想を上回ること、期待に応えること。
「そういえば、誰が、だけじゃなかったね? いつでも、も付け加えるべきかな?」
彼女が思い描いた恐怖を、思い描いた以上の完成度で応えるのだ。
恐怖のために引き絞られていた瞳が、再び開かれる。恐れるのではなく、今度は怒りをあらわにして。
「違う、そういう意味じゃない! 勝手な想像を膨らませないで!」
今まで黙っていた分を取り戻すかのように、恵美鈴は叫ぶ。空にまで響くような、ヒステリックな金切り声だ。電柱に止まっていた小鳥たちが逃げ出す。それでも、恵美鈴は叫ぶのをやめない。あたしを睨みつける。銃口みたいな目だ、と思った。引き金さえ引けば、その視線の先にあるものを粉々に壊してしまいそうだった。
撃てるものなら、撃ってみろ。逃げも隠れも、あたしはしない。恵美鈴の弾丸なんてはじき返してやるつもりだ。逃げ出した小鳥と違って、あたしは微動だにしない。……やかましい射撃音はなおも続く。
「ひどい中傷だわ! あの子は何も言わない、言いたくないって顔をしてたの。本当は話したいんだって、言ってしまって楽になりたいって、口には出さなかったけど、顔には全部出てたの! わたしはただ、心配しただけ! だって、彼はあの人の大事な友達だもの!」
声がぷつりと途切れる。わずかな無言の時間が訪れ、はあ、と息を吐く声が聞こえた。
「だから、わたしは、安堂君を誘惑したわけじゃ……」
ぽつりとつぶやくのは、疲れ切った声だった。まるで弾を全部打ち尽くして、空っぽの銃を投げ捨てたみたい。
しん、と静けさがあたりに広がる。ここが言葉の銃弾がぶちまけられた戦場だったなんて、嘘みたい。今は平和、とても平和なところなのだけれども……平和を生み出すことは大変でも、破ることは弾丸一発で十分。
「あたし、恵さんにそんなこと一言も言ってないけど?」
ぴた、と恵美鈴の体の動きが止まった。あたしは首を傾げる。どうして、彼女が死んだように動きを止めてしまったのか、分からないふりをしている。
「あたしが言ったのは、恵さんは優しいねってことだけだよ? 言ったのはそれだけだよ? ねえ、どうしてかな? そうよ、わたしは優しいのよ、って堂々と言えばいいじゃない? なんで、あなたは優しい、なんてありきたりな言葉をそんな……誘惑、なんて不謹慎な言葉に置き換えてしまったの?」
あたしは声のトーンを落とす。かわいらしい無垢な少女が表立っては口にしてはいけない言葉を、密やかに口にする。言いたくないことを言わされた不快感を、声の調子と表情で強く表しながら……そんなことを言わせる羽目に合わせた、品のない女に冷ややかな視線をくれてやりながら。
見えない銃を的のように立ち尽くす恵美鈴の額に照準を合わせる。あたしを見返す虚ろな目は、既に死んでいるようなものだった。でも、やめない。引き金に掛けた指にぐっと力を籠め……引いた。
「思わず、本当のことを言ってしまっただけなんじゃないの?」
言葉の銃弾は、狙い違わず恵美鈴の頭を打ちぬいた。何故なら、血は出なかったけれども、その瞳から透明な滴が溢れてきたから。……涙をぬぐう間もなく、恵美鈴は長い黒髪を翻して走り出した。
徹底的に叩きのめしたのに一仕事終えたという感慨はなく、徒労感しか湧いてこない。むきになりすぎた、と少し歩きながら反省している。もう少し冷静さを保つべきだった。
恵美鈴に直接会ったのは初めてだけれども、あたしは前から彼女に並々ならぬ嫌悪感があった。自分の方から誘惑して、惚れ込んだ男子を紙屑みたいに気軽に捨てる。そして次の犠牲者を探し求めて、さ迷い歩く。そんな女のいったいどこに好感を抱けと? 無理な話だった。
元君もいい加減、目を覚ませばいいのに、といつも思う。あの女が安堂杏里を誘惑したかどうかは知らないが、既に前科があるのだ。……年明け早々、あの女が元君ではない生徒と腕を組んで歩いている写真が出回った。クリスマスから付き合い始めた、と聞いている。二週間も経ってないうちに、あいつは早々に元君を裏切ったのだ。
恵美鈴は人の真摯な気持ちを踏みにじり、弄ぶ悪魔。あいつだけは絶対に許せないし、妥協できない。奴と仲良くするぐらいならゴキブリと握手するほうがまし。
あたしはさっさと背を向けて歩き出した。一刻も早く、この忌まわしい戦場から立ち去りたかった。歩きながら周囲を見渡すが、閑静な住宅街に人の姿はない。それでもあたしは全く安心できない。かなりやかましく吠え掛かられたので、あたり一帯にさっきのやり取りが響いていることだろうから。見ず知らずの誰かに聞かれる分にははた迷惑な生徒、で済むが、知り合いに聞かれていたら少々まずい。
冷静な第三者が聞き耳を立てていたら、恵美鈴の素行の悪さに限らず、あたしの狡猾さと人の悪さを嫌というほど感じ取るだろう。教室内の人気者、という地位を維持するにあたって、醜聞は一つとして許されない。
あまり人に聞かれたくない話をするときは、誰か第三者が通りがからないように場所を選んでいた。授業中の廊下しかり、入り口が一か所の屋上しかり。普段の水準からすると、今日は軽率すぎた。どこかに誰かがいても、全く不思議ではない。一応、下校時間にしては早いほうなので、可能性としはそれほど高くない、というのが救いではあるが……。周囲の気配に気を配りながら、帰路に就いた。人の気配は感じられなかったが、嫌な予感を拭い去ることはできなかった。
翌朝昨日までと同じように、朝礼の前に保健室に寄った。鍵は開いていたけれど、静江さんの姿は見当たらない。彼女の定位置のベッドのカーテンは開いていたけれど、中に誰もいない。
「静江さん、今日はまだ来ていないよ」
保健室に一人いた夕川先生が言う。「もしかして、欠席ですか?」と聞くけれど、「来ないときは、私の携帯にちゃんと連絡してくれるんだけどねえ。今日はまだ何も聞いてないなあ」と、緊張感のないのんびりした声で先生は答えた。
朝礼が始まるぎりぎりの時間まで保健室で待った。しかし夕川先生の携帯に連絡はなかったし、静江さんが保健室に姿を現すこともなかった。
「一応、これ置いておきますね。もし来たら、渡しておいてください。……また昼休み、きます」
コーヒーとお弁当を置いて、仕方なくあたしは教室に戻った。
授業が始まっても、静江さんの行方が気がかりでならなかった。意外と律儀な静江さんが連絡なしで姿をくらませるとは、少々考えづらかった。静江さんが携帯さえ持っていれば、即座に電話を掛けただろうが、生憎持っていない。保健室を出る前に夕川先生が自宅に電話をかけていたが、それも出なかった。
寝坊でもしたのだろうか? それとも通学途中でトラブルに巻き込まれた? 彼女の身に何が起こったのだ? 想像を膨らませれば膨らませるほど、嫌な予感ばかりが募っていく。
教室に入るときでさえ、まだ考えていた。あたしの一挙一動が誰かの視線に収まっているというのに注意を払っていなかった。人気のない道を歩くように教室に足を踏み入れてしまった。
「お、おはよう」
誰かが挨拶の声を掛けてきた。そこで、ようやく自分が教室に入ったということを思い出した。あたしは慌てて返事をする。友好的な微笑を張り付けて、無論それだけでなく、ちゃんと相手の正面へ差し向けて。これで教室の人気者に早変わり。
「おはよう」
正面から相手の顔を見て、それからよくよく声を思い出して、張り付けた笑みが一瞬強ばる。驚かざるを得ないことが起きていて、あたしは一瞬止まってしまった。
「あ、あの……手の傷の具合……どうかな?」
たどたどしく話しかけてきたのは、安堂杏里だった。昨日まであたしに目を合わせることすらしなかった、クラスの日陰者の少年。
何で君が、あたしに声を掛けている? 誰がいいといった? そう声を荒らげたいところだが、ここは人目が多すぎる。
「おかげさまで順調だよ、心配してくれてありがとう」
標準装備の笑顔を付け直して、答える。これ以上の会話に応じるつもりはない。彼が口を開きかけたところで、気付かないふりをしてあたしはその場を離れた。君に構ってる余裕なんてないの、と言ってやりたかったが、心の中だけに留めた。
昼休みを告げるチャイムが鳴った瞬間、保健室に駆け込んだ。やはり静江さんの姿は見当たらない。置いて行ったコーヒーとお弁当も手を付けた様子はない。やはり、欠席なのだろうか? 何かあったのだろうか?
「静江さん、学校来てるよ。……始業ぎりぎりにやってきて、昼休みのチャイムを聞くなり出て行ったけど」
振り返ると、夕川先生は定位置と化している事務椅子に腰かけて、缶コーヒーを傾けていた。眠たげな瞼を持ち上げて、穏やかな表情であたしを見上げている。
「何か、心当たりはあるのかな?」
問いかける声は、春の日差しのように温かい。でも、まるで鉛を飲み込んでしまったかのように口が重い。
「失礼、します」
夕川先生の問いかけに応えず、保健室を出た。
出たところで、行く当てがどこにもなかった。何食わぬ顔をして教室に戻るか? あるいは、何の手がかりもないけれど静江さんを探すか? どちらも気が進まなかった。怪我をしたのでゆっくり休みたい、そんな心境だった。だから、どこでもいいから誰もいない場所で静かに座っていたい。
昼休み中に周囲の視線を気にせず、一人で落ち着けるところは数少ない。いくつかある候補のうち、一か所選び出して歩き出す。選んだのは理科室だった。授業がない時間帯は当然施錠されるけれども、一か所窓の鍵が壊れているのだ。一階にあるから侵入するのは容易だ。もちろん先生にバレると怒られるので、大っぴらに生徒のたまり場になることはない。誰にも見られていないことを確認したうえで、理科室に忍び込むと予想通り人の気配はない。実験机に椅子が整然と並び、物言わぬ人体模型が鎮座している。……それだけでは安心できないので、理科室をぐるりと一周、死角に誰かが潜んでいないか確認する。それから掃除用具が入ったロッカー、実験机の下の物置を開ける。人ひとり入れそうな空間が広がっているが、誰も隠れていない。ここまで調べて、あたしはようやく腰を下ろす。実験机に背を預け、床にお尻をつけてお弁当を広げる。窓やドアののぞき窓から姿を見られないよう、あるいは万が一誰かが窓から入ってきたときに、机の物置に隠れるために。
音草乙葉が一人寂しくお昼ご飯を食べている、なんて事実は許しがたいことだ。そういうことはクラスの中でも日陰者の連中がやることであって、あたしのような教室の中心に立つ人間にはふさわしくない。あたしが人前に現れるときは、ふさわしいグループを侍らせて、華々しく微笑んでいなければならない。もしくは、そうでないときはそれなりの理由が必要だ。例えば彫刻刀で手を切っただとか、不登校の女の子を諭すためだとか……。
だから、誰にも言い訳できないわびしい現場を抑えられたくない。知られれば、侮られ、軽蔑され、蹴落とされるから。あたしの居場所は仮のもので、ちょっとしたことで失われてしまうから。
弁当に残った卵焼きの最後の一切れを、乱暴に口に放り込む。味なんてどうだっていい。苛立ちは最悪の調味料だったから、どんな手を尽くした料理だって台無しにしてしまう。空になったお弁当のふたを閉めても、まだ立ち上がらない。
今の状態で人前に出たくなかった。たぶん、何をやってもダメになるという予感がある。笑顔の作り方が分からない、明るい声の出し方を思い出せない。そんな状態で教室に行くなんて、手ぶらで弾丸飛び交う戦地に向かうようなものだ。……とにかく、まだ教室には戻れない。眉間にしわを寄せて、床にぺたりと座り込んでいる。
その時、鍵のかかっていない窓が滑る音が聞こえた。……ほら、やっぱりどこにだって人は来る! あたしは慌てて背筋を伸ばした。机の下の観音開きの物置を開ける。アルコールランプやそのほか様々な実験用具が埃を被っているが、気にしている場合ではない。侵入者が窓を乗り越える音を聞きながら、大急ぎで物置に体を入れて、内側から戸を閉める。
戸を閉めると、完全な暗闇に視界が閉ざされる。物置の外の音は少しくぐもってきこえるが、聞き取れないほどではない。目は全くあてにならないので、耳にすべての神経を傾け、扉の外の様子をうかがう。
「大丈夫、大丈夫。ここなら誰もいないでしょ?」
無邪気にはしゃぐ声がドアの外から聞こえてきて、あたしはもう少しで物音を立てるところだった。
声の主はすぐに分かった。静江寧、あたしを避けて姿をくらましていたはずの人。なんでこんなところに来たの、そう声をあげたくなったが、喉の奥に押しとどめる。……そうだ、独り言ではないようだからあともう一人いる。一体、それは誰? 静江さんに答える声にじっと耳を澄ませた。
「気合い入れすぎじゃない? そう都合よく通りがかったりしないと思うけどな……」
呆れたような声で答えるのは、紛れもなく安堂杏里の声だった。物置から飛び出して、問い詰めたいことがわっと湧いてきた。今朝からおかしいと思っていた。それと何か関連が? どうして君が? あたしじゃなくて、どうして君が? なぜ、と叫び出したい気持ちでいっぱいだった。
「何言ってるのよ。ここだって、安全とは限らない。ドアとか、窓とか注意して。ひょっとしたら、見つかってしまうかもしれない」
静江さんの張り詰めた声がぷつりと途切れる。
「あの子にだけは……音草さんだけには、見つかりたくない。絶対、いや」
彼女は怯えていた。扉越しでも、表情なんて見えなくても、その怯えぶりはいやがおうでも伝わってくる。音草乙葉、彼女が怯えるあたし本人に対して。
背中から崖に突き落とされたら、きっとこんな気持ちになるだろう。確かに届いた言葉を、向けられた恐怖を、他人事のように聞いた。どこの音草乙葉さんに言っているの、もし尋ねられるのならそう聞きかねないぐらいに。
残念ながら話す権利があるのは、物置の外にいる二人だけ。静江さんの恐怖の吐露に、安堂君はなかなか答えようとしなかった。
「分かったよ。……で、話したいことって、何?」
彼がため息を飲み込んだような声で先を促すと、静江さんはゆっくりと口を開いた。
「昨日の、放課後……」
彼女がぽつぽつと語り始めたのは――昨日の放課後、あたしと恵美鈴の間で交わされた言葉の銃撃戦について。あたしが昨日危惧したように、静江寧はあの醜いやりとりを全て聞いていた。路上でたまたま、というわけではない。他の生徒よりも一足先に帰宅していた彼女は、自宅で全てを見届けたという。
「私ね……一番初めにあの子に会ったとき、嫌な奴だと思ったの。あなたとあの子のやり取りを奥のベッドで聞いていて、絶対こいつとは仲良くできないと思った。何が気にくわなかったか、っていうとね。他人を人と思っていない感じ。他人を操縦するリモコンを持っていて、好きなように人を操れる。自分はそういう特別な人間だ、って思いこんでる。いけすかないやつ、それが第一印象」
眉をひそめて、不快感をあらわにする静江さんの表情が瞼の裏に浮かぶ。
「そんな奴が次の日から、毎日毎日手間暇かけてお弁当こしらえて、私のところにやってくるのよ? 勘ぐるなという方が難しいでしょう? 何を狙っているかなんて、明らかよ。『食われて、全てを終わりに』したいわけ。私にそれをやらそうとしている……私に殺人を犯すようそそのかしている」
「でも、君は無論、音草さんの望みに応えるつもりはない。むしろ、音草さんを救いたいと思っている。理由は分からないけど、彼女は死を望んでいる。なんとかしてあげたいって、思っている」
静江さんの声を引き取って、安堂君が言った。
「昨日、大して役に立ちそうにもない僕にさえ声を掛けてきたぐらいね」
冗談めかして、安堂君は一言付け加える。彼が付け加えた情報は全く知らなかった。……なるほど、朝の積極的な態度とこの二人の協力体制に対する説明がついた。
しかし、ここまでの話であたしが全く気付いていなかったのはその一点だけ。他は全部知っている。静江さんがあたしの望みを知っていて、意地でもかなえまいとしているのは明らかだったし、なんとかしたいと思っていることも行動の端々から伝わってきている。第一印象が悪かったのも、まあ予想の範疇だ。
時々、少々勘の鋭い人たちには遠回しに言われるのだ。「調子に乗りやがって」だとか「他人をなめてるの」だとか。昨日の恵美鈴も「音草さんは残酷」と言っていたけれど、趣旨は似たようなものだ。好きに言わせておけばいい、とあたしは思っている。誰からもいい人だと思ってもらいたいとは望んでいない。嫌うなら勝手に嫌ってくれれば構わない。
静江さんは第一印象、と言った。あたしが耳を澄ませるべきなのはその後の話だ。静江さんが問題として取り上げようとしているのは、今から話そうとしていることなのだ。
「でも、昨日のやり取りを見て……思ったのよ。ああ、出来ないなって。あの子の望みを叶えずにいられるなんて、思えなくなった」
静かな理科室に響いた声は、ひどく弱弱しかった。
「どうして?」
安堂君が問いかける。
「確かにさ、音草さんは少しやりすぎだって思う。特に、僕は相手の人……恵さんのこと、ちょっと知ってるから余計にそう思っているけど、それを差し引いてもそう思う。誤解にしても、そこまで徹底的に叩く必要はなかったんじゃないかな? 気にくわない相手には本当に容赦しないんだってことで音草さんが少し怖くなった、そういうことなら僕も分かるよ」
静江さんの声とは対照的に、彼の声は冷静だった。恵美鈴に関わる当事者なのに、赤の他人の静江さんよりも客観的に状況を整理している。
「けどさ、君が恐れてるのはそこじゃないでしょう? どうして、急に望みを叶えてしまうかもしれない、なんて言い出すの?」
あたしも知りたくてたまらなかった。あたしの心の声を聴いて、まるで安堂君が代わりに尋ねてくれたみたいだった。
静江さんは即答しなかった。安堂君の問いかけから、しばらく時間がかかった。聞こえてきた彼女の声は、様子が変わっていた。
「あの子に対する第一印象は間違っていたの。特別だと思い込んでいる人間、じゃない。実際特別なのよ。人を操ることができるのよ、あの子は……隠そうとしていることを暴いたり、やらないと誓った意志さえもへし折る力がある。その証拠を私は見てしまった」
一時の感情で話している様子ではない。一晩考えて、言葉を整理したような話し方だった。
待ってよ。あたしの唇が声を伴わずにつぶやいた。……違う、違うんだ。自分は人を操る特別な人間? いくらあたしでもそこまでうぬぼれていない。人を操れる、なんて思っていない。ある程度誘導をかけることはできるけれど、限度はある。そんなものは小手先のテクニックに過ぎなくて、通じる相手には通じるし、通じない相手には通じない。あたしがやっているのは、その場限りの一時しのぎ。それがずっと続いているようにもし見えるのならば、それを何度も何度も繰り返して、途切れていないように見せかけているだけ。
沈まないようにもがいている。あたしがやっているのは、ただそれだけ。
「あたしはあの子に近づきたくない。いつか、あの子の望みをかなえてしまう気がする。あの子に操られて、誓ったことなんて忘れて、殺してしまう日が来てしまうかもしれない」
お願いだから、誤解しないで。静江さんに伝えたい。あたしが欲しいのは、子供だましの産物ではない。一時しのぎじゃない、その場限りじゃない。もうそんなものには飽き飽きなのだ。もっと素晴らしいもの、それこそ奇跡としか呼べないような代物を……彼女に求めているのだから。
ここを出なければ、直接伝えなければ。誤解しないで、そう伝えたい一心で手を伸ばした。物置の暗闇のなか、もどかし、狂おしく外へ繋がる扉を求めた。伸ばした指先が固い木の扉に触れたとき、小さく、静江さんは息を吐いた。腹の底から空気を残らず吐き出しているような、深く重い溜息だった。
「嫌よ。……大事な友達を殺すなんて……絶対に嫌だもの」
低い囁き声が震えて、耳朶を打つ。木の板に触れた指先を、あたしは押しやることができなかった。
外に出れば、きっと静江寧の憂いに満ちた顔を見る羽目になっただろうから。それはつまり――音草乙葉の顔を晒すことになるから。
火で炙られたように熱い瞳から、涙が一滴零れ落ちる。この顔をさらすわけには、いかなかった。
間もなく、二人は理科室を立ち去った。二人分の気配が遠ざかったのを確かめて、あたしは実験机の物置から這い出た。ついた埃を払い、水道で顔を洗う。鏡で顔を覗き込めば、泣いた跡が目にくっきりと残っている。この顔でクラスに戻るのはまずい。うるんだ目は冷やすのがいいんだったか。が、冷やすものはここにない。なければ取りに行かなければいけないが、その道中で顔を見られては意味がない。
仕方ない、使えるものは使おう。あたしは携帯を取り出した。電話を掛けると、三コール目で相手が出た。
「もしもし、どうせ暇でしょ、この後授業さぼるでしょ? 保健室でアイスノン借りるか、自販機で冷たいジュース買ってくるか、どっちかお願い」
「おい、待て。いきなり意味わからねえぞ? なんだ、その謎の二択は?」
電話越しに元君ががなる。が、あたしはもう通話終了のスイッチに手を掛けている。
「五分以内にお願い。あ、場所理科室だからよろしく。はい、よーいどん」
「オイコラ、ふざけん」
ぶつっ。通話時間は十秒とかからず、終了した。
そして、五分後。ドアを乱暴にたたく音が聞こえた。先生にバレると……なんてことは彼は全く考えていない。窓から入れと言っておくべきだったか、と悔やみながら鍵を開けると、むすっとした顔をしてオレンジジュースの缶を握っている壱原君の姿があった。無言で差し出された缶ジュースを受け取る。
「おつかれ。帰っていいよ」
「せめて経費ぐらいよこせよクソババア」
地底の底から響いてきそうな声で壱原君が言う。あたしは気にせず、背を向けてジュースの缶を目に当てて冷やす。
「うっわ、ドケチ。たかが百二十円でしょ、そのぐらい持ってよ」
「突然の無茶ぶりにこたえてやって、この仕打ちはねーわ……って、お?」
壱原君が近づいてくる。中学に入って急に伸びた背を曲げて、あたしの顔を見下ろす。
「なに、その目。お前、ひょっとして泣いてたの?」
ちょっと驚いた様子で、元君が目を丸くしている。蚊を振り払うみたいに、ジュースを持っていないほうの手で近づいてきた元君を追い払う。あたしの腕を避けた後もじろじろ見ていたが、やがてその顔に小憎たらしい笑みが浮かぶ。
「なーんだ? 好きな男に振られて傷心中?」
「その赤い頭、オレンジにしてあげようか?」
別段、缶ジュースの中身には用事がないのだ。プルタブに指を掛けてにらみつける。元君は声を上げて笑った。
「じゃ、愛しの魔女様から愛の告白でも?」
あたしは缶のプルタブから指を離した。もう一度、缶ジュースを目に当てると、缶の冷たさが目に染みる。
「近いものはあったかもしれない」
大事な友達。静江寧の言葉がもう一度、頭の中で繰り返される。
友達、という言葉自体に大して思い入れはない。ほとんど話したことがない相手にだって使うときは使う。安い言葉だ。大事な、なんて修飾語をつけたところで御大層なものじゃない。
けれども、静江寧の発言は他の安い友達とは違う。だって、彼女は直前に吐露していたではないか。音草乙葉に対する不信感を、恐怖心を、赤裸々に語っていたじゃないか。それなのに彼女はあたしを友達と言った。絶対に殺したくない大事な友達、と。
ありえない。こんなこと、普通は起きない。低いところから高いところへ水が昇るようなもの。どうして、信じられない相手を、恐怖感さえ呼び覚ます相手を友人と呼ぶ? 瞼の裏で再び、じわりと涙が広がるのを感じる。静江寧の震える声を耳にしたあの時と同じように。
「奇跡だよ、これは。……魔女と聖者のおとぎ話が生んだ奇跡なんだ」
ありえないことが起こったら、それはもう奇跡と呼ぶしかない。まるで作り話のよう、おとぎ話のよう。人の意志も力も及ばない領域で起こった出来事と解釈するしかない。
ずっと憧れていた奇跡の一欠けらが、本当にこの身に訪れたのだ。何故、喜ばずにいられるだろう? 冷静になどいられるわけがない。あたしは感動に打ち震えていた。
「何がそこまでお前を駆り立てる? 俺にはさっぱり分からない」
一方、元君は、お手上げ、とばかりに肩をすくめる。
元君とあたしが初めてまともに話をするきっかけが、『人食い魔女の死』だった。あたしは幼稚園の絵本を一つ一つタイトルを確認していて、そこに元君がやってきた。探している本があるなら手伝ってやろう、と現在とあまり変わりない横柄な態度で言った。どうせ彼も知らないだろうな、役に立たないだろうな、と思いながらタイトルを告げた。すると、彼はちょっと驚いた様子で答えた。
「あんなくだんねー話探してんの? かわいそうなやつ」
たぶん、悪意はなかったのだろう。屈託のない声だった。でも、そのあと先生が割り込んでくるほどの大喧嘩になった。あたしが彼につかみかかったのが原因だった。
元君はあたしと同じく、『人食い魔女の死』を知っている。保健室で静江寧と出会ったときのことだって語った。しかし、彼が物語に向ける態度はあたしとは対極だ。
「生まれる前から知っている? 聖者の奇跡? 魔女との邂逅? 知ったことか。全部気のせいだ、単なる偶然だ。だから変なおとぎ話なんかに囚われるんじゃねーよ」
今日も態度は変わらない。彼にとって『人食い魔女の死』は単なるおとぎ話に過ぎない。
元君は少し身をかがめると、あたしの肩に手を置いた。まるで押さえつけなければ、風船のように舞い上がっていってしまうことを恐れているみたいに。あたしの命が地上を離れてしまわないように。
「お前が本当に欲しがってるものは、おとぎ話なんか関係のないところにある。だから、探せよ。化け物がいるおとぎ話の中じゃなくて、現実の中で探すんだ」
あたしはその手を忌々しく見下ろす。重たくて、邪魔な手。払いのけられるなら払いのけたい、でも指が食い込むほど強く抑える手はそうたやすく振り払えない。
何故、元君があたしに安堂杏里が『人食い魔女の死』を知っている、と伝えたのか今になって分かった。物語を通じて、あたしと彼が出会うことを期待したのだ。二人で共に物語に溺れていくのではなく、あくまで興味を抱くきっかけとして提供したに過ぎない……現実におけるあたしと安堂杏里の幸せを願って、彼自身と恵美鈴のような関係に至れば、と望んで。
これだから、元君のことは好きになれない。自分の幸せを他人に押し付けようとする、他人にもそれが当てはまると信じて疑わない。でも、あたしは知っているのだ。偉そうな口を利いているけど、彼には全然資格がないことを。
「現実なんて信用ならない」
あたしは苛立たしさを押し隠してつぶやいた。
「だって、裏切るよ?」
しかし、薄く微笑むことまで隠そうとしなかった。恵美鈴が元君を裏切ったように、と続けたのは心の中だけなのだけれども、小さな意趣返しを果たした気分だった。
元君は、一瞬黙った。言い終わるか言い終わらないか、という頃に食らいつくように口をはさむのに、今回は奇妙な間があった。
「それは大した問題じゃない」
彼が発した言葉は一言だけ。肩にかかった圧力が失せ、彼の手が離れていく。そのまま身を翻して、ポケットに手を突っ込んで歩いていく。引き留めようとは思わない、あたしは遠ざかる背を眺めている。
あたしは小学五年の時には身長が伸びるのが止まってしまって、反対に元君はそのぐらいから急激に伸び始めた。昔は身長なんてほとんど変わらなかったのに、いつの間にやら話をするとき、彼を見上げるようになっていた。学校の中でよくすれ違うし、ときどき会って話もしているのに、急に背が高くなったような気がするときが何度かあった。それにしたってあんなに背が高かったかな、と思う。もしかすると、あたしが今まで気付いていなかっただけかもしれない。
教室に滑り込むと同時にチャイムが鳴る。クラスメイトはあたしに構う暇なく、各自慌てて自席に戻っていく。ひとまず、潤んだ目のことを追求されないで済んだ。この授業の間に治ってくれればいいが。不安に思いつつ、机の中にしまっていた教科書に手を伸ばす。すると、教科書の前に指先にこつりと硬い感触がある。感触からしてプラスチックの小さな容器と思われるが、そんなものを入れた覚えはない。誰かの悪戯? 周囲から浮いてしまわないように先に教科書とノートを机の上に置いてから、注意深く容器を引き寄せる。ちらと視線を走らせると、容器の正体が分かった。よく売っている目薬の容器だった。
目薬? なんで? そもそも、誰が? 予想外の品物に困惑していると、容器の裏側に小さく折りたたんだノートの切れ端がセロハンテープで貼り付けてあった。剥がして広げてみると、 几帳面な字で短い文章が綴られている。
『明日、僕は静江さんと会う約束をしました。放課後四時三十分にかえる公園で待ち合わせです。僕は行かないので、代わりに行ってください。静江さんは君があそこにいたことを知りません。ですから、本当のことを二人でちゃんと話し合ってください。そうすればきっと、分かり合えると思うので。……一応、僕の連絡先を書いておきます、何かあったらかけてください。追記 良かったら使ってください。一度も使っていないので、衛生面に関してはご安心を。目の充血に目薬は結構効果があります、何度もお世話になりました』
追記の後にメールアドレスと電話番号が書かれている。差出人の名前は書いていないけれど、文面から明らかだ。彼を見ると、ぼんやりとした表情でノートになにやら書き付けている。また、安堂杏里は懲りずに魔女の絵を描いているのだろうか? 何をしているにせよ、あたしの目に映るのは普段の冴えない安堂杏里の姿だ。でも、手紙の中の安堂杏里は違う。教室の隅で大人しく佇んでいる、ただの地味な男子生徒ではない。
理科室にあたしが潜んでいたことを……あたしが密かに涙を流していたことに、気づきながら知らないふりをしていた。気付かれていたことに、あたしは全然気づいていなかった。
なぜ、あの場であたしの存在を暴かなかったの? そうすれば、恵美鈴の一件よりも容易く、あたしの評価を落として、あたしの望みを妨害することが出来るのに。散々邪険に扱ってきたあたしに、相応しい報いを与えられる。なのに、復讐するチャンスを捨てるどころか、どうしてやり直すチャンスを?
分からない。あたしには、彼の心情が分からない。恨んでいるはずじゃないの? 君を同胞と呼んだ口で近づくなと言い放ち、心配して声を掛けてもまともに聞きやしないし、それでも恨まないし憎まないなんておかしい。
だって、人間は鏡なんだ。好意を向けられれば、好意を返す。悪意を向けられれば、悪意を返す。それも綺麗な鏡じゃない。好意を向けられても、悪意を返すことだってあるような穢れた鏡だ。ただ、一つだけありえない。悪意を向けられて、好意を返すこと。無から有は生まれないように、悪意から好意は生まれない。
分からない、分からない。あたしに安堂杏里の行動は理解できない。ひょっとしたら、やり直すチャンスに見せかけて、実は違うのかもしれない。餌を置いておびき寄せて、油断したところでたっぷりと復讐をするつもりなのかもしれない。……そうかもしれない、でも違うかもしれない。
今日は不思議なことばかり起こる。理解の及ばないことが起きるのは嫌いだ。自宅の庭に誰か知らない人の足跡をつけられる不快感に似ているから。
ありえないことを、つまり奇跡を起こせるのは魔女だけ、そのはず。ならば、彼の行動はどう説明すべきなのか? あたしには、分からない。
翌日の午後四時半。あたしはかえる公園を訪れた。時刻ちょうどに到着すると、彼女はちゃんといた。ベンチに座って、カバーを掛けた文庫本を広げている。
そういえば、静江さんはいつも本を持っていたな、と思い出す。朝、保健室に行ったときはよく文庫本を広げている。ただ、あたしの存在に気付くと同時に鞄にしまい始める。今までは本をしまってそれで終わりだったけれども、今日はあたしの存在に気付くなり、逃げ出すかもしれない。そのまま本に集中していて、と念じながら、足音を殺してそっと忍び寄る。
あたしの祈りが届いたのか、静江さんが振り返るそぶりはなかった。本の内容によっぽど手こずっているのだろうか? 腕を伸ばせば届く距離まで近づいて、立ち止まった。恐る恐る手を伸ばしその肩に手を置いた。すると、静江さんは本に集中していたなんて嘘みたいな勢いで振り返った。その表情は、満面の笑顔。
「ちょっと、遅いじゃない安堂く……」
ぴた、と笑顔が凍り付く。眼鏡の奥の瞳の輝きが薄れ、笑みをかたどった唇がほどける。桜が咲いて、散っていくよりも儚い。残るのは驚愕に見開かれた瞳とぽかんと開いた唇。
あたしもきっと同じ表情をしていただろう。かつて見たことがないほどまばゆい笑顔に心底驚いていた。別人に声を掛けてしまったか、と一瞬疑ったほど。でも、やはり間違いなかった。目の前にいるのは、あたしが会いにきた静江寧なのだ。
我に返ったのは、静江さんが立ち上がって逃げ出そうとしたからだ。あたしは慌てて彼女の肩を掴んだ。
「待って! 逃げないで!」
声を張り上げ、肩を掴む手に力を込める。
「なによ、あんた何しに来たの……」
あたしに肩を掴まれたまま、悄然とうなだれる。咎めようとして失敗した声だった。
何を言えばいいのか、迷った。この場で求められる最適な答えはいったいなんだろう? 怒っているの、とこわごわと尋ねること? 突然押しかけてきてごめんね、としおらしくお詫びをすること? それとも、さっき本なんて読んでなかったのでしょう、と指摘すること……? 数ある選択肢のうち、どれが正しいのか? 何が正しいかは、分からない。でも、一番言いたいことは決まっている。
「あたしを信じてほしくて、あなたと話をしに来た」
静江さんの問いかけに、真正面から答える。都合も打算も疑問も、全部置き去りにする。分からないことは分からない、だから言いたいことだけを告げる。
「誤解を解きたいの。あたしはあなたが思っているほど、器用じゃない。どうか、あたしを恐れないで」
余計な回り道も華美な言葉の装飾も、今のあたしには余裕がない。
「ねえ、教えて。あたしは何を話せば、信じてもらえる?」
テストの答えを教師に尋ねるぐらい、馬鹿なこと。恥も外聞もかなぐり捨ててでも、あたしはその答えを知りたい。しかし、静江さんはなかなか答えなかった。
「何で、あなたは聖者に憧れるの?」
すっかり力を失ったあたしの手をするりとすり抜けて、ベンチに座りなおした。
「だって、化け物の腹の中に納まって、それで彼の人生はおしまいなのよ。その後なんて、ないの。冷たい土の下で、墓の中にいる間に何が起こったところで彼には全く関係ないの」
静江さんは軽く頭を振って、ようやくあたしを見上げた。
「生きてさえいれば、魔女に食われるよりもずっと幸福な未来が待っているのに。そうは思わないの?」
真摯で、まっすぐなまなざしがあたしを貫く。この瞳の前ではごまかしも、嘘も力を失う。
現実と向き合え、と何度も元君に言われてきた。その度、あたしは答えなかった。でも、彼女には同じ対応は出来ない。裏切ってはいけない、と思っている。本当のことを語らなければ、という想いが責め立てるように湧き上がってくる。
唇に微笑みが浮かぶ。これは作ったものじゃない、自然と湧き上がってきたものなのだ。
「ちょっとくだらない話をさせてもらっても、いいかな?」
静江さんの隣に腰を下ろす。
「話っていうのはね、昔話なんだ。そう、あれは……」
正面にあったものが、ふと目に留まる。桜の木だった。青々とした葉っぱを茂らせ、もう春の足音はずいぶん遠ざかった。……あたしは目を閉じる。記憶の中で桜の木は、まだ花びらが残っていた。葉桜の季節の時のことだった。
「一年前の、四月のこと」
離れた校舎にこだまする、密やかな囁き声。少し前、思い出しかけて中断したあの日の記憶が蘇る。あたしはその屋上での始まりから終わりまでを、初めて他人に語り出した。
『彼』とその友人たちが、人気のない校舎でささやきあう内容をあたしは知りたかった。よせばいいのに、足音を立てないように忍び寄った。
彼らが気付いてくれれば、よかったのに。そうすれば、彼らは即座に話をやめただろうし、あたしは彼らの会話を知らずに済んだ。しかし現実には、あたしは彼らの会話を残らず聞き届けてしまった。
「返事まだなんだって?」
友人の一人が『彼』を小突いた。『彼』はためらいがちに頷いた。
「そう、まだなんだ」
「これは脈ありなんじゃねえの?」
また別の友人がにやにやしながら言った。
「かもしれない」
「へー、すげえな。……相手はあの音草乙葉なんだよな?」
さらに別の友人が口笛を吹きならす。
「ああ、あの音草乙葉だよ」
『彼』ははにかむように、笑った。すると、『彼』を小突いた友人が再びこつんと小突いた。
「はー、やるねえ、色男。……何か秘訣でもあったのかよ?」
「秘訣?」
『彼』は首を傾げる。にやにや笑っている友人は、一層笑みを深めた。
「あっ、それ俺も聞きたい。なあ、教えろよ」
「秘訣……ねえ」
『彼』は困惑した様子でつぶやく。そこへ口笛が吹き鳴らされる。
「もったいぶるなって! こういう飛び切りの役立ち情報ぐらい共有しろ!」
「えー……」
不服そうに『彼』は顔をしかめる。周りの三人は渋る『彼』に向かって、肘をつつき、にやにやと笑いかけ、口笛ではやし立てる。「あるんだろ?」「教えろ!」「もったいぶるな!」……『彼』もとうとう重い口を開いた。
「分かった、分かった。言えばいいんだろ」
投げやりな口調とは裏腹に、唇に浮かべた微笑はどこか誇らしげだ。
わっ、と友人たちが歓声をあげる。ただし、長々とは続かない。ひとしきりほめたたえた後で、行儀のいい聴衆として三人とも口をつぐんだ。あたしも彼らに倣った。もともと気付かれないように身を潜めていたけれど、一層耳に神経を使い、『彼』の言葉を待った。
『彼』のためのステージが整った。こほん、と『彼』は咳払いをした。期待の眼差しを向ける三人の聴衆に向かって、『彼』は言った。
「なに、簡単だよ。秘訣なんて、一つだけさ。……それは本気だって、思い込ませることだ」
唇に浮かぶのは、やはり誇らしげな笑み。後ろめたいことなど、どこにあるだろうか? 世紀の大発明を誇る発明家のように、『彼』は屈託なく笑う。
「顔も性格も、クラスの地位もそんなに大事なことじゃない。好きだって言われたら、そしてそれを真に受けたら、言ってきた相手のことは嫌でも意識せざるを得ないからさ?」
三人の聴衆を『彼』は見渡す。なるほど、さすが……尊敬さえ込もった視線を浴びて、『彼』は格好をつけて胸を張る。
「音草乙葉も、案外ちょろいな」
この場に四人目の聴衆がいたことを、『彼』は死ぬまで知らないでいるだろう。
あたしはこの場をすぐに立ち去った。これ以上、話を聞きたいと思えなかったし、やらなければならないことがあった。立派な演説を聞かせてくれた男子生徒に対して、丁重なお礼を言う準備をしなければいけなかったから。……あたしを夢から引き戻してくれてありがとう、さようなら、と。
「一つ言っておくけど、誤解しないでね。あの勘違い野郎ごときに、あたしの人生を変えられたって話じゃないの。あたしにとって、あれは新しい考え方じゃなかった。ただ、再確認しただけ。現実なんてそんなものだ、ってつまんない事実を思い出しただけ」
ベンチに座って、一通り語り終えた。彼女は終始、黙ってあたしの話に耳を傾けていた。
「あたしは最初から知ってるの。現実なんてくそくらえだ、ってね。綺麗なものなんて一つもないの、もしそう見えるものがあったら、それは目の錯覚。誰かが騙しているの、誰かに騙されているの。石ころを宝石だと勘違いさせられているだけなの……」
小さくかぶりを振って、静江さんに真正面から向き合う。
「みんな、そうなんだ。誰もが冷たくて、嘘つきで、どこまでも利己的で……空っぽで、むなしいばかりなの」
あたしをまっすぐに見つめる瞳は、濁り一つない湖のように澄んでいた。覗き込めばその美しい水面は鏡の役割を果たすように、彼女の瞳に己の姿が映し出されているように思われた。あたしは思わず、目を背ける。
「この、あたしのように」
彼女の美しい瞳に映る己の醜い姿が、嫌で。
目を背けたところで、どこかに逃げられるわけじゃない。誰もが、何もかもが醜い。現実は醜い。まるであたしのように。綺麗な人なんていない。みんな、根っこは同じ。穢れている、腐っている。このあたしと同じように。
去年のあたしは大きな間違いを犯した。『彼』に夢を見てしまった。『彼』は綺麗な人だから信じよう、と。ありもしない夢を……現実に奇跡を望んだ。
あの日以来、あたしは誓ったのだ。もう馬鹿な夢を見るのはよそう、と。あたしじゃない誰かになら、きっと綺麗な人がいるのだ、なんてことはもう信じない。現実は汚い、醜い。綺麗なものはどこにもない。
そう、綺麗なものはフィクションの中にしかない。だから、あたしは聖者に憧れた。彼の死は魔女に深い悲しみを生み出した。あたしがもし死んだら、魔女は……静江さんはあたしの死を悲しんでくれるだろう。死んでしまうぐらい、悲しんでくれるだろう。あたしはそのことが、とてつもなく嬉しい。宝石のように美しい悲しみを向けられることは、この上ない幸せだ。
そう口に出そうとして、やめた。説明してもきっと分からないと言われる。あたしが死んだら、死ぬほど悲しんでくれるのが嬉しいのだ、なんて通じるわけがない。もっとありきたりな言葉で、身震いするほどくだらない言葉に置き換えなければ伝わらない。
頭の中で辞書のページを必死でめくっている。あれもちがう、これもちがう……むしろ、どれが正しい? 慌ただしくページをめくる。でも全然見つからない。辞書を引いているつもりで本当は数学の教科書を開いているのではないかと思うぐらい、見つからない。あたしは何も言えない。ただ、黙っている。誤解を解きたいのに、解くための鍵を取り落として立ちすくんでいる……実に無様。馬鹿、くず、間抜け。だから、嫌われる。蔑まれ、憎まれ、捨てられる。
予想を裏切り、期待を失望に変えてはいけない。何故なら、音草乙葉を演じきれないなら、あたしには音草乙葉を名乗る資格がなくなってしまう。沈黙の時間のうちに、あたしの胸から「音草乙葉」の見えない名札が滑り落ちていく。でも手を伸ばせない、金縛りにあったみたいに指先一つ動かせないまま――絶望と共に、かしゃんと音を立てて見えない名札が地面に落ちる音を聞いた。そう――静江寧が、ベンチから静かに立ち上がった。
その瞬間、前が見えなくなった。ついにあたしの眼が現実を映しつづけることに疲れ切ってしまったのだ、と思った。もうこれ以上、醜い現実を見ないで済むように閉ざしたのかもしれない。静江寧に、魔女に見捨てられるなんて現実はとても受け入れがたいから。
しかし、そう考えていた時間は短い。顔に、背中に人のぬくもりを感じて、制服に顔を埋めているせいで見えなくなっただけだと理解したから。
「うん、分かった。分かったよ」
静江さんの声が頭上から降ってくる。優しく降り注ぐ雨のように、その声は柔らかかった。
「もう何も喋らなくていいよ。分かったから。あんたが何を言いたいのか……何を望んでいたのか、全部分かったから」
あたしの背中を、とんとん、と手が叩く。赤ん坊をあやすみたいな手つきだった。それから埋めた頭に、静江さんのもう一方の手がふわりと置かれる。
「いつでもいい、どこでもいい。それにあんたが何をしたってかまわない。ずっと一緒にいてあげる。絶対、私はあんたを見捨てない」
温かい手のひらが、あたしの頭をゆっくりと撫でる。心地よいぬくもりに、ふいに瞼が重みを帯びる。
「ほんとうに?」
まどろみの世界にいるみたいに、意識にもやがかかっている。否定されることが怖かった、でもあたしは尋ねずにはいられなかった。
「わざわざ食べて胃袋の中に納めなくたって、それぐらい出来るからね。魔女も聖者もお呼びじゃないの」
初めて出会った日とその翌日も似たようなことを言っていた。でも、その時と違って声は優しい。
そっか、それもそうか、と妙に納得がいった。食べてもらわなくても、かみ砕いて胃袋に納めずともこうやって傍にいてくれることはそういえば出来るんだった。どうして気付かなかったんだろう、と素朴に疑問に思った。なぜ今まで分からなかったのか、なんて溶けて消えてしまった雪の形のようにもう思い出せなかった。
ぼんやりとした頭で考えていた。どうしてひどく言葉足らずなあたしの言葉を理解できたのだろう? 理解できたところで、何故あたしの望みを叶えようという気になったのだろう? それは彼女が魔女で、あたしが聖者だから? それとも……。
「ねえ、これは……ひょっとして、卵焼き一切れの恩なの?」
あたしが思いつく他の回答はこれだけだった。すると、ぴたりと頭をなでていた手が止まる。ずいぶん動揺しているみたいだ。まさか、本当……? 訝しがると、ちょうどその時彼女は唐突にげらげらと笑い出した。
「うん、そう。そうなのよ。これ、卵焼き一切れの恩なのよ……私ってなんて律儀なの……」
言っている声が笑っているので、絶対に違う。真面目に答える気がないのは明らかだ。人がまじめに聞いているのに、何たる仕打ち。あたしはふてくされて、唇を尖らせる。
「寧ちゃんの意地悪……」
彼女の――寧ちゃんの胸に顔を埋めてぼやく。すると、止まっていた手が再びあたしの頭をなで始めた。
「乙葉にはちょっと難しかったわね」
したり顔で言っているところが容易に想像できる。しかし、馬鹿にされた、とは思わなかった。あたしは顔を上げるつもりはなかった。乙葉、と呼ばれた声の親し気な響きをじっくりと噛みしめていたから。
結構な時間、あたしは寧ちゃんの胸に顔を埋めていた。髪をなでる優しい手つきに身をゆだねている間、ほとんど会話らしい会話はなかった。他に公園に人影はなく、わずかな物音さえ派手に響くほど公園は静まり返っていた。その静けさがなければ、恐らく気付かなかっただろう。くしゅん、とくしゃみをする声が聞こえてきて、あたしも寧ちゃんもそろって音がした方向を振り返った。くしゃみの主とあたしたち二人の視線がかちりと合う。遊具の影に隠れていた彼は頬を引きつらせて、いかにも気まずそうに笑いかけてきた。
「や、やあ……偶然……だね……」
右手を上げて、ぎこちない挨拶をしてきたのは安堂杏里だった。まさか誰が彼の言葉を信じるだろう? どう考えても、偶然ではない。でも、あたしは優雅に右手をひらりと振り返す。
「やあ、安堂君。とってもすごい偶然だね? いやあ、運命すら感じちゃうな」
ターゲットロックオン、にっこり微笑みつつ、つかつかと距離を詰めていく。ひっ、と情けない悲鳴を上げ、へっぴり腰で逃げ出そうとする安堂杏里だったが、腕を伸ばして学生服の裾をがっちり掴む。
「君、来ないって言ってなかったっけ?」
変装を脱ぎ捨てる怪盗よろしく、張り付けた笑みを剥がして捨てる。安堂君はばつの悪そうな様子でそろりと目を背ける。
「あー……いや……その……どうなったかな……って心配に、なりまして……うん」
歯切れの悪い自己弁護の言葉に用事はない。あたしは再度、ぐいと学生服を引っ張る。
「全部見た? 聞いた?」
去年の春のこと、それから寧ちゃんに抱かれて撫でられていたこと。その他、音草乙葉にあるまじき様々な言動および行動のこと。それらを全て許可も取らずにのぞき見していたのか、とあたしは問いかけている。
「あっ……ハイ……全部……」
安堂君はこわごわと、おっかなびっくり頷いた。……何が、あっハイだ、背景と同化しやがっておかげで分からなかったじゃないかこのモブ男……! 彼の間抜けな表情に、やっぱり音草乙葉にあるまじき罵倒が喉まで込み上げてきて、理性を総動員して飲み下す。そうだ、そうだ音草乙葉の名札を捨てていいのは、静江寧の前だけ。静まれ、怒りおよび羞恥心……必死に自分を宥める。音草乙葉の名札を付け直そうとしている。そんなことは全然気づいてないのだろう、安堂君はへらへらと軟弱に笑う。
「全然、いいと思うよ。恥ずかしがるほどのことじゃない。ああ、音草さんにもこういう面があったんだなってむしろ親しみが……」
「親しみなんか、いらないから!」
あたしが叫んだ声が、公園にこだまする。声は止まらない。ブレーキのない車に乗ってしまったみたいに、とどめることが出来ない。
「君に何が分かるの? あたしはお気楽な君とは違うの! 音草乙葉らしく、完璧に振舞わなきゃいけないの!」
安堂杏里の眼がすぅっと丸みを帯びる。面食らった様子の眼差しが、あたしを真正面からとらえる。
はっ、としてすぐに口を抑える。でも無駄だった。むきになって叫んだ声はもう口の中に戻せない。……醜態の上に醜態を重ねている。無様な、なんと無様な! なんでこんなやつにみっともなく声を荒らげなければならない?
あたしは石像のように固まった。それを安堂君はじろじろ見ている。彼の強ばった表情が、ふいにねじを緩めたみたいに柔らかくなった。
「でも、僕は今の君の方がいいと思うんだけどな」
元君のようにふてぶてしく笑うわけじゃない、寧ちゃんみたいに少し茶目っ気を混ぜて笑うわけじゃない。にこ、と彼は微笑んだ。
教室での安堂杏里は寡黙で、誰とも打ち解けていない。だから何を考えているのか分からない仏頂面だとか、少し怯えた表情ぐらいしか知らない。陽だまりみたいにあたたかくて、素朴な笑顔。こんな笑い方をするのか。あたしは初めて彼の笑顔を見た。でも彼らしいな、と思った。
彼が言う、今の君のほうがいいと思う、とはこういうことなのだろうか? 予想も期待も外れているけれど、それでもあたしは音草乙葉を名乗っていいのだろうか? 寧ちゃんが格好の悪いあたしを優しく抱きしめてくれたように、まさか彼もまた無様なあたしに微笑みかけてくれるとでも?
「……うるさいよ」
気合いを入れて睨んでみたけど、全然通じなかった。なつかない子猫をほほえましく眺めているような目を向けられて、居心地が悪くなったのはあたしの方だった。一方的なにらめっこに負けて、ついにあたしは視線を逸らす。
「もう、これで君は魔女に食われたいとは思わないでしょ?」
彼の声は明るい。安堂杏里はやっぱり鈍いのか? あたしがあからさまに冷たくしているというのに、全く気付いていないように見える。尋ねてくる内容と言い、腹立たしい。
「だとしても君には何の関係もないと思うんだけど?」
保健室での宣言に対する当て擦りに違いない。嫌味には嫌味で精一杯返す。すると、彼は照れくさそうに微笑みながら頬を掻いた。
「えっと……ちょっとぐらいは、関係あると思いたいんだけどな」
これは嫌味と解釈するにはちょっと厳しい。恥じらうような表情が不可解だし、そもそもお前は何を言っているんだ、と言いたい。
「関係ってどんな?」
即座に聞き返す。ジト目で睨むと、さっきと違って安堂君は尻込みした様子を見せる。「えっと……」なんて言って、落ち着きなくそわそわしている。
「三年前……小五の夏の時のこと、君は覚えている?」
聞こえるか、聞こえないかの境にあるような声だった。目線も彼の方から逸らされた。合わせることさえはばかられるといった風に。……小五? 夏? いや、声があまりにも小さいから聞き間違いか? あたしは素直に首を傾げる。
「え? ごめん、もういっか……」
「『人食い魔女の死』を書いたのは、君なんでしょう?」
あたしの声を遮って、安堂杏里が言った。今度は聞き間違いようがない。一言一句、はっきりと聞こえた。彼は、尚も続ける。
「小五の夏、図書館の本に『人食い魔女の死』の原稿を挟んで、僕と何度も手紙のやりとりをした。その相手は君なんだろ?」
歯の根がかち合うほどに震えている。震えているのはそれだけじゃない。握りしめた拳も、力んだ肩もそうだ。おそらく、極度の緊張のせい。絶対に演技じゃない、これは事実だ。……あたしの知らない事実だ。
「それ、あたしじゃないよ」
あたしの明確な返事は、彼の全身の震えを止めた。
「えっ……じゃあ、誰が……?」
彼はかすれた声でつぶやく。一世一代の問いかけが空振りに終わって動揺している。あたしだって彼のつぶやきには何も答えられない。だって、何も知らないから。
あたしは『人食い魔女の死』を本で読んだことなんて、ない。ずっと探し続けて、それでも見つからなかった。
じゃあ、誰が? 安堂君の問いかけは、あたしだって知りたい。……まず、あたしと安堂君は作者ではない。元君も物語を知っているけれど、『人食い魔女の死』に対する関心は極めて薄く、物語を書き起こすほどの熱意はない。あと更に付け加えるなら小説を書くどころか、読むことさえも苦手で……というところまで思考が至って、はたと思う。……物語を知っている可能性が高く、その思い入れも強く、それから小説を書くぐらいだからそれなりに読んでいるような人物……思い当たるのは、ただ一人。
背後を振り返った。さっきまであたしと寧ちゃんが座っていたベンチは、今はもう誰も座っていなかった。待っていて、と頼んだわけじゃない。でも、あたしが安堂君と話をしていた時間なんてそう長くなかった。しびれを切らして帰るほど、話し込んでいたわけじゃない。じゃあ、何で姿を眩ませたのか? 答えは、考えるまでもない。逃げたのだ。己の正体を知られそうになって、逃げだしたのだ。
じゃあ、どうして逃げたのか? 安堂君と手紙のやり取りをした過去を暴かれそうになって、何故逃げなければならないのか? 彼はかつて手紙をやり取りした相手にとても会いたがっている。にもかかわらず、どうして拒絶しなければならないのか? 部外者のあたしには分からない事情があるのだろうか? だとしたら、お手上げなのだけれども……縋るように、立ちすくむ安堂君を振り返る。
その時、一つの記憶が頭の中に浮かび上がってきた。そう、それは彼女と初めて出会ったときのこと――あの、雷に撃ちぬかれたような衝撃を味わった瞬間のこと。
あたしはあの時、あたしじゃなかった。喋ったのはあたしじゃない……聖者だ。あたしの体を借りて、あたしが知らないことを語っていた。そのことを今になって、思い出した。それこそ、まるで神様があたしに天啓を与えたかのように。
――もう大丈夫。あたしが来たからには、あなたが苦しむ必要はない。
――あたしを食らって、全てを終わりにしましょう。
あたしは今まで、自分のことばかり考えていた。聖者として死ぬことばかりを考え、魔女の苦しみについて考えたことがなかった。そして、魔女の苦しみとはつまり……人間を食らう化け物であること。
そこまで分かれば、簡単なことだ。何故、寧ちゃんは逃げ出したのか? 答えは彼女が魔女だからだ。彼女が本当に、人を食らう化け物だからだ。……人間の心を持った化け物だからだ。
人間を食らう力が彼女にあるかどうかなんて、あたしはまともに考えたことがなかった。だって、彼女は普通の女の子だった。まさか、魔女としての餓えと戦っているなんて想像もしなかった。けれども、もう気付いてしまった。今すぐ行かなければならない、何かが始まってからでは遅い。
あたしは公園を飛び出した。どこかで今も苦しんでいるかもしれない、大切な友達の姿を探し求めて。