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人食い魔女の死  作者: なにがし
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第一章 魔女と聖者と名もなき誰か

――今から遠い昔のことです。この世界には、とてもおそろしい魔女がいました。人々がパンを食べるように、魔女は人を食べたのです。数え切れないほどたくさんの人たちが食べられてしまいました……。


 いつどこで、この人食い魔女を巡るおとぎ話を知ったのか分からない。おそらく、記憶も残っていないぐらい幼い頃の話だろうと思うのだけれども、母さんに聞いてもそんな話を聞かせた覚えはないと言う。なら、母さんの目の届かないところで、偶然目にした物語なのだろう。図書館の棚を眺めても、インターネットで調べても出てこなかった。ありふれた話のように思われるのに、ぴたりと当てはまる物語はなかった。それでも、どこかの誰かが書いた童話の一つ、として自分を納得させるしかなかった。母の口から語られるのを聞いた、小学五年生の夏までは。

「あの人も、昔から言っていたの。誰も聞かせた覚えのない、人食い魔女の物語をどこで知ったんだろう、って。あの人だけじゃなくて、あの子も……」

 電話越しに誰と話をしていたのかは知らない。でも、母は確かにそう言っていた。沈痛な声の響きは、母は電話の相手に嘘をついているという考えを否定した。

 その日を境に、僕にとって人食い魔女の物語は、どこで聞いたか覚えていない少し不気味なだけの童話ではなくなった。まさか、偶然で片づけるわけにはいかないだろう。周りの誰も知らない物語を、会ったこともない親子だけが覚えているなんて。

 血は繋がっているかもしれない、でも、あいつとは何の関係もない。今まで、自分のことをそう元気づけていた。間違っているのはみんなで、僕は何も間違っていない。ただ、時間が全てを解決してくれるのだと思っていた。世間が安堂保を――今世紀最大の殺人事件を起こした殺人犯を忘れさえすれば、僕とあいつの縁は消えてしまうのだと。

 母の一言により、それまでの僕を支えてきた希望は音を立てて崩れた。希代の殺人鬼の父と僕の間にある、不思議な縁を説明する手段が僕にはなかった。こうして、人食い魔女の物語は、顔も見たことのない父と僕とを繋ぐ、忌まわしい鎖になった。

 父との不思議な絆を知ってから三年がたった。人食い魔女の物語は、思いもしなかった人物と中学二年生になった僕を結びつけた。

 おとぎ話の真の結末を知る日が、その先に待っているとはそのとき知る由もなかった。




 中学校生活において、二度目の五月だった。クラス替えが終わって、新たなクラスメイトの顔ぶれに新鮮な気持ちを抱ける時期はもうとうに過ぎている。去年よりもずっと早く、生徒たちのクラス内の位置づけが定まりつつある。誰が教室の中心に立つことを許されているのか、誰が片隅で縮こまっていなければならないのか、暗黙のルールはほとんど出来上がっていた。……その結果が、もう目に見える形で出ている。

 朝の教室に足を踏み入れた途端、大勢の生徒たちのざわめきが耳に入った。彼らの視線は皆、黒板に向けられていた。僕もその視線を追いかける。

 黒板には一枚の紙がマグネットで張り付けられていた。その絵を取り囲むようにチョークで乱暴に書き殴った文字の群が踊る。きもいだとか死ねだとか……殺人鬼の息子の絵、だとか。

 僕が教室に入ってきたことに気づいて、窓際に集まっていた数人の生徒たちがこれ見よがしにくすくすと笑い出す。……犯人はあいつらだろうな。声に出さないで、心の中だけでつぶやく。まあ、そうなるだろうなと思っていたよ、と。

 僕……安藤杏里の父、安藤保は三十二名の児童の担任の教師であり、彼らの命を奪った。そして不可思議な死を遂げた。この奇妙な事件は、一人の女子生徒の悲鳴によって発覚した。悲鳴を聞きつけた他のクラスの教師たちが駆けつけた時には、事は全て終わっていた。一人の女子児童が胸をカッターナイフで刺され、血の池に沈むようにして死んでいた。対して、残りの児童は皆、傷一つなく安らかな死に顔をさらしていた。司法解剖に付されたが、毒やあるいはその他の人為的な原因は見つからなかった。心臓麻痺、それ以上のことは判明しなかった。

 科学的な捜査で明らかに出来なかった謎を明らかにできるのは、目撃者がいない以上、安堂保の証言だけだった。ところが、彼の証言は何一つとして得られなかった。何故なら、事件の状況を語る力がなかったからだ。何も覚えていなかったのだ。事件に関することはおろか、自分自身の職業や年齢、名前についても答えられなかった。何もかも、全てを犯人は忘れてしまったのだ。

 演技ではないか、と当然多くの捜査関係者は疑った。だが、時折この事件を取り扱う雑誌やテレビに登場する様々な証人たちの多くはこう言う。とても演技には見えなかった、と。僕は彼らの証言を疑わない。わずかな時間、面会を許された母でさえも全く同じ意見だったからだ。

 安藤保は記憶を取り戻すこともなく、事件から二日後拘置所で自ら命を絶った。僕が生まれる二月前に、僕の父親はこの世を去った。

 眠るように逝った三十一名の子供たちの死因、一名の女子児童を刺した動機、犯人の記憶が突然失われた原因。事件を彩る謎は今なお、謎であり続け、人々の好奇心を刺激し続けている。世間は未だに、安藤保の名を忘れてなどいない。

 僕と母は何度か引っ越しを繰り返して、事件と無縁の暮らしを求めてきた。でも、その度挫折した。どこにいっても噂はついて回った。幼稚園から始まり、小学校六年生まで僕はずっと同級生や周囲の大人たちの心ない仕打ちに晒され続けてきたし、まともな友人もほとんど存在しなかった。登校拒否に陥らなかったのは、レベルの低い連中に屈したくないという意地と女手一つで僕を育てている母に迷惑と心配をかけたくないという想いがあったからだ。

 去年一年間は奇跡的な幸運に見舞われ、平穏な学校生活を送ることが出来た。が、まさか二年も幸運は続かない。中学二年生になった僕に、再び嫌がらせの嵐が吹き荒れるのはほとんど予想されていたことだった。

 しくじったな、と黒板に張り付けられた絵を見ながら思う。確かに、あれは僕の絵だった。この手で描いた記憶が確かにある。昨日の国語の授業で退屈しのぎに描いた落書きだ。

 異形の女の絵だった。顎よりも長い二本の牙が裂けた唇から飛び出し、刃物のような爪をひらめかせ、長い髪を振り乱している。白目のない瞳は敵意に満ちた視線を紙越しに、僕らへ投げかけている。ライトなゲームやアニメに出てくるデフォルメ化された魔物ではない。おどろおろどしさ、リアルさを最優先させた不気味な魔物の絵。殺人鬼の息子の絵、と気味悪がられても仕方ない。

 付け入る口実を与えないうちに持って帰って処分しておくべきだったのに、面倒がってノートを机に入れっぱなしにしたのがまずかった。去年一年間で僕も大分たるんじゃったな、と思う。以前なら、持ち物を置き去りにして帰るなんて絶対にやらなかったのに。やってしまったことを今更悔いても仕方ない。こういうものはさっさと片づけるに限る。僕は通学鞄を持ったまま、教壇に上がる。

 教室の生徒たちの無数の視線を背中に感じる。振り返らずとも、彼らの大部分が檻に閉じこめられた獣を哀れむような目で僕を見ているのだろう、と想像できる。同情しながらも、重い腰をあげようとしない大部分の生徒たち……別段、彼らを恨むつもりはない。昔はひどく恨んでいたけれど、今はそう思わない。だって僕のような訳ありの日陰者に手を貸せば、とばっちりを食うのは目に見えている。これはとても勇気のいることだから、誰にだって真似できることじゃない。

 マグネットで貼ってある大学ノートの切れ端に手を伸ばし、引き下ろす。折り畳んで鞄に放り込んで、それからいくつか並んでいる黒板消しを一つだけ手に取る。

 去年はこういうのを手伝ってくれる人がいたなあ、そんなことをしみじみと思った。やはりあれは類まれな幸運に過ぎなかったのだ。……そう思った瞬間だった。

「あたしも手伝うよ」

 それほど大きな声ではなかった。しかし、ざわめきの中にあっても、鈴の音に似た澄んだ声はよく通った。

 見えない手で引かれたように、声の主の少女に目が吸い寄せられた。それは僕だけではない。教室中の数多くの視線は、全て残らず彼女へと注がれていた。

 一人の少女が教壇に上がっていた。透き通った美しい声に似つかわしい容姿の少女だった。女子生徒の中であっても身長は小柄な方で、体格も容易く手折れそうなほど華奢だった。でも、長い睫毛に縁どられた大きな瞳を輝かせ、きめ細やかな薔薇色の頬に浮かべた微笑みには、有無を言わせない不思議な迫力があった。

「ねえ、みんなも手伝おうよ?」

 凡人ならば、視線の多さに緊張するところだろうけれども、彼女にそんな様子はない。むしろ市民の前に姿を現した女王のように悠然と受け止め、逆に一人一人を見返していく有様。彼女と目が合った生徒は、決まって慌てて目をそらす。次々とクラスメイトが目を背け、そのうちの何名かは席を立って教壇に上がった。黒板消しを手に取り、主人の命令を受けた召使いのように黙々と落書きを消し始めた。

 僕は黒板消しを片手に持ったまま、呆然と教室を見回した。先生が一喝したところで、こんな鮮やかな効果を生み出すことは出来ないだろう。まるで魔法を見せつけられたような気分だった。

 ぼんやりと立ちすくんでいると、鈴がころころと鳴るように笑う声が聞こえてきた。

「大変だったね。こんなひどいことをする人がいるなんて……いったい、だれだろうね?」

 微笑一つでクラスを動かした少女が僕に語りかけていた。少し離れていてさえもその輝くような美貌に圧倒されるのに、間近に立たれると呼吸さえまともに出来なくなる。話しかけてくれた、ということは分かった。でも、その声に答えられない。彼女の方も待つつもりはさらさらないのだろう。返事を待たずに小さな背を翻して、颯爽と歩き出す。

 遠ざかる小さな背に、密やかにそっと視線をやった。豊かな亜麻色の髪を揺らしながら、クラスの友人たちの輪の中へ入っていく後姿を名残惜しく追いかけている。

 教室の隅で、彼女の言うひどいことをした奴らが気まずそうに顔を見合わせている。それでやっと返事も待たずに去った理由を悟った。僕をねぎらうように見せて、暗に奴らに釘を刺している。これ以上手出しするな、という恫喝を華麗に装飾してみせる。……こんな芸当、ごくありふれた中学二年生に真似できるわけがない。

 彼女こそが教室の中心に立つ人物だと、誰であれ認めただろう。音草乙葉、それが僕のクラスに君臨した小さな女王様の名前だった。


 教室で僕の絵が張り出された一件以来、僕に対する嫌がらせは一度も起きなかった。僕に手を出せば、音草乙葉を敵に回すと生徒たちが皆、悟ったからだ。

 中学校生活二年目は嵐のような日々が訪れることを覚悟していたけれど、どうやらこの一年は大丈夫そうだ。ちょっかいこそ出されないけど、同時に僕と仲良くなろうと近づいてくる生徒もいない。友達一人いない教室は少し寂しくはあるけれど、平穏な日々に僕はほっとしていた。

 みんなが距離を測りあっていた四月と同じように、授業を受けて帰るだけの淡泊な日常が再び始まった。ただ、以前と少し違うところを一つあげるならば……授業中や休み時間、ふとした瞬間に音草乙葉の姿を探し求めるようになったことだろうか。

 それだけで終わるだろう、と思っていた。僕は教室の日陰者で、彼女は教室の支配者。王様と乞食よりも深刻な身分差が僕と彼女の間にはある。彼女と口を利く機会が果たしてこの一年を通してあるかどうか、ゆっくり話をする機会なんて絶対に訪れやしないだろうと思っていた。

 でも、教室の一件からわずか一週間だった。再び、僕と彼女の間に言葉を交わす機会がやってきた。


 美術の授業で版画をやっていた。彫刻刀を片手に黙々と掘り進めていると、ちょうどその時、先生から声を掛けられた。

「安堂君は保健委員だったよね?」

 その一言で先生の用件が分かった。委員の仕事、保健室への付き添いだ。描きかけの下書きを置いて、立ち上がった。

「あ、はい。……えっと、誰ですか?」

 きょろきょろと周囲を見渡す。大方、彫刻刀で誰かが手を切ったのだろう。彫刻刀の進行方向に手を置くな、と先生は何度もしつこく言っていたのだけれども。よっぽどのうっかりものだな、と思いながらティッシュで手を押さえている生徒の姿を探す。そして、案の定すぐにそのドジな生徒の姿は見つかった。見つけたけれど、にわかに信じられなかった。嘘だろう、と立ち尽くす僕に、先生は頷きかけた。

「音草さん、指切っちゃったみたい。保健室、連れて行ってあげて?」


 美術室を出て、授業中の誰もいない廊下を歩いている。通り過ぎる教室から先生の声が聞こえる他には、二人分の足音が反響しているだけだ。

「あの……大丈夫?」

 信じられないことに、僕の隣には音草乙葉が指をティッシュで圧迫しながら歩いている。白いティッシュを染める目にも鮮やかな血の色が痛々しいが、当の本人は痛がる様子もなく、けろりとしている。

「平気平気。全然、大したことないから」

 浮かべた微笑は、クラスメイトを沈黙させたときと比べても全く損なわれていない。瞳の輝きに曇りはなく、口角を持ち上げる角度も完璧。……いや、その傷は結構重傷だと思うな、なんて僕のささやかな反論はあっけなく喉の奥で握りつぶされてしまう。

 黙りこくる僕を前に、音草さんの表情が少しだけ変わる。

「ごめんね、こんなことに付き合わせちゃって。安堂君の作業、邪魔しちゃってほんとうにごめんなさい」

 申し訳なさそうに、目尻と眉根を少し下げる。でも、唇の角度はそのまま。謝意はばっちり、でも卑屈さを一片たりとも含まない見事な表情は、小さな女王様の貫禄にふさわしい。

「あ、いや、その……ぜんぜん」

 対する僕はと言えば、不明瞭にぼそぼそとつぶやくのが精いっぱい。眩しいほどの微笑をそっとうかがうのが関の山。

 本来、音草さんを保健室に連れていく役目は僕にないのだ。怪我をした生徒と同性の保健委員が付き添う、というのがルールなのだ。女子の保健委員が欠席しているので、仕方なく男子の僕にお鉢が回ってきたのだった。もっとも、今日だけに限った話にはならないだろうけど。

 保健室の付き添いなんて面倒事があるせいで、保健委員は誰もが嫌がり、なかなか決まらなかった。散々もめた挙句、男子はクジ引きで僕に決まって、女子は「話し合い」のもと、クラスが変わってから一度も姿を見せていない生徒に決まった。事実上、保健委員は僕一人ということだ。クジになんらか仕込まれていたのではないか、と決まった直後に思った。

 今頃、美術室では男子みんなが保健委員に立候補しなかったことを悔いているだろうな、と思う。音草乙葉と二人きりで、美術室から保健室までの道のりを過ごせるのだ。こんな滅多とないチャンスを望まない男子生徒がいるだろうか? もしこの権利を売りに出せるとすれば、相当高い値をつけられるだろう。

 なにせ、音草乙葉といえば誰もが羨む完璧少女。一年生の一学期から、学力テストの一位の座を彼女だけのもの。バレーボールにバスケットに女子サッカーに……と様々なクラブから助っ人を頼まれ、部員の誰よりも勝利に貢献する。幼少時から習っているピアノでも将来を嘱望されているらしいし、料理も裁縫も家庭科の先生を唸らせるほどの腕前。そして、学校一の美少女と言えば誰もが彼女のことを連想する容姿。音草乙葉に、苦手分野なんて存在しない。どの分野においても、人並み外れて優れている。

 おまけに彼女はただ能力が優れているばかりの天才ではない。明るく可憐で清らかな彼女は、いるだけでその場の雰囲気がぱっと華やぎ、人の輪が絶えない。彼女が話し出せば皆が耳を傾け、彼女が振り返れば皆がその視線の先を追いかける。教室を統べる女王様、誰が呼び始めたか知らないけれど、これほど的確に音草乙葉を表現する呼び名はないだろう。

 短い会話が終わって、再び廊下に静けさが戻る。授業の声、規則正しい二人分の足音。それに、高まる心臓の鼓動。僕の右隣に音草乙葉が歩いていて、前へ進むたびに二つに結った亜麻色の髪が一つの生き物のように踊る。……触れたらきっと、柔らかいんだろうな。そんな考えが不意に頭をよぎって、そしていかに馬鹿げているのか悟って、小さく頭を振る。

 事実、美術室から保健室までのみちのりは長くない。このまままっすぐ歩けばたどり着く。一分も時間は残されていない。緊張感から解放される喜びと、ささやかな奇跡を惜しむ気持ちがまだら模様となって胸の中で混ざっていた。

「ねえ、一つ聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

 突然、音草さんが口を開いた。えっ、と聞き返す暇もなかった。隙のない女王様の微笑みを浮かべ、音草さんは既に次の言葉を発していた。

「あのとき、君は一体何を描いていたのかな?」

 微笑みの形に細められていた瞳が、開かれた。

 ひどく、違和感があった。表情の変化としてはとても小さいのに、受ける印象ががらりと変わった。夢のような可憐さは、凍てつくような冷たさへ変わったような。さながら華麗な仮面にひびが入って、その下の素肌が目に触れたような。

 おまけに、聞かれた内容が内容だった。彼女が言う、あのとき、がどのときを指しているのか分からないほど僕も記憶力は衰えていない。……黒板に貼られた、あの絵。

 授業中、中学二年生の男子が描くには、全く似つかわしくない。おどろおどろしく、薄気味悪いばかりの異形の女の絵。手慰みに描いただけさ、と誤魔化すべきだろうか? どれほど無理のある言い訳であっても、本当のことを言うよりは自分のちっぽけな名誉を守れるような気がした。殺人鬼の息子に似つかわしく、頭のおかしなことを話すよりは……と。僕は逡巡していた。言うか、言わずにいるか悩んでいた。

 音草乙葉は、やはり僕を待たなかった。……いや、待つ必要もなかったのだ。

「あれは、魔女でしょう?」

 見えない銃弾で撃たれたみたいに、どん、と悲鳴のような鼓動を心臓が刻んだ。三角帽子も箒も書かなかった、だというのに、なぜ見抜けたのだろう? あれが魔女だなんて、誰にも話したことがない。僕以外の誰にも、あれが魔女だと知りえないはずなのに。

 目の前の小さく可憐な少女を、本気で恐れた。目を驚きと恐怖に見開き、小さな女王様を見つめた。

 音草乙葉は、答えない。彼女が他人に問いただし、答えるよう強制できる権利はあっても、彼女が他人に問いかけられ、答えなければならない義務は存在しない。

 再び、彼女は背を向けた。ふわりと亜麻色の髪が舞い、窓から差し込む太陽の光を受けて輝いた。

「驚くほどのことじゃない。私も、”あの”話を知っている。ただ、それだけのことだよ」

 落ち着いた声が、静寂に包まれた廊下でははっきりと聞こえた。

 音草さんが首だけで、音もなく背後を振り返った。その冷えた視線と目がかちあって、ぞくりと背筋に寒気が走るのを感じた。彼女の口角は、今まで見たことがない角度に吊り上げられていた。

「あのおとぎ話……『人食い魔女の死』を」

 それはあの不思議なおとぎ話のタイトルだった。誰かに教えられたわけでもないけれど、知っているあの話……殺人鬼の父と僕を繋ぐ忌まわしい鎖。

 そして、今日この瞬間。『人食い魔女の死』は、思いもしなかった人物と僕を結びつけた。

「君も……知っているの?」

 問いかける声が、震えた。まさか、という想いでいっぱいだったが、音草さんは「知っているよ」と淡泊な声で答えた。

「物心ついたころには、あたしも『人食い魔女の死』を知っていたの。誰も教えていないこの不気味な物語を、どうしてだか分からないけど知っていた。……安堂君と同じようにね」

 音草乙葉は廊下の壁に身を預けて、話している。輝きを絶やさなかった瞳は物憂げに曇り空を見上げ、鈴が転がるような声は秋風のように乾いている。

「ほんとう、に?」

 僕には、信じられない。陰りを帯びた彼女の表情が何かの見間違いで、語られた言葉は何かの聞き間違いだとしか思えなかった。どちらもまるで似つかわしくない。教室に君臨する清楚な女王様のものではありえない。そう、音草乙葉にふさわしくない。何もかも、信じられなかった。

 くすくす、と甲高い声で彼女が笑う。まるでガラスを引っ掻いたような、耳障りな笑い声だった。

「君は、あたしのことを疑うの? 悲しいな。あたしは、君のことを信じているのに」

 挑むような、試すような視線が向けられる。視線にからめとられて、指先さえ動かせない。煽情的とも取れるその瞳は、ただ一人僕にだけ向けられている。

「あたしと同類なんだ、って」

 ささやき声が、廊下の冷たい床に落ちる。ぼう、とした僕の頭にその言葉はすぐに響かなかった。ただ、乾いた布にじわじわと水が染み入るように理解した。

 今の彼女は、教室の中心でスポットライトを浴びる人物ではない。教室の暗がりに紛れ込んで、己に巣くう闇を曝け出さないように抗う日陰者。……そう、僕の同類。

 声が、とっさに出なかった。何も感じなかったためじゃない。さまざまな感情が僕の中で奔流となって渦巻いていた。あの女王様がまさか、という驚き。僕は一人でなかった、という安堵。それから……同類、という言葉のあたたかさに、なつかしさ。そういったものが全て混ざり合って、どう表現すればいいのか分からなくなった。色を混ぜれば段々淀んでいくように、思ったことはなかなかまとまった形を取ろうとしなかった。

 呆然と立ち尽くす僕に対して、音草乙葉は何も言わない。瞳の温度は変わらない。黙って、挑むような試すような視線を僕に注ぎ続け――僕はようやく一番尋ねたいことを見つけだす。

「まさか、君があのときの――」

「ああ、ゆっくり話す前に保健室行こうか」

 突如何の前触れもなく、音草さんはぱっと背を翻した。

「さすがに痛くなってきたね」

 音草さんの指のティッシュに広がる赤い血の面積は、着実に広がっている。長話をしているうちにティッシュでは間に合わなくなるだろう。……そうだ、僕は保健委員として付き添ってきただけなのだ。すっかり忘れていた。

 音草さんの後を追うべく、ぎこちなく足を踏み出す。足音を響かせながら先を行く音草さんとは対照的に、僕は足音をひそめて静かに、そして一定の距離を保つ。獅子の背中を追いかけるみたいにこわごわと、けれども決してはぐれてしまわないように。

 彼女に聞かなければならないことがある。逸る気持ちを抑え、後を追う。


 音草さんに遅れて、僕は保健室に足を踏み入れた。周囲を見渡すが、先生の姿はない。

「先生、いないみたいだね」

「待たなくたっていいでしょ」

 音草さんはそっけない口調で言うと、消毒液や包帯が積んである机の方へ歩き出す。

「大した怪我じゃないもの。消毒してガーゼを貼るぐらい簡単だよ」

「え、でも、先生いないのに……」

 勝手に保健室の備品を使うのは気が引けた。しかし僕が躊躇したからといって、音草さんもそれに倣ってくれるわけではない。

「いつ戻ってくるか分からないでしょ? その間に悪化するほうがよくない、と思わない?」

 反論を許さない、歯切れのいい口調だった。質問の形をとっているが、ほんとうに体裁だけでしかない。

「う、うん……」

 さっきまで廊下で傷口を気にせずぺらぺら喋ってたじゃん……と言えるほどの度胸はなかった。あったところで、やすやすと論破されて終わるのが目に見えている。

 ほんとうにいいのかなあ、と未だに渋っている。対する音草さんはよどみない足取りで机の前にたどり着き、迷いのない手つきで机の上の薬棚に手を伸ばす。薬棚の取っ手に手が触れた、まさにその瞬間だった。

「夕川先生なら、すぐ戻ってくるわよ。自販機にコーヒー買いに行っただけだから」

 音草さんの声ではもちろん、ない。知らない女の子の声だった。

 声が聞こえてきたのは、二台並んだベッドの片方からだった。一方は仕切りのカーテンが開けられ誰もいないことが明らかだが、もう一方は指一本程度の隙間を残して、仕切りのカーテンが閉じられている。

「あと生徒手帳にも書いてあることだけど、緊急時以外に先生の許可なく、保健室の備品に手を触れちゃダメ。その様子じゃ緊急時にはとても見えないぐらい元気だから、少しぐらい待ったらどう?」

 すらすらと声の主は語る。少しあきれたような様子さえ漂わせている声の主は、教室の女王様、と呼ばれてる少女を相手にしていることに多分気付いていない。……なんとよくもまあ、恐ろしいことを、と僕は思った。ちら、と音草さんの表情を盗み見る。すると、案の定。

「あら、ごめんなさい。あたし、生徒手帳をじっくり読んだことがなくて気付かなかった」

 白いカーテンが下りたベッドに向ける笑顔は、完璧な謝罪の笑み。でも己の非を認めているわけじゃないし、当然膝を屈したわけでもない。ただしポーズとしては完璧なので、これ以上この件で彼女をつついたところでむなしいばかりだろう。

 音草さんが颯爽と歩き出す。大胆な足取りで歩みを進めていくのは、白いカーテンが下りたベッドの方向。

「ところで、あなたはどうしたの? 気分でも悪いの? それとも熱? 授業中にベッドで休んでいるぐらいだから相当だよね?」

 湛えた笑顔がほんの少しだけ変わる。小首をかしげ、声にはいくらかやさしさを加える。あなたのことを真摯に心配している、そういう意味合いを付け加える。

 ただ、それで加えたものが全部というわけじゃない。音草さんの足がベッドの前の白いカーテンの前で止まる。彫刻刀で切っていないほうの手で、カーテンを握る。

 女王様の微笑に付け加えられた最後の一つ――それは隠す気のない、敵意。

「元気そうなのは、きっと声だけなんだよね?」

 形だけの微笑みと共に、音草さんはカーテンを引いた。ベッドを守っていたカーテンの覆いは開かれ、声の主の姿を露にする。

 制服姿の少女が、ベッドの上で上半身を起こしていた。黒髪は顎のあたりできれいに切りそろえられ、分けた前髪からは意志の強そうなきりりとした眉がのぞく。ふちの太い眼鏡の下から、鋭い眼差しがカーテンの覆いを開けた少女に向けられている。

 肌の色は健康そのもので、貧血で青ざめているわけでも、熱を出して頬を上気させているわけでもない。見るからに生真面目そうで、学級委員長でもやっていそうな女子生徒だったが、音草さんが暗に言っている通り、仮病を使ってベッドに寝ていたようにしか見えない。音草さんに向けられた瞳がやや不機嫌そうに見えるのも、おそらく図星だからこそだろう。

 カーテンの向こうにいた人物について、一通り印象を整理した。真面目そうに見えて、案外真面目じゃなさそうな人、それが彼女に対する第一印象だった。ありきたりな、とまでは言わないけれど、身なりの派手な壱原元のように、あるいは教室の女王様と呼ばれる音草乙葉のように、そこまで強烈な印象を受けなかった。ほんの数秒後――彼女の視線が音草さんから横滑りして、僕の視線とかち合うまでは。

 頭からつま先へ、衝撃が体を一瞬で貫いた。雷に撃たれたような、とはまさにこの時を示すのだろう。目に映る世界が一度真っ白に染まった。何も見えなくなって、それから閃光に目が慣れるように、徐々に目に映る景色が色彩を帯び、形を取り戻していく。完全に景色がクリアになったところで、僕は気付く。ああ、もう引き返せないのだ、と。

 目に映る景色の色彩も、描き出される輪郭も変わっていない。そのはずだ。でも、変わっていないのは見た目だけで、他のすべては変わってしまった。僕の眼が食い入るように見つめるのは、そう珍しくない生真面目そうな女子生徒……ではない。彼女の正体は……その思考が至るべき結論を口にしようとして、僕の唇から出てきたのは、声にならない吐息だけだった。口にすべき結論は、僕の中にはなかった。彼女がただの女子生徒ではないことは分かったけれど、他のことは何も分からなかった。

 彼女の正体を告げたのは、僕ではない。

「魔女……」

 夢の中のような声でつぶやいたのは、音草さんだった。

 彼女は握ったカーテンの生地を投げ捨てるように手放す。そうして空いた手をベッドの上に佇む少女に差し伸べた。

「会いたかった、やっと……やっと会えた」

 くぐもったか細い声は、感動に打ち震えていた。声ばかりではなく、少女に差し伸べた腕も体を支える足までも小刻みに震えていた。

 世界中の他の誰でもなく少女にだけ向けた瞳に、女王様の傲慢は影さえ見当たらない。

「もう大丈夫。あたしが来たからには、あなたが苦しむ必要はない」

 あるのはただひたすら優しく、慈しみに満ちた微笑み。血が付いた白い指が少女の頬を撫でた。

「あたしを食らって、全てを終わりにしましょう」

 まるで、聖者のようだった。『人食い魔女の死』に登場する、魔女を許し、そして魔女に食われた聖者のようだった。

 しん、と保健室が静まり返った。静寂が訪れるときには、きっとこんな音がするのだろう。時間はまるで止まったようだった。

 音草さんに抱き着かれた少女の心境は全く読めなかった。その表情には、熱のこもった告白に対する感動もなければ、おかしな言動の女の子に抱きつかれた困惑もない。眉一つ動かさず、どこを見ているかすら定かでない。無表情、それ以上に形容しようがない。

 時間が過ぎている、ということを認識させてくれたのは、少女の手だった。頬に添えられた手を手首を掴んで、無造作に引きはがす。そして眼鏡のふちに手をやって、まじまじと音草さんの白い指を見た。彫刻刀でつけた傷が生々しく、まだ赤い血をこぼしている。頬に赤い血をつけたまま、彼女は唇の端を吊り上げた。

「このあと、もし病院にかかるなら、皮膚科よりも精神科がおすすめ」

 言いながら、音草さんを振り払う。音草さんの束縛から逃れた少女は戸口を指し示した。

「とりあえず、そこのとろくさい保健の先生にでも見てもらったら? 頭はともかく、指の怪我ぐらいなら見てくれるんじゃない」

 振り返ると、戸口には缶コーヒーを二本抱えて突っ立っている夕川先生の姿があった。地味な色のブラウスにロングスカートの上から白衣を羽織っている。寝ぐせの付いた髪を無造作に束ね、いつも眠たそうな目をしている。三十代手前、という噂らしいが、かわいらしく年を取ったおばあちゃんのような印象の先生だった。

「あら、お客さん。今まで、相手してくれてたのねえ。ありがとう」

 少女の言葉に混ざった毒など聞こえなかった様子で、のんびりとした声で夕川先生が言う。急ぐつもりは特にないらしく、ゆったりと保健室に足を踏み入れる。杖を突いたうちの祖母よりも危なっかしい足取りを見ていると、缶コーヒーを落とさないか心配になってくる。……そうしているうちに、背後でしゃっ、と音がする。カーテンが閉め切られた音だった。

 よっこいしょ、と夕川先生が掛け声とともに缶コーヒーをテーブルに置いた。そして音草さんの背中に「ざっくりいっちゃったのねえ、見てあげるからおいで」と声を掛ける。

 音草さんは振り返らない。夕川先生の声が聞こえていないかのように、固く締め切られたカーテンをじっと見上げていた。


 しばらくの間、音草さんは少女が立てこもるベッドの前に立ち尽くしていたが、やがて先生の呼びかけに応じた。手当を受けると、音草さんは大人しく席を立った。美術の授業中に彫刻刀で手を切ったこと、手当に対するお礼だけしか、保健室を出るまでに彼女は話さなかった。ここまで不愛想な生徒は珍しいだろう、というぐらい音草さんは黙っていた。

 僕はその様子を緊張しながら、何度も込み上げてくる唾を飲み下しながら見ていた。ベッドに駆け寄って、再びカーテンを引き開けて、あの女の子にとびかかりはしないかと怖れていたが、そんなことは起きなかった。

 保健室を出る間際、夕川先生の声が聞こえてきた。僕たちではなくて、カーテンの間仕切りの方へ声を掛けているらしかった。

「はい、これ。頼まれてたコーヒーね」

 ぴたり、と僕の前を行く音草さんの足が一瞬止まった。

「……いらない? え、缶コーヒーはダメ、泥水の方がまし? 最低でもコンビニコーヒーにしろ?」

 困った様子の夕川先生の声が聞こえる。音草さんの足はまだ動かない。まだ待ち伏せを続けて、夕川先生の声を待っている。期待は裏切られず、はあ、と夕川先生が深々とため息をつく。

「静江さんには、まいったな……」

 そこまで聞き届けると、音草さんの手は保健室のドアを開けた。もう用はない、と言わんばかりに。


 廊下に出ても、音草さんは喋らないし、後ろを行く僕を振り返ることもない。ただただ、前へ前へと歩いている。わずかな時間さえも惜しんでいるかのように、美術室へ急いでいる。

 僕は小さく肩を縮めて、音草さんの後ろを歩いている。彼女が放つ無言の圧力に気圧されて、ついていくのが精いっぱいだった。でも、美術室までの道のりが残りわずかと悟った時、ようやく踏ん切りがついた。足を速めて、彼女の隣に並んだ。緊張を落ち着けるために、胸に一杯息を吸い込んで、口を開いた。

「ねえ、音草さん……」

「安堂君、今日のことは全部忘れてくれるね?」

 僕の声を遮って、抑揚のない声が響いた。

 先を急ぐ足が、急に止まる。音草さんが止まって、それから遅れて僕も止まった。後ろを振り返ると、音草さんが立っている。僕を見据える瞳は、霧が立ち込めたようにその内に秘めた想いを読ませない。

「君は教室の日陰者、あたしは教室の中心人物。……『人食い魔女の死』なんて知らない」

 耳に染み入る声は、まるで氷水のよう。その冷たさは耳から入って、脈打つ心臓にだって届いただろう。

「そんな……」

「うるさいな」

 音草さんはまたも、僕の言葉を遮った。先ほどよりも短いけれど、強い口調で。

 僕を見据える瞳に、一つだけ感情が浮かび上がる。そう、それは霧をも焼き払うような怒りの炎。

「余計なことを言いふらしたら、容赦はしない。あたしを敵に回したらどうなるか、骨身に染みるまで教えてあげるから」

 低められた声は、可憐な容姿から全く想像がつかないほどに迫力があった。首に刃物を押し当てられても、これほど息苦しくはならないだろう。

 僕を黙らせることに成功したことを確認して、怒りの炎が掻き消えた。後に残るのは、優雅な微笑み。

「さようなら」

 本物の王族や貴族といった高貴な人たちがやるように小さく手を振る。そして、颯爽と歩きだす。亜麻色の髪を優雅に揺らし、背筋を伸ばして、女王様の行進を始める。ついてこない家臣など、視界の隅にも入らない。立ち尽くす僕に目もくれずにその場を立ち去ってしまった。

 こうして、僕と音草乙葉の奇跡の時間は終わった。教室に帰った彼女はもう僕の姿なんて目にも入っていない様子だった。最初からあの、魔女をめぐる物語を共有した時間は存在しなかったのように、僕と彼女の関係は元通りになった。

 もちろん、忘れることなんて出来なかった。僕は教室の片隅から、教室の中央にいる彼女を見上げることが怖かった。今日は確かにそこにいる、でも明日には消えて見えなくなってしまうかもしれない、と連想してしまうから。

 聞きたいことは山のように、あった。……君は本気なの? だとしたら、なぜ? 誰からも敬意を払われて、できないことなど何一つなくて、望めばなんだって手に入るような君が、どうして? 何が一体、君を死に向かって駆り立てているのだろう?

 彼女が顔も知らない誰かなら、僕はきっと無関心でいられただろう。でも、違うのだ。ほんとうに短い時間だけれども、彼女は僕の同胞だった。秘密の物語を共有する人だった。それから、ほんのささやかなことだけれども、彼女にとってはきっとただの気まぐれだたのだろうけれど、僕の窮地を救ってくれた憧れの人だったのだ。そして、何よりも……保健室に行く前、聞きかけた問いに答えてほしかった。

 相手に拒絶されていても、そして自分自身で何の役にも立てないと理解していてもなお、彼女に近づきたいという欲求だけはまだ細く煙を上げて、くすぶっていた。

 なら、僕じゃない誰かなら……もっと勇気のある人ならば、いいのではないか? 僕一人で抱え込むのではなくて、他人の力を借りるべきなのではないか? そんな考えが湧いてきて、真っ先に彼の名前を思い出した。


 クラスが変わってから、昼休みをクラスの教室で過ごしたのはほんの二、三回のことだった。大多数の昼休みを教室の外、いつの間にか定位置となった中庭のベンチで過ごしている。いつもののように、ベンチの右端に腰かけて、揃えた膝の上で弁当の風呂敷を広げ、ペットボトルは足元に置く。ちょっと窮屈だが、仕方がない。何せ、ベンチの真ん中には、僕が縮こまってスペースを節約している分、足を投げ出すように広げて幅をとる人物がいるので。

「よし、まかせろ。次に奴らがお前に手出ししてきたら、俺が責任もって処理する。……そうだな、クソまみれの肥溜めに蹴りこんでおいてやろう。クソ野郎によくお似合いの懐かしい故郷にお帰り、ってな」

 整った顔立ちを獰猛に歪め、唇を薄く広げて歯をむくさまときたら、獲物に食いつく寸前の狼のよう。染めたことが明らかな、鮮やかな赤みを帯びた茶髪が余計にその印象を強める。壱原元、という彼の名を知らない生徒はそう多くない。

「ええと。みんな、困ると思うからやめたげて?」

 おそらく、これは冗談ではないな。苦笑交じりに言うと案の定、彼は筋の通った鼻を盛大に鳴らした。

「何言ってやがる、里帰りは誰にとっても楽しいだろ? 奴らにとっちゃ幼馴染の蛆虫君やら蠅君やら、生き別れの妹のアブラムシちゃんと感動の再会だ。泣いて喜ぶに決まってる」

 傲慢不遜に笑う姿がしっくりくる同級生なんて彼ぐらいのもの。僕は軽くため息をついた。

「泣いて嫌がる、の間違いだからね」

 壱原君は去年、僕に平穏な学校生活を送らせてくれた恩人。それから僕にとってたった一人の友人だった。

 壱原君は去年一年間、クラスが同じだった。クラスで一番、地味で弱いやつはまちがいなく僕だっただろうし、逆に一番派手で怖いやつはまちがいなく壱原君だっただろう。彼ときたら髪は派手に染めるし、耳にはいくつもピアスが埋まっている。見るからに怖いし、実際怖い。言葉遣いは荒々しいし、手が出るのもかなり早い。そのせいで警察に何度もお世話になったというのがもっぱらの噂。うちの学校では、札付きの不良、とは彼の代名詞として浸透している。そういわれても仕方ない、と僕も思う。

 でも、じゃあ壱原君が悪いやつかと質問を変えられたら、絶対違うと言い切る。確かに怖いやつなのは間違いない、だけど悪いやつじゃない。むしろ並の人間よりよっぽどいい奴だ。

 同じ小学校から上がってきた連中が以前からの癖で僕に手を出すのを、他の生徒と違って壱原君は黙って見ていなかった。やめろ、と彼が歯を剥いて一喝しただけでほとんどの奴らは手出ししなくなった。それでも止められない一握りの奴らに対しては、容赦なかった。肥溜めに蹴りこむよりも派手なことをして、出席停止の処分まで食らったけれど、被害者の生徒や親たちに一言も謝らなかった。「お前らが悪い、反省すべきはお前らだ」の一点張り。そのせいで余計に騒動は長く続いた。

 曲がったことが大嫌いな友達がいたおかげで、一年目の中学生活は穏やかで、ささやかな平和を楽しむことができた。多分、人生の中で一番平和な年だったと言っても過言ではないだろう。まさかもう一年続けて、そんな日々が訪れるとは思いもしなかった。

「まあ、乙葉の奴が釘を刺したのなら、俺の出番はなさそうだけどな」

 そう言って、壱原君はベンチにふんぞり返って腕を組む。

「前に言っていたけど、壱原君、確か幼稚園からの幼馴染なんだよね?」

 あの優等生・音草乙葉と札付きの不良・壱原元の組み合わせはなかなか想像しづらい。何せ、二人が話をするところはおろか、廊下ですれ違ったときでさえ見知らぬ他人のように目も合わせない。

「そんな大層なもんじゃねーけど、その頃からの知り合いには違いない。……なに、乙葉に興味が出たの?」

 にや、と唇を片方だけ吊り上げて、壱原君は僕を流し目で見た。明るすぎる髪の色といい、じゃらじゃら言わせてるアクセサリーといい、とにかく派手なのだけれども、その派手さに埋もれないぐらい目鼻立ちがはっきりしていて人目を惹く。憎たらしいほど気障なポーズだけれども、さまになっているために嫌味を言いたくても、このイケメンが、以外に何も浮かんでこない。

「べつに」

 目は口ほどに、というかそれ以上に物を言っている。……ふーん、フィクションの登場人物以外の人名を口にしない杏里が実在の人物の名を、しかもピンチを颯爽と救ってくれた女の子の名前を、ねえ? 粘着質な壱原君の視線を避けつつ、そっぽを向く。

「ふーん。俺にはそう、見えなかったけどなあ」

 九十九パーセント、答えを確信している白々しい声が聞こえてきた。

「せいぜい、完璧な女王様ぶりだなって思っただけだよ。あれで髪が縦ロールで、ですわ口調じゃないのがむしろ不思議」

 むきになって、平静さをことさら装って答える。

 うるせーやい、ちょっと黙ってろ、が本音なのだけれども口にはしないで、腹の中でこぼす。ちょっと機嫌を損ねれば、言葉の代わりに拳を返しかねない人なのだ。対等、と言っても口の利き方には普段から気を付けている。

 しつこい視線が逸れるまで口は食事以外には使わないぞ、と心に決めた。足元に置いたペットボトルを手に取った。その間に軽快な足音が近づいてきて、止まった。衣擦れの音で、ベンチの反対側で誰かが腰を下ろしたことに気付いた。壱原君も、僕も振り返ろうとしない。だって、新しく加わった人物が誰か、顔を見なくても分かっている。今日は遅くなる、とあらかじめ聞いていたのだ。

「なあに、この状況?」

 見てはいないけれど、こくりと首を傾げる彼女の姿が脳裏に浮かぶ。彼女は恵美鈴、背中まで伸びた艶やかな黒髪に、右目の泣きぼくろが特徴。やや舌足らずなおっとりとした声にたれ目がちの優しい瞳、なにより同級生の女子たちに比べて発育のよろしい体つき。大人の色香、という概念を同級生たちに示して見せているのは彼女ただ一人だろう。妖精めいた音草乙葉の可憐さとは全く逆の方向だけれども、恵さんもまた類まれな魅力を放っていることには違いない。

 そんな彼女のおっとりとした声は困惑モード。見ただけで分かる、僕と壱原君の微妙な空気。解説する気はさらさらない僕の代わりに、壱原君が嬉々として口を開いた。

「聞いてくれ、美鈴。杏里があの音草乙葉に惚れ込んだってさ」

「えっ、ちょっ」

 勝手なことをぬかすな! 慌てて壱原君の声を遮ろうとしたが、遅かった。困惑に満ちていた恵さんの表情がぱっと華やいだ。

「よし、じゃあダブルデートしよ、ダブルデート! わたしといーくんと、杏里君と音草さん。いいね、楽しみ!」

 恵さんは白い頬を緩めて、夢見るようにつぶやいていた。宙を見上げるように差し上げられた視線の先には、きっと彼女の妄想が描かれた絵のように浮かんでいることだろう。隣の壱原君もうんうん、と上機嫌に頷いている。

「おっしゃ、そうと決まればさっさと行動しろ。善は急げだ。さくっと乙葉を口説き落としてこい」

「いやいやだから、そうじゃな」

「任せろ、経験ゼロの寂しい杏里に経験豊富な俺様が手取り足取り教えてやるから」

 ずばりと遮られる。……いや、だから勝手に盛り上がるなってば。そう言いたいのだけれども、壱原君は聞く耳を持ち合わせていない。

「いいぞ、彼女がいるっていうのは」

 自分の言葉に聞き入るように、しみじみと壱原君がつぶやく。彼の誇らしさと照れくささが同居した声に、傍らに立つ恵さんが顔をほころばせる。僕のような部外者には立ち入れない、二人だけの空気が流れ出す。

 そちらは幸せそうで何よりで、と嫌味も言いたくなる。まさかこんな雰囲気の中、本当に相談したいことを切り出すわけにはいかない。僕はひっそりとため息をついた。……やっぱり無理かな、と。


 壱原君に相談しよう、と思ったことは一度や二度じゃない。僕では彼女を止めることはできないけれど、彼なら幼馴染というし、何よりも曲がったことが嫌いな性格だから、手荒かもしれないけれど彼ならやってくれるに違いない。何度か話そうとして、口まで出かかった。でも、言えなかった。話そうとした瞬間にどう話せばいいか、何のプランもなかったことに気付いたから。

 音草さんの危機を真面目に受け止めてもらうには、『人食い魔女の死』を知ってもらわなければならない。しかもその話は単なるおとぎ話と音草乙葉は考えておらず、保健室の少女を魔女と呼び、聖者として死のうとしている……という荒唐無稽な話を信じてもらわなければならない。いくら壱原君がかけがえのない友人であっても、こんな話を信じてもらえるとは思えない。

 だって既に一度、壱原君に『人食い魔女の死』について話したことがあるのだから。不思議な魔女の死をめぐる物語の内容を、そして知っているのは僕と顔も知らない父だけであることを赤裸々に語ったのだ。

「偶然だろ、偶然。覚えてないだけで、どっかで見たことがあるんだろうさ。そんなわけわかんねーおとぎ話にぐじぐじ悩んでんじゃねーよ。とにかく気にすんな」

 きっと彼なら話しても大丈夫だろう、と打ち明けたのだけれども一蹴されてしまった。僕の長い告白に対して、彼が発した言葉はこれだけだった。

 壱原君の態度が冷淡だ、と責めるつもりはない。言われた直後は正直なところ納得いかなかったけれど、少し頭を冷やして考えてみれば、彼なりの思いやりだったんだろうな、と思う。おかしな物語に囚われている僕を励ますつもりでああ言ったのだろう、と今は解釈している。

 ただ、今の僕にとって重要なのは壱原君にとって『人食い魔女の死』は単なるおとぎ話でしかないことだ。音草乙葉に真剣に向かい合うには、絶対に物語に対する理解が必要だ。『人食い魔女の死』が絡んでいることを隠して、音草乙葉は今、死にたがっている。助けてやってほしい」とだけ告げても、効果は上がらないだろう。音草さんを改心させることは出来ないだろう。

 彼女の危機を告げることさえ、僕は出来ないのだ。自信を失っていた。何をやっても、僕にはできっこないという諦念が目に見えるほど、全身にまとわりついていたのだろうか?

「ね、杏里君……昨日、すごく物言いたげだったね?」

 翌日の昼休み、いつものベンチで恵さんが心配そうに声を掛けてきた。僕はその時、戸惑った。積極的に話したい話題ではなかったからだ。

 そのとき、壱原君はベンチにいなかった。先生から呼び出しを食らって遅れる、という話だった。いつもなら僕の隣は彼が座っているのだけれども、今日は恵さんがその席を占めていた。彼女は優しい瞳を僕に向けながら、周囲をはばかるように声を潜めた。

「ひょっとして……その、音草さんと何かあった?」

 思い出したくない名前を耳にして、じくりと胸が疼く。図星を突かれて、思わず弁当箱を開ける手が止まった。

 うん、とは言わなかった。僕は沈黙しか返さなかった。けれども、それは否定ではなくて無言の肯定と取られてしまった。

「私でよければ、相談のるよ? もし……いーくんに言いたくないことがあっても、秘密は守るよ?」

 華奢な手でぎゅっとこぶしを握り、彼女は僕をまっすぐに見据える。傷ついた友達を慰めるために、彼女なりの誠意を見せてくれている。

 彼女の優しさに心打たれたのは確かだ、気を使ってくれて嬉しかったのは事実だ。けれども同時に、もどかしさで叫び出したいぐらいだった。……ちがうんだ、そういう意味じゃない、と。音草乙葉が好きとか嫌いとかそんなことじゃなくて、彼女の生死の危機に僕は悩んでいるのだ、と。

 恵さんが想定している問題と僕が実際直面している問題には隔たりがありすぎる。そりゃそうだ、どうしてごくごく平凡な中学生の僕たちの間で、おかしな幻想と重大な生命の危機が話題に上ることがあるだろう? 平和な恋愛話を想定している彼女と話がかみ合う気がしない。

「ありがとう、気を使ってくれて。でも、心配しないで。今はちょっと……落ち込んでるだけ、だからさ」

 傷ついた弱弱しい笑みを浮かべて答える。想い人に振られて傷ついた少年らしく。

 誤解を解こう、とは思えなかった。誤解されているのならば、その誤解を真実にしてしまって、終わってしまった過去の話として流してしまうほうがいいと思った。

 慎みのある人ならば、これ以上傷口を覗き込もうとはしないだろう。そうあたりをつけて、僕はこういう台詞を吐いたのだけれども、効果は覿面だった。恵さんは慎みがある人だった。

「そっか……」

 恵さんはそれきり、僕に音草乙葉の話題を振ってこなくなった。

 本当のことを話すべきだったのだろうか、と昼休みが終わった授業中に考えた。僕がやったことは正しかったのか、間違っていたのか、結論は出なかった。ただ、いくらか後悔の念が湧き上がってきたことは事実だった。


 音草乙葉の謎を解くためのチャンスは永久に失われたと思っていた。僕と彼女は同じ教室にありながらも、もう二度と交わることはないだろうと思っていた。僕にできることといえば、彼女の訃報を聞いてそっと手を合わせることだけだろう、と思った。

 しかし、現実は思いもよらないところからチャンスは芽生える。保健委員会の帰り際、夕川先生が「明日、放課後にかえる公園、だそうだよ」と伝言をよこしてきたのだ。

「伝言……? 誰からですか?」

 夕川先生を使って、伝言をよこしてくるような知り合いに心当たりがなかった。壱原君や恵さんならメールか直接教室に来て僕を呼び出そうとするはずだし、いじめっ子の伝言なんて夕川先生が仲介するわけがない。全く見当がつかなくて首を傾げる僕に、先生はのほほんと笑いかけた。

「ほんとうはここにあの子、来てないといけないんだけどねぇ。メンドクサイ、ってさぼっちゃったから」

「来てないといけない……?」

 ここに、というのは保健委員会のことだろう。先生の持って回った言い方が理解できなくて、僕はますます考え込む羽目になった。……といっても、気付くまでに十秒も掛からなかったけれども。気付いた瞬間、ああ、と声が出てしまった。

「静江さん……」

 保健委員を押し付けられた、クラスに一度も姿を現していない少女の名前をようやく思い出した。彼女は教室には来ていなかったけれど、保健室の影の主として学校に通っていたのだ。

 夕川先生が僕に伝言をしたのは、音草さんと保健室に行ったわずか一週間後のことだった。


 伝言通り、翌日の放課後に指定された学校近くの公園に行くと、果たして静江さんが花壇のブロックに腰を下ろしていた。僕に気付くと片手をあげて手招きした。

「やあ、少年。確か、安堂君だったっけ? いつも仕事押し付けて悪いね」

 あの日と変わらず、ふちの太い眼鏡に几帳面に分けられた前髪。生真面目そうな容姿の割には、ずいぶん気さくな口調で声を掛けてきた。仕事、というのは多分保健委員のことを指しているのだろう。

「ああ、うん……それほどでも」

 女子の付き添いとか基本的に地獄なんだけど、と本音を言える相手じゃない。静江さんから少し距離を取ったところに腰を下ろす。すると、びしりと僕に指を突きつけて、静江さんが言う。

「んん、君ね、すっごく誤魔化すのへったくそ。女子の付き添いめんどくせぇ、って顔に書いてるよ? そのぐらいならいっそ言っちゃったほうがいい」

「ありがとう、気を付けるよ」

 僕は曖昧に笑ってみせる。さすがあの音草乙葉に真っ向から歯向かった猛者だけある。

 君はむしろ、せめて初対面に近い人間には口を慎んだほうがいい、と当てこすりは言わないでおく。あと、だったら君が教室に来れば全部解決なんだけど、も控えておく。

「ええと、それで何か御用で?」

「おっと、そうだね。始めようか……君も話題ぐらいは予想ついているだろうけどさ。あの子のことよ」

 あの子、というのが誰かなど聞くまでもない。静江さんは膨れ面を作って、膝の上で頬杖をつく。

「もー、あの子しつこいしつこい。毎日、朝と昼休みは絶対来るの。まったく、大した暇人だわ」

 はあ、と特大のため息を一つ。そのまま立てた膝小僧に顔を埋めてしまった。

「あのさ……それって、あの日みたいに……」

「殺してくれ、とは言わない」

 静江さんはうつむいたまま言った。

「表面上は穏便に、『仲よくしよう』って言うのよ。しつこい、だけなら放っておけばいいわけ。でも、そうじゃない。あの子は忘れてなんかいない。静かに、じっと機会をうかがっている……」

 ぽつぽつとつぶやく声は心底、疲れ切っている。彼女の言葉が、僕の脳裏に過去の記憶を呼び覚ます。血の付いた指を頬に添え、恍惚の様子で静江さんに囁きかけた彼女の姿を。思い出すだけで全身に鳥肌が立つような光景が蘇った。……あれが毎日。そう思うと、ひとりでに唇が動き出す

「静江さん、まさか音草さんの言う通りにしようなんて」

「するわけない」

 ぴしゃり、と静江さんが言い放つ。膝小僧から上げ、鋭い目つきで前を見据えている。

「馬鹿言わないで。私はあの子を止めたいの」

 視線も、声も鋼のような意志の固さを現している。コンクリートの壁さえ貫いてしまいそうな、彼女のまっすぐな眼差しはいったいどこを見ているのだろうか? 今、ここにいない音草乙葉を見ているのだろうか?

「でも、分からないことだらけなの。どうすれば止められる? なぜあの子はあんなことを言う? 私には何の手がかりもない。本人から引き出そうにも、口を割りそうな雰囲気はない。誰かに相談しようにも、あの場面に居合わせなかった人間に分かるわけないわ」

 静江さんが僕の方を向いた。強い視線は、今度は僕の瞳に向かって注がれている。

「だから、あなたを呼んだの。あの子が抱える謎を解き明かすために」

 まともに正面から受けるには、強すぎる視線だった。太陽を裸眼で見るような気がした。目をそらさずにいるのは痛い、でも今逸らしてしまえばずっと後悔することになるだろう。

「分かった、協力する。……僕にできることなら」

 僕はしっかりと彼女の目を見据えて、頷き返した。すると、彼女の鋭いまなざしがふっと緩む。唇に淡い微笑みが浮かんだ。

「ええ、精々こき使ってあげるからね。そうね、ぎりぎり過労死しない程度に」

 そうやって、彼女は眼鏡の下で茶目っ気たっぷりに笑った。気さくな笑顔に肩の力が抜けていくのを感じた。

「怖いこと言うね。生徒手帳にだって生徒同士は互いを認め合い、尊重しあうべしって書いてたよ?」

 保健室の一件後、たまたま開いた生徒手帳の校則のページにそんな一行があった。

「何言ってんの」

 静江さんは肩をすくめた。

「生徒手帳なんて読んだことないわよ。他にいっぱい読みたい本があるんだもの、しないわよそんな暇なこと」

 眼鏡の奥の瞳は茶目っ気に溢れた笑みを浮かべていた。


 僕だって音草さんの力になりたい、と思ったけれども、拒絶されて結局何もしなかった。言い訳は可能かもしれない。でも、静江さんのような力強い意志がないことはどう言い繕っても、繕いきれない。静江さんを疑い、無礼なことを言った、と恥じた。罪滅ぼし、というわけではないけれど、『人食い魔女の死』の物語を語って聞かせた。


 今から遠い昔のことです。この世界には、とてもおそろしい魔女がいました。人々がパンを食べるように、魔女は人を食べたのです。数え切れないほどたくさんの人たちが食べられてしまいました。

 おそろしい魔女の話は、まもなく王様の耳にも届きました。こんなおそろしい魔女を生かしてはおけません。王様は国中に魔女退治のお触れを出しました。魔女を倒した者には山のような金貨と末代まで讃えられる名誉を与えよう、と言いました。王様のお触れを聞きつけて、国中から人がやってきました。

 ところが、魔女を倒した勇者はなかなか現れません。腕に覚えがある剣士や狩人が集まっても、大勢の兵士が槍を並べて立ち向かった日もだめでした。魔女退治に出かけた人々は皆、その翌日には魔女に食べられた哀れな姿で見つかるばかりでした。

 そんなある日、すばらしい知らせがお城に入ってきました。国で一番の騎士が魔女を倒したのです。魔女を倒した証としてその首を王様に差し上げました。王様はたいそう喜び、騎士にお触れ通りたくさんの褒美を取らせました。

 ところが、その翌日のことでした。王様の元にあった魔女の首が消えていたのです。家臣たちがあわてて探しているうちに、お城にお知らせが入ってきました。魔女が再び現れ、また多くの人々を食べてしまったのです。

「これはいったいどういうことか? お前は魔女を倒したのではなかったのか?」

 王様は騎士を呼びつけ、言いました。呼び出された騎士は非常に驚いていました。

「その通りです。私は確かに魔女を倒しました。首を切り落とし、王様に差し上げました。何故、魔女が蘇ったのか私にも分かりません」

「では、もう一度倒してくるがよい」

 王様に言われ、騎士はもう一度魔女を倒し、その首を差し出しました。けれども次の日の朝、魔女の首は消え、再び魔女は現れました。かんかんになった王様は騎士の首を打ち落すことを考えましたが、もう一度騎士を蘇った魔女の元に行かせました。今度はとうとう、騎士は帰ってきませんでした。

 このままでは国中の人々が魔女に食べられてしまいます。はやく魔女を倒さなくてはいけません。ですが、一体どうやって? 魔女は手ごわくなかなか倒せませんし、倒したところで何度でも魔女は蘇ってくるのです。

 こわがって、だれも魔女に近づかなくなった頃のことでした。一人の若い聖者が王様の元を訪れました。そして、魔女を鎮めてみせると約束してみせたのです。

 王様は若者をこれっぽっちも信じませんでした。何せ、薄汚れたローブに身を包んだ若い聖者は、剣の一振りさえ持っていません。きっと翌日には魔女に喰われた姿で見つかることでしょう。

 ところが、その翌日のことです。若者は無事にお城へ戻ってきました。けが一つありません。驚く王様とその家来たちに、若者はこう言いました。もう二度と魔女が人を食べることはないでしょう、と。

「ならばお触れ通り、お前に金貨と名誉を授けよう」

 王様はかわした約束を必ず守る人でした。しかし、聖者は受け取ろうとしません。

「王様は魔女を倒した者にほうびを授けよう、とおっしゃったのです。私は魔女を倒してなどいません」

「ならば、お前はうそをついたのかね?」

「いいえ、私は魔女と話をしただけです。そして、約束させたのです。もう二度と人を食べてはいけないと」

「ほんとうかね?」

 うそつきを許すほど、王様はおろかではありません。大勢の家臣と一緒に、若い聖者を疑っていました。彼は堂々と胸を張って言いました。

「ほんとうです、王様。ですから、一つお願いがあります。魔女を殺さず、そっとしておいてやってほしいのです」

 聖者の言うことに、家臣たちは反対しました。たくさんの人が魔女に食べられてしまったのですから、退治しなければならない、とみな口をそろえて言いました。けれども、聖者はあきらめません。

「お疑いになるならば、試せばよろしい。わたしが魔女のすみかに入り、出てくるまで家来に見張らせなさい。一度で信用できないというなら、あなたが納得するまでなさればよろしい」

「いいだろう。お前が三十回約束を守ったならば、信じよう」

 家来の意見を退け、王様は聖者の言う通りにしました。聖者も言ったとおりにしました。毎朝、魔女のすみかに入り、日が暮れると傷一つなく出てきました。もちろん、魔女に食べられて死んだ人はいなくなりました。そう、二十九日間約束は守られました。三十日目は、守られませんでした。朝、魔女のすみかに行った聖者は帰ってこなかったのです。

 三十回約束は守られなかったので、王様は魔女を退治することにしました。今度は家来たちに任せるのではなく、王様みずからたくさんの兵隊を率いて、魔女のすみかに出かけました。

 ところが、すみかに魔女の姿はありません。また、誰かを食べに出かけたのかもしれません。兵隊たちは手分けして、魔女を探しました。魔女を探すのは兵隊たちに任せて、王様は一人ですみかの外で魔女が見つかるのを待っていたのです。ですが、見つけたのは王様でした。魔女はすみかの外で、ひとり静かにたたずんでいたのです。王様は兵隊を呼ぼうとしましたが、魔女は何もしませんでした。王様は魔女がおとなしいので、不思議に思いました。

「お前は人食い魔女ではないのかね」

「そうさ、私は人食い魔女だ。お前たちが獣の肉を食らい水で喉をうるおすように、人間の命を食らい魂でのどをうるおし、生きている」

 おそろしい声で魔女は答えました。けれど、王様はおびえることなく魔女に問いかけます。

「では、この私を食べようとは思わないのか」

「思わない」

 魔女の答えに、わずかな迷いさえありません。「なぜだ」と王様は言いました。

「腹は裂けんばかりで、身動きさえろくに取れない。私の餓えは満たされた、もう人間を食らうことはないだろう」

 そう言った魔女の瞳には、悲しみの涙がきらめいていました。そのとき、王様はようやく気付いたのです。魔女の足元に、野原に咲いてる花が置かれていることを。土を盛っただけのかんたんなお墓の前で、魔女は静かにたたずんでいたのです。

 王様は兵隊を呼ばずにお城に帰りました。兵隊たちは魔女を見つけられなかった、と悔しそうに王様に言いました。遠い国にきっと行ってしまったのだろう、と王様は言い、彼らをなぐさめました。魔女に食べられた人間はそのあといなくなったので、人々はみな魔女のことを少しずつ忘れていきました。

 三十日が過ぎて、王様は誰にも言わずに城を抜け出しました。行先は、あのおそろしい魔女と出会ったところでした。お墓の花は枯れていました。そのかたわらで、やせ細った魔女が長い長い眠りについていました。

 王様は魔女をその場で葬ってやりました。なかよく並んだ二つのお墓に新しい花をそえ、十字を切ると城に帰りました。王様は彼自身がお墓に入るまで、人食い魔女の死を誰にも告げませんでした。


 「『人食い魔女の死』……魔女に……聖者……ふーん……?」

 おとぎ話の中身を語るが、静江さんの反応は薄かった。何が何だかさっぱり、という風だった。

 童話やおとぎ話は単純な話、と思われやすいけれども、一般に流布している童話やおとぎ話の多くは、小さな子供向けに編纂されているから分かりやすくなっている。手を加えられる前の作品を当たれば、現代の感覚に合わなかったり、あまり子供向けとは言えない要素を含んでいたりする。『人食い魔女の死』もそういう類のおとぎ話だ。

「明言はされていないけど、書かれ方を見る限り、聖者は魔女に食われている。と言っても、他の犠牲者とは大分違う扱いを受けたみたいだけどね。二九回は魔女に会いながらも生きて戻ってきたわけだし」

 記憶に残る『人食い魔女の死』の記述を思い返す。読んだ本の詳細なんてほとんど覚えていないのだが、この物語に限っては一文一文が頭の中にあるのだ。

「終盤、魔女は墓の前で泣いているけど、これも聖者の墓だろうね。他の犠牲者の扱いはあんまり語られていないんだけど、聖者のように手厚く葬られたとは思えない。聖者は魔女にとって特別な存在だったことは間違いないだろうね。……にも関わらず、魔女は聖者を食べてしまった」

 魔女は聖者を食ったことを後悔して、丁重に墓まで作って葬ってやったわけだ。ここまでは記述に従って素直に読むべきだろう。

 解釈が必要になってくるのは、その後だ。墓の前で、王様に何故私を食べないのか、と聞かれ答えた箇所だ。魔女はこう、答えている――腹は裂けんばかりで、身動きさえろくに取れない。私の餓えは満たされた、もう人間を食らうことはないだろう、と。だが、その後の魔女はこう書かれている――お墓の花は枯れていました。そのかたわらで、やせ細った魔女が長い長い眠りについていました。

 この描写を穿った見方をせずに読むなら、魔女の死因は餓死とみるべきだろう。たしかに人間を食らうことはなかったのだろう。だが、餓えは満たされたのではなかったのか? 当然、そんな疑問が湧いてくるわけだが。

「魔女が人を食べる、というのは、頭から人間を丸齧りするようなものではないと思う。聖者を食べて飢えが満たされた、というのは血肉を啜ってお腹を満たした、というわけではない。大切な聖者を殺してしまった、という悲しみでもう人を食べることはできそうにない、という意味で魔女の台詞は解釈すべきじゃないかな」

 以上のことを総合すると、この物語が何を語ろうとしているのか、なんとなく見えてくる。

「魔女は聖者を食べることをきっかけに、人間らしい感情に目覚めた。無慈悲に人間を食べる恐ろしい魔女ではなくなった。魔女が単に人を食べなくなったから、飢え死にしたなんて単純な意味で『人食い魔女の死』というタイトルがついているんじゃないと思う。魔女は魔女としての死を迎えた、そういう二重の意味があるのかもしれないね」

 なぜなら、と一言付け加えて続ける。

「魔女は、作中でこう言っている――そうさ、私は人食い魔女だ。お前たちが獣の肉を食らい水で喉をうるおすように、人間の命を食らい魂でのどをうるおし、生きている、って。人間の命、魂と言っているんだ。魔女が人間の血肉を食べているなら、獣の肉を食べる人間と対比させたりしないだろうね。……命とか魂って何を指しているのか、ぼんやりして分かりづらいけどさ。とりあえず、人間らしい感情、ぐらいに思っておけばいいんじゃないかな、と」

 こう読めば、聖者を食らった悲しみで餓えが満たされる、という理屈が通る。悲しみで魔女の腹はいっとき満たされるが、その後は人間の感情を食らうことが出来ずに餓えて死んでしまった、と素直に読むことが出来る。

 読んでいて引っかかりそうなところと言えば、これぐらいだろうか。説明がひと段落して、口を閉ざす。そういえば、ちゃんと伝わっただろうか、と心配になって、静江さんの様子をうかがう。

「なるほどね。音草さんは自分を聖者になぞらえているわけだ。そして、自分を生贄にして魔女を殺すつもりでいる。でも、悪意を持ってそう言っているわけじゃない。魔女を化け物から人間へ生まれ変わらせる物語、つまり『人食い魔女の死』は魔女にとって救いの物語だから」

 きちんと予習をしてきた生徒みたいにすらすらと静江さんは言った。理解が早いな、と密かに感心した。でも、理解が及んでも嬉しそうにしている様子はない。

「冗談じゃない。勝手に私を魔女にした挙句、殺すなっつーの」

 理解するのと話を信じるのは全く別物だ。聞いたことのないおとぎ話の登場人物になぞらえて、全く知らない人物から魔女呼ばわりされた彼女の立場には同情せざるを得ない。

 もっとも、彼女に対して抱く感情は同情だけではないのだった。

「あのさ、一応……本当に一応というか、確認というか……分かってるけどさ、念のためなんだけど。……君、『人食い魔女の死』について、何にも知らないんだよね?」

 前置きをたっぷりつけて、おっかなびっくり切り出してみる。すると、もともと渋い表情がますます渋みを増す。

「知ってたら、あの場でもっと気の利いたこと言うわよ。お前みたいなガリヒョロ食べたって、救いどころかお腹壊して死ぬわバーカ、って」

「確かに話は分かってる感じはするけど、気が利いてるとは思えないね……?」

 むしろ小学三年生の罵倒にまでレベルが落ちてないか、と思う。というか、この人今、誰もが恐れる教室の女王様をガリヒョロ呼ばわりしたぞ。

 はっきり言えば、僕は静江さんを少し疑っているのだ。本当に、本人が言うように何も知らないのだ、と信じる根拠はないのだ。

 音草さんが『人食い魔女の死』を知っていることは確実だ。何故なら、知らなければ出来ないような言動を重ねているから。では、静江さんはどうだろう? 知っているふりを暴くのは難しくないけれど、知っているのに、知らないふりを暴くのは容易いことじゃない。

「何よ、疑ってるの? 私もあの子と同じ、脳みそお花畑じゃないかって言いたいの?」

 静江さんが僕をじろりと睨む。剣呑な視線だ。

「いやいや、違うんだ。お花畑だなんて、とんでもない」

 ガリヒョロの次は、お花畑と来た。教室の中で話をしていたら、社会的な死刑決定レベルの暴言に冷や汗を禁じ得ない。ああいえば、こういう。そんな相手にどうやって探りを入れるかちょっと思案して、脳裏にぱっと壱原君の横顔が浮かび上がった。そうだ、これでいこう。

「むしろ逆逆。君って頭の回転、速いんだなーって思ったんだ。ほら例えばさ、僕が『人食い魔女の死』の話をする前に、音草さんが殺してくれ、って言ったこと、よく分かったなー……とか」

 女の子相手に話を誤魔化すときは、適当に褒めておけばいい、と言っていた。恵さん相手に使っているところも何回か見た。ちなみに成功率は、壱原君の行動指針がバレてからは恵さんには全く通用しなくなったため集計不可。でも、静江さんは知らないはずだ。案の定、というべきなのか。静江さんは素直に首を傾げた。

「は? 何言ってるの、あの時自分で言ってたじゃないの。殺してくれ、って」

 苦笑、というより失笑だ。静江さんは眼鏡のフレームを抑えながら、笑った。僕は小さく首を横に振った。

「言ってないよ」

 途端に、ぴたりと静江さんの笑みが凍り付いた。

「殺してくれ、なんて彼女は一言も言っていない。正確には、『あたしを食べて、終わりにしよう』と言ったんだ。よく、誤解せずに意味を把握したね?」

 音草さんは殺す、なんて物騒な単語は使わなかった。あくまで出典に対して忠実に、食べる、という単語を使った。元の話を知っていれば意味は明らかだろうが、知らなければ、そう容易くたどり着く連想だとは思えない。

「雰囲気よ、雰囲気。目を見たら分かるわ。尋常じゃなかったもの」

 答える声に、今まで見せてきた鋭さはない。やっぱり何かを知っているような気がする。

 今日、ゆっくり話をするまで気付かなかったことではない。静江さんの姿を初めて見たとき、僕は雷に撃たれたような衝撃を受けたのだ。あれを気のせいだとか幻で片づける気にはなれない。音草さんも恐らく僕と同じ、あるいはそれ以上の衝撃に撃たれたのだろう。

 ただ音草さんと僕の間で違ったのは、静江さんの正体が分かったかどうかだ。音草さんは静江さんのことを魔女と呼んだ。でも、僕はそう思わなかった。静江さんには、何かある……それ以上のことは分からなかった。

 まさか、音草さんが言うように静江さんの正体が魔女だとは思ってるわけじゃない。魔女は架空の存在だ。人間の感情を食らって生きるような生命体が実在するとは思えない。そんなおかしな奴がいたら、とっくの昔にニュースになるだろう。静江さんには何かあるかもしれない、でもちょっと口が達つ程度の保健室登校の女の子を魔女と思うほど、精神に混乱をきたしてはいない。

 きな臭い答えで口を濁した後、静江さんは黙っている。遠くを見るように目を細めて、また頬杖をついている。僕になにか語ろうとする様子は全くない。

 静江さんが僕に情報を提供しろと言ったように、僕だって静江さんが何か知っているなら、隠さず教えてほしいのだ。音草さんを救うには、僕ら二人の間で小さな隠し事さえしている余裕はないのに。

 沈黙の時間が静かに流れていく。見上げた空に浮かぶ雲よりも、ゆっくりと。僕は少しいらいらしながら、静江さんの告白を待っていた。私も本当は知っていたの、という告白を。――静江さんの声が、現実に響いた。

「ところで、君、とっても『人食い魔女の死』について詳しいね? そういう読み方もあるんだって感心した」

 期待していた内容とは、全く違う。懺悔ではなく、そういえば思い出したことがあって、と語る声だ。

「それは、どうも」

 肩透かしな内容に拍子抜けしている。今更なんだろう、と素朴に思った。すると何がおかしいのか、静江さんがくすっと笑った。

「内容もよく覚えているし、最近そのおとぎ話を読んだばかりなの?」

 僕ははっとして、静江さんを振り返った。眼鏡の下の瞳を意地悪く輝かせて、静江さんは挑発的な視線を僕にたたきつける。さっさと白状しろ、脳みそお花畑野郎、と。……どきり、と心臓がひと際大きく跳ねる音を聞いた。

 『人食い魔女の死』の物語について、僕は静江さんに余さず語った。ただ、逆に言えばそれ以外のことは語っていない。例えば、彼女が僕に声を掛けてきたきっかけ……僕が『人食い魔女の死』を知る同胞と看破して、という部分を話していない。

 だって、必要ない、と思ったのだ。僕たちが語るべきは音草さんを救う方法だけだ。僕にとって『人食い魔女の死』とは、ただの気味の悪い童話なんかじゃない。いい意味でも悪い意味でも、僕の人生に大きな影響を及ぼしてきた。そんな大事なものを、人食い魔女の物語を知らない、あるいは知っていてしらんぷりを決め込んでいるやつに、役に立つわけでもないのに話さなければならない?

 絶対に、踏み込ませてやるもんか。腹の底がふっと熱くなる。

「いや、最近知ったわけじゃないんだ。昔、読んだことがあってさ。なんとなく手に取ってみたら変な童話だった。色々ひっかかるところがあったから、何回か読み直してるうちに色々覚えちゃったし、考えた……僕が知っていたのは、そういう経緯だけど」

 意地でも、誰から教えられたわけでもないのに知っていました、なんて言いたくない。涼しい顔で答えるふりをして、実際は大慌てで次の言葉を探している。

「へー、ちゃんと本になってるんだ。今度見せてよ?」

 思わぬ切り返しに、びくりと肩が震えそうになる。黙ったら疑われる、何でもいいから話を途切れさせてはいけない。

「いや、図書館で借りた本だから。しばらく借りたけど返したから、もう手元にないんだ。その後は探したけど、全然見つからなくなってて。よそで見かけたことがないし、一般に流通している本じゃないみたいだね」

 なんとかつっかえることなく最後まで言い切る。静江さんはなおも、じろじろと僕を見ていたが、やがてあきらめた様子で視線を逸らした。

「あ、そう。そーですか」

 つまらなさそうに、静江さんが言った。一方、僕は顔に出さないよう苦心しながら、ほっとして肩の力を抜いた。まるで、不安定に揺れるつり橋を全力疾走で走り切ったような心地がした。

 全てが真っ赤な嘘、というわけではない。上手に嘘をつくことは、あるいはごまかすことは、全てを嘘で塗り固めるのではなく、本当のことを混ぜるのがいい……とどこかの壱原君が言っていた。初めて聞いたときはうさん臭く思ったけれども、こちらは恵さん相手に使っても結構うまくいっている。僕もその恩恵に初めて与った。なるほどゼロから話を作るより、都合のいい部分だけを切り取って使うというのはなかなかぼろの出にくいやり方だ。

 図書館で『人食い魔女の死』を見たのは、実際にあった出来事なのだ。ただし、全く関係のない童話……人魚姫の絵本だった気がするのだけれども、そこに原稿用紙の束という形で挟んであった。僕はその原稿用紙を穴が開くほど読み返して、姿の見えない作者に手紙を添えて、そして原稿用紙に挿絵まで書いて元の書架に戻した。

 驚くべきことに、返事が返ってきたのだ。最初と同じ本に、原稿用紙と返事の書かれた便箋が挟まっていた。それから何度かやりとりが続いた。今まで誰とも共有できなかった物語をめぐる講義が始まった。さっき、静江さんに語ってみせた解釈は、実は僕が作り出したのではなくて、その時教えてもらったものなのだ。

 あの時の感動は、一生の中でもそう何度も訪れるものではないだろう。僕にとって『人食い魔女の死』は、忌まわしい殺人鬼との縁としてふさわしい不気味な物語だった。ただただ理不尽で、展開も意味不明。忘れてしまいたい、と何度願っただろう? そんな僕の考えを百八十度転換させたのが、あの原稿に添えられた手紙だった。……『人食い魔女の死』は気味が悪いだけの物語ではない。その結末は悲しいけれども、魔女は大切な存在を手に入れて、人間らしい感情を知って救われた。これは実はハッピーエンドの物語なのだ、と。

 やりとりを重ねるうちに、物語以外のこと話題に上がるようになった。手紙の向こう側に確かに生きている誰かがいるのだ、という確信を抱くようになった。

 でも、そうしているうちに小学校五年生の夏休みが終わった。夏の終わりと共に不思議な文通も終わった。人魚姫の絵本に『人食い魔女の死』の物語をつづった原稿も、便箋も消えた。僕が出した最後の手紙に返事はなかった。

 目を閉じれば、あの時の原稿用紙がぼんやりと浮かんでくる。鉛筆で書かれた丸文字。使われている便箋は、学校で女子がよく使っているようなキャラクター付きのかわいらしいもの。文章は驚くほど巧みだし、顔だって見たことがないけれど、作者はきっと、僕と同年代の女の子だろう。

 一応、これは僕にとって大事な思い出なのだ。しかも、誰にでも話したい思い出じゃない。記憶の中の棚に鍵をかけて、そっとしまい込んでいたい思い出。大切にしまいすぎていて、ちょっと埃を被っていたけれど、それでいい。

 話を誤魔化すために、その断片を切り取って使うなんて嫌だった。でも、それどころじゃなかったのだ。仕方ない、と自分に言い聞かせる。

「君さ、音草乙葉のこと、好きでしょう?」

 黙って花壇のブロックに並んで座っていると、何の前置きもなく静江さんが言って、にぃっと笑いかけてきた。

「保健室での会話は聞いた。あの高飛車女の、どこが好き?」

「さあね」

 壱原君のアドバイスを役立てる暇もない。質問にはねつけるように答えると、静江さんは声を立てて笑い、立ち上がった。

「誤魔化すの、やっぱりへったくそ。全部喋っちゃえばいいのに」

 今日、似たようなことを既に一度言われたような。無言の抗議の視線で立ち上がった彼女を睨むと、静江さんは軽やかな足取りで身を翻す。

「正直になれよ、少年」

 それだけ言い残して、僕の返事も待たずに静江さんは駆け出した。その姿が完全に見えなくなったのを確かめてから、僕は深々とため息をつく。……誰が言うか、バーカ。そう小さな声でつぶやいたのを聞いたのは、ちょうど通りすがった蟻ぐらいのものだろう。まかり間違っても、静江さんには聞こえてないはずだ。

 女の子によくある丸い文字はよく覚えている。年頃の女の子には珍しい理路整然とした作品に対する注釈に関しては、鮮やかに記憶に焼き付いている。顔は全然知らない、でも恋い焦がれるために必須というわけではないらしい。

 音草さんともっとちゃんと話をしたかった。どんな気まぐれか知らないけれど、教室で僕を守ってくれたのは事実だったから、お礼の一つぐらいは言いたい。これは本当、でも静江さんに教えてやる義理はない。夏の終わりと共に終わってしまった手紙の続きが出来るかもしれない、という淡い期待を抱いていることだって、無論教えてやる必要はないのだ。

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