1-3 two sides foxtrot
―1―
甲斐周安は与えられた部屋の一室で机に向かい、一冊のノートに書き込みを続けていた。机の上には他に何も置かず、紙とペン以外には消しゴムすらない。端の方の邪魔にならない所に飲みかけのペットボトルがあるだけだ。
甲斐はここがどこなのか知らない。気絶したまま連れてこられ、目を覚ましてからも一度も外に出ていなかった。
甲斐はこの隠れ家の持主に嘘のようなこの街の内情を聞いてから、半日以上ノートへの書き込みを続けている。しかしその中身は支離滅裂な書き殴りで、あとから見返しても何の参考にもならないだろう。
これは甲斐の頭の整理法だった。甲斐には理解できない事や暗記が必要な時などに、子供の時からとにかくノートに記述する習慣があった。この部屋の主―白髪の、自分など及びもつかないPC技術を駆使するハッカーの男―から聞いたこの街の状況説明。それを単語としてランダムに抜き出し、自分なりに意味を見出し、関連するものを線で結ぶ。そうして少しずつ全体の像として頭の中に配置していく地味な作業だった。ようやく理解出来てきたのは甲斐が危惧し、警鐘を鳴らし続けてきたものなど些事に過ぎないと思うのに十分なほど、遥かに巨大な計画だ。
電子化した社会システムの弊害。それが長らく自分を苦しめ続けた。個人の記録、資格、尊厳。街の復興が始まったばかりの頃はその漏洩、改竄、詐称の簡略化が大きな問題となった。自分の人生を狂わせた社会の発展に付きまとう失敗。その犠牲者が自分という男だ。
しかし、それもこの都市を覆う虚構のほんの一片に過ぎないと彼らは言う。
「まだやってたのか」
扉を開けて入ってきたのはこの隠れ家の持ち主の橘だった。真っ白な髪、悪いとしか言いようのない常に睨んでいるような鋭い目の青年。
(そしてあの眼は赤く輝くのだ)
煙草を咥えてこっちを見る姿は怒っているようにしか見えないが、これが彼の常態である。そのことに気付くのに、甲斐は少し時間が掛かった。
「とても簡単に信じられる話ではないので…」
「まあ、そうだな」
橘は甲斐の書きなぐったノートを覗きこみ眉を顰めた。
「えらく難しく考えているな」
そうだろうか。確かに自分は前の職を解雇された時から慎重に判断するようになったと思う。しかしこのノートの記述は難しいものを整理し、簡単にするためのものなのだが。
「事細かに説明したのが逆にいけなかったかな。それともマコトに蹴飛ばされて、まだ頭が朦朧としてるとか?」
「いえ…」
あの蹴りは凄まじかった。人に、しかもあんな小柄な子に蹴られ、宙を舞うことになるとは夢にも思わなかった。そういえばあの二人組をあれ以来この隠れ家で見ていない。
「あの二人も橘さんと同じ顕現能力者なんですね」
橘から聞いた荒唐無稽な話のひとつ。光災に呑まれた者が得るという特殊能力を行使する者の総称。とても信じ難い話だったが実際に橘が発現させるのを見て、否応なしにそれが実在する能力だと認識させられていた。
「ああ。このおかしな能力のせいで、全員が住所不定、無職で不登校の反社会人に身をやつしてる」
しかしそう言っている顔はとても楽しそうだ。元々そういう性質なのだろう。自分のように状況に流されてここにいるわけではない。
「俺が難しく捉えてるといったのはな、あんたが全体を把握しようとしてるからだ。甲斐さん、あんたそれを把握してどうしようっていうんだ?」
「え?」
「この都市の仕掛けを全部知ったところであんたのやりたいことが変わるわけじゃないだろ。俺達だってそうだ。なぜこの都市の管理者に抗うのか、その理由は自分でそれぞれ抱えてればいい」
橘は甲斐のノートを取り上げると、すぐ横にあったゴミ箱に落とした。甲斐はそれが着地する音が聞こえるまでずっと見ていた。
「それ以外はすべて忘れろ。大事なのはやるか、やらないかだ。あんたの抱える理由が行動の引金となり得るのかどうか。そこにこの都市の全体像は関係ないんだよ」
橘は、甲斐を見下ろすように視線を合わせる。
「俺はあんた達が必要だと思ったから誘った。それに乗るかはあんたの事情で決めてくれ。この街の状況や、相手の規模なんかを言い訳にせずに」
甲斐もまた橘の目を見返した。彼は状況や外的要因による判断などではなく、甲斐個人としての判断を促していた。それ以外に信用に足るものはないとその目は訴えている。
自分の抱える理由が、全てをなげうってまで反抗に値するかどうかを問われている。
その問いの答えに迷いはなかった。そもそも迷ってなどいなかったのだろう。ただ、自分で決断するのが怖かっただけだ。二度と戻れない道に踏み込む言い訳を探していただけなのだ。橘は捨てられたノートと共に、甲斐のつまらない逡巡もゴミ箱に放り込んでくれたようだ。
「私の役割はなんです?」
「甲斐さんには俺のバックアップを頼みたい。あんたの仲間には、アオイとマコトの現場後方支援を。そろそろ管理者側が大きく事を動かそうとしているらしい」
「ではあの二人はもうしかるべき場所に?」
「あんた達の時と同じく、目標のすぐ傍にいる」
甲斐は立ち上がり頷いた。
「分かりました。やり方は実践で覚えます。今回私達はあなたの指示に従って動きます」
橘は手を差し出しながら言った。
「同盟成立だな」
同盟?
今の話は一種の脅迫だ。
甲斐の信念とプライドを人質に、彼らに協力することを強要されたに等しい行為だ。
しかし不思議と悪い気はしない。
甲斐はここへ来て初めての笑みを浮かべて、差し出されたその手を握った。
―2―
上座中央区、その西側の端に“ネスト”という名のネットカフェがあった。上座市の閉鎖措置が取られる前は、まだ陽の高い今の時間帯でも利用する者がそこそこいた。
ここ最近は入口には閉店の札が掛けられたままだ。しかし店内に誰もいないかというとそうではない。むしろ営業している時よりも多くの人間が店の中にはいた。
「そろそろみたいだぜ、リーダー」
「おうよ」
QPDAを見ていた参謀役のマキに言われ、“イオリ”は目を開けた。覗いてみるとマキの端末には、大勢の人間が店から出ていく姿を俯瞰で捉えた映像が映っていた。ぼさぼさの爆発したような髪をかきながら、寝そべっていた簡易ベッドから身を起こす。その耳にはアオイとマコトと同じ、銀色のピアスが光っていた。
「奴ら集合場所から出て、こっちに向かってる」
相手の前線基地―小汚い場末のクラブ―は、このネストからそれほど離れていない場所にあった。
「手間が省けるなあ。つまりこりゃ、向こうにもこっちの位置がわかる奴がいるってことだな」
「まあ、都市管理のカメラに侵入すんのはそれほど難しくないからな」
そう言われてもイオリにはそれが簡単なこととは思えない。
「ちょっとPC齧ってりゃなんとかなるレベル」
そのちょっとがマキと自分では大きく違うんだろうと思い、イオリは鼻で笑った。
「で、数は?」
「40人はいるかな。前回の倍だ」
それを背中で聞きながら個室を出る。店内には至る所に白い服の若者達がいて、好き放題に飲み食いし、マンガを読み、PCをいじって、大変行儀悪く遊んでいた。
「お、リーダーだ」
その誰かの言葉に全員の目がイオリに集まる。
「始まるっすか?」
「今日は向こうからお越しだそうで」
そう言って椅子に引っ掛けていた白いジャケットを羽織る。そしてピアスを外すとその胸ポケットに仕舞った。
「うし、本日の一回戦だ。チャチャッと準備しろ“悪戯小僧”ども」
歓声とも怒号ともつかない声を上げる白い悪童達。各々の遊戯をやめ、皆適当に武器になりそうなものを拾い上げる。
「リーダー、奴らどれくらいでここに?」
「ん?ああ、もう来てんじゃねえ?」
「は?」
一瞬全員が言葉の意味を汲みかねて静止した。
同時に入口から、窓から、裏口から“奴ら”が侵入して来た。盛大なガラスの破砕音と乱暴な足音。ロボスの連中の「もっと早く言えよ」といった非難の声はそれらによって綺麗にかき消された。
侵入してきた集団。男と女がごちゃまぜな、常軌を逸した襲撃者達。焦点の定まらぬ目と剥き出した歯、そして荒い息遣い。
奇声を上げる獣じみた変人の群れ。
「派手な登場だな、スローターズの中毒者共」
イオリは彼らに負けず劣らずな邪悪な笑みで出迎えた。確かに彼らの様子は薬物で思考を放棄した中毒者のそれだった。
「シロ…シィロォォ!」
叫びと共に一斉に躍りかかるスローターズの兵士達。言葉通り白服のロボスのメンバーに向かい襲撃を開始する。
イオリにも四方から狂気の男達が迫り、その手の凶器を力任せに叩きつけてきたが、イオリは既に回避準備を終えている。
周囲に紫色の粒子が舞う。
スローターズの凶器が奏でる金属の不協和音。
横薙ぎに振るわれたそれらは、地面に接するほど有り得ない角度まで体を反らしたイオリの真上で、襲撃者達それぞれの頭部に命中していた。
自滅して倒れる連中に反比例して、バネ仕掛けのように体勢を戻したイオリは、その勢いのまま新たに迫っていた相手に頭突きを食らわせる。
店内のあちこちで乱闘が始まる。喧嘩慣れしたロボスの悪童と、理性を失った薬漬けの獣達の攻防。
暴力と蛮行の織り成す、金属の音と肉と骨の悲鳴。
狭い店内で弾ける、血と叫びの饗宴。
互いに共通するのはどちらも望んでそれを行っているという事実だった。
「シロおォォォぉ!!」
猛り迫るスローターズの一群に向かって、イオリは笑みを一層強くし、自身の“顕現能力”を発現させる。周囲一帯に紫に光る粒子が舞った。
〈反逆技巧〉。その領域の展開。
一瞬で拡がった発光する紫色の蜘蛛の巣が店内の人間を捕える。途端にスローターズの連中だけが、一斉に“転げ回った“。
〈反逆技巧〉の認識改変、そのひとつ。
イオリが“不規則体”と呼ぶ、相手の上下左右の方向感覚をランダムに掻き回す干渉能力。
もちろん実際に地面は動いていない。干渉を受けた者達の感覚の中でだけ、まるで天地が秒単位で切り替わるように認識され、立っていることすらままならなくなる“悪戯“だった。
「おいイオリ、ほどほどにしとけよ!この前みたいなゲロまみれはごめんだ!」
マキの制止を完全に無視し、イオリは宣告する。
「掻き回してやるぜ。白一色になるまでな」
その目は能力発現による一種の恍惚状態に陥っている。もはや誰の言葉もイオリの耳には届かない。
「ちょ、リ、リーダー!」
よく見ると何人かの白服が一緒に転げ回っている。イオリの能力の欠点はその不正確さである。本人の雑な性格をそのまま表すように、干渉の範囲に誤差が生じる。
ロボスの面々は地に這ったままの敵兵を徹底的に打ちのめす。その一方的な攻撃に一切の躊躇はなく、理性だけでなく痛覚まで無くしたような獣達に嬉々として振るわれた。その光景を眺めながら、イオリは満足げに笑う。
ようし、みんな社会のクズらしい下衆っぷりだ。
一方的な暴力によりあっという間に場の勝敗は決した。ロボスは男も女も区別なく、平等に撃退していった。
数分後、最後の一人まで狩り尽くしたイオリ達は、倒れたスローターズの見分を始めた。倒れた相手のポケットを探っていたマキがイオリに寄ってきた。
「出たぜ、最近流行りの“常備薬“が」
マキの手の上には白い錠剤があった。イオリが顔を近づけて見ると、そこにはくっきりとZの刻印が入っている。その錠剤は次から次に、敵の所持品を漁るロボスの連中が見つけてきた。
「あいつらどんだけばら蒔いたんだ?」
集まった錠剤の数は軽く100錠を超えた。その山を見てイオリは呆れる。
「リーダー、やっぱ狗井はいないわ。ていうかここで倒れてる奴のほとんどはスローターズの“客“っぽいぜ」
顔を確認して回るメンバーの意見。確かにそう考えるとスローターズの襲撃人員の豊富さに納得がいく。
イオリの端末に着信。それはQPDAではない改造端末である。見ると電話の相手はこの端末を自作した、イオリ達ロボスの頭脳を務める男からだった。
「“視てた“か、橘さん?」
イオリは開口一番にそう切り出した。
『ああ。今の一戦で分かった。奴は自分が出てくる気はない』
あらゆる情報を覗く眼を持つ男の断言。
『お前らとの抗争も見せかけだけの茶番だ。ドラッグで釣った中毒者連中に襲わせてる所から見て、主力は何か別のことに注力してるんだろう』
「ははあ、てことは俺らを引きつけるのが目的か」
『ロボスの三城威織の立ち位置を相手が理解している証拠だ。お前らの後ろに俺達がいることを知っている奴の対応だな』
「じゃあ都市管理者がバックにいるのは…」
『ほぼ決まりだ。奴らはスローターズを使って何かしようとしている。前の降高の事件の時のようにな。そのドラッグ、“ザイオン”もその為の道具だろう』
「ジャンキーの相手ならいくらでも引き受けるけどさ、肝心の狗井が出てこないんじゃキリないぜ?」
「スローターズが囮なら、お前らロボスもこっちの囮だ。狗井はアオイとマコトが狙う」
「居場所はどうすんの?」
『俺を誰だと思ってる?人探しは得意分野のひとつだ』
「なぁるほど、最初っから俺らは餌だったわけだ。相変わらず目つきの通り性格悪い奴だな。じゃあマコちゃん達はもう狗井んとこに向かってるんだな」
『そういうことだ。お前はしっかり餌の役目を果たせ。ただ制御装置を外した以上、お前の位置は九龍隼人に筒抜けだ。その点にだけは注意しろ』
「餌としちゃさぞ上等に見えるだろうよ」
イオリは不敵な笑みで答える。
「リーダー、カラオケで待機してた奴等から連絡、歌うのも飽きたんで今から突っ込むって」
マキからの状況報告。
『ほか数箇所に点在しているロボスに奴らが向かうのも確認した。表面の争いはお前に任せるぞ。裏側は俺達でやる』
「了解、二人に楽しんでって言っといて」
緊張感のない言葉で通話を終える。
狭く薄暗い室内に6台のモニタを繋いだ橘のプライベートルーム。モニタの明かりに浮かび上がる無数の配線とキーボード、マウス、レコーダ、デコーダ。
街の至るところにある記録収集用のカメラ、その全てに接続できる設備を整えた小さな天空の目。
内5台のモニタには続々と現れるスローターズとロボスの白い集団の各所での映像が映っている。
残りのひとつ、橘の見つめる正面のモニタにはブラウンのジャケットを着た短髪の男が映っていた。
一見して静かな物腰の男の顔が拡大される。
粗い映像で画面いっぱいに映し出した目。
その中に潜む、暗く獰猛な狂気の色。
「…そう気楽な相手じゃないだろうがな」
橘は誰にも聞こえない呟きを洩らし、その目の奥を探るように見つめ続けた。
―3―
爆音と言っていい騒音を響かせながら、早鷹の運転する車は急カーブを曲がりきった。
助手席に座る芦名瑞季は唯一の頼りであるシートベルトを固く握ったまま硬直していた。
「早鷹さん、少し落ち着いて…」
「いられるか。ガキ共の悪ふざけにしちゃ度が過ぎてる」
二人の乗った車は法定速度のおよそ3倍のスピードで一般道を走っていた。一応サイレンは鳴らしているが、この速度では相手の停車が間に合わない。その為早鷹は目まぐるしくハンドルを切り、速度は落とさずにジグザグの運転で進んでいた。
「この真っ昼間からW2区一帯で抗争だと…?」
W2区は西園(西部地域)2区を示す呼称である。上座市の四つの地区はその中で9から10の区域に番号で分けられている。ロボスとスローターズの衝突は拡大し続け、一区域を覆うほどの規模になっていた。
「人数自体はそう多くないです。両グループ合わせて4、50足らずですが、地区内多箇所で突発的に同規模の衝突が相次いでいるそうで…」
「はた迷惑な奴らだ。“あの馬鹿“の目星は?」
「おそらく一番相手側に突っ込んだ辺りかと」
「だろうな」
すでに車はその地点を目指している。到着まで5分も掛からないだろう。早鷹はこれ以上ないほどに不機嫌だった。芦名は速度への恐怖と早鷹への恐れで二重に落ち着かない気分だった。
地区周辺に近付くにつれ騒がしくなってくる。救急車のサイレンと警察のサイレンがそこら中から聞こえ、事後の場所には野次馬が大勢いた。
「早鷹さん、この規模だと軍も出てくると思います」
「知ったことか」
早鷹は他には目もくれず運転し続け、目的の“あの馬鹿”がいると思われる場所に到着した。芦名の予想より大分早い到着である。
にも関わらずその場所も既に勝敗が決した後だった。二人は車を降りると、周囲に倒れた十数人の中から意識を失っていない者を探した。白服はいない。どうやらこの場はロボスの圧勝のようだ。芦名はすぐそばで身じろぎした男に気付き近寄る。懐からQPDAを取り出し資格証明を表示した。
「警察です。大丈夫?」
男が緩慢に顔を上げ、資格証明を見た後に芦名の姿を見た。今日の芦名の服装は、上下共に白っぽい色のスーツだった。
「シィ、シロの奴ぅ!」
「ちょっとあなた…!」
男は突然動き出し芦名の肩を掴むと、飛びかかるように押し倒した。その力は強く、芦名には抵抗する間もなかった。
馬乗りになった男が拳を振り上げるのが見えた。男の額には破れるのではないかと思うほどに血管が浮き上がっている。
「止めなさい!」
叫ぶと同時に振り下ろされた拳。思わず目を瞑る。殴られるのに備えた芦名の耳に鈍い音が届く。
しかし痛みはいつになってもこなかった。
目を開けるとそこには足を振り切った早鷹と、そのかなり先の道路脇に飛んだ男の姿が映った。
「早鷹さ…」
「油断し過ぎだお前は。早く立て、次が来るぞ」
「つぎ?」
まだ動悸の早い心臓を抑えながら周囲を見回すと、倒れていた者達が起き上がっている。そして何故か全員が芦名に向けて進んで来ていた。
正気とは思えない獣のような息遣い。
「なんなの…?」
「どうやら奴らお前の服装が気に入らないようだ」
「服が?」
思わず早鷹を見ると、彼はこんな最中に電話を掛けている。その間にも芦名に迫っていた一人を早鷹は無造作に蹴飛ばした。その襲撃者も先程と同じように飛ばされて動かなくなる。
「W2区にいる全員に連絡。現状確認できた情報を伝える。スローターズ側の奴らに薬物使用の可能性あり。白い色に異常に反応する兆候が見られる。現場付近から該当する一般人を遠ざけろ」
同じ言葉が芦名の手のQPDAからも聞こえる。電話ではなく警察専用の無線通信だ。今の言葉は付近一帯の警察官全員にリアルタイムで通達されたはずだ。
「薬物って、もしかして“ザイオン”ですか?」
慌てて身を起こした芦名に早鷹が小さな錠剤を放った。
「保管しとけ、証拠物件だ」
「はい、でもこの状況は…」
まずいのではないか、と言おうとした矢先に、早鷹の拳で二人の人間が地面と平行に吹き飛ぶ。まるで拳が爆弾にでもなったような凄まじい威力だった。
「奴らの狙いはお前だ、離れるなよ」
早鷹の手に力が入り、関節を慣らす音が芦名の耳にまで聞こえた。迫る十数人の獣じみた集団と向かい合い、早鷹は平素と変わらぬ様子で「すぐに終わる」と言い残し、自分から突っ込んで行った。
矛盾している。
今さっき離れるなと言ったではないか。
そんな不満など吹き飛んでしまうほどに、早鷹の戦闘は凄まじかった。
早鷹が動く度に人が飛ぶ。その動きが速すぎて、距離を置いて見ている芦名の目にも何をしているか分からない。スローターズの残党も薬物使用によるものか、常人より遥かに機敏だったが、早鷹の動きは次元が違った。
芦名の視界に一番遠くにいたスローターズの一人が咆哮しながら早鷹に突撃するのが見えた。手には絶対に家庭用ではない長く重そうな刃物を構えている。
早鷹の位置からは死角だ。
「早鷹さん!」
すでに接触寸前だった。
しかし遅すぎた注意の声を上げた時点で早鷹は身を回転させ、見もせずに突き出されたナイフを躱していた。
そのまま相手の突進と自らの回転の勢いの乗った拳が“着弾”すると、まるで交通事故にあったような砕ける音が響いた。
ナイフの男は空中で何回転かしながら明後日の方向に落下した。それで最後だった。いつの間にかスローターズの復活者は、再び全員が強制的に眠らされていた。
「怪我ないか」
早鷹はまるで何もなかったように、まだぼうっとしている芦名に声をかける。それでやっと気が戻ってきた。
「…はい助かりました。相変わらず暴力沙汰は天下一品ですね。さすがは…」
「その渾名はよせ」
言う前に窘められる。確かにその名は、今この場で口にするべきではなかった。それは早鷹の苛立ちを募らせるだけだ。
『状況報告。ギャングの衝突が中央区西端に拡大、徐々に市の中央に移動している模様。付近の動ける者に援護願う』
無線通信の一報に早鷹が舌打ちする。
「まるで撹乱されているようだ。警察の囲い込みを上手く避けていやがる」
『現在北嶺よりケルビムの小隊が応援に急行中。軍は我々と別の管轄扱いである。小隊の行動を阻害するな。繰り返す、小隊の行動を阻害するな』
「やっぱり動きましたね。…そして、やっぱり警察を当てにはしていない。到着したら彼らが主導を握るのは間違いなさそうです」
早鷹はこの場の連中の始末を他に任せる連絡を入れると、足早に車に戻って行く。
「芦名、お前は残って現場の引き継ぎをしろ。ザイオンの件も合わせてな。奴らのポケットの中を探ればまだ山ほど出てくるだろう」
「中央区へ行くんですか?」
「“あの馬鹿”のいるところへだ」
そう言うと再び急発進し、すぐに視界から消えた。事情を知っている芦名からすれば、早鷹のあの気負いも理解できた。しかし言わずにはいられない。
「まったく、勝手だわ」
溜息と共に呟いた言葉は、早鷹と“あの馬鹿”の両方に当てはまる言葉だ。芦名もその馬鹿呼ばわりされる相手のことを知っている。今の早鷹は暴動鎮圧をよそに、その人物一人を目的に動いているのは明白だった。
パトカーが角を曲がって近づいてきた。
芦名は気を取り直し、目の前の仕事に集中することにした。
それ以外できることがなかった。
―4―
狗井勇吾は西園区の飲み屋にいた。
店の名など知らない。単にある男から隠れ家として渡されたメモに載っていた場所のひとつだ。狗井がここを訪れると、店の主人は何も言わずにカウンタの奥の部屋に招き入れた。
それが今日の朝のこと。時間にして約7時間程ここで“仕事”をしていたことになる。その間に“商品”を購入しに来た客には、すべてロボスへの対応材料になってもらった。
ザイオン。天国の名を与えられた薬物。服用したものに多幸感と神経過敏作用をもたらし、それが相互に機能して服用者に恒常的な快感を与え続ける楽園の薬。それが狗井の扱う商品だった。
しかしこの薬には知られていない側面がある。それは催眠や刷り込みの導入剤として極めて有効なものであるということだ。すべての思考や行動に幸福感を伴うことは、ある意味で自我の抵抗力を失うことをも意味する。善悪の観念や損得の感情、物事の優先順位が麻痺した服用者には、狗井のような催眠術の素人にでも簡単に暗示を掛けることができた。
拒絶する意思の放棄。何をしても幸福感に満たされる薬効が、服用者を従順な下僕へと変えるのだ。
ただ強い口調で繰り返し指示を伝える。それを相手が暗唱できるようになれば成功だ。そうやってもう何人に薬を売ったか、狗井はとっくに数えるのを辞めていた。
つまり自分はブローカーであり、メッセンジャーだ。どちらにしろ誰かの仲介役でしかない、常に第三者的な立ち位置の男だ。
(頭の中の“こいつ”さえいなけりゃあな)
そう考えて、自嘲的に一人で微笑む。そもそもの話、“こいつ”がいなければここまで身を持ち崩すこともなかったはずだ。
しょうがない。いるものはいるのだ。後はうまく折り合いをつけて生きるしかない。
時計を見る。ここに入っておよそ8時間。潮時だろう、他の3人の幹部も移動を始めるはずだ。
その時狭い個室の唯一の出入口である、狗井の目の前のドアがノックされた。
「狗井さんって人、中にいる?」
女の声。まだ幼い、高校生くらいの少女の声がドア越しに聞こえた。
「ここで薬を売ってるって聞いたんだけど」
また客のようだ。狗井は嘆かわしい思いだった。まだ若い女がなぜ幸福感を薬で得る必要があるのか。自分が恵まれていることに気づかない人間、そういう人種を何人も見てきたが、健常な頭を持った若者が、自ら薬に手を染める理由が狗井にはどうしても理解できない。
「開いている。勝手に入れ」
溜め息と共に、今日初めて自らの声で相手を招き入れる。
…待て。初めて?
今まで薬を買いに来た奴らは、全員外の店主が自らドアを開け招き入れていた。だから狗井はこの部屋に入ってから自分で招き入れたことがない。だが何故この少女に限って外の男が間に入っていないのか。
背筋に冷たい感触が走り、猛烈な危機感に襲われて立ち上がる。
その瞬間、目の前のドアが物凄い音と共に狗井に飛んできた。避ける間もなくドアと激突し、座っていた椅子から転げ落ちる。
痛みに構う暇を惜しんで起き上がり、狗井は慌てて遮蔽物の無くなった入口を見るが誰もいない。
その耳に金属の冷たい音が響き、狗井は凍りついた。
「あんたが狗井?」
先程と同じ声が真横から聞こえた。横目でその方向を見ると、銃を構えた小柄な少女が、先程まで狗井が薬を小分けにしていたデスクの上に屈みこみ、こちらを見下ろしていた。
「…そうだ」
答えながら狗井は目まぐるしく状況を把握しようとした。この目の前の少女が何者かは分からないが自分に用があるのは間違いない。そして問答無用で突入してきたからにはその用件はあまり穏やかなものではないのだろう。
突入、接近、制圧。この少女がそれをたった一人で実行し、成功させたのは明白だ。バックアップがいるならとっくに姿を見せているだろう。つまり単独だ。彼女がドアを吹き飛ばし、それと同時に室内に入り、狗井が態勢を整える前に至近距離に入ったのだ。
およそ常人にできる芸当ではない。
いいんじゃないか?
…囁きが聞こえる。
こいつになら俺を見せてもよくないか?
おい、出てきたいのか?
心配ない、こいつは切宮と同種の匂いがする。
だが一度でもお前が出ると…
大変なことになる?
結構じゃないか、派手に行こう。
ずっと前からそうしたかったくせに。
「あんたに聞きたいことがある。ザイオンの入荷元について」
目の前の少女が言う。その口ぶりはその答えを知っている事を匂わせているように思えた。
無機質な瞳。何の感情も篭っていない。きっともし自分を撃たなくてはいけない状況になってもその瞳は変わらないだろう。体が震えた。恐怖ではなく、喜びで。
「名前は?」
「答える必要ないね」
恐ろしいまでの好奇心が湧いた。同時に頭の中の“あいつ”が表面に出張って来るのをはっきりと感じた。
「あんたも喋る気はない?なら、連れて帰ることになってる」
「どうやって?お前に俺を抱えていけるとは思えないが」
狗井は笑みを浮かべながらゆっくりと少女に顔を向ける。面と向かって見合い、ふと違和感を覚える。
「おや?…もしかして男か?」
「それ以上動くと撃つよ」
さらに顔を近づける。その額に銃口を押し付けての警告。
「やってみろよ、お嬢様」
躊躇うことなく引かれた引鉄。そんなこととっくに理解していた狗井にすれば避けるのは造作もなかった。
全身に走る電気に似た感覚、その作用によりコンマ数秒で動いた体が弾丸を躱した。少女、いや少年の目が大きく見開かれる。その間に狗井は攻勢に出て、高速で少年の首に手をかけた。
更なる驚愕、あるいは歓喜。
相手の体に触れたと思った瞬間、少年の体が目の前から消え失せた。だがこの時既に発現していた狗井の能力が、彼が上に飛んでいることを教えてくれた。
上を見る。少年と目が合う。
後方宙返りの要領で回転していた少年はすでに銃口をこちらに定めていた。やはりその目は自分を撃つことに迷いなど感じていない。喜びが溢れる。
放たれた銃弾が迫る。セオリー通りの2連発。
しかしその行く先は、何でも嗅ぎ付ける狗井の“猟犬”の能力によりとっくに知れていた。
軌道の隙間を縫って逆に飛びかかる狗井に、再び少年の目が見開かれた。しかし動転すらしていない。頭の中には次なる攻撃のカードが次々と準備されているのが狗井には見える。
その攻撃の軌道が視界に浮かんでは消える。1秒に満たない逡巡の後に少年が選んだのは、意外にも後退だった。
すぐ近くの天井を足で押し、あっという間に狗井の射程から下方に離れた。空中にいる自分へ向けて更に銃撃を仕掛けようと構える少年。
だがその軌道を“先に見ていた“狗井も少年を真似ていた。
すぐ側の壁を押した反動で、がら空きになった個室の外へと飛ぶ。転がりながら約8時間ぶりに見た飲み屋の店内、そのカウンタに突っ伏して気絶した店主の男の間抜けな顔。その他店内にいただけの一般の客も同じく気を失っていた、
「ハハッ、容赦無しかお嬢さん!気に入ったよ!」
狗井の中の“あいつ”が言った。いや、表層に出てきたからにはそれは狗井自身とおんなじだ。壁越しで見えない筈の少年の動きを、狗井は赤外線のような視界ではっきりと捉えていた。
店主の男を掴み、個室の入口に向かってその体を放り投げた。再び全身に走る電子の力に加速され、野球ボール並の速度で入口に激突した。頭と足が縁に引っ掛かり、一瞬だけ出入りを妨げる壁となった店主。少年の追撃を止めるにはそれで充分だった。
「また会おうぜお嬢さん、生きる楽しみが増えたよ」
そんな言葉を残して、狗井は一目散に外へと飛び出した。
背原真琴は狗井が外へ逃げた数秒後に個室を出た。足元にはついさっき気絶させた店主が体の痛みに呻いていた。よくて打撲か、最悪骨折しているだろう。
店主の容態を見ながら、黒の改造端末を取り出し、それを持つ全員へと一斉に発信する。最初に応答したのはやはり橘だった。
『狗井は逃げたな』
どこにでも目を持つ、頭脳の周知の発言。
「ナオ兄の考え通り、あいつも顕現能力者だった。なんだろう…多分予知能力みたいな、先のことが分かる能力だと思う」
『は?予知とか反則だろ』イオリの軽口。
そしてまた別の回線が接続した音。
『マコの方が当たりだったか。でももしそれが事実なら見つかる前に逃げてそうだけどな』
アオイの疑問。彼は数箇所にまで絞った狗井の居場所を、マコトと手分けして当たっていた。橘は狗井の姿を捉えていたが、その映像元は暗号化され、西園区の複数の店舗、そのカメラのどれかということまでしか分からなかったのだ。
『顕現能力は所詮電子を媒介にした精神の顕れだ。ないとは言えないが、おそらく電子速度で対象の状態を分析し、予測できるような能力だ。時間にすれば一瞬だから、予知と大して変わらんだろうな』
橘の疑問に対する回答。
「どうする?今からでも追いかける?」
『いや、そこの店主からある程度情報は得られそうだ。今回はそれで手を打とう。マコト、もうすぐそこにこの間の協力者が迎えに来る。それまで店主を見張ってろ。全員一旦戻れ』
「見張るまでもなさそうだけどね」
マコトは端末を仕舞うと、さっきの短い攻防で異様に喉が乾いているのに気付いた。
「…勝手に何かもらうね」
一応店主に断りを入れ、マコトは奥の冷蔵庫を開けた。しかしそこにはアルコールばかりで、マコトが飲めるものはひとつとして備蓄されていなかった。
不満げに扉を閉めるその手に、わずかに電気的な痺れが走ったことを、この時のマコトはまだ気にも留めていなかった。