into the black
真夜中に迫る時間帯。
ビルとビルの隙間のようなその細い裏道には昼でも光が少ない。熟成されて粘土のような密度となった濃い暗闇の中には、紛れるように蠢く複数の人の形が見えた。その手が操るわずかな携帯端末の光で、闇に慣れたわたしには充分彼らが視認できる。全部で6人。
3対3で向き合い、無言で互いの端末を有線接続して行っている操作が、電子通貨の不正取引であることをわたしは知っている。今やこの街では当たり前となったデータキャッシュ。それを改竄し、増額したりこっそりと移動したりしているらしい。つまりどちらかの側が情報操作屋で、もう一方が依頼人でどちらも悪人。でもそこはどうでもいい。わたしにとって重要なのは、彼らが裏社会に関わる人種であるということだけ。
闇の中で端末を食い入るように見つめる男。その周りに護衛と思しき大柄な男がそれぞれ2人ずつ、こんな狭い場所でこそこそと悪だくみをしている。
なんだか滑稽だ。自分も含めて。
そう思いながらわたしはゆっくりと立ち上がった。
連中はまだ気づかない。
前に出る。
わざと地面を擦り、砂の音を聞かせる。
その音に男達が振り向き、驚いた。突然の黒ずくめの出現に。わたしの出現に。さぞ驚いただろう。その時にはわたしは、彼らから3、4歩程の距離にまで迫っていたから。この間合いは動揺した相手を先制するのにちょうどいい。今やわたしの必殺の距離となっていた。
物音、人影、その二つを認識して驚くまでの遅延。その無駄な確認の時間を衝くように“ダガー”を振るう。一番近い男の額に深い裂傷が走る。わたしより頭3つは背が高かったので軽く跳躍していた。そのままダンスのように回転しながら奥の男に一閃。逆手に持ったもう一振りのダガーで。どちらも護衛と思われる大柄の2人を狙った。ほとんど同時に上がる二つの悲鳴で、重い暗闇が騒々しく破られる。
狼狽した残りの男達が身構える気配。しかしまだこちらを視認できていない。当然だ。今のわたしの姿は闇に溶け込む為のもの。全身、顔まで闇の色。心の中まで広がる、静かな黒。
ダガーのグリップにあるギミックを操作し、両手同時に投げ放つ。ケーブルで繋がったデバイスを持つ、呆気にとられた男達を通り過ぎ、背後の護衛それぞれの肩口に命中。投擲は散々練習したお陰で、今では目をつぶったままでも狙い通りに命中させる自信がある。
悲鳴も無く男達が痙攣しながら倒れる。仕掛けた電流のおかげで、どこに刺さろうが一撃で相手は行動不能だ。地面で悶える彼らを見て、残された2人は声も出せずただこちらを見つめた。完全に動くことを忘れている。
密かに息をつく。制圧完了だ。
時間にして1分にも満たない。我ながら慣れたものだ。
「…り、切り裂き魔か…?」
それがわたしの渾名であることを最近知った。全身を黒の装束で覆った、都市伝説の怪人。裏社会専門の〈切り裂き魔〉。それがわたしらしい。
呟く男を無造作に刻んだ。速やかに取り出した予備のダガーで、額に斜めの十字傷を。電流付のおまけ付き。男は間抜けた顔のまま、あっさりと地に崩れ落ちる。繋がれた端末が地に落ちる振動を感じ、そのもう一方を握る最後の1人がようやく恐怖の表情を浮かべ出した。その首筋へと刃を向け、覗き込むように顔を近づける。どうせわたしの顔は黒いマスクでのっぺらぼうだけど。
『キリミヤ・イチロウを知っているか?』
男は血にまみれた顔で首を振る。
「…あんたがその男を探してることは噂で知ってる。でもそんな男は知らない。ここにいる誰も」
こう何ヶ月も続けていれば知れ渡るのも当然か。それを知っても何とも思わない自分が不思議だった。中年の男は痛みに顔を歪めながら、尚も言葉を続ける。
「一体…なぜこんな馬鹿げた質問の仕方を?」
この連中からすれば迷惑なことだろう。だけど他に方法がなかった。こういう類の連中が、14歳の中学生の質問などに耳を貸してくれないことを、わたしは何度かの試みで実感していた。
今に至る経緯。最初に話を聞いてくれた男。
好青年風の若い男はわたしの話を親身に聞いている風だった。何か知っている素振りを見せつつ言葉巧みに誘導し、理由をつけて怪しい店にわたしを連れ込もうとした。わたしは男が受付をしている間に目を盗んでひたすらに走って逃げた。
めげずに尋ねた次の中年男は、何も言わずに人目につかない場所に連れ込むと、突然後ろから抱きついてきた。その時はむしろ今よりもずっと恐怖を感じたのを覚えている。わたしは滅茶苦茶に暴れて、やはり走って逃走した。そいつがわたしの背中に放った汚い言葉は、今も思い出すと吐き気がする。
彼らは最初からわたしの話など聞いておらず、わたし自身の方にしか興味を持たなかったらしい。
子供で、少女のままでは会話すら成立しない。まるで自分が彼らより下等な存在で、人間ではないかのような扱いに、悔しさと怒りと苛立ちを募らせては気持ちだけが焦っていた。
そんな時ふと思い出したのは、昔自分が先生と呼んでいたある人の言葉だった。
『今の時代、人から真実を聞き出すのは至難の技だ。一般の人間ですら本音を隠し、上辺だけの空虚な返答で場を濁すのが常識になりつつある。本気で会話をしている人間など滅多にいない。情報を生業とする探偵には困った問題だ。では本当の話を聞きたい時、聞いてもらいたい時にはどうすればいいと思う?』
自分の仕事は探偵だと、少なくともわたしにはそう話していた。そうはいうものの、実際に仕事をしている所は見たことがない。その言葉はたしか、探偵がどんなことをするのか教えてほしいとせがんだ時の“呟き”だったと思う。先生はどんなに大事なことでも、いつも呟くように話した。
その時の会話で自分が何と答えたかは忘れてしまった。しかし先生の口にした解決方法は鮮明に覚えていた。わたしは先生の教訓めいた呟きのほとんどを記憶しているのだ。
『相手の肩を叩くだけでは現代人には見向きもされない。もっと強烈な、相手を本気にする刺激が必要だ。呼び掛けるなら肩を叩くより、相手の頭を思い切りハンマーで殴りつけた方が効果的だ。何か伝えたいなら目の前にナイフを突き付けてから会話を始める。それくらいの危機感を与えて、やっと向こうはこっちを見る。真剣にな。驚異、危機感が一番の説得力となる。俺が相手をするような奴らなら尚更だ』
ならば自分のような子供が会話を成立させるには更に強い刺激が必要なのだ。わたしに説得力を付加する刺激が。
それがこの滑稽な、虚仮威しの仮装を始めた理由だった。
そうでもして果たしたい復讐が、わたしにはあった。
『スローターズを知っているか?』
相手の問いを無視して次の質問に移る。
おそらくはなにかの組織か団体の名称。キリミヤに繋がるかどうかは分からない、今は単なる空の言葉。
「…それは狗井の集団のことか?…」
軽い驚き。
ほとんど初めての明確な回答に思わず反射的に男の前に屈みこんだ。至近距離で視線を合わせる。もっとも男からはフードの下の黒い覆面しか見えていないだろう。しかし逆に、それが謎の人物らしい異常性を強調し、恐怖心を煽ったようだ。
首筋にダガーを当て、顎を軽く上げる。
話を促す合図。
「さ、最近派手に動くようになった、狗井ってガキが仕切るチンピラの集団だ。ほんの少し前からロボスとやり合って何か揉めてるって聞いた」
それで?
ダガーの切っ先が先を促す。
男の喉が鳴る音。
「で、でもキリミヤなんて奴の話は聞かない。仲間かどうかも…な、なあ、俺が知ってるのはこんなもんだ。ガキどもの喧嘩なんてそもそも興味ないし、俺達に関係あるとも思えない」
そのあと男は目を瞑って、うわ言のように許しの言葉を繰り返した。会話の意志の放棄。
わたしは無造作に、男の額に対となる傷を刻んだ。同時に男にとっては解放となるだろう電撃を加えて。意識を失っていく男を見ながら頭の中で呪詛を唱える。
その十字を見る度、一生この恐怖を思い出せ。
その傷は、宮崎花菜の復讐だ。
それが筋違いの八つ当たりであることは分かっている。しかしこの数ヶ月に出会った人間は、誰もが最低な人間だった。自分の欲望を満たすことが最優先で、他人を貶めて得をしようとする人間ばかりだった。
いつしかキリミヤだけでなく、この街の大多数に憎悪を抱く自分がいた。人々の、自分以外への無関心に対する憎しみ。キリミヤに抱くものとはまた別の、最初から標的のいない不特定多数への憎しみだった。
わたしはそこにいる男全員に、同じく十字の傷を刻んでいった。その傷口に同じ言葉の呪詛を込めながら。
もうこの印を付けた人数は相当な人数になるはずだ。それでもまだ花菜の、わたしの目的は果たされていない。
これは花菜の為であり、自分の為の復讐でもあった。
一人残らず十字傷と電撃を加えたあと、切り裂き魔と呼ばれた少女、背原真綾はいつものようにはすぐには立ち去らず、暗闇に慣れた目で周囲を見渡した。
自分の作り出した惨状。しかし何も感じない。
最初の頃、人を傷つける度に泣いていたのが嘘のようだ。
まるで磨耗して擦り切れたように無反応な心臓。
手順をこなすだけの機械のような有様。
その無感動の源泉に、背原真綾は気づいていた。
およそ1ヶ月前、この上座市で起こった連続的な事件と災害。それを境に街の環境は大きく変化し、まるで街ごと殻に閉じこもったような状態になってしまった。そして今もその混乱を引き摺っていた。それはこの街に住む全ての者に何かしらの影響を与え、背原真綾とその周囲の人々も例外なく、その急激な変化に晒された。
その結果、真綾は一人ぼっちになった。
その認識は正しくはない。実際には学校の友人もいるし、教師や周囲の大人も親身に接してくれている。ただ、真綾がそう感じてしまっただけのこと。気づかない方がよかったであろう、本当の孤独に。
本当に心が通っていた相手。それは、たった片手で数えられる程にしかいなかったということに。その数少ない人達が、街が閉じたあの日、みんな消えてしまった。
自分の兄、背原真琴も。
身体が半分になったような喪失感。
家族としての情愛、兄妹としての憧れと尊敬、そして自分でも複雑だと思える個人としての好意。
ただ一人で完結しているような精神を持った兄は、真綾の短い人生で一番多くの思いを抱いた人間だった。
その思いは周囲から近親的な愛情と見られ、まるで鏡に映る似て非なる自分への疑似的な自己陶酔のように危惧された。
真綾は姿を消した兄の姿を思い描き、自然と自らをそれに似せようとしていた。それは状況がそう促し、掲げた復讐も変化を助長し、何より真綾の孤独がその寂しさを補完しようとした結果だった。
鏡を合わせようとする虚しい行為。同じように見えても、決して重ならないことを知りながら何度も繰り返す愚行だった。
その兄とは言葉もなく別れた。そのかわり、兄妹でお世話になった人から訣別の言葉を告げられた。それは今思い出しても辛辣な言葉だったが、彼なりの優しさから出た言葉でもあることが身にしみて伝わってきた。
おかげで孤独感にも耐えていられる。何よりこの閉じた世界のどこかに兄もいることが救いだった。
もう会うことはないかもしれないけれど。
背原真綾は再び血に濡れた男達を一瞥してからその場を立ち去った。自分の愚かな行為が、きっといつか自分に返ってくることを感じながら。
それが目的を果たした後であることを願って。