アステルジョーカーEX #3「バレンタインデーとはチョコを食って血糖値が上がり医者から糖尿病を宣告されて棺桶をベッドに南無阿弥陀仏」
バレンタインデーとはチョコを食って血糖値が上がり医者から糖尿病を宣告されて棺桶をベッドに南無阿弥陀仏
「本気なのね?」
園田サツキが試すように訊いてくる。
だから、八坂イチルはゆっくりと首を縦に振った。
「覚悟は決まってる。それがどんなに厳しい道だったとしても」
「……そう」
サツキは観念した。
「分かりました。ですが、一つだけ条件があります」
「条件?」
「ええ」
サツキは一旦間を開けると、厳しい目つきのままに言った。
「やるからには本気で向かいなさい。少なくとも、あなたから諦めてはいけません」
言われなくても分かっている。
だからいまの言葉は、二人にとっては最終確認みたいなものだった。
●
学級日誌を書き終わり、教室の掃除も全て済ませた九条ナユタが次に向かうのは、星の都学園中等部の職員室だった。今日は日直なので、帰る前に学級日誌を担任の先生に届けなければならない。
いま歩いている廊下の最奥部が職員室の扉だ。後は中にいる筈の担任を捕まえれば任務完了、何事も無く学生寮まで帰れるという訳だ。
「――バレンタインデーの持ち物検査、どうするよ」
「どうするって?」
聞き覚えのある男達の声が、横の空き教室から聞こえてきた。実はその話し声の中にナユタが探している人物の声も混じっていたので、彼は少し首を捻って眉を寄せつつも、部屋の扉にこっそり耳を寄せる。
話はまだ続いているらしい。内容もはっきり聞こえてくる。
「ほら、前から女達と揉めてるじゃん」
「んー……でも相手が相手だしなぁ……」
「あいつらを説得、もしくは力でねじ伏せられる奴が誰かいないもんかね」
「それができたら苦労なんて――」
ここで話し声が途切れると、いきなり部屋の扉が開かれ、担任であるケイト・ブローニングとナユタが正面から鉢合わせとなってしまった。
二人はしばし無言で睨み合っていると、ナユタが控えめに片手を上げる。
「うぃっす」
「まさか盗み聞きしていたとはね」
ケイトがうすら笑いを浮かべる。こういう時の彼からはそこはかとなく危険な香りが漂ってくるのだから油断出来ない。
「で、君はこんなところまで何の用かな、九条君」
「学級日誌を届けに参りました」
「ああ、そういえば今日は君が日直か」
「そうです。ところで、先生は誰と何を話していたんですか?」
「…………」
訊かれたケイトはすぐに返答はせず、しばし黙考して考えをまとめ、ナユタを無言で空き教室の中に引きずり込んで素早く扉に鍵をかけた。
いきなりされた事に驚きを禁じ得なかったが、もっと驚いたのは、部屋の奥にいたもう一人の教師の存在だった。
「あれ、高等部の倉持先生?」
「九条か。日直ご苦労」
無精ひげを生やしたこの男性は、ケイトの同僚である倉持健介先生だ。同僚といってもケイトは中等部で健介は高等部と受け持つ等級は違うのだが、学生時代は常に一緒につるんでいた仲らしい。俗にいう悪友という奴だ。
健介はぱっと顔を明るくして言った。
「なあ、ケイト。まさかこの子を交渉の材料に使う気か?」
「そのまさかさ」
「先生方? 一体何の話をされているのですか?」
さっきから交渉とか持ち物検査とか穏やかでないワードが漏れている気がしないでもない。
ケイトはにんまりと笑って語る。
「実は一週間後のバレインタインデーに持ち物検査を実施しようって話が職員室で持ち上がっていてね」
「持ち物検査?」
「ああ。バレンタインデーといったらチョコレートだろ? 寮にいる生徒も含めて、登校してくる女子生徒全員を対象に持ち物検査を実施するのさ。学業に関係無い物を持ち込むのは古今東西御法度だからね。チョコレートも例には漏れない」
「ふむ……ところで、先生」
「何かね?」
「バレンタインデーとチョコって、何の関係があるんですか?」
「あー……ん、んんんん!?」
何かを思い出すように目線を泳がせていたケイトの顔が、一気に怪訝なものへと変わっていく。
何だ? 何か変な事でも言ったか、俺?
「……九条君。念の為に聞いておこう。バレンタインデーがどういう行事か、君はちゃんと理解しているのかね?」
「モチのロンです」
ナユタは偉そうに頷いて一旦咳払いすると、滑らかに語り出した。
「バレンタインデーは二月十四日に、女性が嫌いな男に自分のウ●コをぶん投げて日頃のうさばらしをするという頭のおかしい行事です」
「やっぱり分かってないよね!?」
「そしてホワイトデーは三月十四日、バレンタインデーの仕返しに男が相手の女の顔面にザー●ンをぶっかけるんです。言い得て妙ですよね。ホワイトですし」
「上手くねぇし、むしろ腹立つわ!」
健介も顎が外れそうなくらいには驚いている様子だ。
「つーか、どこでそんな知識を手に入れた!?」
「親父がそう言ってました」
「いますぐその親父を連れて来い! 俺が説教してやる!」
「はい、どーぞ。これが俺の親父です」
ナユタはデッキケースから一枚のアステルカードを取り出し、教師二人の前に何の気無しに見せつけた。
<No.9 インフィニティトリガー>。ナユタの父親、九条カンタの命が材料となって作り上げられた、おそらくは全てのアステルカードの中で最強の力を持った<アステルジョーカー>だ。
「……いや、その……そんな気は無かったんだが……なんか、その……すまん」
健介が小さく頭を下げる。まさか故人の遺影というか遺骨に怒鳴り散らそうとは思わなかったのだろう。当然の反応だ。
ケイトが難しい顔で唸る。
「うーん……君のお父さんの生前がどんなもんだったか、ちょっとだけ理解した気がするよ。その親にしてこの子あり、だな」
「そんな事より、俺の知識って何か間違ってました?」
「日付以外は全部間違ってるよ」
「マジで!?」
ナユタは素で驚いた。
「バカな……俺が親父と旅していた時に見た町は、何処でも似たような事ばっかりやっていたというのに……俺は全然やった事ないけど」
「最後の一文を聞けただけでも安心したよ」
「ちなみにここ数年はカレーとカルピスが飛び交ってました」
「お前はウェスト区でどんな生活を送っていたんだ?」
本格的にナユタの身の上話が心配になったのか、ケイトと健介がそれぞれ苦虫を噛み潰したような顔をして困惑していた。
「で、実際はどんなイベントなんですか?」
「……それはだね」
ケイトと健介は何も知らない無垢な男子中学生を相手にバレンタインデーの何たるかを懇切丁寧に説明した。
これを聞いていたナユタの顔が、みるみるうちに真っ赤になっていく。
「俺は長年勘違いしていたのか……超恥ずかしい」
「僕は安心したよ。僕のどうにかなる範囲で生徒を一人救えた事に」
「俺、長い教師生活でここまで自分の職業に誇りを持てた瞬間なんて無かったわ」
ナユタが両の手のひらで顔を覆い尽くしている中、ケイトと健介は悟りを開いたように立ち尽くしていた。生徒と教師の交流がここまでシュールなケースもそうそうあるまい。
「とにかく事情は了承しました。要は女子生徒が学校にチョコを持ち込まないようにしたいんですよね」
「相手は女子生徒だけじゃないんだな、これが」
「というと?」
「校長先生がね、うちの女性職員も対象に検査を実施した方が良いって言い始めて」
ようやく相談の内容がスタートラインに戻ったところで、話は何やら怪しげな方面へと向かい始めたらしい。ナユタは少しだけ身構え、ケイトに先を促す。
「うちの校長と教頭は大学部、高等部、中等部、初等部の全てにおいてその職務に当たっている。その校長は男性なんだが、教頭は女性でね。おかげでその二人がこの内容で対立してしまったんだ」
「という事は、教頭は持ち物検査に反対していると」
「加えて、うちの女性職員達まで反対し始めてね。その騒ぎがどんどん大きくなって、ついに中等部のある生徒の耳に入ってしまったんだ」
「中等部の? 誰ですか?」
「八坂イチルさんだよ」
「…………」
いよいよ心から余裕が崩れる音がした。
八坂イチル。星の都学園中等部一年Dクラス。女子中高生向けの人気ファッション雑誌でモデルを務める有名人にして、<アステルジョーカーNO.8 ラスターマーチ>のオペレーター。加えて、<新星人>という種族の魔法使い。
つまり、戦闘能力ではナユタに並ぶ学園最強の戦士の一人である。
「女性教師の一人が愚痴ったんだろう。それを聞いた八坂さんが園田さんとナナさんに話をして、彼女達を中心に噂の波紋が広がって全等級に伝わって、そこからはもう雪だるま式に膨れ上がり――」
「最終的に、バレンタインデーの持ち物検査賛成派と反対派、二つの派閥がにらみ合いを続ける状況になってしまったと」
何ともいかがわしい話である。しかし、イチルから波紋が広がったのなら、その影響はナユタにも伝播している筈である。何で自分はケイトがこうして教えてくれるまで知らなかったのだろう。
とか思ったら、すぐに理由は見つかった。
「まさか俺がS級バスターの仕事で公欠ばっか取ってた間にそんな事が起きていたなんて……他のA級連中に仕事押し付けとけば良かった」
ナユタが学業と両立している仕事は、いわゆる怪物退治である。日々突発的に出現しては周囲を破壊しまくる怪獣・<星獣>を狩る専門家・ライセンスバスターとして働き始めたナユタは、ここ最近の戦闘に関する依頼のせいでちょくちょく学校を抜けていたのだ。A級ならともかくS級ともなるとその需要は非常に大きく、戦闘経験が豊富なナユタみたいな存在は特に重宝される。
おかげで、学校の事情に関心を向けられる余裕がほとんど無かったのだ。
「ともかく、いまはにらみ合いが続いているだけの状況だと。まるで冷戦ですね」
「実はそうじゃないんだ。これまた、八坂さんがとんでもない事を言い始めてね」
「イチルが?」
「このままじゃ拉致が開かないって事で、決着はバレンタインデーの前日、十三日にバトルで付けようと提案してきた」
バトルとは、いわゆる模擬戦だ。本来は<星獣>の脅威から身を護る為に自らを鍛えるべく行われる対人戦形式の訓練なのだが、賭け事やゲームとして行われる場合もある。仮装空間での戦闘なので実際のダメージはゼロだから、誰でも安心してアステルカードの力を振り回せるのが魅力だ。
「まさかイチルの奴、反対派を代表して自分が出場する気ですか?」
「彼女だけじゃない。園田さんとナナさんとチームを組んで、三人一組の変則マッチを僕らに挑んできた。僕らが勝てば持ち物検査を認め、負ければおとなしく身を引く。そういう条件だ」
「何ともむちゃくちゃな……」
小さな頭痛を覚えたナユタがこめかみを抑える。
賛成派の要求が持ち物検査の強制執行なら、反対派は持ち物検査の全面撤回である。賛成派が勝てばバレンタインデー当日は清く正しく迎えられる代わりに女子達が不平不満をダダ漏れにし、反対派が勝てば女子達が狂喜乱舞する代わりに学校全体のモラルが低下する。
どう考えても正義は賛成派にある筈なのに、反対派の力が大き過ぎるせいでどちらが正論ともとれないような有様だ。特に<アステルジョーカー>のオペレーターが三人も反対派側に控えてるあたりが非常に面倒だ。
「とにかく、勢力図のおさらいだ」
健介が適当な机を引っ張り出し、その上に模造紙を広げてマーカーで簡単な図を描いた。雑だが、元・少年兵のナユタからすれば充分な見立て図である。
「いま立っている派閥は三つ。一つは持ち物検査賛成派。俺達のグループだ。ここには俺とケイト、校長を中心しとした男性職員、およびモテないタイプの男子生徒が束になっている。非モテな連中からすれば、女子達がチョコをモテる系の男子に配るという絵面がグロ画像に見えるだろうからな」
「で、反対派はイチルや女性職員達を中心にした女性だけで構成されている集団ですね。スリーオンスリーのチーム戦に出場するメンバーはイチル、サツキ、ナナのバカ三人で既に決まっている」
「最後の一つはいわゆる「どうでもいいや派」だ。バレンタインデーをどうでもいいイベントとして切り捨てている、もはや対立するどころか無関心な連中だ。ここには九条君も含まれている。いままでずっと仕事で、この状況には関与出来なかった訳だしね」
ケイトの見立ては正しい。だが、そうなると一つ気がかりな事もある。
「あれ? 先生達の味方と決まった訳じゃないのに、俺にそんな話をしても良かったんですか? 女子側につく場合だってあったかもしれないのに」
「僕達が教えるまでバレンタインデーという行事を盛大に勘違いしていた君が? 冗談だろ?」
「…………」
返す言葉も無い。ここはケイト側についた方が得な感じがする。
「先生。賛成派側であのバカ三人に挑む人間は決まってるんですか?」
「一応僕が出場する事にはなっている。だが、残り二人が見つからない」
「そこでだ、お前の力を是非貸してもらいたい」
健介が力強く言った。
「正直、<アステルジョーカー>のオペレーター三人を相手に互角以上に戦えるのは学校内ではお前か黒崎ぐらいのもんだ。ケイトも昔取った杵柄があるといっても、やっぱり三人同時は相手にしきれない」
ケイトは教師になる以前はS級のライセンスバスターで、実力はナユタと互角かそれ以上、もしかしたらもっと上かもしれない。もし相手がイチル一人なら、いくら彼女が<アステルジョーカー>を使おうが、ねじ伏せるのは容易だったかもしれない。
でも、今回ばかりは実力一つでどうにかしきれる問題ではない。
「頼む。お前が首を縦に振れば、それだけでこの学校の民度は保たれる」
「わ、わかりました。善処します」
「よし。お前は本当に良い子だ。ケイト、あと一人だぞ」
話が早いというか、余裕が無いというか。ともあれ、これでナユタは晴れて賛成派の一人に名を連ねる運びとなった。
だからといって、話はまだ終わらない。
「じゃあ、次は黒崎君を誘わなければならないな。彼はあまりこの話に関心が無いようだし、引き入れられる余地はいくらでもある」
ケイトの言う通り、クラスメートの黒崎修一は基本的に周囲には無関心な奴だ。これは何年も昔からつるんでいるナユタだからこそ言える事だが、奴の頭にあるのは基本的に自分とパートナーであるユミの保身だけだ。周囲には愛想よく接してはいるが、実の所は冷めた部分が比較的に目立つ人間なのである。
「九条君。黒崎君をどうにか説得できないものかな?」
「まあ、とりあえずやってみます」
「頼むよ。もし失敗したら、当日は僕と君だけで戦う羽目になる」
ここまで念を押されると、さすがに本腰を入れなければ、とは思う。
ただ一つ疑問なのは、何でこの二人は持ち物検査一つの為にここまで必死になれるのだろうか、という点だ。
一体、この二人に何があったのだろう?
ナユタのように気配を隠し切れずに見つかるようなヘマはやらかさない。軍における隠密任務から遠ざかっていたツケが回ってきたのだろうが、これもS級バスターには欠かせない能力の一つ、先輩として後で叱ってやらねばなるまい。
と、三笠心美はナユタと同等レベルのもじゃもじゃ頭を揺らしながら考えつつ、これまでのナユタと教師二人の会話をずっと盗み聞きしていた。しかも、通りすがりの人に怪しまれないように、近くで人を待っているような態度を装っていたのだ。
それにしても、中等部の編入に必要な書類を届けに来ただけなのに、まさかいまこの学校がそんな面白い状況になっていたとは思わなんだか。
「……ふむ」
心美は小さく頷くや、とりあえず職員室に入り、書類を別の職員に渡してから退室し、丁度あの部屋から出ていくところだったナユタの背をこっそり追う事にした。
ナユタとは仕事上の相棒だ。自分には彼の怪しげな動向を見張る義務がある。
なら、ここで二の足を踏む理由も無いだろう。
「案の定、断られた」
「だろうな」
夕暮れ時。ナユタは六会タケシが座る車椅子を押して、学校の敷地内を適当にぶらついていた。黒崎修一に自分達への協力を要請したが、了承したところで他の女子達から睨まれるのが怖いという理由で申し出を断られてしまい、結局はタケシに相談する羽目となってしまったのだ。
だが、彼に愚痴ったところでどうにもならないのは承知の助だ。何が悲しくて、車椅子のお世話になっている重病患者に泣きつかなければならなかったのだろう。
タケシもナユタ達と同じ<アステルジョーカー>のオペレーターだが、彼の場合は<アステルジョーカー>の度重なる使用によって体に過大な負担が掛かってしまい、日常生活に大きく支障をきたし始めている。例えばいまこうして歩く事さえままならなくなったり、最近はナルコレプシーに似た症状が発現する時だってある。二、三ヶ月は安静にしていれば完治すると医者は言っているのだが、いまの彼を見るとそれが本当なのかどうかすら怪しい状態だ。
ナユタは一旦歩くのを止め、枯葉一つさえ残っていないケヤキの木陰に身を寄せる。
「俺は別にバレンタインデーの事なんかどうでもいい。でもイチル達が暴れてるのを見過ごすのは何だか気が引ける。だからどうにかしたいんだが……」
「俺もナナが反社会的行動を起こすなら黙ってはいられんな。俺の体が動けばどうにかなったかもしれんが……たらればを言ってもしょうがないよな」
「修一にも断られちまったし、ユミの協力は最初からアテにはしてない。この学校で他に戦える奴がいるのかいないのか」
「一応、心当たりはいるけどな」
「何?」
タケシが何やら聞き捨てならない情報を漏らす。
「そいつが賛同するかどうかは賭けだが、何なら俺から口添えしておこうか?」
「良いのか?」
「さすがにあのバカ三人を止められるのは俺とお前だけだからな。やれる事なら全部やっといてやるよ」
「そうか。じゃあ」
ナユタは車椅子のハンドルから手を離してタケシに背を向けた。
「せいぜい、お前のスケに気づかれないように頼むわ」
「タケシー! そんなところにいたのかー!」
昇降口から手を振って叫ぶナナ・リカントロープが、元気よくこちらに駆け寄ってきた。さすがタケシの未来の嫁候補。旦那を見つけるセンサーだけは過敏な事で。
ナユタは適当な調子で手を振って足を踏み出すと、すれ違ったナナに適当な会釈をして、今後の方針を考えながら寮まで歩いて行った。
そもそも学生寮で生活している女子がどうやって手作りチョコを作るのだろうか。キッチンは基本的に学生食堂と校舎の家庭科教室にしか無いし、よしんばそこで勝手に料理しようものなら職員から大目玉を食らう羽目となるのに。
という疑問に、心美は例の話を知った段階ですぐに思い至った。
そこで学園全体の大きな情報を元に様々な類推をして、心美がたどり着いた答えが、まさにいま目の前で行われている『料理部』のデモンストレーションだ。
この学校はスカイアステルの裕福な学園と違って倶楽部活動という制度が存在しない。一日一回は<星獣>との戦闘が強いられる昨今、倶楽部活動に興じる余裕がグランドアステルには無いという理由でそうなってしまったのだが、最近は『アステマキナ事件』の影響もあってか、戦闘用アステルカードや関連する保安維持の装置に関する技術が見直され、グランドアステル全体に治安的な余裕が生まれたのだ。
だから発案されたは良いがずっと御蔵入りの憂き目に遭っていた部活制度なども本格的に導入され、女子達もチョコレート作りを学校でも気軽に楽しめる余裕が生まれた、という訳だ。
心美がいま居るのは、料理部の活動がデモンストレーション的に実施されている家庭科教室だ。バレンタインデー直前という事もあり、教頭が女子生徒達に対してチョコ作りを奨励した結果、料理部が部活制度の第一号に選ばれたのだ。
「……うまそー」
反対派側の動向を探るつもりが、目の前のライブクッキングに心を奪われてしまった。部の創設メンバー達が手際よくチョコケーキだのチョコタワーだのを作り上げているのを見て、同年代の女子たる心美が胸を躍らせない訳が無い。
女子部員の一人が心美のキラキラとした眼差しを受け、カットしたガトーショコラを小さなお皿に乗せて笑顔で差し出した。
「食べる?」
「……食べる」
S級ライセンスバスター・三笠心美。ガトーショコラ一つで餌付けされる。
「……おいちい」
「ところであなた、もしかして他校の生徒さん?」
ガトーショコラをくれた女子生徒が訊ねてくる。心美は目をきらきらさせたまま、気前良く質問に応じた。
「ステラ女学院中等部一年・三笠心美。今年度からこの学校で世話になる」
「三笠? え、もしかして、S級バスターの!?」
「うそ、マジで!?」
一人が騒ぎ始めると皆うるさい。有名人とは何とも窮屈な性分だ。
心美は女子生徒達の人ごみに揉まれつつも、質問攻めしてくる彼女達をやんわり押しのけ、今度はこちらから訊ねてみた。
「ここの部活。もしかして部員じゃない人もチョコを作れたりするの?」
「そりゃモチロン。いまはその為の料理部だもん」
「……なるほど」
既に目の端に捉えていた連中を見遣り、心美が静かに頷いた。
いま居る室内中央の調理用テーブルから二つ分離れた距離にあるテーブルでも、ここと同じようにチョコ作りに励んでる者の姿が見受けられる。しかも、あのあたりにいる連中の顔には見覚えがある。
遠くの彼女達も当然のようにこちらに気づくや、その中の二人がさらに驚き、一斉に驚きの声音を上げた。
「あれ? もしかして、心美ちゃん!?」
「何であなたがここに?」
八坂イチルと園田サツキが、それぞれ目を丸くして固まっていた。
「奴は何をやっとるんだ……」
当然、ナユタの耳にも料理部の盛況ぶりが伝わっているのであった。
さっきから家庭科室の入口の陰よりその様子を見守っていたナユタは、大量の女子達に囲まれてチョコ料理で餌付けされている心美の姿をずっと眺めていたのだが、うらやましいとかチョコ美味しそうとか思う以前に、何で職場の先輩というか同僚というか相棒がこんなところにいるのだろうかと心底疑問に感じていた。
ナユタは一旦教室から引き返し、ついさっきケイトに連れ込まれた空き部屋に向かう。目的地には何の障害も無く辿り着き、部屋の扉を開けて中に踏み入る。
さっきまでと同様、難しい顔を突き合わせていたケイトと健介が、ナユタの姿を認めるや、すぐに詰め寄ってきた。
「九条君、どうだった?」
どうだったというと、黒崎修一の勧誘の件についてだろう。
「ダメでした。奴は穏健派ですからね。他の女子達を敵に回したくないらしい」
「そうか……いや、ご苦労だった」
ケイトが諦観を露わにする。だが、こちらもただ手ぶらで帰ってきたつもりは無い。
「しかし先生方、一つだけ最新情報があります」
「というと?」
「何故か俺の相棒が来てます」
「は?」
傍から話を聞いていた健介が首を捻る。
「相棒だぁ?」
「三笠心美。俺がS級に配属されてから、ずっと仕事の面倒を見てもらってます」
「何でそいつがうちの学校に?」
「そういえば、さっき編入の書類が僕のところに来てたような……」
ケイトが記憶の糸を手繰るようにして言った。
「今年の四月から、彼女は中等部の二年に編入するんだ。九条君は知らないかい?」
「話だけは聞いてます」
「だとしたら、今日は書類の提出がてら、中等部の先生に挨拶しに来たのかもしれない。いまの状況とは無関係だ」
「はあ……なら良いのですが」
だとしても、言葉には出来ないもやもやが残るのは何故だろう。
ともあれ、これで話は振り出しに戻った訳だ。目下の問題は、如何にして変則マッチのメンバーを揃えるか、だ。
「どうします? うちでダメなら、外部から誰か雇いますか?」
「いや、それも不可能だ」
健介が首を横に振る。
「あの女子達、メンバーはうちの学校の関係者から選ばんと自分達の不戦勝にするとか吐かしてやがる」
「いよいよもって不平等極まりないっすね」
「どうするよ。数合わせで俺が出るにしても、あの三人が相手なら俺は瞬殺されるぜ、きっと」
健介が言うまでも無い事を口にしてから、大仰に頭を抱えて唸り始めた。
「畜生! このままじゃ、あの頃の悪夢が蘇っちまうだろうがぁ!」
「やはりこの世に神なんていなかったのか……」
ケイトまで意気消沈する。やはり、この二人に何があったのかが凄い気になる。
「先生方はどうしてそこまでバレンタインデーに消極的なんですか?」
「君には僕らの悲しみなんて分かるまいよ」
ケイトが自嘲じみて言った。
「学生時代、女子から何個本命のチョコを貰えるかという期待に胸を膨らませていたバレンタインデー」
「結局本命は一個も貰えず、加えてクラスのリア充共に本命のチョコが手渡されるという光景をまざまざと見せつけられたあの日の放課後」
「挙句の果てにはクラスの女子の一人が悲嘆に暮れる僕達に悲哀の眼差しを向けて大型スーパーで買ってきたと思しき銀紙包装の小さなチョコを一個だけ恵んでくれたは良いけれど、いざ食べてみればチョコの内側は何とサドンデ●ソース」
「この青春時代の苦く辛い記憶が、俺達の心に深い傷跡を残し――」
「もういいです! これ以上は聞いてるこっちが悲しくなりますから!」
なんかもう、色々散々である。ウ●コとザー●ンとカレーとカルピスが飛び交う戦場のバレンタインデーが、自分の中でどんどんみみっちくなっていく。
ともあれ、これが二人にとっての動機なら、こちらとしても賛同しない理由が無い。
これはまさに、不当な配剤によって自尊心を傷つけられた男達の、世界に対する壮大な復讐劇だ。この学校における、この二人と同じ立場にある生徒達に、同じ辛酸を舐めさせてはいけないと彼らは心の底から願っている。この信念に唾を吐こうものなら、自分はS級バスターどころか男ですらない。
ナユタは俄然やる気を出し、憂鬱なオーラを垂れ流す二人の教師に誓いを立てる。
「こうなったら、俺一人であの三人をぶっ潰してやりますから! 男の意地とプライドを、この手で掴み取って先生達に献上してご覧に入れましょう!」
「九条君……」
「九条……」
意識が冥界へと飛びかけたケイトと健介の瞳が、微かな光を取り戻す。
「だから先生達も諦めずに戦うんです!」
「そうだね。僕達が諦めて、一体何になるというんだ!」
「もう二の轍を踏む輩を生み出さないと決めたんだ。俺は戦うぞ、九条、ケイト!」
三人は高揚する戦意を確かめ合うべく、がっちり円陣を組んだ。
「死ぬ気で女子達の野望を挫く! 地獄の果てまで付き合ってもらうぜ、野郎共!」
「「しゃぁあオラァ!」」
かくして、ここに悲しき男達の悲愴な決意が火柱となって噴き上がった。
●
そんな男達の爆熱さ加減を当然ながら知りもしない心美は、女子寮のイチルの部屋で、イチルとサツキに事情聴取を執り行っていた。
お題は勿論、バレンタインデー前日に開催される変則マッチについてである。
「――なるほど。イチルは当日、撮影の仕事が入っていると。ふむふむ」
「まあ、そういう訳」
これまでの話を要約すると、大体こんな感じだ。
バレンタインデー当日、イチルにはいつもお世話になっている雑誌の撮影が入ってしまっている。だから終業後はさっさとイースト区の撮影現場に向かわねばならないのだが、そうなると放課後に意中の相手にチョコを渡すチャンスが授業の前になってしまうのだとか。
そこに、例の持ち物検査の話が舞い込んできたのだ。
「放課後に渡すにしたって、そいつにも仕事が入ってるし――」
「相手は社会人?」
「……微妙」
イチルが言葉を濁すが、心美にはその理由が分からない。何故なら、心美はイチルの意中の相手を知らないからである。
だが、相手が誰にせよ、星の都学園の関係者が相手でなければこの話はそもそも成立してすらいない。無論、更なる質問は用意してある。
「お昼休みじゃ駄目なの?」
「最近はパソコンで報告書の作成に追われてるし……ほら、やっぱり仕事の邪魔はできないじゃん」
「…………」
イチルの気遣いに感嘆するより先に、そういえばナユタに大量の仕事を押し付けていたのをすっかり忘れていたと、場違いにも程がある記憶を呼び覚ました心美であった。最近は新種の<星獣>であるオーガタイプまで出現しているので、S級バスターはその調査と対応にずっと追われているのだ。特に、対<星獣>戦に強いナユタは長官からも重要な仕事まで預けられている次第だ。
心美は少し考えてから言った。
「ちなみに、賛成派側はナユタとケイトさんが出場するっぽい」
「ナユタ君が!?」
「あのバカ、話を余計こじらせやがって……!」
? イチルとサツキは何に驚いているんだろう?
「どうします、イチルさん? 彼が敵に回ったという事は……」
「ほんとどうしよう……あいつ、こんなイベントに関わるような奴じゃないって思ってたのに」
「何を驚いているのやら……」
普段は周囲に無関心な心美ですら、この二人のやりとりには微妙な顔をした。
「何にせよ」
心美がずばりと言った。
「朝のワンチャンを狙うなら、まずナユタに勝たなくちゃ駄目って事」
「簡単に言ってくれるけどねぇ、あいつの<アステルジョーカー>はマジでヤバいんだって! あー、<アステルジョーカー>を使うのアリだなんてルールにしなきゃ良かった!」
「それは身から出た錆って奴よ」
身も蓋もない事を言ってから、心美はよっこらせっと立ち上がった。
「私は何もしてやれなさそうだけど、まあ、がんばれ」
「そんなご無体な!」
「そもそも学業に関係の無いものを持ち込もうとする時点から既におかしい。それに、バレンタインデー当日にチョコを渡さなきゃいけないだなんてルールはどこにも存在しない」
「心美さんは、本当に私達と同い年なんでしょうか……」
サツキが怒るより先に、心底不思議そうな顔をして呟いた。
まあ、自分の精神構造が余人とは違うという自覚は薄々ある。いまさら人格否定されたところで、別に腹が立つようなところは何一つとして無い。
心美は部屋を出る寸前、老婆心で一言だけ置いていった。
「どんな事情にしたって、よく考えて行動しなさい。それじゃ」
果たして、この一言が後の彼女達にどう作用するのだろうか。
●
決戦当日。二月十三日。
星の都学園第一アリーナは大入り満員、客席が埋まるだけに留まらず、通用口から伸びる廊下にも人だかりが出来るという異例の事態が起きていた。
今日はバレンタインデーの持ち物検査の強制執行が懸かっている大事な日だ。単にイチルやナユタといった有名人の戦いを見られるから来ただけという輩も多いだろうが、こちらからすればスポーツ感覚で楽しめる心境では決して無い。
バトルフィールドの中央には既にイチル、サツキ、ナナの三人がスタンバイしている。三人一様にオーダーメイドの戦闘服を身に纏っており、気合も充分といった様子だ。
彼女らに対抗するナユタとケイト、健介の三人は、直前になって軽いミーティングと洒落込んでいた。この男三匹に作戦を指示しているのは、いまだ車椅子から離れられない六会タケシだった。
「――何? 俺が出る必要が無い?」
健介が面喰らって聞き返すと、タケシは涼しい顔で答える。
「ええ。実は、この状況にうってつけな助っ人を呼んできました。ほら、もうそこに」
彼が指を差した入場口の向こうから、見覚えのある人物が歩み寄ってきた。
黒地に赤いラインが描かれたショートのジャケット。両手には既に一丁ずつの自動拳銃が握られている。さらには天然パーマのせいでくりんと跳ねた短い黒髪が、彼女の存在感をより一層引き立てる。
その姿は見紛う事無く、三笠心美その人だった。
「心美!?」
「あれが九条の相棒の?」
「何で彼女がここに?」
三人がそれぞれ目を丸くしていると、基本的に無口な心美の代わりに、タケシが咳払いをしてから説明する。
「イチルが提示した条件によると、学校とは無関係な人間の出場は認められないそうですね。でも心美は今年から編入してくる生徒だから、まるっきりここと無関係って訳じゃない。それにあいつ自身がS級バスターだ。この場であいつがここの女子生徒を何人敵に回そうが、下手に歯向かおうとする奴が現れたり、今後の人間関係を崩したりするような心配は皆無という訳です」
「いえい」
最後に、心美が無表情のままバンザイのポーズを取る。
たしかに、心美ならあの三人のうち一人は確実に潰せる実力は秘めているし、何よりナユタがいま一番呼吸の合わせ方を知る相手だ。連携の密度なら下手な女子の仲良しグループよりも数枚上手を取れる自信がある。
ナユタは心美の両肩を押さえて言った。
「本当に俺達と一緒に戦ってくれるのか?」
「お前のピンチは私のピンチ」
「よく言った!」
かっこよすぎるぜ、先輩!
ナユタは心の中で喝采を送ってから、心美とケイトの顔をそれぞれ見合わせ、この地球上で最強の戦力とされる三人の女子達の前に仲間達と共に並び立った。
「来ましたわね、ナユタ君」
サツキがウェーブしたセミショートを指先でくるくる弄りながら言った。
「しかし残念でしたわね。この勝負、既に私達の勝利が決定しております。三笠さんがそちら側につくのは予想外でしたが、別に大きな問題は無いですもの。時間を惜しむなら、ここでサレンダーして頂けるとありがたいのですが」
「瞬殺すれば済む話」
心美が身も蓋も無い事を言うが、まさにその通りだと思う。
「言ってくれるじゃん。S級バスターだからって、調子に乗らない事だね」
挑発を挑発で返したのはナナだった。ふわふわと揺れるくせっ毛混じりの金髪が眩しく、戦闘服からでもはっきり浮き出る体のラインに思わず目が奪われかけるが、いまは煩悩に囚われている場合ではない。
「悪いが、君達とは覚悟が違うんだよ」
ケイトもまた相手を挑発する。たしかに、覚悟は違うのだろう。色んな意味で。
「あたしだって、明日に賭けた想いがある」
八坂イチルが腕に装着された<アステルドライバー>にドライブキーを差し込んだ。あの三人の中では一番小柄だが、ナユタには彼女の姿が一番大きく見えていた。
「明日のバレンタインデーは、絶対に邪魔される訳にはいかないんだから」
「お前にどんな事情があろうとも、俺達が負けて良い理由にはならない」
ナユタも同じように<アステルドライバー>を構える。
「去年だけで足りなかったのか、とことん面倒な騒ぎを起こしやがって。いまからウンとキツいお灸を据えてやる。覚悟しやがれ!」
それぞれが啖呵を切り終わるや、審判らしき職員が、握っていたリモコンを操作して、事前の説明を開始した。
「これよりバトルのルールの説明を開始します。今回は両者共に三人一組による、時間無制限の変則マッチとなります。<アステルジョーカー>の使用はアリ、ただし<クロスカード>の使用はナシとさせて頂きます。尚、九条選手の<インフィニティトリガー>による<フォームクロスシステム>は無制限の使用を許可します。これより戦いの舞台は試作型の<Vフィールド>に移転しますが、仮想空間内のステージセレクトはランダムとさせて頂きます。HPがゼロになるか、<メインアームズカード>が強制解除された時点でそのプレイヤーは退場となり、どちらかのチームが全滅した時点でゲームは終了、最終的に生き残ったプレイヤーが属するチームの勝利となります」
このルールは事前に聞いた内容と同じなので、さして疑問を挟む必要は無い。
「それではこれより、<Vフィールド>を作動させます。皆さん、目を閉じてください」
審判がリモコンのスイッチを押す。これによりフィールド全体が白く発光し、選手達の体を眩く照らす。
視界が真っ白に染まり、数秒後には新たな景色がお目見えした。
いまナユタが立っているのは、コンクリートの地面だった。周りには無機質なビル郡が立ち並び、当然のように人っ子一人の気配すらしない。
これが<Vフィールド>の能力だ。<Vフィールド>は今年の四月から全ての訓練設備に実装される仮想戦闘フィールドで、たったいまその効力の範囲内にあるナユタ達の体はこの学校の専用サーバーに転送されたのだ。簡単に言えば、戦う為のステージにワープさせられたという事だ。
このシステムにおける最大の目玉はステージセレクトにある。だからこのようなビル郡だったり、西区域のような砂漠地帯だったり、何なら宇宙空間という極端な環境も戦闘の舞台として設定出来るのだ。しかも仮想体の<星獣>まで呼び出せるので、あらゆる状況での危機回避訓練を手軽に行えるようになったのも非常に大きい。
ナユタが周囲を険しい目つきでつぶさに見ていると、やがて審判の声がステージ内に反響してきた。
「転送が完了しました。これより、試合開始を宣言します」
遅れて、耳障りなブザーが鳴り響く。この時点から試合が始まったのだ。
<Vフィールド>によるチーム戦の場合、出場メンバー全員の転送位置はランダムで決定される。だから現時点ではケイトと心美の位置は判明していないのだが、腕にあらかじめ装着された情報端末・<アステルドライバー>のGPS機能を使えば、味方どころか敵の位置も捕捉可能となっている。しかも味方に限っては通信も出来る。
ナユタはホログラムディスプレイを二つ、<アステルドライバー>の上に表示させる。片方は出場メンバー全員の位置を捕捉する為のレーダーで、片方は味方との交信に使う画面だ。
「こちら九条。二人共、応答してください」
『こちらケイト。感度は良好だよ』
『こちら三笠。さっそくサツキに見つかった』
「何!?」
心美がのっけから心臓に悪い報告をしてきた。転送された位置がサツキと近かったのだ。
『いま戦闘を開始した。のんびり応じてやれそうにない。交信終了』
心美との通信が終了する。彼女の声は切迫していた。どうやら本当に余裕が無いらしい。
ナユタは歩きながらケイトに訊ねる。
「先生はまだ誰にも見つかって無いんですね」
『ああ。だが君との位置が遠い。すぐに合流できそうに無い。その最中に残り二人に見つかりでもしたらコトだ』
「だったら先生は心美の援護に向かってあげてください。俺が囮になって、ナナとイチルの両方を引き付けます」
『そうしたら君にとてつもない負担を強いる羽目になる』
「元からそのつもりです。<アステルジョーカー>を使えば割と長く持ちます」
適当に見つけたビルの前に立っていた石碑に身を寄せ、一旦しゃがみ込んで周りを確認する。誰もこちらに訪れる気配は無い。まだ話していられる余裕はある。
「とにかく、相手の一人一人がラスボス級の戦闘能力を持っていると考えて行動しましょう。みんな可愛いからって油断は禁物ですよ、先生」
『了承した。君も気をつけるんだ』
「了解。交信終了」
短く応じて通信を切り、レーダーを確認する。心美とサツキのアイコンが寄り添いあうように動いているので、どうやらお互い接近戦でカタをつけようとしているらしい、とナユタは予測する。
イチルとナナの転送位置はそれぞれ大きく離れており、イチルは北西、ナナは南東から一直線に中央へと向かおうとしている。ナユタの転送位置が最南端だったので、幸い彼女達が合流する道すがらで見つかるようなヘマはせずに済みそうだ。
北に飛ばされたケイトがナユタの指示通り、北東側で戦闘を開始した心美のもとへ向かっている。最低限の消耗、最低限の時間で一人を潰すには、二対一の状況に持ち込んで力押しするに限る。数の力は偉大という訳だ。
ナユタは状況を一通り把握して、真っ青な空を睨み上げた。
「さあ怪物共、かかってこい。目にもの見せてやる」
鳥の翼のような形を模した長細い鍵――青い鳥の<ドライブキー>を<アステルドライバー>のスロットに挿し込み、バトルモードを起動。
「<アステルジョーカー>、アンロック!」
音声認識発動システムが作動。いまのナユタの掛け声が解除キーとなり、彼の姿を一変させる。
白地に青いラインの入ったロングコートを纏い、背中に大きな翼型のバックパックを背負い込む。腰には鞘に収められた青い柄を巻く日本刀が収められ、<アステルドライバー>の画面にも出現した武装の情報が表示される。
<アステルジョーカーNo.9 インフィニティトリガー・ウィングフォーム>。<インフィニティトリガー>が有する変身形態の中で最も機動力に優れ、空中での戦闘を大の得意としている。
大型スラスターが開き、アステライトの光が左右に広がる。この時点から浮力が加わり、ナユタの体がふわりと浮き上がる。
「ブースト!」
掛け声により、光の翼がさらに巨大化。ナユタが地面から一気に上空へと舞い上がる。瞬く間に高層ビルの高さを超え、フィールド全体を眼下に見下ろせるようになったところで、少しだけ考える。
イチルはさっき、明日のバレンタインデーに賭けた想いがあると言った。だから持ち物検査が実施されると非常に困るらしく、このような馬鹿げた賭けに全てを託すような真似をした。
「いや……何かおかしい」
呟いただけに、思考を止めようにも止められなくなってしまう。
別に、持ち物検査を実施するというだけで、バレンタインデーそのものを学校から廃止するという訳ではない。もしイチルが誰かにチョコを渡したいなら放課後にすれば良いだけの話である。あらかじめ前日にチョコを作り置きして冷蔵庫にでも仕舞っておけばモーマンタイだ。
<アステルドライバー>が熱源の接近を報せてくる。レーダーを再び確認するや、ナユタの眉根が険しく寄せられる。
「ん? 何だ? 一人しか来ないのか? ていうか――」
てっきり、イチルとナナが同時にこちらへ強襲をかけるものかと思っていたが、どうやらその読みは外れていたようだ。
更に気になるのは、アイコンの接近速度が異常に速いという点である。
一条の光が、視界正面のビルを沿うように突き上がる。
背後から、風が凪ぐような気配を感じた。
「!?」
ナユタの後ろには、既にイチルが武装たる弓を振りかざしていた。
鋭い刃を備えた鋭い孤が、ナユタが噴かしていたスラスターの光と反射して光る。
「嘘だろ、オイ!?」
さすがにこれには歴戦の猛者であるナユタも焦った。背後を取るまで気配も無く接近していたのもそうだが、レーダーに接近警報が表示されてからの僅かな時間でこんな場所に到達したイチル自身の速力が一番洒落になっていない。
腰の刀、<蒼月>を抜刀。振り返り様に、弓の孤による斬撃を受太刀する。
イチルの綺麗な小顔がこちらの鼻先にまで近づいた。
「イチルお前、いつの間に!?」
「へっへーんだ! スピード勝負であたしに勝てると思うなよ!」
イチルが勝ち誇ったように言ったのが鼻につき、思わず剣を強引に振り払い、その腹に渾身の蹴りを叩き込んでやった。イチルの体は宙で二回ぐらいもみきりするや、すぐに体勢を立て直し、ナユタより少し高い高度で直立する。
まるで、大気の全てに足場があるみたいだ。
「忘れてた。そういやお前、<輝操術>の使い手だったっけか」
「一番警戒するトコでしょ、それ」
イチルはただの女の子ではない。<新星人>と呼ばれる魔法使い一族の末裔である。大気中に酸素と同じく存在するアステライトという物質を自由自在に操って術として還元する事が可能で、いまみたいにアステライトを足場にして空中を自由に闊歩したり、固形化して飛ばすといった芸当が可能なのだ。
「しまった。イチルが一人で来たって事は……」
彼女の能力云々もあるが、もっと放置できないのはナナの存在である。サツキ一人を潰す為にケイトと心美が骨を折ってくれてる最中、ナナがそちらの戦いに介入したら、あの二人をして生き残れるかどうかが最大の心配となってくる。
つまり、ナユタがイチルを速攻で倒さない限り、この戦いに勝機は無いのだ。
なら、やる事は一つだ。
意を決するや、ナユタはスラスターを最大出力にして噴かし、最速の突撃をかける。
すれ違い様に刀を一閃。だが、イチルは横に逸れて、ひらりと回避する。
「くそっ!」
「言ったでしょ? スピード勝負であたしには勝てないって」
イチルは手に白い光の矢を生成して番え、弓を引き絞って狙いを定め、発射する。
矢は途中で分裂し、拡散され、横殴りの光の雨となってこちらを覆い尽くさんばかりに迫ってくる。地球の重力が真横になった時に降る雨が、大体こんな感じになるのだろう。
「<モノ・トランス>・<シールド>!」
<インフィニティトリガー>の基礎能力が一つ、<モノ・トランス>の数ある引き出しの一つを開け、目の前に青い楕円状の膜を生成する。光の雨は青い膜に弾かれて砕けるが、威力があまりにも強かったのか、次第に膜に亀裂が入り始める。
どうにか光の雨を凌ぎきる。が、すぐにイチルが背後に現れ、今度は一直線の矢を発射。これは振り返り様の一閃で斬り裂くが、今度は真上から同じ矢が飛んできた。どうやらいまの一瞬で真上に飛んでいたらしい。これも慌てず大きく横に飛んで回避する。
「<モノ・トランス>・<バスター>!」
刀を鞘に収め、今度は両手にメタリックブルーの自動拳銃を一丁ずつ召喚し、すぐさま応射する。イチルはまるで人ごみを避けるかのような気軽さでこちらの弾幕を回避するや、すぐに別の矢を番えて正確なスナイピングを披露する。
光の線と線がお互いの間で五線譜を敷く。まるで、射撃で演奏しているようだ。
イチルの<アステルジョーカー>は<No.8 ラスターマーチ>といって、弓と剣を同化したような遠近両用の武装だ。目立って強力な力は無いのだが、イチル自身の<輝操術>の力を矢にして飛ばしたり、本来は<メインアームズカード>の力を拡張する為に使われる<バトルカード>を特殊な効力を持った矢に変換したりと、どちらかと言えば使用方法によって性能が変わるタイプの万能型装備なのだ。
そんな扱いに難のある代物を、天才的なセンスと体術を練り合わせて使いこなしているイチルは、間違いなくS級バスターに比肩するトッププレイヤーだ。
「強い……! でも、このままじゃ!」
これでは拉致が開かない。空中での高速射撃戦闘なんて、豊富な戦闘経験を持つナユタですら未体験だ。このままイチルと撃ち合っていても勝ち筋が全く見つからないし、最悪このまま両者のスタミナが切れるまで持久戦に持ち込まなければならなくなる。
いや、ダメだ。それだとサツキとナナにこちらの仲間が倒されてしまう。あの二人もイチルとは違う意味で最強のオペレーターだ。
早く終わらせないと、チーム戦どころの問題じゃない!
手のひらサイズの赤い光の輪が、大通りを駆けるサツキの背後から猛追してくる。数は二。加えて、正面からも同じ輪が躍り出てきた。
正面の輪を、手にした紅の刀で打ち払い、振り返って後ろの輪を叩き落す。交通標識を迂回して飛んできた輪も、全身を地面に投げ込んで回避。背中を軸にブレイクダンスの要領で回転して起き上がり、死角から飛んできた別の輪も真上に打ち上げる。
頭上から足元に小さな影が落ちる。見上げると、サツキの遥か頭上で心美が二丁の銃をこちらに突き出しているのが見えた。
心美が発砲。ここは横に逸れてかわし、着弾地点の上に着地した心美の第二射もビルの物陰に身を潜めてやり過ごす。
光の輪を遠隔操作する中距離型の戦闘スタイルは、まさしくケイト・ブローニングの常套手段と言えよう。まさか<アステルドライバー>のレーダーの位置情報だけを頼りに、こちらに姿を一切見せないまま攻撃してくるなんて誰が考えようか。
加えて、インファイト気味に射撃を仕掛けてくる心美の存在が非常に厄介だ。
つまり、いまのサツキはケイトと心美、二人の強者相手に立ち回っている状況となる。このままでは確実に倒される。後は、ケイトと心美、どちらが先にサツキの首を上げるかというだけの問題だ。
心美が遠慮無く駆け寄ってくる。サツキはひたすら後退して、手頃なビルの自動ドアを前にして立ち止まる。
「<バトルカード>・<サンダーブレード>、アンロック!」
デッキケース内から、音声入力で指定した<バトルカード>を発動。<No.7 紅月>の紅に染まった刃に雷電が纏わりつく。
刃を自動ドアのガラスに突きたて、暴れる電流で粉々に破壊し、ビルの中に侵入する。
心美が何の警戒もせずにエントリーしてきた。<アステルジョーカー>を振るうこちらに対して下手な警戒はせず、迅速に仕留めるつもりなのだろう。少しは警戒して追うのを待ってくれると思ったが、こちらの思惑もどうやらあちらには看破されているようだ。
だが、これでケイトの攻撃はシャットアウトできた。いくら彼がこちらの位置をレーダーで把握していようが、屋内に隠れてしまえば攻撃の操作は精度を欠く。もし再度攻撃を仕掛けたい場合、ケイトがサツキの眼前に姿を晒さねばならなくなる。
これで心美とは一対一。
さて、問題はここからだ。
「逃がさない」
正面の心美が立ち止まって腰を落とし、二丁の銃口から弾丸の嵐を見舞ってくる。
チャンスは一瞬――!
「<バトルカード>・<ブレードパペット>、アンロック!」
これは発砲の直前の発動である。サツキの一歩手前の床から、太い刃の形をした壁が突き上がる。飛んできた弾丸の全てがポップコーンみたいに弾き飛ばされるのを確認すると、サツキは事前の打ち合わせ通りの作戦を発動する。
すなわち、自滅である。
「<バトルカード>・<ストームブレード>、フォースアンロック!」
デッキ内から、<ストームブレード>を四枚発動。<アステルドライバー>のディスプレイが、スピード感あふれる書体で<カードアライアンス>の発動を宣言する。
<カードアライアンス>とは、特定のカード四枚の組み合わせで発動する、<アステルカード>戦術最大の必殺奥義の総称だ。いまサツキはソード型<メインアームズカード>専用の<バトルカード>・<ストームブレード>の四枚同時発動を行い、本来ならここで<トルネードブリンガー>という特大奥義が発生するのだが、<紅月>発動時の場合は話が変わってくる。
サツキの<アステルジョーカー>・<No.7 紅月>は、一枚の<バトルカード>を四枚分発動した事にするという能力を持つ。つまり、いまの状況なら<ストームブレード>一枚で<トルネードブリンガー>を使えた筈なのである。
なのに、何でわざわざ追加で三枚分も余計に使ったのかというと――
「<ハイパーカードアライアンス>・<ハリケーンオーバー>!」
一枚を四枚分として換算された技がさらに追加で三枚分。
一×四は四。四×四は十六。
十六枚分として計算された<ストームブレード>による、<紅月>専用の超弩級必殺奥義が、いま放たれた。
試合に実況が無いというのは案外悲しいものだが、近く開催されるグランドアステルチャンピオンシップと呼ばれるバトルの世界大会では、ちゃんとノリの良いMCを雇ってくるのだという。
だが、いまここで行われているチーム戦に、そんな存在がいなくて良かったと思う。
アリーナの中央に浮かび上がる巨大な球状のホログラムモニターに映された光景は、実況する側が言葉を失うものに違い無いのだろうから。
客席で観戦していた生徒達や教師達のみならず、車椅子の上から観戦していたタケシも唖然とする。
「サツキの奴……何のつもりだ!?」
中継映像が一瞬ブランクしたかと思えば、次に映されたのはなんと、一瞬にして瓦礫の山となっていたビル街の一部だった。ミサイルが投下された後の都会が大体こんなものかと想像したが、こんな芸当をたった一瞬で実現出来るのはこの世でサツキぐらいのものだろう。
何を思ったのか、サツキは自らの全HPと引き換えに、<ハイパーカードアライアンス>で自分が潜んでいたビルを崩落させ、心美を道連れにしてしまったのだ。
これで残りはナユタとイチル、ケイトとナナの四人だけだ。
と思ったら、新たな中継画像が、別の意味でとんでもないものを映し出した。
「あれは……!」
画面いっぱいに映っているのは、全身を銀色の鎧で武装した、黄金に輝く体を持つ二足歩行のドラゴンだった。両肩には円筒状の砲塔が乗っかっており、両腕にもそれを小型化したような砲塔が二門ずつ装備され、両足には六連装のミサイルポットが括りつけられていた。
間違いない。あれはナナの<アステルジョーカー>・<No.6 ドラグーンクロス>だ。
「以前よりも数段強化されてやがる。これはやばいぜ……!」
「つーか、ケイトは何処行ったんだよ!?」
隣で観戦していた健介が慌てて画面を凝視するが、何処を探してもケイトの姿は見当たらない。プレイヤー情報が表示されてる画面ではケイトはまだカスダメすら喰らっていないので、必ず何処かでひっそり生きている筈なのだが。
画面上のナナが全ての砲門でビル郡に対して砲撃を開始した。みるみるうちに建造物が粉微塵と化し、一分もするとそこはただの焼け野原となってしまった。
なるほど。あれならケイトが何処に潜んでいようが関係無い。地上全てを更地に変えてしまえば、その頃にはケイトのHPもゼロになっていよう。
「サツキの奴め、この為に自分ごと心美を道連れにしやがったな。でも、何でだ?」
「何でって?」
「本来ならサツキが自爆行為をせずとも心美を倒せた筈なんです。ナナにしたって、あんなバカスカ撃ちまくる必要なんて一切無い」
「たしかに。園田もナナもあんだけの力があんなら、三笠とケイトを倒して八坂に加勢すれば九条を確実に仕留めてゲームエンドに持ち込めた」
「なのに、サツキは何故か自滅した。それに、ほら」
タケシが視線で差した頃には、無差別砲撃をかましていたドラゴンが全身から白い煙を吹き上げて消滅し、中からドラゴンのコアとなっていたナナが姿を現す。バトルでは使用していた<メインアームズカード>、もしくは<アステルジョーカー>が強制解除された時点でそのプレイヤーの負けとなるので、たったいま全エネルギーを解放して<ドラグーンクロス>を強制解除させられたナナは即刻退場を宣告された。
ケイトもいまの爆撃でHPを消し飛ばされたので、彼の出番もここで終了だ。
いまあの電脳空間に残っているのは、ナユタとイチルの二人だけとなった。
強い。
ナユタがイチルと交戦して抱いた感想は、究極的にはこれに尽きる。
<輝操術>による速力、<アステルジョーカー>の使い方、単純な体術、反応速度。
どれをとっても見事なものだ。
「なあイチル、いい加減降参する気にはなれないか?」
「ナユタの悪い癖だね。すぐ戦いを止めようとする」
お互い汗だくの中、距離を取って宙を回遊しつつも、二人は穏やかに会話する。
「教えてくれ。お前は明日のバレンタインデー、本当は何をするつもりだったんだ?」
「何でそんな事を訊くの?」
「持ち物検査が実施されたところでバレンタインデー自体が消滅する訳じゃない。誰かチョコを渡したい男がいるってんなら、その時にでも用を済ませれば良いだけの話じゃねぇか」
「明日の放課後は仕事が入ってんの。雑誌の撮影とかね」
「有名人は大変なこった。だから学業の時間内にチョコを渡そうって魂胆か」
「そゆこと。バレンタインデー当日に渡さないと、なんだかげんなりしちゃうし」
「その為に起こした馬鹿騒ぎにしちゃ、度が過ぎてるとは思わなかったのかね」
<蒼月>の剣先を払いつつ、左腕の<アステルドライバー>の情報を見遣る。
自分以外の四人はさっきのアホみたいな大爆発と無差別砲撃で退場している。残りは自分とイチルだけ。お互いのHPメーターの残量から鑑みるに、次の一撃で決着がつくだろう。
イチルが顔を伏せて言った。
「何にせよ、これがあたしにとって、最後のバレンタインデーだから」
「何?」
「あたしには家族がいない」
イチルが唐突に言った。
「あたしには血の繋がった家族がもうこの世にいない」
「そんなの、俺だって同じだ。だからどうした」
「もし、あたしがその現実を本当の意味で実感する日が来るとしたら、きっと明日になると思う」
「クソガキ共の色恋沙汰で賑わうベリーハッピーな一日が? 冗談だろ?」
「恋って、ぶっちゃけ生殖本能の一歩手前だと思うんだよね」
何のつもりか、イチルが物議を醸すような発言をする。
「どうせ恋ってさ、エッチして子孫を残すっていう、生物学上当たり前な本能を、本当の意味で自覚する遥か手前の段階でしかない。去年の戦いでイヤってくらいに悟ったよ。あたしの血を持つ人間があたししかいないって気づいた時、ああ、そうなんだって」
「同感だな」
色々おかしな事を言われた中で、唯一共感できるポイントだった。
「気づいちゃった以上、もう恋だなんだって言ってるのがアホらしくなってきた。きっと、もう純粋に恋を楽しめる気分には一生なれない。だから、せめて明日を最後に恋って概念を捨てようかなって思ってる」
「何だか知らんが、そんな葛藤を聞かされたところで、俺が納得するとでも思うか?」
「しないよね。分かってる。だからこうして、あたしは戦ってる」
イチルはようやく、手にした弓を右手に持ち替え、腰を落として視線をただ一点に集中させる。どうやら、最後の一撃に全てを賭ける気でいるらしい。
良いだろう。その覚悟が本物なら、俺も正々堂々受けて立とう。
「俺が勝ったら、お前には本音を洗いざらい吐いてもらうぜ」
「いまのが本音なんだよね。ナユタ以外には聞かれたくなかったから、サツキにもナナちゃんにも露払いついでに退場してもらった訳だけど」
「最初から最後まで、俺達全員を掌で踊らせていた訳か」
イチルはもしかしたら、タケシよりも策士なのかもしれない。
ナユタも<蒼月>を居合の要領で構える。
「行くよ、ナユタ!」
「来い、イチル!」
二人は駆け出し、すれ違い様に剣と弓の刃を一閃させた。
●
バレンタインデー当日。結局、持ち物検査は実施された。
ナユタとイチルの最後の激突は、前者に軍配が上がった。よって持ち物検査賛成派の勝利となり、当初の予定通り、寮住まいの全等級の学生、および実家から通ってくる学生の全てが学生鞄のチャックを開ける羽目となってしまった。
職員室の雰囲気が薄暗い中、ケイトと健介は陰で大喜びしていた。青春という一つの概念に対する復讐を終えた気になって浮かれているのだ。彼らの気分なんて全然分からないけど、当人達が幸せならそれはそれで勝利した甲斐があったものだ。
その影響の副次的効果も中々に酷いもので、ナユタが教室に入った途端、何故か生卵の集中砲火をクラスの女子ほぼ全員から喰らう羽目となってしまった。おそらくは家庭科室から持ち出した消費期限切れの卵だろうが、そもそも食べ物を粗末にしてはいけませんと親に教わらなかったのだろうか、こいつらは。
他にも勝利の副作用がイジメみたいに襲いかかってきたが、全てを羅列しようものなら、それは完全なる報告書か告発文書になりそうだったので止めおくとしよう。
S級バスターの仕事も終えて寮に帰宅し、部屋のベッドに倒れこみ、ナユタはようやくの人心地についた。つい以前まではタケシがルームメイトとして近くにいたのだが、事情が事情なのでいまの彼は別室に移されている。おかげで部屋が広く感じてしまう。
大丈夫だ。俺は何も間違った事なんてしていない。学校全体のモラルを向上させる為に、教師達に手を貸してやっただけだ。俺自身の本音はともかくとして、俺は自分のするべき事をこなしただけだ。仕事と何ら変わりはない。だから、何も気に病む必要は無い。
自分にずっとそう言い聞かせていると、控えめなノックが扉から鳴らされる。ナユタが適当に「ういー」とか唸って応じると、まるでコソ泥みたいに、イチルが御洒落な小箱を携えて入室してきた。
いまは夜の十一時だ。この時間に現れた事を鑑みるに、どうやら彼女も仕事帰りらしい。いまにして思うと、彼女は彼女で大変なのだ。少なくとも、そこらへんで女という性別にあぐらをかいているような女子中学生共よりは、ずっと。
「イチルかー。何だ? 昨日の腹いせか? 俺はもう一撃喰らったら本当に死ぬぞー」
「話があるの」
イチルはそう言って、部屋の扉を静かに閉めて鍵をかけ、そっとした足取りでベッドに倒れこむナユタの前まで歩み寄ってきた。
ナユタも仕方なく、起き上がって彼女と向かい合う。
「ぶっちゃけいま眠いんだ。用があるなら手短にな」
「今日は寝かせないよ」
「え? マジで?」
やっぱり腹いせか! 俺を過労で殺す気か、こいつは!
「あの、その……あの時はほんとナマ言ってすんませんでした! 後でなんでもしますんで、今日だけはどうか俺をゆっくり寝かせてください!」
「別に嫌な事は何もしないよ」
イチルが苦笑する。
「昨日の話、覚えてるでしょ?」
「……まあ、な」
バトルの最中にされたイチルの不幸自慢は記憶に新しい。
「本当は今日、そこらへんの中学生みたいにバレンタインデーできゃっきゃうふふしたかった訳ですよ。でもさ、何処かの誰かさんのせいで持ち物検査が実施されるわ、放課後に撮影の仕事入るわでもう散々」
「だったら俺に何をしろと?」
「いまから一時間の間、日付を超えるまで、あたしの恋人になりなさい」
「はい?」
これまた突拍子の無い事を言うや、イチルは後生大事に持っていたおしゃれな紙の小箱をナユタに突き出した。
「言ったでしょ。今日を最後に、もう恋はしないって」
「えーっと……つまり?」
「バレンタインデーがどんなイベントか、当然知ってるよね?」
彼女の迂遠な物言いから、ナユタは一週間以上前に交わしたケイトとの会話を思い出す。
バレンタインデーとは、女の子が好きな男にチョコを渡す日。
つまり、いま自然と手に取っていた箱の中身は、おそらく――
「……中を開けても?」
イチルが首を縦に振る。ナユタはおっかなびっくりな手つきで箱を開き、中に入っていた物に対して目を丸くした。
一口サイズの様々な形をしたチョコが七つ。それぞれ着色が施されており、見てそのまんま、虹の七色をイメージした構成となっている。
「これ全部、お前が作ったのか」
「うん。家庭科室で頑張った」
「ほー……」
素で関心してしまった。おそらく着色に使っているのは市販の食用着色料だろうが、いずれも色と見合った甘味がセレクトされているのだろう。イチルは意外と料理も出来るので、そのあたりの考え方はしっかりしているのだ。
さっそく赤い立方体のチョコを摘んでみるが、何故かイチルに手首を押さえられる。
「? 食べちゃダメなん?」
「慌てない慌てない。いい? このチョコはこうして……」
イチルはいましがたナユタが摘んだ赤いチョコをやんわり取り上げ、事もあろうに自分の唇に浅く挟み込むや、ナユタの肩を掴んでベッドの上に押さえつけ、そのまま顔を急に近づけ、チョコをナユタの唇に押し込む。
一体何事かと思って視界が白黒するが、次の一瞬で起きた事に、驚きのあまり失神しかけてしまった。
なんと、イチルがチョコごと自分の唇をナユタの唇に押し付けてしまったのだ。
「!? ……ッ」
おそらく戦火と共に駆け抜けた十三年の人生の中で、もっとも心臓に悪い精神攻撃だったと思う。どんな攻撃にせよ、たった一撃を喰らっただけで抵抗する気が失せたのは後にも先にもこの一発だけだっただろう。
強引に口の中で暴れているのはイチルの舌と、時間の経過と共にとろける赤いチョコ。そして、無意識に動かしていた自分の舌。
自分でもよく分からない事に、この状況をこの体が歓喜している気がするのだ。
口の中のチョコが全て溶けきり、二人の唇が糸を引いて離れる。
「……っ! お前、何のつもりだ!?」
「あたしの最後のバレンタインデーを邪魔した罰ゲーム」
などとのたまってるイチルの頬もあからさまに赤く上気している。
「ねぇ、ナユタ。ナユタは自分の産みの親の顔って覚えてる?」
「またぞろいきなり何だ? 覚えるも何も、物心つく前にどっか行ったよ」
「もし自分が父親になった時、子供にそんな気分をさせたいと思う?」
「絶対嫌だね、そんなの」
「でしょ? あたしも嫌」
言葉に似合わず、イチルが眩しく笑う。
「捨てられた子の気持ち、残された子の気持ち。子供にとって一番しちゃいけない思いを、あたしとナユタはこれまで散々味わってきたって思うんだ」
彼女の言葉に、ナユタは少しだけ考え込んだ。
イチルの意見はもっともだ。よく思い返してみれば、ナユタもイチルも、生い立ちにいくらかの差はあれど、これまで感じてきた想いは大体同じなのかもしれない。
目の前の彼女は、思ったより自分なりの哲学を持っているのだ。
「いつか人の親になるかもしれないとしたら、あたし達はなおさら、その子供に同じ思いをさせる訳にはいかない。でも、それってある意味のプレッシャーだよね。あたしはそんなものに一人で耐え切れるほど、強い人間だなんてうぬぼれてない」
「ああ、そうだな。俺もそう思うよ」
「だからあたしは、一緒にそのプレッシャーに耐えてくれる人が欲しい」
イチルは己の真意を、いつになく真摯な瞳で告白した。
「あたしは、ナユタがその人になってくれたら良いと思ってる」
ようやく――本当にようやく、イチルがこの一日で何をしたかったのかを、ナユタは本当の意味で悟った。
彼女は今日を皮切りに恋を捨てると言った。
だから明日からは、家族として愛する人が欲しかったのだ。
「つまり、こいつはお前なりのプロポーズって訳かい」
「そんなトコ」
「でも俺達まだ中学生だぜ? 結婚どころか恋愛だってままならねぇよ」
「ここまで言ったんだから、もう後には引けないよね」
イチルの生い立ちを知っている分だけ、妙な説得力があるような気がした。
それに、知っているのは生い立ちだけではない。
「お前が決意を固めたんなら、それは一生の約束なんだろうな」
「あたしを信じてくれるの?」
「信じるさ。イチルの意思なら、何処までも」
ナユタはイチルの頬を撫でると、彼女のさらさらの黒髪を指の隙間に通す。
「あと三十分だ」
「え?」
「お前が言ったんだろ? 日付を超えるまで、恋人になれって。日付超えたら婚約者でもなんでもなってやるから、さっさと続きやろうぜ」
「そう言われると、逆に恥ずかしいというか……」
イチルはさらに頬を朱に染めると、箱からオレンジ色のチョコを摘み、さっきと同じようにお互いの口の中でチョコを転がし合った。今度はオレンジ味である。
やがてオレンジ色のチョコが全て溶けきって唇同士が再び離れると、イチルがブラウスのボタンを外して白い胸元を晒し、黄色のチョコをナユタの唇に挟み、やはり同じように舌を絡め合わせる。これと同じ行為が、小箱のチョコが全て無くなるまで続いた。
チョコが減るごとに晒されていく彼女の白い肌、感情と比例するように荒くなる彼女の吐息、次第に潤んでいく彼女の大きな瞳、ほのかに上がり続ける彼女の体温。
その全てを見て、触れて、感じ取りながら、ナユタはふと思った。
やっぱりあの時、勝利するんじゃなかった。
もし負けていれば、恋に溺れるイチルの魅力を、もっと堪能できただろうから。
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この二ヶ月後、イチルはモデルの引退を発表し、兼ねてよりオファーが来ていたS級ライセンスバスターへの参画を果たした。母親である八坂ミチルと同じポジションで新たな戦いを始める彼女を、これまで親しくしていた他のS級バスターの仲間達も歓迎した。
同時に、ナユタとイチルの同棲生活も始まった。S級バスターである二人の収入から、それなりに良いマンションの部屋を選んだのだが、分不相応な感じがするのは果たして気のせいだろうか。
ちなみに、法律上ではイチルが結婚可能な年齢に達するまであと三年を要するが、ナユタの場合はあと五年である。つまり最低限、結婚まではお互いが十八歳になるまで待たなければならないが、学歴的な観点から大学にも通おうと思うと、短大を出たとしても二十歳まで我慢しなければならない。
つまりは七、八年の交際期間が強制される訳だが、中には十一年も恋人として連れ添った相手と結婚するか否かを迷う人間だっているという話だし、実際はそこまで長い年月ではないのかもしれない。
何にせよ、こうして二人は家族となっていく。
本当の意味で、ゼロから始まる世代として。
おわり
アステルジョーカーシリーズ・GACS編に続く




