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アステルジョーカーシリーズ  作者: 夏村 傘
アステルジョーカーVOL.3 ~サツキ編~
17/46

第十話「戦場の現実」


   第十話「戦場の現実」



 グランドアステルの遥か頭上に浮かぶ天空都市、それがスカイアステルだ。面積はグランドアステルに比べたら四分の一程度だが、一都市として機能させるなら充分な広さだ。

 そんな天空都市の中央部が、いくつもの政府機関がこれでもかと密集した天空の居城、ウラヌス機関である。真っ黒な外観の幾何学的な建造物は、見る者全てに言い知れない重圧を与え続けている。少なくとも出勤からタイムカードを切るまでは絶対に笑えない職場だ、などと雄弁に物語っている節すら見受けられる。

 ナユタとサツキ、そして六会タケシとナナ・リカントロープは、そんなウラヌス機関の建物内にある組織の一つ、防衛省のライセンスバスター部門へ招集されていた。ちなみにグランドアステルからここまでやってきた四人の顔は、有り体に言って無表情で一貫されていた。

 何も考えずに歩いているうちに、ナユタ達は目的の場所、つまりはライセンスバスター部門のブリーフィングルームに辿り着いた。

 早速部屋に踏み込むと、まず驚いたのが揃っている顔ぶれだった。

 深い赤を基調とした、まるで中世の貴族が愛用するVIPルームみたいな部屋の中には、赤いラインが入った黒い制服姿の連中が大体十人前後は集合していた。その中には昨日会ったばかりの望波和彩、三笠心美、マックス・ターナーだけでなく、元から知り合いだった三山エレナやハンス・レディーバグなども同席していた。

 それからサツキみたいに青白い顔をした白衣の女性が一人と、このタイミングで一番会いたくなかった白衣の男が一人。

 白衣の女性がサツキの姿を認めると、力なく彼女に呼びかけた。

「サツキ……」

「お母様っ」

 サツキは咄嗟に母親である園田樹里の傍まで駆け寄った。

「どういう事ですか、お父様が……」

「いまからその詳細を話す。だから、一旦落ち着きなさい」

 横合いから、背筋がしゃんと伸びた四十代くらいの男性が二人を窘めた。次に、彼はこちらに厳格な眼差しを向けてきた。

「九条ナユタ君、ナナ・リカントロープさん。いきなり呼びつけるような真似をして申し訳無い。私が防衛省ライセンスバスター部門の長官、六会忠だ。私の倅が世話になっている」

「はい、お世話してます」

「無駄な挨拶はいいだろ。さっさと本題を話せよ」

 ナユタのふざけたお辞儀を一蹴し、六会タケシが素っ気なく言った。いつも無愛想な上に、最近また髪が伸びてスポーツ刈りからセミショートに戻ってしまった為に、より暗い印象が強まっているのだから可愛げが無い。

 忠は鼻を鳴らすと、自分の背後にあったホワイトボードの一部分を延べ棒で指した。

「今日ここに集めた人員は、昨日発生した二つの事件を必ず伝達せねばならん相手だけだ」

 忠は延べ棒の先を、まず一つ目の項目に移動させる。

「一つ目の事件から整理する。昨日の一○一五時、園田村正氏は新開発の<クロスカード>のプレゼンテーションを、各生産業界の重鎮やウラヌス機関の高官達などに対して行っていた。プレゼン自体は滞りなく終わったのだが、事件はその直後に起こった。ステラカンパニーにおいてはロボット部門の主任であるアナスタシア・アバルキン、二十七歳。プレゼンに聴衆として参加していた彼女が、突然園田村正氏をナイフで刺したらしい。しかもその直後、まるで計ったかのようなタイミングで会議室の壁をぶち抜いて、西洋鎧を纏った三体の『何か』が侵入、<クロスカード>と村正氏、アバルキン女史ごと姿を消した」

「『何か』ってなんだよ、『何か』って」

 三十代の偉丈夫、ハンス・レディーバグが苦い顔で質問する。

「目下調査中だ。該当する種類の兵器や<アステルカード>、<星獣>のカデゴリーにもヒットしない。一応、目撃情報から能力の類推は可能だが、それは後回しとしよう」

「せめて、ヤマタの爺さんの行方が分かりゃなぁ……」

 ハンスが後頭部を掻いて苦悶の表情を浮かべる。忠はそんな彼を一瞥すると、今度は延べ棒の先を二つ目の事件について書かれた項目へと移動させる。

「次に二つ目の事件だ。同じく昨日の一四二○時、ジャマダハル市街にて先程の説明に出てきた鎧の人型が突如出現、単独で破壊活動を行って街を壊滅させた。しかも最初にその人型を目撃した上で戦闘に挑んだS級ライセンスバスターが一人、返り討ちにあって死亡している。たまたま現場付近で生き残っていた街頭カメラがあって、その映像も終始録画されていたから間違いない。一応、グランドアステル全体のカメラ制御はスカイアステルで統括されてるからな」

「お祖父様……」

 サツキが小さく呟いた。この事件で犠牲になったS級ライセンスバスターは、彼女の祖父である園田政宗なのだから、ショックを隠せないのも仕方ないというものだ。

 忠は自分の隣に立っていた、眠そうな目をした白衣の男に水を向けた。

「ここから先、二つの事件で同時に現れた鎧の人型については、藤宮教授から説明を」

「ういー」

 気だるそうに返事したあの男こそ、星の都学園大学部の名物教授、藤宮辰巳だ。ナユタからすれば生理的に会話する気も起きない相手というだけなのだが、タケシからするとあの男は初恋の少女の仇に近い存在だ。何が理由で呼ばれたにせよ不快な人物である。

 藤宮は淡々と説明を開始した。

「この二つの事件で出現した鎧のアンノウンはおそらく全て同系統、しかし全体的な外観が異なる。誘拐事件は西洋風の鎧が三体、無差別テロは和風の鎧が一体。出現した数から察するに、西洋は生産が容易な量産型、和風は高性能なワンオフってところだろう。だから当然のように持ちうる特殊能力や兵装なんかも大きく違ってくる。特に注目すべきは後者だ。和風の鎧が園田政宗を殺害した直後、仏さんの体を掴み上げて、光子に分解して体内に取り込んじまったんだ。最初は何が何やらでさっぱりだったんだが――」

 藤宮が事件当時の映像を背後のスクリーンにプロジェクターで投影させる。丁度、園田政宗なるご老体が光に変換されている場面だった。ちなみに、映像が再生された時点で彼の人相は既に光子化していたので、結局はその死に顔すら拝めなかった。

 映像を閉じると、藤宮はナユタ達に視線を向ける。

「そこのガキ共三人の鼻垂れ面を思い出してようやくピンと来た。鎧野郎は単独で<アステルジョーカー>の生成と全く同じ工程をやってのけたんだろう」

 <アステルジョーカー>とは人間一人を丸ごとアステライト化してカード内に取り込む事で、最強の兵器として生まれ変わった<アステルカード>の一種だ。例の鎧武者の場合、アステライト化した人間を取り込む先がカードではなく自分自身となっているだけで、生成の手順としては<アステルジョーカー>と全く変わりが無い。

「言ってみれば奴らは<生体アステルジョーカー>だ。和風にしろ西洋風にしろ、今度からは面倒だから便宜的にそう呼んだ方が良いかもしれんな」

「では、あの未確認生命体については<生体アステルジョーカー>と呼称しよう」

 忠が謎の機動兵器に対する呼称を改めると、話の手番を自分に引き戻した。

「園田村正氏の件はいま警察が懸命に搜索にあたっている。園田政宗氏を殺害した犯人も同時進行で捜索中だ。……が、残る心配はウェスト区の連絡橋の件だ。セントラルとウェスト区を繋ぐ唯一の通路が破壊された上に、何故かお互い通信まで取れなくなっているようだ。いくらウェスト防衛軍基地に呼びかけても反応が無い」

「何ですかそれ、あからさまに怪しいじゃないですか」

 ナユタがぴくりと反応して意見する。

「サツキのお父さんを攫った犯人がそこにいますよって言ってるようなものです。別の区域で検討違いの捜索を続けるより、そこに警察勢力を注ぎ込んだ方がよっぽど……」

「送り込める訳が無いだろう。警察程度の戦闘能力が通じるような区域ではない。自衛もままならない連中を行かせたところで無駄死にするだけだ。だったら見当違いでも、正確な情報が入るまで安全な地域からシラミつぶしに探した方が油を売るよりはマシだ」

「むむ……たしかに」

 これについては正論だ。もし西以外の全てを探しても村正が発見されなかった場合、特殊部隊を編成して彼の救出に向かえば良いだけの話だからだ。

 ナユタはせっかく喋ったのだからという理由で、さらに質問を重ねる。

「……まあ、話は大体理解しました。で、何で一般市民の俺達を呼んだんですか? 親族のサツキとそのお母さんはともかくとして、この状況だと俺達三人はいらない子なのでは?」

「勿論、君達三人が<アステルジョーカー>のオペレーターだからだ」

 忠はやはり淡白に回答する。

「目下のところ、グランドアステルは全体的に逼迫した状況下に置かれている。ジャマダハル市街が壊滅し、西への連絡手段、交通手段が損失してしまったいま、西側から大量の<星獣>が流れ込んで来る危険性が極めて高い。いままでウェスト防衛軍やその他の戦争屋達が必死に抑えていた<星獣>の侵攻を、今回限りは食い止められないかもしれない。<星獣>の中には空を飛んだり海を渡れるような個体だって存在するからな」

 ウェスト区にはウェスト防衛軍なる、このグランドアステルにおいては最強の軍隊組織が存在する。基地はウェスト区の中央に設立されており、そこに所属する者の主な仕事は、常日頃から大量発生する<星獣>が他の区域へ侵攻するのを止める、言わば防波堤の役割である。

 いまは何らかの理由でウェスト防衛軍とは連絡が取れない。だから忠の予想が現実になる可能性も無視はできない。

「しっかし、たかが連絡がとれなくなったところで軍の連中が仕事を放棄するとは到底思えんですな。まあ仮に、その<生体アステルジョーカー>とやらに基地が攻め落とされたなら話は別ですけど」

「同感だな。あそこの連中は他の区域が海に沈もうが、平然と職務を全うする朴念仁の集まりだ」

 エレナが肩を竦めて冗談っぽく言った。彼女はナユタと違って元は軍の所属ではなかったのだが、ナユタと同じぐらいには西の事情に精通しているのだ。

 二人の意見を聞いて、忠が少し嫌そうな顔をする。

「……その手の冗談を平然と吐ける君達二人の神経はいささか理解に苦しむ。しかし何であれ、そういった万が一に備えて対応策は用意せねばならん。今回君達<アステルジョーカー>のオペレーターに依頼したいのは、警察機関が園田村正氏を捜索している間の、グランドアステル・セントラル区の護衛だ」

「護衛? A級ライセンスバスターの主力部隊があるのに?」

「それでも人手不足な場合もある。A級バスターだけでは食い止めきれないような<星獣>が現れた時の為に、君達三人にはバックアップにあたってもらう」

「じゃあ、S級バスターの人達はどうするの?」

 ここに来て、ナナ・リカントロープが初めて口を開いた。くせっ毛が跳ねまくりの長い金髪は、この部屋に集う人間の中では一際異彩を放っている。

「S級バスターは全員、スカイアステルで待機だ」

「は!?」

「何で?」

 ナユタが思わず声を跳ね上げ、ナナがぽかんと首をかしげた。タケシに至っては、自分の父親が放った狂言じみた回答に開いた口が塞がらない様子だった。

「驚くのも無理は無いだろうが、これは『六花族』による総意だ。テロリスト共の目的がはっきりとしない以上、政府機関が置かれているスカイアステルの護衛が最優先だ」

「それ、貴族連中達だけが安全な場所から高みの見物をしたいだけなのでは……?」

 ちなみに『六花族』とは、かつてグランドアステルで栄華を極めた六つの貴族の総称だ。ナナの実家であるリカントロープ家もかつてそこに名を連ねていた。いまは壊滅しているが。

「何にせよそういう命令だ。悪いがこちらからの支援は基本的に無いと思ってくれたまえ。とはいえ、事前の処置は済ましておくべきだろう。……なあ、ハンス?」

 部屋の扉からこっそり逃げようとしていたハンスに、全員の視線が注がれた。

 彼はあからさまに気まずそうな顔をする。

「……何すか、先輩」

「A級バスターには全員、非番の人員も含めてグランドアステルでの待機命令を下しておいた。お前も例には漏れんぞ、ハンス・レディーバグ」

「え? ハンスさんってA級バスターだったんすか?」

 ナユタの目がきょとんと見開かれる。

「エレナさんといつも一緒にいるから、てっきりS級だとばかり……」

「S級バスターはA級バスターを部下として任意に運用する権限を与えられている」

 エレナが腕を組んで偉そうに言った。

「ハンスはA級バスターで、扱いとしては私の部下だ」

「嘘でしょ?」

「本当だ。この三十路男はな、何度もS級への昇格を求められているにも関わらず、何度もその話を蹴ってA級に甘んじているのだよ」

「余計な事を言うなバカ……!」

 ハンスが顔を真っ赤にして、声を抑え目にしてエレナを咎めた。

 そこへ、長官からの容赦なき追い打ちが繰り出される。

「とにかくハンス、お前にも下へ降りてもらう。そこの三人と連携して、テレポーター付近を警護するのだ」

 テレポーターとはグランドアステルとスカイアステルを繋ぐ巨大なワープ装置が置かれた空港だ。勿論、普通の空港のように他の区域へ航行する為のジャンボジェット機も配備されている。

「テレポーターはグランドアステルの中ではセントラルのみに配備されている。そこを襲撃されたりなんかしたら大問題だ。今度は西との連絡途絶だけでは済まなくなる。それから、タケシ。例のアレはちゃんと受け取ったんだろうな」

「ん? あ、ああ。まだあんまり使い慣れてはいないけど……」

 唐突に問われ、タケシが少々慌て気味に反応する。

「いざとなれば使用を許可する。ただし、極力発動は控えておけ」

「…………了解」

 タケシが躊躇いがちに首を縦に振る。何かは知らないが、タケシはタケシでまた何か隠し事をしているらしい。まあ、いつもの事なので深くは詮索しないでおこう。

 忠は改めて全員の顔を見渡すと、締めとして力強い口調で告げた。

「事態は一刻を争う。各自どんな状況であれ、最大の警戒を怠るな。以上、解散!」


「九条君」

「はい?」

 ブリーフィングを終えて部屋から出る間際、サツキの母親に後ろから呼び止められた。たしか、園田樹里と言ったか。

「どうかしました?」

「これを」

 彼女はナユタに、日本刀を模した形の<ドライブキー>と、一枚の<アステルカード>を差し出した。

「サツキの能力が封じ込められた<ソードフォーム>の<ドライブキー>と、お義父さんの愛刀よ。カードの方は後でサツキに渡してあげて」

「俺から? あの子に?」

「あの子の顔を直視するのが、いまはちょっと辛くて」

 たしかに、親族の形見を渡せるような心情ではなさそうだ。その気持ちはよく分かる。

 ちなみに<メインアームズカード>に記された名は<紅月>。まるで<蒼月>と対を成すようなネーミングだなと、ナユタはぼんやり思った。

「そういや、送り主不明で<サモンフォーム>の<ドライブキー>もこっちの手元に届いたんですが、あれってもしかしてサツキのお母さんが?」

「ええ。あまり君に特別なアイテムを与えすぎると上から色々怪しまれるから、匿名っていう形で少しずつ手渡してたの。まだるっこしくてごめんなさい」

「それは良いんですが、そもそもどうして俺に<フォームクロス>を?」

「有り体に言って、『適合者』だからよ」

 樹里が目を逸らしつつ言った。

「あたしの旦那が開発した<フォームクロスシステム>は、理論こそ完璧だったけどまだ実験データが足りてなかったの。そこで一番合理的な実験体として選ばれたのが、九条ナユタ君、君なのよ」

「旦那さんと一緒に強奪された<クロスカード>ってのは、俺の戦闘データが元だったんすね」

「ええ。なんか、利用するような真似をしてごめんなさい」

 何だか謝ってばかりである。サツキが愚痴のように零していた園田樹里という母親の人物像とはだいぶ異なる。自分の旦那が目の前で刺されて誘拐される場面を目撃した後なのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだろうが。

「あの人には一刻も早く帰ってきて欲しいけど、いまは警察の頑張りを信用するしか無いもの。だからそれまでの間、せめてサツキだけは無事でいて欲しい。勝手なお願いだって重々承知してるけど、いまグランドアステルであの子を守れるのは――」

 樹里の視線が、一瞬だけこの部屋からタケシやナナと一緒に出ていこうとするサツキに移った。やはり、いまの樹里同様に面持ちがやつれたままだ。

「君しかいないの。こちらの陣営では唯一、戦争経験が豊かな<アステルジョーカー>のオペレーターである、九条君しか」

「……買いかぶり過ぎですよ」

 ナユタは苦笑して、ようやく差し出された<ドライブキー>を受け取った。

「でもサツキを護れるのが俺だけってのは同感です。タケシとナナなんて、お互いを守り合うだけで精一杯でしょうし」

「本当にごめんなさい」

「奥さん、こんな話を知ってますか? まあ、俺の親父の受け売りなんすけど」

 突然話題を変えられて目を丸くした樹里に、ナユタは振り返り様に肩を竦めて言った。

「立て続けに三回謝ると、人は笑顔を忘れるらしいっすよ?」

 勿論、親父の受け売りだなんて真っ赤な嘘だ。

 あくまで、自分自身の経験則である。


   ●


「……暇だぁ!」

 女子寮では数少ない一人部屋で、モデル業で遅れている分の勉強をこなしていたイチルが、とうとう静寂に耐えかねて椅子から転げ落ちた。

 彼女は暴れるようにごろごろと床を転がり始める。

「暇だ暇だ暇だ暇だ、暇だー! 早く帰ってこいナユタ! あたしにお前の頭をもふらせろ!」

 ナユタとタケシ、ナナとサツキが今朝にウラヌス機関から緊急招集されたのは知っている。ついでに言うなら、何故呼ばれたかも知っている。もっと深く突っ込むと、何故あの四人が呼ばれてイチルが呼ばれていないのかも理解している。

 園田村正の誘拐、及び園田政宗の殺害の件に、八坂イチルは一切関わっていない。しかもナユタ達みたいな<アステルジョーカー>のオペレーターという訳でもない。

 まあ、別に一日二日とぼっちホリデーを満喫する算段ならすぐにでも立てられる。どうせこちらも仕事で少し勉強が遅れがちだったのである意味では都合が良かったのだ。おかげで復習や宿題どころか予習まで終わらせてしまったので、余った時間はもはや暇でしかない。サツキには申し訳無いが、たまにはこんな日があっても良い気がする。

 いっそナユタみたいにゴキブリのコスプレでもして遊んでいようか、などと思っていたところで、Aデバイスが着信を知らせてきた。相手は知らない番号だったので少し警戒したが、出なかったら出なかったで問題な相手だったら微妙に困る。

 結局、イチルは着信に応じた。

「はい、もしもし」

『突然失礼する。八坂イチルの番号で合っているかな?』

「っ……、その声……!」

 電話越しに聞こえてきたのは、つい一ヶ月以上前にも耳にした声だった。

「ヒナタ? どうしてあたしの番号を……」

『瑣末な問題さ。それより、今日は君に伝えておきたい話がある』

「ふざけないで、またナユタ達に手を出す気じゃ――」

『話は最後まで聞くものさ。ちなみに僕はいま、ウェスト防衛軍の本部にいる』

 頼みもしないのに、ヒナタがあっさり自分の居場所を吐いた。

『西への通信網と交通網が途絶えたというニュースは見ただろう。ウェスト区以外の居住区域がその事態にパニックを起こしている間、この基地を壊滅して僕達の城にしてやったのさ』

「ウェスト防衛軍……ナユタの古巣を」

「元々は僕らの寝座でね。だから返してもらったのさ。これからも奪われた色々なものを取り返す、その手始めとして」

「何を言ってるの?」

「それも含めて直接話がしたい。申し訳ないが、基地まで直接来てくれないかい?」

「来れる訳無いでしょ? 橋だって壊れたし。そもそもどうやってあたしのAデバイスに通信を? ジャミングだか何だか知らないけど、交通網も通信網もいまは使えない筈だよ?」

「専用の回線を開けてるからね。とはいえ、長時間開くと基地局にも気付かれる。そろそろ時間的にも限界だ」

「用件次第だよ。前にあなたがした事、忘れた訳じゃないんだからね」

 仮にもヒナタは一か月前の宿泊学習を台無しにしてくれた首謀者だ。いくらかつての想い人でも、いまでは信用に足る相手ではない。

 ヒナタもそろそろ限界なのだろう、本当に切迫した声音で告げる。

「この基地の下に君のルーツが眠ってる。知りたくはないのか?」

「ルーツ? 何の――」

 ここで通信が途絶えた。おそらく、いまが交信時間の限界だったのだろう。

 イチルは通話終了を示す表示を睨んだ。

「ヒナタ……一体何を……」

 しばらくはそうやって、薄暗い思考の海を漂っていた。

 よく考えたら彼女は自分自身のルーツというものを全く知らない。

 例えば、物心ついた時から父親という存在がいなかった理由であったり、自分に<輝操術>の才能が眠っていた理由であったり――とにかく、様々だ。

 しかも行った事も見た事も無いような施設の下に、イチルのルーツが眠っているとヒナタは言った。彼ならば狂言にしても少しはマシな言葉を用意できたのに、よりにもよって一番信憑性の無い情報をこちらに与えた理由が分からない。

 イチルは十分程椅子に座って考え込んだ挙句、机の引き出しからデッキケースを取り出した。デッキ編集は勉強の前に済ませておいたので、これでいつでも外出できる状態だ。

「ウェスト区……か。まずは交通手段を確保しなきゃ」

 イチルは机のラックからノートパソコンを引っ張り出し、コンセントを繋いで電源を入れた。



   ●


「見つかった?」

 テレポーターの正面入口に着くなり、<アステルドライバー>で父親と通信していたタケシが素っ頓狂な声を上げた。

『ああ。衛生カメラの保存データからだ。ようやく閲覧の許可が下りた』

「で、何処にいるんだ?」

『ウェスト防衛軍の中央本部だ。<生体アステルジョーカー>が園田村正氏を担いで、堂々と基地の中に入っていく様子を確認した』

「軍の基地? 迎撃部隊はどうしたんだよ?」

 ナユタが眉をひそめて尋ねる。

「そんなあからさまに怪しい奴を、軍の連中なら上空からでも絶対にタダじゃ通さない筈だ。なのにどうしてすんなり入れた?」

『外側からでは確認できないが、どうやら基地の内部まで完全に占拠されていると見るべきだろう』

「なんてこった、クソったれ」

 ジャマダハル市街の次は軍の基地である。西の重要拠点をこうもあっさり潰されてしまっては、軍属出身のナユタなら悪態の一つも吐きたくなる。

『これで調査の手を西まで広げなければならない。だが、西への交通手段は完全に途絶えてる』

「航路は? 親父のとこならどうにかなんだろ?」

『輸送機を飛ばせたとしても空に<星獣>が大量発生されてはおしまいだ。積んである火器だけではどうにもならない』

「他に道は無いのか?」

『無い。あきらめ――いや、待てよ?』

 忠がスピーカーの向こうで、何かを思い出したかのように言った。

『九条君。君はウェスト区からセントラルに渡る際、どんなルートを使った?』

「え?」

 予想外な事を言われ、ナユタの思考が一時停止する。

 忠の質問攻めは止まらない。

『君はセントラルに来る直前に重罪を犯してる。そんな人間を正規のルートでセントラルまで運搬させられる訳が無い。何か、あの連絡橋以外のルートを使った筈なんだ』

「ああ、それですか」

 ようやく思考がまとまり、ナユタは朗々と語り始めた。

「連絡橋の丁度真下に海底ワームホールが通ってまして。テレポーターとジャマダハル市街の間に繋がれた極秘ルートっす。車両用の次元転送装置があるので案外すぐに目的地まで辿りつけます。西はデリケートな地帯ですからね、そんぐらいのルート確保は当然の保険だとも言ってたような」

「……何でそれを早く言わなかった?」

 傍らで聞いていたタケシが、全身をぷるぷると震わせる。

「お前が向こうでどんなバカをやらかしたにせよ、この非常時にそんな重要な情報を隠してましたとか、ふざけすぎるにも程があんだろ? ええ?」

「極秘ルートって言ったじゃん。秘密だぞってヤマタの爺さんから言われてたもんだから、質問されるまでずっと忘れてたんだよ」

『なるほど。そういう事情か』

 黙って聞いていた忠も頷いて、新たに提案する。

『なら話は早い。九条君、君はその場所を知っているのだな?』

「知ってますけど……まさか、俺を一人でウェスト区に送り込むつもりっすか?」

『それだけで済むならそうした方が良いだろう。だが相手の中に園田政宗氏を倒した<生体アステルジョーカー>が含まれているなら、君一人ではどうしようもないだろう』

「ならば私も同行しますわ」

 傍でずっと話を聞いていたサツキが、硬い表情で申し出てきた。

「お父様の無事を早く確認したいですもの。私にも行かせてください」

『君はあくまで被害者側の家族だ。それだけの理由で行かせる訳には――』

「でも人手が必要なのも事実っすよ」

 ナユタが会話に割り込み、

「そこで俺に考えがあるんすけど――」

 たったいま思いついた得策を語り始めた。

 後にして思うと、我ながらとんでもないアイデアだったと思う。


   ●


 園田村正が目を覚ました場所は、冷たくて黒い石とコンクリートに囲まれた牢獄の一つだった。やたら肌寒いのを考えると、どうやらここは地下か、あるいは何処かの施設の一階のようだ。

 腹に開いた風穴は跡形も無く塞がっていた。アステライト治療と呼ばれる、<輝操術>を元にした治療法でも使ったのだろうか。

 そもそも、自分は何時間――いや、何日間眠っていたんだろう。

「お目覚めかしら」

 寝起きの視界を凝らすと、鉄格子の向こう側には白衣の女が立っていた。

「アバルキン君……君は一体」

「自分の立場を理解していないようですわね。質問するのはこっち、あなたはただ答えるだけ」

 アナスタシア・アバルキンが美貌の上に嗜虐的な笑みを乗せて告げる。

「色々と、興味深い話が聞けるようで光栄ですわ」

「<クロスカード>の使い方かね? だったら簡単だ。家庭用の端末とスキャナがあれば、データの書き込みを行うだけで使用可能な状態にしてある」

「使い方はブリーフケースの中に入っていた資料で一通り目を通しましたわ」

 ふむ、どうやら検討違いだったようだ。困った、もし使い方を聞き出す為に私を誘拐したのなら、答えたらすぐに家族の元へ返してもらえるものだと思っていたのだが。

「では何かね? 寝起きの人間に質問したいのなら、せめて砂糖とミルクをたっぷりぶち込んだホットコーヒーをだね……」

 アナスタシアが無言で懐から自動拳銃を抜き出し、発砲。弾丸が村正の肩に突き刺さる。

「ぐうっ……ああっ……!」

「調子に乗らないでいただけます?」

「分かった。分かったら、とりあえず落ち着きたまえ……!」

「……ふん」

 アナスタシアが銃を仕舞うと、冷然とした目をそのままに質問を開始する。

「私が聞きたいのは、<クロスカード>の元となった九条ナユタの<アステルジョーカー>についてよ」

「それが……何かね……?」

「彼の<アステルジョーカー>の正体を、あなたはご存知なのでは?」

「…………」

 村正は押し黙った。極秘扱いでもないし、答えても別に良い質問だったのだが、あまり確定的ではない情報を与えて相手の逆鱗に触れても面倒だ。

 さて……どう答えたものか。

「もう一発、今度は用済みのデカマラにブチ込むわよ」

「ふむ、男の尊厳に関わる問題だな。よろしい」

 男のプライドとは一体何だったのか。

「さて……何から話したものかな」

「まずは能力の全容から」

「ああ……あれは……あらゆる武装や能力を取り込んで進化する……ただそれだけの能力……だ。別に、特別、危険視する程の……能力では……ない……」

 銃創からの出血が災いして目の前が暗い。もうろくに喋れる気がしない。

「それ以外の質問が無ければ、さっさと殺すか傷の手当をするか……選んで……」

「最後に一つだけ。あなた、以前の<No.4>の使い手が何者かをご存知?」

「私が知るか、そんなもん」

 そう言ったっきり、村正はゆっくりと瞼を閉じた。


「全く、とんだ面倒をこさえてくれたもんだ」

 尋問を終えて立ち尽くしていたアナスタシアの横から、白髪の少年が歩み寄ってきた。

 端正な顔立ちと年不相応に落ち着き払った面持ちは、きっと同年代の少女達にとっては憧れの的だろう。

「一ノ瀬君。何をしにきたの?」

「近くを歩いていたら銃声がしたのでね。君がやらかした粗相の始末をつけにきた」

 一ノ瀬ヒナタは村正の容態を確認するや、手持ちの鍵で鉄格子の扉を開けて中に入り、彼の傷口に手の平をかざした。

 ヒナタの手の平から淡い緑色の光が漏れ出し、村正の銃創を柔らかく覆い尽くす。

「僕は拷問をしろと言った覚えは無い。彼はただの囮だ。手荒な真似は控えてくれ」

「あなた達はそのつもりでも、私には彼から聞き出したい事が山程あるの」

「その割に大した話は聞き出せなかったみたいだけど?」

「……っ!」

 アナスタシアがひどく顔を歪めたのと同じくして、村正の肩からは銃弾が摘出され、傷口も綺麗に塞がっていた。

 相変わらず化物じみた能力だ。つくづく人類をバカにしているとしか思えない。

「尋問のコツは時間をかけない事と、いかに相手が知っていそうな情報の種類を読み取るかだ。君はその二点を見事にクリアできなかった。結局、既に知っている情報だけを無駄に吐かれた挙句、気絶までされてしまったのだから。君の方が上手く乗せられるとは、何てお笑い種だ」

「たかが十三歳の子供が調子に乗らないでくれる?」

「貴女と口論を重ねるだけ時間の無駄です。次やったら僕はあなたを殺します」

 村正の手当を完了したヒナタが立ち上がり、牢屋から出てそのままここを歩き去ろうとする。

 アナスタシアは、そんな彼の背中に自動拳銃の銃口を向けた。

 ヒナタが足を止め、振り返りもせずに尋ねる。

「何のつもりですか? ミス・アバルキン」

「<新星人>だか何だか知らないけど、これ以上人類を愚弄するんじゃないわよ」

 アナスタシアが発砲。

 放たれた弾丸はヒナタの後頭部手前で、見えない壁によって弾かれた。

「なっ……!?」

「時間の無駄と言った筈だ」

 ヒナタが酷薄な声音で呟いた直後、アナスタシアの自動拳銃がバラバラに砕け散った。

 床に落ちた黒い破片を、アナスタシアは恐怖の眼差しで見下ろした。

「……この、化物」

「結構。なら、これ以上僕らに歯向かわない方が良い」

 ヒナタは最後までアナスタシアを見ようともせず、彼女の視界から姿を消した。


   ●


 サツキは生まれて初めて、砂漠という光景を目にした。

 見渡す限りの浅い黄土色。照りつける太陽の光がやたら眩しい。流れていく風景からは、何体かのインディビジュアル級の<星獣>が散見された。

 ここはウェスト区の砂漠地帯。数少ない街がまばらに点在している以外は、この区域の風景は大体こんな感じである。

 サツキはジープマイティの荷台で、ただひたすらぼんやりと流れゆく風景を眺めていた。

「どうだ? 俺の故郷は」

 横からナユタが気さくに話しかけてくる。走行中なので、ただでさえ乱れた彼の水色の髪が、向かい風で慌ただしくはためいている。

「ずっと同じ風景ですわ。初めてだから飽きはしませんが」

「やっぱそんなもんだよなー。まあ、俺も久しぶりだから懐かしく思うけどよ」

「懐かしいって、つい半年以上前じゃん」

 荷台の上で呑気に寝っ転がっていた黒崎修一が指摘する。

「ていうかナユタ、いまさらだけど俺達って本当に必要だったの?」

「必要だ。敵は得体も知れない<生体アステルジョーカー>だからな」

「でも本当に心強いですわ。西の戦争屋が三人も同伴してくださるなんて」

 いま思えば、あの時のナユタは本当に冴えていたと思う。村正を救出する為に必要だった人手を、旧知の間柄から捻出してしまったのだから。

 今回ウェスト区へと突入するにあたって、ナユタとサツキだけを敵地に送り込むのはどう考えても自殺行為だ。よって、西でもより戦いに精通した黒崎修一とユミ・テレサを同伴させる算段を取り付けたのだ。ちなみにいまサツキ達を乗せているジープの運転手は担任のケイト・ブローニングだ。彼は元・S級バスターだったので、運転手を頼む上では話が通しやすかったのだ。

 ちなみに修一の相棒であるユミはジープの助手席に座っている。彼女曰く、「向かい風で髪が乱れるのが嫌だから」との事である。

「ちなみに、軍の基地まではあとどれくらいで到着するのですか?」

「最短でざっと一時間ってところさ。そろそろデカい建物が見える筈なんだが……」

 ナユタが立ち上がり、運転席の天板に手をついて前方を確認する。サツキも同じように立ち上がり、彼の横に並んで視線を遠くの景色に向けた。

「……あれがウェスト防衛軍の本部基地」

「ああ、俺の元・職場だ」

 遠くから見える限りでも、基地の全容は圧巻の一言である。

 全体的にくすんだ鉄の色をした、輪郭だけは城みたいな出で立ちの建造物だ。見るからに堅牢そうな鋼の城塞に囲まれた中央のロケット型の塔は、まるであの世に一番近い場所を指し示しているようだった。

 確認が済んだので、ナユタとサツキが同時に座り込んだ。

「なんかこう……円満退職でもないと、元の職場に立ち入るのは度胸がいるもんだよな」

「そりゃお前の自業自得だ」

 修一がきっぱりと言い放った。

「親の仇とか言って上官をぶっ殺そうとしたんだ。こうして生きていられる分だけ、そんな文句が言える身分でもないだろ」

「上官って……バリスタとかいう男ですか?」

「そうだよ。ナユタに自分の戦闘技術を叩き込んだ奴でね、そりゃバカみたいに強かった」

「何となく納得ですわ……」

 いまのナユタが星の都学園でも最強の戦闘能力を有しているのだ。彼の師匠も当然のように強いに決まっている。

 ナユタは少し忌々しそうな顔をして言った。

「野郎の話はどうでもいいだろ。いまはサツキのお父さんを助け出す算段でも立てようぜ」

「簡単っしょ。基地に突入して、家探ししてお父さんを見つけて連れ帰る。それだけだ」

「中には<生体アステルジョーカー>がいるんだぞ」

「だったらお前が全滅させればいい。その為の<アステルジョーカー>とお前だろ」

「簡単に言ってくれるよな。人選をミスった気分になる」

 ナユタが額を手の平で抑えて唸る。彼のこうした苦労人じみた仕草も、最近は徐々に板につき始めているように見えるから不思議だ。

 ナユタは悩むのを止めてサツキに尋ねた。

「そういや、サツキのお父さんってどんな人なん? 俺さ、まだその人に会った事が無いんだよ」

「お父様は……そうですわね。恰幅が良い体型で、物腰が柔らかい人です。あと、ピンチの時程余裕を保っているような性格ですわ」

「まるで西の男達みたいだな」

「<アステルカード>の開発ばかりで、戦闘なんてからっきしですのにね」

 サツキは微笑し、デッキケースから<ストームブレード>のカードをナユタと修一に差し出した。

「この<ストームブレード>も、私の意見を反映してお父様が作り上げた<バトルカード>ですの。女性でも扱いやすく、高威力で応用範囲も広い。いまではグランドアステル屈指のベストセラーと言っても差し支えない程の人気を獲得してますわ」

「マジで? じゃあお前、ある意味でこのグランドアステルを救った英雄じゃん」

「まさかサツキちゃんと親御さんの共同開発だったなんて……」

 ナユタと修一が素直に驚いて目を丸くしていた。ソード型の<メインアームズカード>を主に使用するこの二人だからこそというのもあるのだろうが、彼らが評価したのはその<バトルカード>によってソード型の株が上がったという逸話の方である。

 だからといって、いまのサツキは胸を張れるような気分にはなれなかった。

「お父様はこれからもずっと<アステルカード>を作り続けます。一人でも多くの人命を守る為に、ひたすら最善を尽くせるような人なのですから」

「なおさら助けなきゃだな」

「そうだな。報酬にレアカードもたんまり貰わなぶべろべあぼびが」

 修一が不謹慎な発言をしたのと同時に、ジープマイティが急停車した。一体何事かと思い、舌を噛んで悶絶していた修一を無視して運転席を覗き込む。

「ケイト先生!?」

「悪いが到着時間が少し遅れる。前を見たまえ」

 白人男性の担任教師が、窓から顔だけを乗り出して前方の一点を指で示した。サツキとナユタは荷台から降り、彼が指している方向を見遣った。

 <星獣>の大群だ。ジープの行く手を、大量の<星獣>が塞いでいる。有り体に言って、セントラルに出現する<星獣>のざっと十倍の数だった。

「あんなたくさん……!」

「おやまあ、今日はまた少ないのねぇ」

「少ない!?」

 ナユタが放った呑気な独り言に、サツキが目を剥いて仰天した。

「少ないって……何をどうしたらそんな反応を得られるのですか!?」

「え? ああ、そうか。サツキはまだ知らんのか。いつもはあれの三倍は出るのよ」

「三倍!?」

 もう目眩がしそうな数値だった。これが普段のセントラルなら出現回数一回につき五体ぐらいが関の山だが、いまはこのおよそ十倍。つまりは五○体だ。

 でもナユタ曰く、いつもはこの三倍――つまりは一度に一五○体が出現する計算らしい。

「まあいいや。修一、ユミ、さっさと片付けるぞ」

「痛い……あと一撃で噛み切れそうなくらい痛い……」

「えー? めーんどくさーい」

 修一とユミが不承不承車から降りて、ナユタと並んで<星獣>の群れへと歩き始めた。まさかとは思うが、あの数にたった三人で挑む気なのだろうか。

「待ってください、無茶にも程がありますわ!」

「いや、ここはお手並み拝見といこうじゃないか」

 ケイトが駆け出そうとしたサツキの肩に手を添えて彼女を制した。

 そうこうしている間にも、<星獣>とナユタ達三人の距離が縮まっていく。<星獣>側からも徐々に歩み寄ってくるので、すぐにでも彼らの衝突が始まってしまうだろう。

 三人は同時にカードの力を解放し、それぞれの得物をその手に携えた。

 ナユタはいつも通りの<蒼月>、修一は漆塗りの黒い柄を持つソード型の武装、ユミは浅いVの字型をしたブーメランだ。

 三人が一旦立ち止まり、軸足に力を込めた。

「行くぜてめーら」

「レッツ」

「パーティーターイムッ!」

 ナユタ、修一、ユミの順で叫んでから、一方的な蹂躙と虐殺が始まった。

 三人が駆け出してからたった一瞬で、十体近くの<星獣>が光の飛沫となって消滅する。

「オラオラオラオラ、どけやこの雑魚共が!」

「俺達はお前らと違って忙しいんじゃボケェ!」

 ナユタと修一が猪突猛進の勢いで剣を振り回し、進路上の<星獣>を軽々と薙ぎ払っていく。もはやチームワークも何もあったものではない。

「ひゃっほーい!」

 ユミが投げたブーメランが軌道上の<星獣>を貫通し、持ち主の手元に戻ってくる。背後から飛んできたゴリラ型の<星獣>による豪腕の一撃も、ブーメランの刃を盾とする事で苦も無く受け止め、振り払ってから一閃。ゴリラの体が正中線に沿って真っ二つに割れて消滅する。

 彼らの暴れっぷりを見たサツキは、もはや開いた口が塞がらなかった。

「な……」

「西は彼らの庭みたいなものだからね。特に軍属時代のナユタ君は砂漠での戦闘が多かったらしいから、ここは彼の独壇場なんだよ。ほら、ご覧なさい」

 ケイトに促されて、サツキはナユタの一挙手一投足に注目する。

 彼はそこらへんに出来上がっていた大小様々な砂丘を盾に身を隠しながら移動し、時に<蒼月>のブーストを用いて大きな隙を生んだ<星獣>に接近、一撃で急所を切り裂いて光の飛沫に変えている。しかも足腰の動きはやたら無駄が少ない上に力強い。まるで足の裏にバネでも仕込まれているかのようだ。

「凄い……砂の上で動き辛い筈なのに」

「ここは一見更地で遮蔽物も無く身を隠せるような場所も見当たらず、足場が悪くてその上暑い。なのに彼らは汗一つ垂らさずに平然とあんな戦い方をこなしている。熱砂の地獄で鍛え抜かれた戦闘のエキスパート、これが西の戦士達なのさ」

「信じられな――まずい、こっちにも来ますわ!」

 さすがに数が多かったのは事実だ。ナユタ達の脇をすり抜けて、<星獣>が何体かこちらに接近してきた。

 サツキは<アステルドライバー>に<ドライブキー>を挿した。

「<メインアームズカード>・<マルチブレードシステム>、アンロック!」

「仕方がない。僕も参戦しようか。<メインアームズカード>、アンロック」

 サツキの手に、スペツナズナイフを大太刀のサイズにしたようなソード型の武装が握られる。 ケイトの両手にも、真っ赤な光子で構成されたチャクラム状の小さなエネルギー体が出現する。

 迎撃しようと、まずサツキが駆け出した。

「っ……足が……」

 地面の砂に足を取られて、思うように上手く走れない。ナユタ達はこの足場で、どうやってあんな元気にぴょんぴょんと跳ね回れるのだろうか。単純に足腰の鍛え方の差だろうか。

 像型の<星獣>が、目の前で長大な鼻を重々しく振り上げる。

「くっ……<バトルカード>――」

 サツキが<ストームブレード>を放つ直前、像型の<星獣>が突然細切れになって消滅した。よく見ると、後続でやってきた何体かの<星獣>も同じ末路を辿っていた。

「これは……」

「僕らはここから動かない方が良さそうだ」

 背後のケイトが気楽そうに言った。振り返ってみると、彼の周囲には赤い光子のチャクラムが無数に飛び交っていた。どうやらサツキを救ったいまの攻撃は、ケイトによるものらしい。

 考えてみればそうだ。ケイトは元・S級のライセンスバスター。たった一瞬で数体の<星獣>を葬るなど造作も無い芸当だろう。

 ケイトは回遊するチャクラムを操作しながらサツキに指示する。

「砂漠での戦いに慣れない僕らの仕事は固定砲台だ。あの三人が撃ち漏らした<星獣>を僕ら二人で迎撃しよう」

「了解ですわっ」

 サツキは慌てて後ろに下がり、車の前を守るようにケイトと並び立つと、得物の先を前方に向ける。

 指を鍔元の発射レバーに添える。これで準備完了だ。

「では園田さん」

「ええ」

 丁度、八メートル弱にまで接近してきた哀れな<星獣>が一体。

 サツキが発射レバーを押すと、<マルチブレードシステム>の刀身が勢いよく射出され、敵のド真ん中を見事に貫いた。

 これで一体撃破。次は――


 ナユタ曰く五分で片付ける予定だったらしいが、実際は十分も掛かってしまった。彼は少し微妙そうな顔をして、地面にどかりと尻餅をついてぼやいた。

「そーいや、しばらく砂漠から離れてたもんな。足腰が衰えたか……少し疲れた」

「何ジジイみたいな事言ってんだよ。さっさとジープに戻ろうぜ」

「ナユタのヘナチョコー」

 やいのやいのと言い合っている西の三匹狼を遠目で眺めながら、サツキは改めてここがウェスト区なのだと自覚した。

 出現する<星獣>の数と強さ。サツキはそれに対し、ただ動かずに得物の刀身を飛ばし続ける作業だけに徹する事しか出来なかった。

 自分はまだ弱い。いくらS級への推薦を貰ったからといって、いまの自分の力ではあの三人の足元にすら到底及ばない。龍牙島でユミに勝利したのは、本当に万が一の奇跡だったのだ。

「園田さん、車に戻ろう。出遅れた分は飛ばさなきゃならない」

「……はい」

 ケイトに促され、サツキはジープの荷台に乗り直した。


   ●


 ウェスト区とセントラルを繋ぐ連絡橋は、入口のあたりで既に交通規制が敷かれていた。だが、無理矢理押し通る算段を立てられないでもない。

 野次馬を橋の先まで通すまいとスクラムを組んでいたパトカーのうち、一台だけが間抜けにも扉が開けっ放しだった。パトカーも警察組織の備品なのに、こうまで管理が杜撰だとは思わなかった。

 けれど、いまはその体たらくがイチルにとっては幸運に働いている。そこらへんを徘徊していた婦人警官の一人を闇討ちして、身ぐるみを拝借してこの場に忍び込んでいた彼女は、警戒線を超えた先にある不運なパトカーの運転席に乗り込んだ。

 手早く扉を閉め、キーを回してエンジンに火を入れる。これがマニュアル車だったらレバーの操作に一苦労していたところだろうが、幸いこの車のミッションはAT仕様だ。さして苦も無く操作は可能だった。

「? おい、そこの車――」

「止まれ!」

 警官の何人かが、いきなり動き始めた車に気づいて立ち塞がろうとする。

 イチルはアクセルをいきなり全開にしてハンドルを切り、実際に被害があった地点へと車を突っ走らせた。運転なんて初めてどころか免許を取れる年齢ですらないのに、よくもまあこんな簡単に動かせたものだと、自分で自分を褒めたくなる気分に浸ってしまった。

 背後から別のパトカーが三台、泡を喰ったように速度を上げて迫ってくる。イチルは運転しながら窓枠から顔を覗かせ、既に発動していた可変型の片手銃、<ギミックバスター>の縦に広い銃口をパトカーに向ける。

 発砲。レーザーの弾丸が右側を走っていたパトカーの前輪に直撃。タイヤを潰された車両がバランスを崩してスピンし、中央のパトカーを横殴りに巻き込む。

 顔を車内に引っ込めて腰を浮かせ、今度は運転席と助手席の間から銃口を突き出し、三発発砲。こちらの車両のリアガラスが消し飛び、生き残っていた左側の車両のボンネットが火を噴いて急停車する。

 これで追っ手の車両は全滅だ。もう攻撃の必要は無い。

「ふう……あっぶねー」

 人生初のカーチェイスから通常の運転に戻り、イチルは緊張感を少しだけ解いた。

 それにしても、たった数分でこれだけの前科を増やしたなんて、昨日までの自分には考えられない暴走っぷりである。

 警官への暴行、備品の強奪、無免許運転、器物破損――ざっと思いつくだけでも、なんと前科四犯である。

 やがてイチルが駆るパトカーが事故現場に到達する。彼女は車を降り、問題の地点を難しい顔で見渡した。

 橋はいまイチルが立っている場所から、約五○○メートルに渡っての全てが綺麗に無くなっている。ではその五○○メートル分は何処へ行ったかという話だが、どうやら既に全てが海の藻屑となって消え去っているようだ。

 空白の五○○メートル。イチルは警察の更なる追っ手が来る前に、この距離を一気に飛び越えなければならない。

「……大丈夫。自分には出来ると思え、あらゆる無茶も計算に入れろ」

 深呼吸し、精神を研ぎ澄ませる。

 イチルの足元に緑色の光が波紋となって広がり、収束する。これは<輝操術>における基本の一つ、<流火速>。アステライトの流れそのものを加速させる技だ。例えば、この大気に満ちているアステライトを足の裏に溜め込み、爆発させて高速移動を実現するといった常識外のスキルも発動可能だ。

 大丈夫。あたしは最強の<輝操術師>・八坂ミチルの娘。あの人があたしを守る為に教えてくれた技の全ては、確実にあたしの中で息づいている。

「……いまだ!」

 溜め込んだ力の全てを解放。足裏で緑色の光が爆発し、イチルの体を放物線状にぶっ飛ばす。やがて中間地点まで来ると、イチルはさらに足裏にアステライトを溜め込み、爆発させる。

 さらに飛距離が上昇。続いて加速を連続し、向こう側の地面が迫ってきた。

 今度は体勢を整え、足裏から細やかにアステライトを分散。着地の衝撃を完璧に緩和し、何の衝撃も無くイチルは五○○メートル先の橋に降り立った。

 上手くいった。いままでは短距離間での高速移動しかできなかったのに、今回は完璧に成功している。

 イチルはようやく、自分自身の力がヒナタと同等レベルにまで追いついていると実感した。

「よしっ」

 ぎゅっと小さく拳を握り、イチルは<流火速>で地を這う燕のように駆け出した。車を捨ててきた以上、残り半分の距離は徒歩だ。<流火速>での高速移動を連続させれば大体三十分くらいで目的の市街に辿り着けるだろう。その頃にはイチル本人はガス欠で動けなくなっているだろうが。

 などと思ったところで、正面からジープが一台突っ込んでドリフトし、イチルの目の前で横っ腹を見せて急停車した。

 あまりにも突然の事に腰を抜かし、加速を止めたイチルが勢いあまってジープの後部座席の扉に顔から突っ込んだ。

「ぐべぇ!」

 モデルらしからぬ奇声だった。

 イチルが顔面を抑えながらへたりこんでいると、運転席側のドアから一人の少年がこちらに駆け寄ってきた。

 白い髪に白いマント。白い死神がいたらこんな感じではなかろうか、と思ってしまう時点で、目の前のこの少年からはどうにも不吉なオーラが漂っているように感じてしまう。

「相変わらず元気な子だね、君は。……大丈夫?」

「……ヒナタ」

 一ノ瀬ヒナタは、痛みと戦うイチルを心配そうな眼差しで見つめていた。


「無茶をしてまで来てくれるとは思わなかったし、ここに至るまで前科四犯とは恐れ入る」

「無茶をさせるつもりが無かったんなら、さっさとそっちから迎えに来れば良いじゃん」

「一応、僕も国際指名手配犯なんだけどね……」

 ジープを運転するヒナタが苦笑しながら呟いた。この車は既に瓦礫の山と化したジャマダハル市街を抜け、壮大な砂漠地帯に長い轍を刻んでいる最中だった。

 イチルはハンドルを握るヒナタの横顔を見て言った。

「運転までするんだ」

「西にグランドアステルの法律は適用されないからね。君の物騒なお友達も軍用バギーを駆っていたらしいし、そう珍しい事でもないさ」

 まあ、たしかにナユタならそれくらいはやりかねない。

「ところで、砂漠のど真ん中なんて走って大丈夫なの? <星獣>がたくさん出るんでしょ?」

「それがね、さっきから<星獣>の出現数がやたら少ないんだよ。誰かが派手に狩っていったのかな? まあ、どのみち好都合だったけど」

 話によると、ウェスト区だとエンカウント一回につき<星獣>が一五○体前後は出現するらしい。さすが繁殖地と言ったところだろうか。セントラルだと五○体出現しただけでも大災害として扱われるのに、そのおよそ三倍近くの出現数が日常茶飯事とは、いやはや恐れ入る。

 とはいえ、いまはそんな卒倒するような現実を目の当たりにする機会を逃した訳だが。


 二時間後、ウェスト防衛軍基地の地下階段。

 ランタンを掲げ、足場も見えない程の暗い階段を進むヒナタの背を、イチルは頼りない足取りで追っていた。

 やがて鍾乳洞のような空間に出て、最奥部の鉄扉の前に立ち止まる。

「……ここは?」

「君の生まれ故郷さ」

 ヒナタが意味ありげに言うと、横のコンパネをてきぱきと操作した。

 鉄扉が操作に反応し、錆びついた音を立てて重々しく開かれる。

「……! 何、これ?」

 扉の向こう側に広がる広大な空間を、イチルは目を剥いて見渡した。

 有り体に言って、霊園みたいだった。何かのカプセルが等間隔に並べられ、その枕元には大理石の十字架が突き立っている。雰囲気が雰囲気なだけに、楕円形のカプセルがどうにも棺桶にしか見えない。

 ヒナタは不気味に口元を緩めてから告げる。

「『英霊の氷墓』。僕らはそう呼んでいる」

 彼はカプセルのうち一つに手の平を添えた。

「イチルはコールドスリープって知ってる?」

「えっと……仮死状態のまま人間を冷凍保存するっていう技術の事?」

「ああ。SFによく出てくるアレだよ。それを六十年以上前に実現させた科学者がいてね。ここはその技術の集大成だったのさ。でも公に露見したら拙い技術でね。もしまた<星獣>によって地球が滅ぼされるような危機に直面したら、当時のお偉いさんの間でここの使用権を巡る醜い争いが起きていたかもしれない。カプセルの数にも限りがある訳だし」

「そんな事はどうでもいい。ヒナタ、約束してくれたでしょ? あたしのルーツを教えてくれるって」

「そうだったね。すまない」

 彼は苦笑し、さらに奥へと歩き出す。イチルも彼の背を追っていると、やがてこの空間の最奥部にたどり着く。

「結論から述べよう。君は、このカプセルから生まれたのさ」

 彼が指したのは、最奥部の壁際に並べられた三つのカプセルの一つだった。

「生まれた? あたしが? ここから?」

「ああ。正確に言うとちょっと違うけどね。一つ確実に言えるのは――」

「お待ちなさい。そこから先は、私が説明するから」

 背後から別の声がして、思わず振り返った。

「……え?」

 イチルは自分の目を疑った。

 背後から歩み寄ってくるライセンスバスターの制服を纏う若い女性は、一見すると師匠である三山エレナに酷似していた。それどころか、イチルにもよく似ていた。

 いや、違う。目の前の彼女がエレナに似ているのではない。エレナが外見だけ彼女の真似をしていただけであって、イチルと似ているのは彼女がイチルの元となった存在だからだ。

「おかあ……さん……?」

「久しぶりね、イチル。まあ、この姿だと説得力は無いだろうけど」

 などと笑う彼女の姿は、アルバムで見せられた若い頃の母親とそっくり――いや、そのまんまだった。

 八坂ミチルは、生前まで絶えず見せていた眩しい笑顔を再び輝かせた。

「教えてあげる。あなたの全てを、余す事なく」


   ●


 暇だな、とエレナは素直に思った。

 ウラヌス機関によって用意された自室とはまた別の、S級バスター専用の優雅な西洋調の休憩部屋の窓に手の平を置いて、彼女はひたすら立ち尽くしていた。スカイアステルで待機命令が下されている以上、敵が攻め込んで来ない間は暇でしかないからだ。

 また二人、この部屋に入ってくる者がいた。望波和彩と三笠心美だった。

「二人共、何処へ行ってたんだ?」

 エレナが振り返りもせずに問う。和彩はコーヒーサーバーを弄りながら答えた。

「お師匠様の遺品整理の手伝いを」

「政宗殿はお前がもっとも敬愛する剣士だったな」

「エレナさんにとっての八坂ミチルと同じです。正直、こんなところで引きこもっているよりか、さっさとお師匠様をあんな目に遭わせた不届き者を抹殺したい気分ですわ」

「大和撫子の吐く台詞ではないな」

「もうおしとやかな女性という飾り物の肩書きから卒業する頃合でしょうか。サツキさんにでも譲れたら、どれだけ気が楽で済む事か」

「彼女にあんな言葉遣いを教え込んだだけでも充分だろう。それに、ナユタなんかと一緒につるんでいたらどう足掻いても上品な性格には育つまい」

「エレナさんは九条君に、どうしてそこまで入れ込んでいらっしゃるのでしょうか?」

 熱々のコーヒーを淹れながら、和彩が意外な事を訊いてきた。エレナは少し考えた挙句、こう答えた。

「誰のヒーローにもなれない、そんな奴だからだ」

「は?」

 和彩がぽかんと首を傾げる。エレナは彼女の反応を心の奥底で楽しみながら言った。

「あいつはなんていうか……道に迷った奴と一緒に自分まで迷い始める奴なのさ。誰の助けにもならないけど、傍にいてくれるだけで心強い。いや、もしかしたらサツキ達にとってのナユタがそうであるように、ナユタにとってのあいつらもきっと――」

 エレナが最後まで言いかけたところで、また一人、今度はとんでもなく慌てた様子のS級バスターが飛び込んできた。

「エレナ!」

「どうしたニーナ」

 血相を変えて現れたのは、自分とほぼ同年代のロシア系女性だった。彼女はニーナ・スモレンスキー。大学ではエレナの後輩にあたる。背も高いベリーショートの美人なのに、性格が爺臭くて色気に欠けるので、いまもなお年齢=彼氏イナイ歴を更新し続けている。まあ、エレナも人の事は言えないのだが。

 ニーナは荒立てた息を整えてから言った。

「……さっき、グランドアステルの警視庁から連絡があったの。連絡橋周辺を警護していたパトカーが一台略取されたって。パトカーを奪った犯人は婦人警官の格好をしてて、車をぶんどってから西の方角に走り始めたの。しかも、追っ手のパトカーを三台も蹴散らして」

「西方面? だが橋の中間地点は通れない筈だぞ?」

「それがね、増援で犯人を追ってた警察連中の証言だとそいつ……両断されていた橋を一息で飛び越えたっていうの! 信じられる? そんな真似ができる人間がいてたまるかっての!」

「……まさか」

 いまの話から、一瞬だけ八坂ミチルの顔がエレナの脳裏にちらついた。ニーナが述べたような芸当が可能な人間など、エレナが知る限りでは彼女しか思いつかない。

 でも彼女はもうこの世にはいない。だとすれば――

「――バカな……いや、有り得ない。あいつにそんな真似が……」

 エレナは焦燥に駆られ、Aデバイスでイチルの番号にダイヤルする。しかし、いくら待っても出てくれる気配が無い。

 やがてコールの音が止んで、別の音声が流れ込んできた。

『おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません。もう一度おかけなおしください』

「……クソッ!」

 悪態混じりに通話を切り、エレナはぎりぎりと歯を軋らせた。

「何故出ない、イチル……!」。

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