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前編

「独りよがりの恋だって気づいてた、私」

それでも良いと思ってた。

でも、あの日。もう止めようって決めた。諦めようって誓った。

「だから、結婚したの。結婚しようと言ってくれた人と」

どんな私でも、抱き締めてくれた人。褪せない想いごと受け止めてくれた、笑顔の似合う人。

「ずっと好きでした。もう友達には戻れない。だからさよなら」

うまく私は笑えてるだろうか。


苦しい。

胸が痛い。


「さよなら」

もう振り向かない。

「沙耶!」

かつては愛しくて仕方なかった声。もう今は聞きたくない。

そんな風に悲痛な声で名前を呼ばないで。

「僕だって、ずっとキミが好きだった!結婚したかったよ!」

…え?

足が自然と止まる。

「高校から今まで、ずっと想ってた。好きだったよ」

思い出されるのは高校の懐かしい日々。募っていく想いに何度も涙を溢した、ほろ苦い記憶が胸に広がっていく。


どうして、今頃になって言うの…?お気に入りの玩具を失いそうになって惜しくなった?


私はきゅっと薬指の結婚指輪を握り締めた。

これ以上、何も聞きたくない。

最後は笑って、って決めてたのに。顔が歪むのを抑えられない。

「…私が他の人と結婚したから惜しくなったの?」

「そんなことない!僕と友達以上になることを避けてたの、キミの方だろ…」

「それは、自信がなかったからよ…」

あなたの隣にはいつだって綺麗な女性がいた。誰かの影に隠れて生きていた私とは違う、輝きを放つ女性たち。私が勝てるわけなかった。

「それは僕の方だよ」

ぽつりと呟く声。

「成績優秀、可愛くて人気のある沙耶と釣り合う男になるために、どれだけ努力したと思う?死ぬほど勉強して、がむしゃらに部活やって。

やっと手が届くと思ったら、今度はキミが笑わなくなった。誰も寄せ付けなくなった」

思い出すのは地獄のような日々。何年もかけて積み上げたものが全てこぼれ落ちていって。

気が狂う寸前だった。壊れかけていた。毎日、色のない世界にいるようで。

「キミは僕を拒絶した。そして違う奴に心を開いた」

…好きだったから。

あなたを好きだったから、何も言えなかった。

自分の醜さを知られたくなかったし、同情なんて欲しくなかったから。

言葉を飲み込んで、私はただ俯いた。全ては過去だ。今更、こんなことを伝えて、何になるのだろう。

「いつもキミは僕から逃げる。

…だから、僕もキミから逃げた。忘れたかった。

でも好きだった。

離れても会えなくても、恋しくて。もう逃げられないと思った。

だから、遠回しにプロポーズしたのに、的外れな返答されるし」

「…いつ?」

まったく記憶がない。

あなたは溜め息を吐いた。

「…気づいてなかったんだ。はっきり言えば良かった。そしたらきっと未来は違った」

そうかしら、と思った。

どちらにしても、私は受けることはできなかった気がする。私はあなたの言葉に、いつしか耳を閉ざしていたのだから。

物思いに耽っていると、突然、背中に温もりを感じた。

対して心が凍えていく。


違う。


私が欲しいのはこれじゃない。


体が、心が、違うと叫んでいる。


こんな時に、思い出すのは夫の温もりだけ。


私の髪をすく指の優しさや、困ったように笑う目許、寝起きの寝癖…

次から次へと溢れるのは、夫のことばかり。


あぁ…私の中で、この恋はとうに終わっていたんだ。

さよならを言わなくたって、ちゃんと区切りはついていた。

どうして気づけなかったのだろう。

「私は、あなたじゃない人と結婚したの。すべて分かった上で私を受け止めてくれた忠博さんと結婚したの。

もう戻れない。もう二度とあなたを愛せない」

視界が滲む。

私はまた、この人を傷つけている。

でも、あの頃に戻りたいとは思えない。

あなたの腕は私を更にきつく抱き締める。

「愛してる。愛してるんだ」

かつては、あれほど聞きたかった言葉。今はただ、苦しくて。痛くて。悲しくて。

「もう戻れない…たとえ愛してもらえなくても、私は忠博さんと生きていくの」

俺も忘れられない人がいると、おあいこだと笑ってくれた。愛してもらえなくても、構わない。俺も同じだと言った、あの人に私はどれだけ救われたのだろう。

「私が選んだの。あの人と生きる、そう決めたんだから」

「沙耶…」

「私は今日、過去と決別するために来たの。もしも、本当に私を愛してくれてるのなら、私を解放して。お願い…」

あなたの手が私の腕を滑り落ち、力なく離れていく。

「ごめんなさい…さよなら。もう二度と会わない」

私は歩き始める。私を追いかける声も足音も、もう聞こえてこなかった。





「忠博さん、今、いい?」

私はソファーで本を読む夫に声をかけた。夫は視線だけこちらに寄越して、おいで、と言う。

私が夫の隣に座ると、彼の表情が柔らかくなる。夫が本を閉じるのを待って私は言葉を紡いだ。

「忠博さん、あのね、私…さよならしてきたの」

「…うん」

「あの人に、愛してたって言われた。高校の時からずっと。

結婚したいって言われたの」

「そう…。それで沙耶さんはどうしたいの?俺と別れたい?」

相変わらず優しい表情で告げられる言葉。

私は首を横に振る。

「航君の想いを聞いても、心が動かなかった。…いつの間にか、あの人への想いは昇華されてたのね」

それはずっと私に安らぎをくれた温もりがあったから。

そっと手を伸ばして夫を抱き締める。何度も私を受け止めてくれた筋肉質な胸に頬を当て、鼓動にただ耳を傾けた。

「沙耶さん、それでいいの?」

夫は私の頭を抱き、そっと囁かれる。優しく響く声に包まれて、私は頷いた。

「忠博さんの隣がいい。…傍にいたいの」

「沙耶さん。俺と生きることを後悔しない?今ならまだ間に合うよ」

「後悔しない」

少しだけ背伸びして、私は夫の唇に自分の唇を重ねた。小鳥が啄むように優しく食むと、夫もそれを返してくれる。躊躇いながら差し込まれる舌が、私の口内を融かしていく。

やがて静かに唇が離れて、吐息が漏れた。

「忠博さんが好き…」

自然に零れた想いに、夫が目を見張る。

「好き」

もう一度告げると、夫の顔がみるみるうちに赤くなった。

「…反則だろ」

掠れた声に胸が大きく鳴った。

夫はしばらく私を見つめた後、ふっと笑う。

「…俺、忘れられない人がいるって言ったこと覚えてる?」

「覚えてる」

唐突な問いに戸惑いながらもちゃんと頷いた。

「あれ…誰のことだと思う?」

「私が知ってる人?」

夫は少し照れくさそうに、知ってるよと言う。

「聞いても逃げない?」

私が頷くと、夫は一度目を伏せ、そして切なげに眉を寄せた。

「俺の、忘れられない人は…キミだよ。沙耶さん」

「え?」

「キミは覚えていないみたいだけど、俺はずっと前からキミを知ってた。4年前、毎朝キミと同じ電車に乗ってたんだ。初めて見た時から可愛いと思って、気づけばキミを目で追ってた。

恋に落ちた、そう思った。名前も素性も知らない女性に、俺は恋をした」

2年前まで乗っていた電車。周りのことなど気にすることもなかった。

まさか、私と夫がそんな前に出会っていたなんて。

でも夫は私を見つけてくれた。ずっと前から、私を見ていてくれた。

その事実に頬が熱くなる。

「職場で出会った時は本当に驚いたよ。まさか同じ職場になると思わなかった。こんな偶然があるのかと。運命を感じずにはいられなくて。

どうしても手に入れたい、キミが欲しいと思った。

…ごめん、俺はキミにずっと嘘吐いてた。好きだったからプロポーズしたんだ」

懺悔のような独白は、どこまでも優しい。切なさで、胸が苦しくなる。

「俺は、こういう男だよ。キミが他の男を愛していてもいいから、傍にいたかった」

その愛情に、私は救われていた。私を守るように包み込む優しさがなければ、きっとまだ迷路の中にいて独りよがりな想いに囚われていたに違いない。

「沙耶さん。あなたを誰よりも愛しています。

俺に、あなたのすべてをください。俺のすべてをあなたにあげます。

だから、どうか。俺の隣にいて、微笑んでいて」

二度目のプロポーズは、甘い響きと、懇願を含んでいる。

ずっと、愛のない結婚だと思っていた。本当はちゃんと愛されてたのに。私は夫にきちんと向き合っていなかったのだろう。だから、こんなに痛いほどの想いに気づけなかった。

でもこれからは、夫に向き合って生きたい。この人となら、どんなことでも分かち合える。そんな気がする。

「はい」

精一杯微笑んで返事をする。胸を突き上げる衝動で、他には何も言えなかった。

「沙耶」

夫の指が頬を撫でて、そこで私はやっと自分が泣いていることに気づいた。

「泣くなよ…」

「だって…っ、んっ…」

唇を優しく塞がれて、私の言い訳は続かない。

そのまま、そっとソファに倒されて、私は夫を見上げる形になった。どこか余裕のない双眸が、熱の篭ったまま、私を映す。

「あの…っ!」

唇が離れると同時に私は、声を発した。これから起こることは、鈍感な私でも分かる。その前に、言わなきゃいけないことがある。

「私、初めてなの…っ!」

「え?」

切羽詰まった私の言葉に、夫は一瞬きょとんとしたが、すぐに悪戯っぽい表情を浮かべる。

「知ってる。

結婚初夜に、体を震わせてたよね。結婚した相手にさえそうなんだから、他の人に抱かれることなんて無かったんだろうなって。かと言って、航さんとはそういう関係でもなさそうだったから。たぶん、そうじゃないかなとは思ってた」

つまり夫は、すべてお見通しだったわけだ。

恥ずかしさで、私の頬が熱をもつ。そんな私の頭を夫は撫でてくれた。

「俺が、初めてをもらっていい?」

返事なんか分かってるくせに、敢えて聞いてくるのは、優しさか意地悪か。案外、後者かもしれない。

「忠博さんじゃなきゃダメ。もらってくれる?」

少し悔しいけれど、私は素直に告げた。

もう、夫以外の人なんて考えられない。

私の言葉が意外だったのか、夫は目を丸くした。そして、耳が真っ赤になる。


何で?


首を傾げた私を、夫は恨めしそうに見た。

「それ…天然?」

「はい?」

「あのさ、長い間想っていて、結婚してからも半年以上も抱かずに我慢してたんだよ」

そんなこと言われたら、抑え利かないだろ。

切羽詰まった声が耳に響く。

夫は私の頬を両手で挟み、性急なキスをした。荒々しいキスは初めてで、息継ぎがうまくできない。酸欠になりかけたところで、やっと唇が離れた。

「…ごめん。大丈夫?」

けほけほと噎せる私に、申し訳なさそうに夫が謝る。

「…けほっ…だ、だい」

「沙耶さん…やっぱり、今日はやめようか…?俺、絶対に自制きかない」

横を向いた私の背を擦りながら、そう呟く。その言葉に思わず夫を見上げると、熱に浮かされたような瞳で私を見下ろしていた。

「沙耶さんを大切にしたいんだ。傷つけたくない」

今にも泣き出しそうに顔を歪めた夫が、幼く見える。大切にしたい、その言葉がじんわりと心に染み込んだ。

まだ、呼吸は苦しい。

でも互いの心があるのなら、何を躊躇うことがあるのだろう。

大丈夫、きっと。夫となら。

私は夫の頬に手を添えた。

「大丈夫……だから…」

夫がはっと息を呑む。

「…好き…忠博さん……」

だから逃げないで。私はどんなあなたでも受け止めたいから。

唇の端を持ち上げると、夫は首まで赤くなった。

「…お前な…っ!」

いつもより乱暴な口調。びっくりして目を瞬かせると、夫が私を睨んだ。

「…沙耶が悪いんだからな。俺の自制心を簡単に崩しやがって。…覚悟しろよ。絶対離してやらねぇ」

「え?」

「沙耶。愛してる」

夫はまた私の唇を塞いだ。

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