scene1:家族との団欒
獣は音や振動に敏感だ。
だから静かに。
可能な限り静かに。
呼吸や鼓動すらも最小限に抑えて、一歩また一歩音を立てずに彼は進んでいく。
そよ風が木々を揺らし、緑葉を鳴らす。
乾いた音が響く中、それを隠れ箕として背負った矢筒から矢を抜いた。
目標までは約10メートル、直線上に障害がない一点を狙って弓を引いた。
呼吸が、鼓動が、視界が、全ての感覚がより鮮明によりクリアに広がっていく。
それから一呼吸置いて次の瞬間、彼は矢を放った。
放たれた矢はぶれることもなく、真っ直ぐに標的の喉を貫通した。
全く無駄の無い一撃、血すら流れ出ていない。
標的となっていた若い鹿は苦しむ間すら与えられず、すぐさま血に伏せた。
「ふぅ……」
極端まで抑えていた肺の活動を解き放ち、額に滲んだ汗を袖で拭った。
彼は顔にへばりついてくる長い黒髪を、鬱陶しそうに横へ分けた。
「運が良かった。まだ麓に残ってた奴がいて」
今は8月。
この季節になると、ここらの鹿は冷所を求めて山を登ってしまう。
そうなってしまうと中々狩りをする事は難しいのだ。
幸運に恵まれた若き狩人は、事切れた若鹿の両手足を縛り、肩に背負った。
久しぶりの収穫だ。
これで仲間達にどやされなくて済む。
「よし、帰るか」
時刻はもう夕暮れ時だ。月が上りきるまでには、村に着けるであろう。
そう思いながら、緩やかな下りになっている斜面を、彼は下り始めた。
*****
「ふんっ!」
大きな鉄の塊を、薪へと向かって鋭く振り下ろす。
幼い頃から何度も何度も繰り返してきた動作。
もう身に染みてしまっている。
「よっしゃー、終了〜」
今のが最後の一本。
赤毛の青年は、いや少年とも言えなくもない程に小柄な彼は、今まで斧を打ちつけていた大きな木の幹に腰を下ろした。この幹とももう10年以上の付き合いになる。
ぼっーと、そんな事を考えながら遠くの景色を眺めていると、視界の隅に小さな黒い点を見つけた。
こちらに向かって歩いてきている。
赤毛の青年は幹の上に立ち上がり、大きく手を振った。
「おーい、キール!おかえり〜」
声が届いたのか、キールと呼ばれた黒髪の青年は手を振り返してきた。
二人の間の距離は徐々に縮まっていく。
もうあと数十メートル程の所で、赤毛の青年は幹から飛び降りて駆け寄っていった。
「キール、どうだった?」
「ただいま、ラキ。見ろ、久しぶりの獲物だ」
そう言ってキールは背中の若鹿を、ラキの前に差し出した。
「おぉー、凄いな〜。さすが漆黒の鷹、村一番の狩人だな」
ラキは体全体で嬉しさを表現するかのようにピョンピョンと飛び跳ねた。
彼の身長はキールと大分差があるので、ジャンプしてもキールが見下ろす形になってしまっているが、これでも二人は同年代である。
「よせよ、そんな大したもんじゃない……それより早く家に入ろう。グー爺とウルグが待ってる」
「そーだな、きっと腹空かしてるぞ!」
キールは獲物を肩に背負い直し、ラキは両手一杯に薪を抱えて、二人は並んで家へと向かった。
ここからすぐの小さな、決して綺麗とは言えない山小屋が彼等の家だ。
もうここで暮らし始めて10年になる。
月日は木々と一緒にキール達も成長させ、またこの森で生きていく術を教えてくれた。
ラキが先を進み、小屋の戸を開いて中に入っていった。
「ただいま!みんな、我等が狩人が帰ってきたぞ」
遅れてキールが小屋に辿り着く。
「ただいま、グー爺、ウルグ」
室内は区切る物が何もない、とても大きなスペースになっている。
部屋の中央に円柱型の暖炉があり、それを囲むように麻布で覆われたソファ兼ベッドが置かれている。
そこにグー爺とウルグはいた。ラキが二人の元に駆け寄っていく。
それを迎えるように、眩しいくらいの金の髪を揺らしながら、ソファの背を飛び越えてウルグが立ち上がった。
「おかえり、二人共。キール!獲物を見せてくれよ、久しぶりに腕がなるぜ」
そう言うとウルグは腕捲りをして、指を鳴らす。普段の料理の担当は彼なのだ。美味しくなかった事は数える程しかない。
「あぁ」
キールは肩から獲物を降ろすと、キッチン台の上へ置いた。ウルグは関心したような息を吐き出し、確かめるように指先で肉を押していく。
「……良い若鹿だ。そうそうお目にかかれるものじゃないぞ」
「何つくるんだよ!?」
ラキが問いかける。
「そうだな……畑で野菜も採れたし、煮込んでシチューなんかもいいかもな」
「おぉー、旨そう!早く作ってくれよっ」
「おぅ、任しとけ。キール!お疲れ様、夕食までゆっくり休んでくれよ。風呂の用意もできてるからさ」
「あぁ、ありがとう」
そう言ってキールは微笑んだ。
この時が一番好きだ。自分が捕らえた獲物で皆が喜んでくれて、何を作るか考えている時が。
「キール」
滝のように長い顎髭を蓄えたグー爺は、ゆったりと間をおいてから、キールに振り向いた。
「良く帰ってきた。それと、お手柄だな」
滅多に笑わないグー爺の笑顔。それも口角が上がる程度だが、キールは素直に嬉しかった。
グー爺に拾われてから10年間、彼はもう本当の父親のような存在になっていた。
「ただいま、今日は幸運だったよ」
「いや、運も実力の内だよ。漆黒の鷹か、お前は立派な狩人になったな」
「よせよ、恥ずかしい。グー爺まで漆黒の鷹、なんて呼ぶなよ」
「いや、お前程の弓の使い手はそうそういないだろう。胸を張って良いことだ」
「最初に弓を教えてくれた時のグー爺に比べたら、俺はまだまだだよ――っと、じゃあ俺は風呂に入ってくるよ」
干してあったタオルを掴み取り、風呂場へと向かう彼の背をグー爺は見送った。
長い間変わらない、その優しい瞳で。
*****
キールが風呂から上がると、美味そうな香りを感じた。同時にお腹が音をたてた。
随分と腹が減っているようだ。
髪と体を乾いたタオルで拭くと、足早にキッチンに向かった。
「おっ、丁度良い所に。キール、飯だぞっ」
ラキがテーブルに皿を並べている。グー爺は既に席に着き、グラスに酒を注いでいた。
「良い匂いだ」
キールは鼻をならした。食欲を誘うような優しい香りが部屋に充満している。
「庭で採れた香草を入れてあるんだ。今年初めて育ててみたけど、なかなか上出来だろ」
シチューをたっぷり注いだ皿を、ウルグがキールに差し出す。
「あぁ、凄く旨そうだ」
「なんせ自信作だ、期待してくれていいぜ」
両手に皿を受け取ると、そのままテーブルへと運ぶ。
後に続いて、ウルグも皿を運び、四人全員、家族がテーブルについた。
「じゃあ――」
「「いただきますっ」」
声を揃えて、食事を始める。カチャカチャと賑やかな音が、テーブルの上を踊り出した。
「旨いっ!」
「本当に旨いな」
「……ほぅ。また腕を上げたようだな、ウルグ」
「そりゃ良かった。沢山作ったから、どんどん食べてくれ」
しばし、静かな夕べが過ぎた。
すっかり日が落ちて、黒に染まった窓に団欒の風景が写つりだしている。
「おかわりっ」
スプーンを片手に握り締め、もう片方の手で空になった皿を、ウルグに向けてラキが突き出す。
口の周りにシチューを付けた彼を見ながら、ウルグは呆れ顔でそれを受け取った。
「本当にお前は……そんなちっちぇ体で良く食べるな……」
「だって旨いんだもんっ」
「……答えになってねぇよ」
ウルグはたっぷりとシチューを注ぎながら肩を落とした。
これでラキは8杯目。
大量に作ったはずのシチューは、あっという間に彼の胃袋に吸い込まれていってしまった。
「はい、これで最後な」
「え〜」
「文句言わないっ」
「ご馳走さまっ!」
「早いよっ!?」
こんなやりとりの後、長かった夕食が終わり、後片付けをすました家族一同は、マグカップを片手に暖を囲った。
腹の膨れたラキは、もうすでにソファに座ってウトウトし始めている。
「そうか……もうそんな季節なんだな」
暖炉に薪をくべながら、キールは呟いた。
「あぁ、明日には村に顔を出さねばならん」
「木龍祭か……今年は誰が祭祀をやるんだ?」
ラキに毛布をかけてやりながらウルグ。
木龍祭とは、木龍ユグドラシルを信仰する人々が一年の祈願を行う行事である。
ここいらの地域では木龍信仰が盛んなのである。
「今年はブライトの長男坊がやるらしいな。あのような無粋な男に祈祷など出来るとは思わんがの」
「ははっ、言えてるぜ。まだオレがやったほうが様になるかもな」
祭祀の物真似をしながら、ウルグは笑う。
それを横目に、キールはカップに入っていた紅茶を一気に飲み干した。
「じゃあ明日は早くなるな。もう寝よう、二人とも」
その言葉にグー爺は頷くと、用を足してくると言って、トイレに向かった。だがウルグはというと、まだ微かに笑いを堪えている。
「あのゴリラが祭祀やるかと思うと、興奮して眠れねぇよ」
「全く……だったら一人で起きていろ」
「嘘だよ。ふぁ……おやすみ」
「おやすみ」
そう言って二人は床に着いた。
相当疲れが溜まっていたようだ。
グー爺が戻ってくる足音が聞こえた頃には、キールは眠りの中に沈んでいた。