雲から転げ落ちた夢を、見つける
窓から家の中に入った。クロは器用に窓枠を越える。ジオモもそれに続いた。
暗い部屋だった。空気が重く、冷え切っていてジオモは身ぶるいした。クロはジオモにある一点を指し示した。ジオモは目を凝らした。ぼんやりと何かが浮かび上がってきた。
「わたしのご主人さま。最近、寝つけないと言ってうんうん唸っているの」
と、クロは瞳を曇らした。ひとりのニンゲンが横になっていた。時折り、聞こえる音は寝息だろうか。
「それで、僕に頼み事って?」
クロは頷いて、話し出した。貴方にしかできないのよ、と言って。
「わたし、ご主人さまが寝つけない理由を突き止めたの。ほら、見て」
クロの指さした先を見た。注意して見ないと、見過ごしてしまいそうなくらいの細い煙が立ち上っていた。薄暗くてわかりにくいけれど、あれはたしかに虹色をしていた。とても頼りなく、揺れていた。
とりあえず、虹色の煙を見つけられたことに安心する。しかし、問題があったのだ。
クロはさらに近づいて、出元を見るようにジオモを促した。そっと身を乗り出して、ジオモは目を丸くした。
「何か詰まっている」
「そう。ジオモに手伝ってもらいたいの。わたしの体は大きくて、中まで手が届かなくて」
「それを僕が? できるかな」
「ジオモしかいないの。他に小さな知り合いはいるかしら」
「もしいたとしても、ここにはいないよ」
ジオモは口をとがらせて反論した。
詰まったものを取らないと、中には入れないのだ。虹色の煙はニンゲンの中のとある部屋から出ているという。とにかくその部屋にたどり着けばいいのだという。しかし、ジオモの目の前にある部屋に入ることは難しそうだった。もどかしい思いがふつふつとジオモを襲った。
もう一度、ジオモはコルクの栓のように詰まっているものを確かめた。どこかで見たことのあるような白いもの。記憶に引っかかるものがあった。なんだろう。
「ジオモはそれを掴んで。わたしが引っ張るから」
ジオモは懸命に腕を伸ばして、白いものを掴んだ。
「できたよ」
「じゃあ、引っ張るね」
強い力に体が引きちぎられそうになりながらも、ジオモは踏ん張った。少しずつだが、抜けていっているようだ。確かな手応えを感じた。
白いものは勢いよく、すぽーんと外れた。ジオモもクロも勢いあまって、尻もちをついた。肩で大きく息をしながら、ふたりは手を取りあって歓喜した。
「抜けたわ。抜けたわ。これでご主人さまも安心して眠れるわ」
クロの喜びようは半端ではなかった。掴んだ両手が揺さぶられる。クロのしなやかな尻尾が空をかき混ぜた。ひゅんひゅんと頬に風を感じた。
ジオモは抜け落ちた白いものを見た。心臓は痛いくらい拍動している。思考が白く染まり、頭のてっぺんからつま先まで、震えた気がした。
「コロップ……」
ジオモは首を横に振って、恐る恐る近づいた。目だけがせわしなく動いた。何度も白いもの、いやコロップの全身をいったり来たり視線を彷徨わせた。白いものはどこかで見たものじゃない。自分の体と同じものだった。
目に温かいものをたゆたえながら、コロップの脇に膝をついた。手を取り、懸命に呼びかける。
「コロップ。やっと見つけたよ。今までずっとここに閉じこめられていたんだね。ジオモ、すごく会いたかった」
ジオモの腕のなかでくったりしたコロップに必死に呼びかける。ゆっくり手が伸ばされ、ジオモの頬に触れた。これがコロップの精一杯なんだろうか。微かに震える彼女の指から伝わってくる体温を感じた。
「コロップ……」
力なく、垂れ下がる腕。ジオモ、とささやいた次の瞬間には、コロップは息をしていなかった。
コロップ抜け殻はまだ温かかった。ジオモは優しく抱きついた。ずっとしたくても、できなかったこと。溢れる涙。熱い熱い雫は抜け殻に滴り、濃いしみをつくった。
「ジオモ……知り合いだったのね。ごめんなさい。わたしのせいで」
「どうしてクロが謝るの? コロップは死んでなんかいない。生き返るんだから」
ジオモは、はっきりした口調で言い切った。クロはまだ何か言いたげな瞳をそっと伏せた。
ジオモはコロップの亡骸を握りしめ、クロの主人だというニンゲンの中に入った。コロップが詰まっていたという気配を微塵にも感じさせず、入口をすっと通り抜けられた。
その後のことは覚えていない。気がついたら、ホワイトハイランドに戻っていた。
「ジオモ。よく帰ってきた。心配していたんだ」
まず初めにトトノイさんが迎えてくれた。ジオモは思わず俯いていたた。
「それ……」
トトノイさんはジオモが握りしめているものを見つけた。当初より、大分小さくなっている。トトノイさんは目を見開き、しばらく固まっていた。
「コロップなんだな」
ようやく絞り出された、掠れた声にジオモが頷くと、トトノイさんに抱きしめられた。また涙がこぼれそうになって、ジオモは瞬きを何回もした。トトノイさんも辛かったんだろう。彼の腕が震えているのを感じ、そう思った。
黒ずんだ抜け殻を下に置いた。つかんでいた手のひらは真っ黒になっていた。ジオモは珍しいものを見るように、しげしげと眺め、首をかしげた。
「コロップが黒くなっちゃった。ねえ、コロップは生き返るんでしょ。新しい雲と交換したら、また」
トトノイさんは静かに首を横にふった。
「ふたたび白く体をすることは確かだ。しかし、コロップは戻ってはこない」
「どうして? コロップはどうして戻ってこないんだよ」
泣きじゃくりながら、ジオモは叫んだ。
「コロップは空にいるんだ」
「ここにいるじゃん」
ジオモはコロップの亡骸を指差した。それはもう黒ずんで、炭のようだった。
「遠い所へ行ってしまった。わたし達とは別の世界に。ジオモはまたコロップに会えるさ。わたしが保証する」
認めたくはなかった。でも、次第に黒くなっていく亡骸を見ても、なすすべがなかった。そんな自分が歯がゆかった。
「ジオモ」
そう呼びかけられて、振り返って見たけれど、すぐに誰だか分からなかった。
「ええっ、アオガミ? どうしたのさ。何があったの?」
コロップのことで頭がいっぱいになって、アオガミの安否は記憶の隅に追いやられていた。それだけに、驚いたのだ。
「俺、「降下」できなくなっちまったよ。ジオモ俺の代わりにやってくれるか? 俺の指導は厳しいぞ」
アオガミはそんな体になっても、明るかった。ジオモはそれに救われる。トトノイさんがコロップに会えると言うなら、会えるんだろう。その時のために、もっと自分を強く、鍛えなきゃ。
ジオモはアオガミに向かって、大きく頷いた。青い空から運ばれてきた風がコロップの亡骸を転がした。