雲は風に押され、動きはじめる
アオガミの黒くて長い髪が風にはためいている。空はただ青く横たわっているだけ。でもそこにアオガミの髪が広がり、うねうねと生き物のように動くと、空も動いて見える。俺は空を支配しているんだ。だって、俺の髪が風にたなびく度に、空もつられて動くじゃないか。アオガミが言った印象深い言葉。なるほど、黒と青が逆転して、アオガミはさながら大空という髪を操っているかのように見えた。
トトノイさんは空を見渡した。視界は良好。アオガミに向かって合図を送った。アオガミは大きく頷いて、ジオモの肩をがっちりとつかんで揺さぶった。ジオモが何か言うと、二人は声を出して笑った。トトノイはそれを優しい目で見ていた。
アオガミが手を振った。トトノイさんは軽く手を上げてそれに応える。とその瞬間、アオガミは足を滑べらせて一度態勢を崩したが、すぐに立ち直り照れ臭そうに笑った。
「ジオモ、行くぞ。虹色の煙を探すんだ」
ジオモはアオガミの手を握った。この手を放してはいけない。とても大きく、温かい手のひら。
固く目をつむって、一歩ずつ踏み出した。アオガミが優しく誘導してくれている。
風の音を感じた。耳の横をごうごうと吹き荒れている。
あっけなくその時は来た。ついに体を支えるものがなくなったのだ。まだ目を固く閉じたまま、アオガミの手の温もりだけを感じていた。
仲間を見送った後、トトノイさんは空を見た。風ひとつない、穏やかな青空。それにも関わらず、何か嫌な気配を感じた。澄みわたった空を見ても、気は晴れなかった。
もう一度、空を見上げた時には、空は暗くなっていた。馬鹿な。トトノイさんの表情は翳った。すぐ近くで鳴った大きな音。小さく舌打ちをして、溜息をついた。天候を見誤っていた。晴れていた空は、今では突然現れた雨雲に覆われている。二人は大丈夫だろうか。胸の前で手を合わせ、無事を祈った。
やはり心配でいてもたってもいられなくて、トトノイは何人かを空に送った。自分で見に行けたらいいのだけれど。生憎、トトノイさんの足は自由にならない。もう何年も「降下」していないのは、この足のせいである。最後に「降下」したときに足を片方失った。
降りていく間に雷に打たれたのだ。全身に痛みが奔った。とりわけ奪われた足がついていた膝は、あまりの痛みで何も感じなかった。
暗がりから急に飛び出してきた黒い影に、トトノイさんと共に落ちてきた足を取られた。黒い影は長い尻尾をくねらせ、トトノイさんの足を片方奪っていった。
しばらく動けなかった。あまりの痛みで地面でのたうちまわっていたから、黒い影を追えなかった。夜のことだった。頭上で近づいたり、遠ざかったりした街灯の明かりは今も覚えている。
あの時、現れたのがコロップだった。彼女はトトノイさんに気づくと、慌ててこちらに寄った。
「トトノイさん? 足をどうしたの」
「雷にやられたんだ。動けないから一緒に連れていってくれないか」
コロップは頷いた。そしてそのまま彼女はトトノイさんをホワイトハイランドに帰してくれた。あの時、コロップに出会わなければ、今の自分はいない。ぞっとした。
周りが騒がしくなった。誰かが運ばれている。ジオモじゃなければいいが。
「アオガミ?」
近づいて、その正体に気づくとトトノイさんは目を丸くした。まさか、あのアオガミが。
「腹やられちまったよ」
アオガミは苦しそうな表情をした後、黒い塊を吐き出した。
トトノイは思わず目を逸らし、膝をさすった。昔の傷跡が疼く。アオガミの視線を感じた。必死に気持ちを抑えて、アオガミの腹を見た。
「トトノイさん。俺死ぬの?」
「安心しなさい。きっと治る」
気休めの言葉を繰り返すことしかできなかった。アオガミはもう立って歩けないかもしれない。体のちょうど真ん中辺りがえぐれている。トトノイさんは足を片方膝から失くした。その断面は今や黒ずんでいる。あらゆる手を尽くしても、新しい足が生えることはなかった。
「お腹を雷に打たれたんだね」
痛ましい傷跡。
「そうだ。一発どかーんとな。全身が痙攣して、頭が真っ白になって……」
そこで言葉が途切れたのでトトノイは怪訝に思い、アオガミを見た。彼は唇をかんで、じっと俯き、そして絞り出すように言った。
「俺、ジオモの手放しちゃったんだよ」