雲に潜む、静かな気配を彼らは怖れる
そして今日である。ホワイトハイランドを取り囲む空では、雨雲が大半を占めていた。今夜、仲間たちを地上に「降下」させるつもりだ。ジオモを一緒に行かせるべきか。そのことをずっと悩み続けていた。
彼はホワイトハイランドいち、小さい。ジオモの小さな体は風に耐えられるだろうか。穏やかな風に吹かれて頼りなく揺れる背中を思った。
トトノイさんも気をつけてはいるが、見えない所に雷雲があるかもしれない。雷に撃たれてしまうと大変だ。ハイランダーの柔らかくて白い体に、雷はいとも簡単に突き刺さり、体の一部を取り去っていく。残されるのは黒く焦げた跡。傷跡は何年たっても癒えない。トトノイさんも身をもって知っている。
雲は気まぐれだ。いきなり現れたかと思うと、すぐに遠ざかってしまう。雲の動きの予測は困難で、手慣れたトトノイさんでも見誤ることがある。雷雲を察知して逃げれるか否かは運次第なのだ。
雷雲に警戒するだけではいけない。ホワイトハイランドがある雲も、雷雲になる可能性を秘めている。時折、雲の中に手を突っ込み、氷の欠片をほぐさなければならない。そうしないと雲の粒子が電気を帯びてしまい、雷雲の完成となる。雲の上にいるだけで感電してしまうとなれば、命の問題なのだ。ハイランダーは電気を吸収しやすく、電気が最大の敵といえよう。
それでなくとも、時に「降下」したものの帰って来ない者がいる。最も最近のことでは、コロップが行方知らずとなった。
彼女はジオモの生みの親で、その時はジオモに辛い思いをさせた。コロップのことがなければ、ジオモを「降下」させていただろう。彼なら優秀なアオガミにも引けをとらない立派な「降下」士になったことだろう。
そうは言ってもジオモは雲の上での雑用を進んでやってくれ、助かっている。このまま地上に下りずに暮らしていくのも悪くないだろう。ジオモは毎日泣いていた頃から立派に成長した。コロップのことも吹っ切れたように見える。そんなジオモを無理に「降下」させなくてもいいのではないか。せっかく元気になれたのに、わざわざ掘り返すこともない。そうこう考えているうちに、思考がこんがらがってくる。トトノイさんは頭を抱え、唸った。解決の糸口はいまだ見つからない。
アオガミに相談しようとトトノイさんは思い立った。彼は「降下」の熟練者だ。今はジオモを育ててくれている。こんなときに決まって適切な助言をくれるのがアオガミであり、トトノイさんは彼に一目置いていた。
「アオガミ」
熱心に庭の雲藻の世話をしている、その背中に声をかけた。
「やあ、トトノイさん。今夜降りるんだってね。今から体がうずうずしているよ」
彼は振り向いて、弾けんばかりの笑顔を返した。本当に「降下」が好きだなと苦笑する。そのことは誰の目から見ても明らかで、たいてい、先陣を切って降りはじめるのはアオガミである。
「話があるんだ」
アオガミは顔を上げ、視線でトトノイさんに続きを促した。
「ジオモを「降下」に連れていくのを、どう思う?」
「いいんじゃない」
アオガミはさらりと言った。トトノイさんは目を軽く見張って、
「ジオモは小さいんだ。不安なんだよ。行っても戻って来られるかわからない」
「大丈夫さ。俺がついているから。それにあいつだって外の世界を知らないとな。でなきゃ、あいつはいつまでも子どものままさ」
「ジオモはよく働いてくれる。何も無理をして……」
「だからって、避けていちゃ、いつかジオモは駄目になる。そうしてずっとずっと後まで、コロップのことを思い出して泣くんだ」
起こったような口調で彼は言う。
「でも、立ち直ったように見えた。ジオモはコロップを吹っ切れたんじゃないのか?」
「そう見えるだけだよ。ジオモと俺は一緒に暮らしているんだ。あいつが夜ひとりで泣いていることくらい、気づくさ」
呆然とした。ジオモはコロップのことを忘れていなかった。皆に心配かけてはいけないと思って、明るく振る舞っていただけだったんだ。どうして気づかなかった。コロップを消した「降下」を怖れているから、ジオモはやらないんだ。ただ怖いだけだと思っていた自分が浅はかだった。トトノイさんはすべてを知ったうえで、アオガミに言った、
「なら頼んだぞ」
アオガミをじっと見つめた。見つめ返した彼の目には頼もしい光が宿っていた。