第五話:鬼の酒盛、灰の朝
魔軍と呼ばれた羽虫どもを焼き払ってから、この街の空気は決定的に壊れた。
かつてのレアルタが抱いていたであろう、つつましい信仰や明日への希望といった軟弱なものは、わしが放った紅蓮の炎に焼かれて霧散したのじゃ。後に残ったのは、暴力という名の神への、底なしの執着だけであった。
大社の周囲には、昼夜を問わず人間どもが群がっておる。
彼らはもはや、己の生活を顧みることもない。わしが居る高殿を見上げ、ただひたすらに、喉が潰れるまで讃歌を歌い続けておる。その目は一様に虚ろで、瞳の奥にはわしが撒き散らした破壊の光景が、焼き付いたまま離れぬのじゃろう。
わしは高殿の奥で、差し出された新たな供物を眺めておった。
「審判者様。これこそが、我ら教会の最深部に秘匿されていた、原初の霊酒にございます」
司教の声は、もはや震えてはいなかった。そこにあるのは、完全に理性を捨て去った者の、静かな狂気じゃ。彼はわしの足元に跪き、血の通わぬような白い手で、黒ずんだ陶器の瓶を差し出してきた。
その隣には、エレンが静かに佇んでおる。彼女は自らの手首を切り、滴る鮮血を銀杯へと満たしておった。
「私の命を、あなたの渇きを癒す雫に。……ああ、幸せ。こうしてあなたの『神罰』の一部になれることが、何よりの救いです」
わしは鼻を鳴らし、エレンが差し出した血混じりの酒を煽った。
喉を通る感覚は、もはや酒の味ではない。狂気と執着、そして腐り落ちた信仰が混ざり合った、泥のような味がした。
かつて大江山で啜った処女の血は、もっと清々しく、命の輝きに満ちておった。だが、この世界の人間が差し出すものは、どれもが死を希求する絶望の味がする。
「……司教。外の連中は、何を待っておるのだ。あの耳障りな歌を、いつまで歌い続けるつもりじゃ」
わしが問うと、司教は恍惚とした表情で答えおった。
「彼らは、次の『奇跡』を待っているのです。あなた様が放つ、あの全てを焼き尽くす審判の光……。あれに焼かれ、灰となることこそが、この穢れた現世からの唯一の解脱であると、皆が理解したのです。審判者様、どうか……我ら全てに、慈悲深き死を」
わしは思わず、腹の底からこみ上げる笑いを抑えきれなんだ。
「カカッ……! カッカッカッ! 傑作じゃ! 命乞いではなく、殺してくれと願いおるか! 京の都を騒がせた鬼の王に向かって、救済として首を撥ねろと言うとはな!」
わしは立ち上がり、高殿の縁へと歩を進めた。
眼下に見えるのは、数万の人間が密集し、わしに向かって両手を広げている光景じゃった。彼らはわしが姿を見せただけで、地鳴りのような歓声を上げた。それは歓喜の声ではない。屠殺場へ向かう家畜が、自ら刃を求めるような、悍ましい期待の叫びじゃった。
わしは、己の内側に眠る鬼の根源を、最後の一滴まで絞り出すようにして練り上げる。
もはや、この世界に留まる理由はどこにもない。酒は不味くなり、人間は壊れ、わしを愉しませるものは何も残っておらん。
「司教。エレン。お前たちが望むのは、これか?」
わしの背後に、かつて大江山を震え上がらせた、巨大な鬼の幻影が立ち昇る。
それは聖なる御使いなどではない。山を喰らい、雲を裂き、人を屠ることにのみ特化した、純然たる暴力の化身。
それを見た司教たちは、涙を流しながら笑い、その場に伏した。
「ああ……主よ……!」
わしは右手を高く掲げた。
指先一つに、この街を、この大社を、そしてこの歪な信仰を根こそぎ消し去るだけの鬼火を凝縮させる。
「さらばじゃ、狂信者ども。お前たちが求めたのは神の救いではなく、わしという名の不条理であったな。……その望み、存分に叶えてやろう」
わしが指を弾いた瞬間、視界の全てが白銀の光に包まれた。
轟音すらなかった。ただ、圧倒的な熱と衝撃が、一瞬にしてレアルタという街を地図から抹消したのじゃ。
讃歌を歌っていた人間も、わしに縋った司教も、悦びに震えていたエレンも。
彼らは文字通り、苦痛を感じる暇もなく、灰となって風に散った。
あとに残ったのは、ただの沈黙。
そして、全てが焼き尽くされた広大な焦土の真ん中で、一人佇むわしの姿だけじゃった。
◇
風が、灰を巻き上げて吹き抜けていく。
わしは、手元に残った黒ずんだ陶器の瓶を、無造作に地面へ叩きつけた。
「……やはり、一人の晩酌は退屈よのう」
わしは空を見上げた。
この世界の空は、やはり白々しく、どこまでも透き通っておる。
わしがどれほどの命を奪おうとも、どれほどの地獄を築こうとも、この世界はただそこに在り続ける。
わしは、あてもなく歩き出した。
この世界のどこかに、まだわしの酒を美味くしてくれるような、骨のある人間が残っておるのか。あるいは、わしを再び「鬼」として恐れ、必死に抗う者がおるのか。
銀髪をなびかせ、紅い瞳を宿した童女は、灰の荒野を悠然と進んでいく。
その背中には、かつての鬼の王としての誇りと、終わることのない永遠の退屈が、影のように寄り添っておった。
救済なき世界に、鬼は独り。
次の酒宴を求めて、わしの歩みは止まることを知らぬ。
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