第三話:不遜な供物と、澱んだ祈り
石で作られた大社に居を構えてから、数日が過ぎた。
わしは、贅の限りを尽くした絹の寝所で目を覚まし、大きく欠伸を一つした。
京の都で帝の寝所に忍び込んだ際もこれほどの上等な布は拝めなんだが、この世界の人間どもは、わしを「御使い」と呼んで跪き、最高の品を惜しげもなく差し出してくる。
わしは寝台から降り、素足で冷たい石の床を踏み締める。
扉の外では、わしが目覚めるのを今か今かと待ち構える気配がいくつも漂っておった。気配の主は、あの司教という老人と、わしが森で拾ってやったエレンという娘、そして身辺の世話を焼く数人の僧侶どもじゃ。
わしが扉を蹴るようにして開けると、案の定、彼らは一斉に頭を下げた。
「おはようございます、小さき審判者様。昨夜の御休息は如何でしたか?」
「審判者? また新しい呼び名か。おじいちゃん、そんな回りくどい言い方はよせ。酒じゃ。わしが昨夜言った、喉を焼くような酒は用意できたのか?」
司教は、わしの不遜な物言いに眉をひそめるどころか、恍惚とした笑みさえ浮かべておる。
「……はい。北の凍土より運ばれた、火の酒をご用意いたしました。未熟な我らには毒にも等しい強烈な品ですが、あなた様のような御方には、相応しき露となりましょう」
差し出された銀の小瓶を開けると、立ち込めるのはむせ返るような酒の臭気。
わしはそれをラッパ飲みし、喉から胃の腑までが業火に焼かれるような感覚を味わった。
「ふむ、悪くない。……だが、肴が足りぬのう。この大社には、もっと骨のある奴はおらんのか?」
わしがわざと殺気を込めて睨みつけると、給仕をしていた若い僧侶がガタガタと震え出し、その場に崩れ落ちた。恐怖で失禁しておる。実に良い匂いじゃ。人間が絶望に染まる瞬間の、この酸っぱい匂いこそが酒に合う。
「も、申し訳ございません! すぐに別のものを……!」
「よい。この男の無様な姿で十分じゃ。カカッ、この街の人間は皆、こうも脆いのか?」
わしの嘲笑に対し、口を開いたのはエレンじゃった。
彼女の瞳には、森で出会った時のような怯えはもうない。代わりに宿っておるのは、濁りきった狂信の光。
「審判者様。この街には、まだあなたの光を拒む『不浄』が潜んでおります。地下の奥深く、古き戒律に縛られ、あなた様の到来を認めぬ愚か者たちが……」
不浄、か。
わしから見れば、わしという鬼を神として崇めるお前たちこそが最大の不浄に見えるがの。
だが、退屈しのぎには丁度よい。わしを「化け物」と呼び、排除しようとする者がおるのなら、その鼻面をへし折ってやるのも一興じゃ。
「……ほう。わしを認めぬ奴らか。面白い。案内せよ、エレン。わしの機嫌が直るほどの絶望を見せてくれるのなら、この酒に免じて許してやろう」
◇
エレンに連れられて向かったのは、大社の地下、光の届かぬ長い回廊の先であった。
そこには、司教の一派とは対立する老人どもが集まっておった。彼らはわしが近づくのを見るや、手に持った古臭い杖を構え、忌々しそうに吐き捨てた。
「止まれ、災いの種め! 司教たちは狂ったのだ。あのような邪悪な気を放つ童女を、聖なる使いと呼ぶなど!」
「その紅き瞳は、呪われた鬼の証! お前がどれほど聖なる振る舞いをしようとも、我らだけは騙されんぞ!」
わしは、思わず吹き出しそうになった。
彼らの言うことは、何一つ間違っておらん。わしは呪われた鬼であり、邪悪そのものじゃ。
だが、わしの目の前でその真実を突きつけたことが、彼らにとっての命取りとなった。
「演じる? 誰が何を演じておるというのだ、老いぼれ」
わしは一歩、踏み出す。
足元の石床が、わしの歩みに耐えかねて蜘蛛の巣状にひび割れた。
封じておった鬼気を、僅かばかり漏らしてやる。それだけで、地下の冷たい空気は重油のような粘り気を持ち、老人どもの肺を圧迫し始めた。
「ひ、ひぃっ……! 悪魔め、正体を表したな!」
「正体? カカッ、そんなものは最初から見せておるわ。それをお前たちの仲間が勝手に神聖視しておるだけのこと。……お前たち、わしを『悪』と呼ぶのなら、その悪に相違ない終わりをくれてやろう」
わしは指先を軽く弾いた。
それだけで、最前列にいた老人の杖が粉々に砕け散り、その破片が周囲の者たちの肉を切り裂く。
悲鳴が上がる。絶望が地下室を埋め尽くす。
だが、その様子を見ていたエレンや司教たちは、恍惚として膝をついた。
「おお……なんと峻烈なる浄化! 迷える魂を、痛みによって正しておられる!」
「これぞ神罰! 疑念を抱く不信仰者への、慈悲深き断罪だ!」
わしは呆れ果て、血肉を撒き散らす老人どもと、それを拝む狂信者たちを交互に見た。
この世界の人間は、もはや正常な理を失っておる。
恐怖をぶつければぶつけるほど、彼らはそれを聖なる奇跡として吸い込んでしまうのじゃ。
「……ふん、興が削げた。おじいちゃん、この連中は好きにせよ。地下の空気が汚れて叶わん。わしは酒の続きを飲む」
わしは背を向け、回廊を引き返した。
背後からは、敗北した老人たちの呻き声と、それを「浄化」と称して処刑する司教たちの歌声が聞こえてくる。
かつて大江山で、わしは恐怖で人間を支配した。
だがここでは、わしが望まずとも人間が勝手にひれ伏し、わしの悪逆を善行へと塗り替えていく。
救いも、正義も、ここにはない。ただ、鬼の気まぐれに踊らされる狂人どもの宴があるだけじゃ。
カッカッ! 良い。実によいぞ。これほどまでに狂った酒の肴、一生かけても味わい尽くせぬかもしれんのう。
わしは自室へ戻り、再び火の酒を煽った。
次はこの街の何を壊してやろうか。あるいは、わしを崇めるあやつらの喉を、いつ、裂いてやろうか。
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