第二話:泥中の蓮、あるいは鬼の皮
森の静寂を切り裂くように、男たちの醜い悲鳴と地響きが遠ざかっていく。
肩を砕かれた一人の絶叫と、娘を担いだ二人の狂乱した足音。
その後ろを、わしは鼻歌まじりに悠然と歩いておった。
恐怖という名の鞭は、どんな馬肉よりも人間を良く走らせるものじゃ。かつての京でもそうじゃったが、死の淵を覗いた人間というのは、実に面白い動きを見せる。
わしは、己の内に残る微かな鬼気を指先で弄びながら、周囲の景色を眺めた。
木々の合間から差し込む光は、京の夕闇とは違い、どこか白々しく透き通っておる。この世界の空気は、わしのような異端の存在を拒絶しておるようにも感じるが、同時にその拒絶こそが、わしの征服欲を心地よく刺激した。神の引いた双六の上で踊るというのも、存外、悪くない。
やがて、森の切れ目から石造りの頑丈な門が見えてきた。
京の羅生門のような歴史の重みはないが、実用性だけを求めた殺風景な石積みが、この世界の人間どもの必死さを物語っておる。門の上には、鎧を纏った門番たちが槍を交差させ、眼下で起きている騒動に目を剥いておった。
「おい、そこの者たち! 止まれ! 何を担いでおる!」
「た、助けてくれ! この娘を運んだぞ! 命令通りに運んだ! だから、あのアレを止めてくれぇっ!」
男たちが、泡を吹きながら門の前へ気を失った娘を投げ出すように置いた。
門番たちが娘の装束を視認した瞬間、現場に戦慄が走る。
「……おい、この法衣。シスター・エレンではないか! 聖教国の至宝に何をした、貴様ら!」
「違う! 俺たちは運ばされただけだ! あの、後ろから来る……っ!」
門番たちが槍を構え、野党同然の男たちを突き殺さんとしたその時。
わしは悠然と、泥一つ付いていない素足で、男たちの背後から姿を現した。
「……喧しいのう。どこの世界に行っても、門番というものは吠えることしか能がないのか?」
低く、だが鈴の音のように透き通った声が、門前の喧騒を瞬時に凍りつかせた。
銀糸の髪をなびかせ、不遜に細められた紅い瞳。そこに、庇護を求める幼子の卑屈さなど微塵もない。わしはただ、路傍の石を見るような冷ややかな眼差しで、門の上に立つ人間どもを見上げた。
この沈黙、これこそがわしの知る『挨拶』よ。恐怖で喉が引き絞られ、言葉を忘れる。京の凡夫どもと、そう変わりはないようじゃな。
門番の一人が、わしの瞳に射すくめられ、槍を取り落とした。
石畳に鉄が跳ねる高い音が響く。それを合図にしたかのように、門番たちは崩れるようにその場に膝を突いた。敬意ではない。わしが放つ、抗いようのない「捕食者」としての重圧に、彼らの本能が屈服したのじゃ。
「あ、ああ……この威圧感、この神々しさ……」
「伝説に聞く、荒ぶる神の化身……。我らの祈りが、ついに届いたというのか……」
彼らの顔は青ざめておるが、その瞳には奇妙な心酔の光が宿り始めておった。
わしは鼻で笑い、門番を促した。
「案内せよ。喉が渇いておる。……酒、それも喉を焼くような強い奴があるなら考えてやってもよい。わしを待たせるなよ」
◇
案内された先は、街の中央に聳え立つ巨大な石で作られた城のような大社じゃった。
わしは高い天井を見上げ、鼻を鳴らした。大江山の岩屋の方が、よほど落ち着くというものじゃ。
しばらくして、先ほどの娘――エレンが意識を取り戻した。
彼女は周囲を取り囲む僧侶たちの姿を見て安堵し、そして、わしの姿を見つけると、文字通り魂が凍りついたように身を強張らせた。
彼女は、確かに見ておったはずじゃからな。わしが男の肩を石礫一つで肉片に変え、鬼の幻影を背負って高笑いする様を。
「あなたが……私を……」
「そうじゃ。わしが助けてやった。感謝するがよい。……もっとも、お前の顔が絶望に染まり、泣き叫ぶ様を見逃したのだけは、少々惜しかったがの」
わしはエレンの枕元に歩み寄り、彼女だけに聞こえるように、冷酷な真実を囁いてやった。
普通なら、ここで化け物として叫ぶはずじゃ。
だが、エレンは震える手で、わしの小さな手を握り締めてきた。その瞳には、恐怖を通り越した狂気が宿っておった。
「……そう、これこそが……真実の救い。慈悲などという甘い言葉ではなく、圧倒的な力こそが……。あなたは、私を試されたのですね……。悪を挫くために、敢えて破壊の貌で現れた……主の具現者なのだと」
何を抜かす。わしがお前を『試した』だと? 滑稽な。ただ殺し損ねただけだというのに、人間とはここまで自分に都合よく解釈するものか。
奥から現れた白衣の老人――司教までもが、深々と頭を下げてわしの前に平伏した。
「この重圧こそ、我らが求めていた『守護』の証。聖教国レアルタは今、真なる天の御使いを迎え入れた。この赤き瞳は、罪深き者を焼き払う裁きの光に相違ない」
わしは司教が差し出した、最高級の葡萄酒が入った銀杯をひったくるように受け取り、一気に煽った。
わしが殺意を向ければ向けるほど、こやつらはそれを『神罰』として崇め、喜悦に浸りおる。かつての京では、わしを恐れて逃げ惑うのが常であったが……。この世界の人間は、恐怖を信仰に変えねば生きていけぬほどに壊れておるらしい。
「おじいちゃん。この酒は少し甘すぎるのう。次は、もっと業火のように熱い酒を持ってこい。……わしを退屈させるな。わしが一度退屈すれば、この街がどうなるか……分かっておるな?」
わしの不遜な物言いに、司教たちは「なんと身の引き締まるお言葉だ」「我らの至らなさを正してくださるのだ!」と、熱狂的な面持ちで跪いておる。
救いなどではない。これは、信仰という名の狂気を肴にした、最高に贅沢な晩酌の始まりじゃ。
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