第一話:慈悲は酒の肴
眩い光が収まった時、鼻を突いたのは湿った土の匂いと、嗅ぎ慣れぬ花の香りじゃった。
辺りを見渡せば、そこは天を突くほどに高い木々が並ぶ森の中。その隙間から、宝石を溶かしたような青い輝きが漏れておるのが見えた。
わしは導かれるように、その光の方へと足を向けた。
そこには、小さな湖があった。
波一つない水面は、まるで磨き抜かれた鏡のようじゃ。わしは水際に膝をつき、まずは渇いた喉を潤すために、両手で水を掬い上げた。
(……ぬるいのう。京の山水のような鋭い冷たさはないが、毒気はないようじゃ)
喉を潤し、ふと湖面を覗き込む。
そこには、大江山におった頃と何一つ変わらぬ、十にも満たぬ童女の姿が映っていた。
銀の糸を紡いだような、細く柔らかな髪。夕闇の如き深い紅を宿した、爛々と輝く瞳。
雪のように白く、今にも壊れそうなほどに小さき肢体。
湖面に映る己の頬を指でなぞり、わしは薄く笑った。
この矮小な器の中に、千年の殺意と山を穿つ鬼気が渦巻いておるとは、誰も思いもしまい。
だが、内側を練ってみれば、その力はひどく細り、頼りなくなっておった。あの忌々しい毒酒の残り香か、あるいはこの世界の理が、鬼という存在を拒んでおるのか。
随分と可愛らしいせいじょ様がおるものよな。女神め、このガワを利用してわしを『聖女』に仕立て上げるつもりか。殺戮を娯楽とし、絶望を酒の肴としてきたこのわしに菩薩の真似事をさせようとは、神という奴はつくづく悪趣味よ。
だが、退屈しのぎには丁度よい。
この細りきった鬼気を練り直し、再びこの地で王として君臨するまでの間、神の引いた双六の上で踊ってやろうではないか。
そう決めて立ち上がった矢先じゃった。
静寂を破り、木々の向こうから卑しい笑い声と、女の悲鳴が聞こえてきた。
「ひっ、助けて……!」
「逃がすかよ。こんな上等な獲物、滅多に拝めねえからな!」
「へへっ、この装束……どっかの神殿の使いか? 高く売れそうだぜ」
わしは音もなく、その声の主たちに歩み寄った。
茂みの陰から覗けば、そこには粗末な鉄の剣と革鎧を纏った男が三人。下衆なニヤけ面を浮かべ、一人の娘を囲んでおる。
娘の格好は、尼に似ておるが、白と青を基調とした、見たこともない奇妙な意匠の法衣を纏っておった。
転んで泥に汚れ、涙で顔を濡らし、震えながら神の名を呼ぶ。
実に見苦しい。そして、わしの好物じゃ。かつてのわしなら、まずはあの男どもの首を順番にへし折り、絶望に染まった娘の魂を、その喉笛ごとゆっくりと味わって酒の肴にしたところよな。
思わず口角が吊り上がる。殺意が指先に集まり、鋭い爪へと変わろうとする。
だが、その瞬間、胸の奥がムズムズと痒くなった。女神が打ち込んだという『楔』じゃ。
善行を積まねば魂が霧散する。――ふん、忌々しい。
「よかろう。まずは『聖女』とやらの真似事、ここから始めるとしようかの」
わしはわざとらしく、ガサリと草を分けて姿を現した。
トテトテと、幼子らしい頼りない足取り。不安げに揺れる銀の髪。
男たちがぎょっとして振り返る。そこにいたのは、紅い瞳に不安を湛えた、今にも壊れそうなほど美しい童女じゃ。
「……あ、あの。おじさんたち、何をしてるの?」
鈴を転がすような、可憐な声。
男たちの下衆な顔が、驚きからニヤケ面へと変わるのに時間はかからなんだ。
「あぁん? なんだこのガキ。迷子かよ?」
「おいおい、今日は最高の日だな! シスターだけじゃなく、こんな極上の人形まで手に入るとはよ」
男の一人が、汚れた手でわしの肩を掴もうと伸ばしてきた。
「いや、思ったよりも痛々しいのう。興がそがれた」
声の温度を、一気に零下まで落としてやった。
わしは、一歩踏み出す。
魔力は細っておるが、千年生きた鬼の『格』までもが消えたわけではない。
瞳の奥に宿した紅蓮の殺意を開放し、男たちの脳髄に、巨大な紅い鬼の幻影を直接刻み込んでやった。
「ひっ……!?」
「な、なんだ、今の……!? 空気が重い……息が……!」
男たちは蛇に睨まれた蛙のごとく、その場に縫い付けられたように硬直した。
わしは冷ややかに笑い、足元に落ちていた石ころを一つ拾い上げた。
「善行への第一歩じゃ。……まずは、その汚らわしい腕を捨てよ」
指先で、石を弾く。
ただの石礫が、大砲の弾のごとき速度で空気を切り裂き、わしの肩を掴もうとした男の右肩を正確にぶち抜いた。
「ぎゃあああああああああ!」
肉が砕け、骨が粉砕される、心地よい鈍い音が響く。
鮮血が娘の白い法衣に飛び散った。
あぁ、実にいい音じゃ。大江山を思い出すのう。
わしは恐怖に腰を抜かした残りの二人を見据え、優しく――鬼の笑みで告げた。
「命が惜しくば、その娘を背負って人里まで運べ。少しでも揺らしてみろ、次は頭を弾くぞ」
「は、はいぃぃっ! 助けてくれぇっ!」
男たちは泣き叫びながら、気を失った娘を無理やり担ぎ、脱兎のごとく森を駆け抜けていった。
それを見送り、わしは地面にペッと唾を吐く。
わしは、男たちが逃げていった方向に残る血の匂いを追い、ゆっくりと歩き出した。
聖女になるのが先か、あるいはこの世界を飽きて喰らい尽くすのが先か。
大江山の王、酒呑童子。
この『異世界巡礼』という名の暇つぶし、存分に楽しませてもらうとしよう。
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