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妻も犬も

作者: 名前検討中

「人が変わったようなので、全休にして下さい」

「大事に思ってるよ」

「これがなんと聞こえる?」

「しばらく動かず両手を前に出している」

なるほど。

俺は狂ったんだ。


午前半休を取った妻が来た。

別居して3年ぶりだ。

仲が悪いわけではないんだが…とは思う。

でも同棲は上手くいかなかった。


妻とは学生時代に付き合い始め、

妻は就職し俺は学業を続け、遠距離恋愛となった。

3ヶ月に1回会えれば良い方だった。

30歳を超えて結婚した。

俺の就職先がまたもや妻とは別で、遠距離は続いた。


俺が35歳になった頃、退職して妻の家に住み始めた。

俺は職場にうまく馴染めない末路が続いた。

俺なりに仕事や他人を優先するのだが、

一方で俺は「領域」を作ってしまう。

俺は俺なりの効率の良い手順で仕事をする。

レスポンスや納期は他社員より速い。

勿論、上司や同僚に相談もする。

決してデキる仕事人ではない。

責任への不安で早く済ませたいだけだ。

それが俺と他社員との進捗や方法に「差」を生み出す。

俺は俺のペースとやり方で進めたいので「領域」が作られる。

仕事や依頼が来れば、俺なりに進めて、結果を出す。

例えば、自販機にお金を入れれば、缶ジュースが出てくる。

中の仕組みや動きを知る必要はない。それでいい。

「結果を保証するから、処理には口を出すな」

それが「領域」だ。

俺のやり方は、結果だけ見れば悪くない。

でも、誰も中を覗けない。

俺は覗かれても構わないが、干渉して欲しくない。

観測することと干渉することは同じ行為でもある。

触れる観測は干渉だ。見られるのも気持ちに影響がでる。

覗こうとすれば、俺は無言になる。

争うつもりがないから無言になり、相手にゆだねる。

干渉するならさっさとしてくれ。早く「領域」から出てくれ。

俺は自分を守ってるだけだが、他人には高い壁になって俺の本意を見えなくする。

そして「領域」は「誤解」を招いていく。


一番面倒なのは、上司に「やる気があるな」と「勘違い」されることだった。

俺の進捗は速いし、適宜に報告や相談をする。

それは、早く済ませて楽になりたい不安と、手戻りしたくない確認でしかない。

早く済ませれば次の仕事の情報収集や準備、なかなか手の回らない自己研鑽・やってみたいことに挑戦できる時間ができる。

与えられた仕事をこなすのは有難い。時間が進んでくれる。それでお金が貰える。

しかし、仕事すなわち不安であり、時間の邪魔でもある。

だから手早く済ませて、自分の時間を確保したい。

時間という本棚があるなら、仕事という本を片側に寄せてスペースを作るようなものだ。

なのに「やる気があるなぁ!」と追加の仕事を乗せてきやがる。


こうして「差」はより明確に、「領域」はより強固になる。

取り付く島もない近寄り難さになる。そんなつもりはないんだが。

集団では個々の「領域」が、「個性」や「配慮」の枠内に収まるのかが鍵となる。

仕事の結果が悪くなければ、「ああいうのが居ても良いかな」と思われるだろう。

どちらにせよ時間が経てば同じこと。やがてくるのは「孤立」だ。

自ら「選んだ孤立」は本位だが、仕事や組織への愛着はなく、すっぱり辞めてしまう。

3~5年が限界で、俺は職場を変えてきた。

妻と同棲を始めたのは3回目の退職後だ。

俺なりに傷ついた状態での同棲だった。


妻にも俺の「領域」が壁として見えていたんだろう。

中を覗くのは怖かっただろう。

俺も触れてほしくなかった。

それが、同棲がうまくいかなかった理由の一つだ。


当初は主夫も悪くないかなと思った。

昨今の漫画でも、妻が働き、夫がお弁当を作る場面をちらほら見る。

妻はやりたい仕事に就いて、転職や異動はない。

俺は仕事に拘りはないから、一緒に住んでみようと思った。

内心は、なんだかんだと働くのは大変だ、と甘えていたのかも知れない。

朝と夕方に家事をして、昼間は自分のことができまいか、そんな考えでいた。


結局同棲は上手くいかなかった。

俺が家事や生活で自分なりの手順を確立し「領域」を作ったからだ。

そして妻と俺が1つの部屋を共有していたこともある。

俺の「領域」が妻を圧迫し、部屋から追い出す「内圧」を感じさせたと思う。

逆に俺も妻の部屋という「領域」から、俺の「領域」を押しつぶす外圧を感じていた。

長く遠距離の付き合いをし、年齢30を超えてからの初めての同棲。

お互い強固な「芯」があるから、強固な「領域」がぶつかり合ってしまう。

部屋の使い方、家事の仕方で次第に「領域」が衝突することが多くなった。


ある日。俺は人生について強烈な否定を受けた。

俺にとっては領域が弾けた重大な出来事だった。

なお、後に確認したが、妻は重大さを認識してないようだった。

その日に俺は出て行った。

1年何も連絡せず、独りで過ごした。

深く深く傷ついたし、考える時間が欲しかった。

いや、考えたくないから「考えない時間」が欲しかったんだと思う。

空き家の実家に逃げ込み、家や庭の手入れを始めた。

実家にはもう一つの最愛がいた。


俺が一番好きなのは犬だ。

高校の頃に弟が拾ってきた。

茶色の三角たれ耳、手足の先と尻尾の先が白い、額にも白いひし形。

幾何学的で対称で端正だ。

俺が高校から帰宅したら、飛び跳ねて出迎えてくれる。

度々黒い学ランに飛びつかれて、梅の花がスタンプされた。

ある時、飛び上がった時に偶然キスになったこともあった。

俺は力なく崩れた。初めてだったのに。

なお、犬は雄だ。


犬は正直で直線的だ。

ヤツの狙いは散歩一点。

あらゆる手段で散歩に連れて行くよう促してくる。

俺の姿を見れば勿論、気配を感じれば、壁越しでもピスピス鼻を鳴らす。

報われるとも分からないのに、努力を惜しまないとは偉いものだ。

誰かが来たら吠えるのは犬の頼れる所。

それを逆手に取る。

わん!来客を知らせる勇ましい吠え声に誘われて様子を見に行くと、そこにいたのは散歩をねだるだけの犬だった。俺がこの声に釣られて出てくることまで計算済み。

策士だ。

俺が「ぽ」「んぽ」「さん」などというだけで、三角のたれ耳がこちらを向く。たれ耳が耳穴を塞いでいるのだが、耳の構造を否定した作りだなと思ってた。

視線は期待に溢れ真面目一直線に俺を見る。

そんな目を裏切れるわけがない。

散歩に行くとなると、尻尾をぶんぶん振って喜ぶ。大騒ぎだ。

尻尾がプロパンガスのボンベに当たり、ぽぉぉんと乾いた音が響く。

散歩に出発するまでは協力的だ。

ハーネスを輪にすればくぐるし、ドアを少し開ければドンと開けドンと閉じる、わざとリードを落とせば咥えて持ってくる。

柵を開け外にでると、ぐいぐいと引っ張る。

首が締まってひぃひぃはぁはぁ言いながら引っ張る。

上半身が浮いて、後ろ足でぴょんぴょん跳ねてでも前へ進む。


一度実験したことがある。

1時間ごとに散歩に行ったら、どこかで飽きるんじゃないか。

12時間以上試した。毎回同じように喜んだ。

散歩コースが同じでも情報収集と痕跡残しに一所懸命だ。


犬とは大学・修士まで一緒だった。

その後は、博士課程と就職。その間は俺はずっと県外だった。

親と犬は、実家に引き上げた。今、俺が逃げ込んだ空き家だ。

俺は帰省した時、嫁を優先してなかなか実家には行かなかった。

俺が初めての就職をして2年目。

犬は「新しい姿」になった。


午前半休を取った妻は、俺が逃げ込んだ実家に来た。

妻は俺のために時間を使うような人ではない。

メールの返事も3日に1回だ。

妻は親戚優先だ。親戚や行事には顔を出す。贈り物もする。

でも俺には…。

仕方ない。「領域」の所為で連絡して良いか判断つかないんだろう。

なぁなぁと1年、3年が経って行った。

会おうということになっても、お互い何か理由をつけ延期し、

延期の後にリスケジュールされることはなかった。

正直会ってないと、今後「実績」として不利に働く不安があった。

でもいざ会おうとなると移動や時間に億劫になるのも事実だ。

一緒に住めば移動や時間はないが、上手くいかない。

一緒に住まねば移動や時間がかかるから、上手くいかない。

どうしたいのか、自分でも分からず時は過ぎて行く。


妻は実家の敷地内で車に乗ると急発進した。

家の壁直前で止まると急後退。

俺は驚いた。すごく驚いた。

俺は聞いた「な、なんでそんなことを?」。

妻は釈然としない様子。

電話をかけ始める。

「すみません。どうもヒトが変わったみたいで、もう少し時間かかります。全休を頂けないでしょうか。」

俺の行動はそんな変わったコトを問うただろうか。

至って普通の言動だったと思うのだが。


仕方ない。

俺は犬を呼ぼう。

犬が走ってくる。

俺は犬を撫で回した。

長く念入りに撫で回した。

首から背中、背中からお尻まで撫でた。

犬が斜めに仰向けになるので、顎下もお腹も撫でた。

犬が再度立ち上がれば、顔や背中を撫でた。尻尾の先まで。

犬が俺の手を、はむっと甘噛みする。まったく、憎めないやつだ。


そこで何かに気づき始める。

俺が狂っている可能性。

俺は何を見ている。

俺は何をしている。

俺は何を言っている。

俺が認識する映像・音声は正しいのか?

思考は論理的かつ明瞭で、いつも通り正常だ。

でも俺が見えていること(入力)と、俺が話したこと(出力)は正常なのか?

なぜ妻が危険な行動をした?そんなことする妻か?

なぜ妻は俺に変化があったと感じた?俺はそんなに変か?

なぜそう見えた。なぜそう受け取られた。

そもそもなぜ、妻がいる。そんな妻か?

そしてなぜ、いn⸺がい⸺。

いかん、それを言うな。解けるぞ。


妻に伝えた。

俺が今何を言ったか教えてくれ。

妻は頷く。

俺はすごく大事に思ってるよ

と言ってみた。本心からだ。

しかし、妻から聞いた俺の言葉は全く違う言葉だった。

全く正反対の争いの言葉。法を盾にした対立の姿勢。


俺から発した言葉は全く違う言葉で返ってきた。

少なくとも出力がオカシイ。

では、俺からの依頼は正しく伝わったのか?

返事があったから出力はタダシイ可能性も残る。

では入力がオカシイのか。

たしかに、妻が危険運転するのはあり得ない。

では、依頼に頷いた妻の映像もオカシイ?

危険運転をした妻、頷いた妻は、そもそもオカシイ入力か?

それとも、出力と入力が確率的にタダシクありオカシクなるのか?


「今から俺がどんな動作をしたか教えてくれ」

妻は頷く。

俺は犬をまた呼んだ。

犬が来る。

撫でる。

妻からの返事は、俺は手を広げて少し前かがみになり、そのまま止まっている、だった。

たしかに犬がいるはz⸺な⸺。

いかん、解けるぞ。


入力がオカシイのか、出力がオカシイのか、分からない。

入力がオカシイなら、もし何も出力してなくても何かが「起こる」。

出力がオカシイなら、入力が正しくてもオカシイことが「起こる」。

自分の何がオカシイかは分からない。

鏡や他人からの反射では分からない。

自分で自分の顔や脳みそや背中は見れないように。

でも、今「起きている=見えている」ことはオカシイ。


そうか…。俺は狂ったんだな。

これからきっと病院に行き、何らかの治療を受けるんだろう。

仕方がない。だって狂ったんだ。

でも、誰かに迷惑をかける狂い方なんだろうか。

そして幸いなのは、思考は正常だということ。

少なくとも自分の入出力を検査するほどには論理的だ。

薬なのかな。少なくとも入力はタダシクなっていくかもな。

外部から見れば、俺の出力がオカシイ原因を分離できない。

俺は思考が正常だから、出力がオカシイと判断している。

しかし外部から見れば、俺への入力がオカシイから反射である出力もオカシイ。狂ってるヤツの思考が正常とは思わないから、よもや出力がオカシイとは思わない。


待て。俺が狂ったんだろうか。

俺以外の外部全てが狂ったんではないか。

妻への入力がオカシクなって、出力もオカシクなった。

俺の出力が正しくても、妻からの出力がオカシクなっているのではないか。

他にも成立する入力/出力/タダシイ/オカシイの組合せは沢山ある。

でも妻が狂ってる線はない。俺が狂ってる。

なぜなら「解け」て欲しくない入力がある―。

俺は治療に入っても、これだけは「解け」て欲しくないと願った。

幻覚でも夢でもいい。現実と何が違うっていうんだ。

現実って何だよ。

「本当に」起こっているのか?

「物理的」な事象なのかが重要か?

結局、脳だか意識だかで「現実だ」と「認定」されただけだろ。

どれでもいい。俺が幸せだってことだけは、確かなんだ。

いつまでも、いつまでも、撫でていたい。

それだけは、どうか、どうか、消えないでくれ。


この小説はフィクションです。

あなたに見分ける手段はありません。

そもそも事実を言語化したものは事実でしょうか。

私には分かりません。


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