表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/17

『星と、静かな時間』  

10月の夜風は、もうすっかり秋の匂いがした。

 薄手のカーディガンだけでは少し肌寒く、私は袖をぎゅっと握りながら、グラウンドの隅に目をやった。


 


 そこには、三脚の上に立派な天体望遠鏡が据え付けられていた。

 千紘先輩が「文化部合同企画」と張り切って準備した“天体観測会”の会場。

 けれどその実態は――


 


「科学部と天文同好会の、ゆる〜い合同観測会って感じだね」

 「うん。参加者……少ないね」

 「まあ、静かな方が星はよく見えるからさ!」


 


 そう言って、千紘先輩は満足そうに月を見上げた。

 照明の落とされた校庭に、ぼんやりと明るい月と、いくつかの星々が浮かんでいる。

 天頂には夏の名残りのベガ、そして秋のペガスス座。


 


 私たちは小さな折り畳み椅子に並んで座り、それぞれが星を見上げていた。


 


 言葉は少なかったけれど、それが心地よかった。

 この空間は、黙っていても壊れない。

 焦って話題を探さなくても、沈黙を気にしなくてもいい。


 


 ……だからこそ、視線を向けたとき、胸が少しだけざわめいた。


 


 伊織先輩が、隣にいた。


 


 手元に広げた星図を眺めながら、ちらりと夜空を見上げる。

 彼の目は、まるで宇宙に焦点を合わせるような、静かで遠い光を宿していた。


 


 (綺麗だな……)


 


 星のことじゃない。

 伊織先輩のその横顔が、月明かりに照らされて――


 


 私は、慌てて視線をそらした。

 急に胸がどきどきしてきて、自分でも理由がよくわからない。


 


「おい、中川」

 「は、はいっ!」


 


 驚いて振り返ると、伊織先輩は望遠鏡を覗いたまま、手招きをしていた。


 


「ちょうど土星が見える。お前も、覗いてみろ」


 


 望遠鏡の接眼レンズを覗き込むと、そこには小さくて、でもはっきりとした“輪っか”が見えた。


 


「……わあ……!」


 


 感嘆の声が自然とこぼれる。

 絵や図鑑でしか知らなかったそれが、いま、自分の目で見えている。

 宇宙が、本当に“そこ”にある。


 


「土星は、好きだな」

 伊織先輩がぽつりと言った。

 「距離もあるし、派手でもない。でも、ちゃんと存在感がある。……そういうの、いいと思う」


 


 私は、何か返したかったけれど、言葉がうまく出てこなかった。


 


 代わりに、ただ静かに頷いた。


 


 しばらく、誰も話さなかった。

 でもその沈黙は、あたたかかった。


 


(こんな時間も、あるんだな)


 


 まるで、星の光が胸に差し込んできたみたいに。

 私のなかで、小さな何かが芽吹きはじめていた。


天体観測会の夜は、思っていた以上に静かで、穏やかだった。

 夜風が髪を撫でるたびに、身体の奥のほうがすうっと冷えていく。

 けれど、心の中は不思議と温かかった。


 


 「……中川」

 名前を呼ばれて、私はびくりと肩を揺らした。

 伊織先輩が、隣で小さなノートを開いている。

 それは、彼の「観察ノート」――という名の、天体記録と一緒に日々の小さな考察が詰まった秘密のノートだった。


 


「……見せてもらって、いいんですか?」

「別に。お前なら、いい」


 


 その言い方がとても自然で、逆に心臓に悪い。

 伊織先輩はそういうところがある。

 いつだって淡々としていて、誰にでも同じように接しているように見えて、でもときどき、ふっと「特別」のようなものを差し出してくる。


 


 ノートには、空の絵が描いてあった。

 繊細な線で形作られた星座。コメントには、


 


 《今日のベガは少しだけくすんで見えた。原因はたぶん、薄雲。あるいは、俺の目の加減かもな》

 《中川がずっと黙って星を見ていた。話しかけるタイミングを失った。まあ、ああいう時間も悪くない》


 


 ……え?


 


 思わず息をのんだ。私の名前――?

 勝手にページをめくってしまったのかと焦る。でも、伊織先輩は何も言わなかった。

 むしろ、少しだけ笑っていた。ほんのわずかに。


 


「前に言ってたよな。『黙ってても壊れない関係』が、ちょっと憧れだって」


 


 ……言った。たしか、七月の帰り道。誰にも聞かれたくない声の小ささで、こっそりと。

 それを覚えてくれていたことに、胸の奥がきゅっとなる。


 


「観察って、相手のことをちゃんと見ようとする行為だから」

 「……はい」

 「お前も、観察されるの、慣れていけ」


 


 ――それは、警告じゃなくて。

 たぶん、ちょっとした、宣言だった。


 


 それから私は、観察ノートの隣に、自分の小さなメモ帳をそっと開いた。

 ただの自由帳。誰にも見せるつもりのなかった、私の「気持ちの断片」が散らばるノート。


 


 ページの端っこに、星の絵を描く。

 横に、小さな字で書き添えた。


 


 《伊織先輩は、土星みたいな人だ。少し遠くて、輪っかみたいに謎めいてて。でも、目を凝らすと、ちゃんとそこにいる》


 


 たぶん、これが“憧れ”なんだろうな――

 そう思った。

 まだ「好き」と言えるほどの自信も理由もないけれど、それでも、この時間を忘れたくないって思う。


 


 夜空のなかで、ひときわ明るい星が瞬いた。

 伊織先輩も、同じ星を見ていた。


 


 私の中に芽生えたばかりの想いは、まだ誰にも気づかれていない。

 でも、たしかに存在している。

 土星のように、静かに、静かに――。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ