『星と、静かな時間』
10月の夜風は、もうすっかり秋の匂いがした。
薄手のカーディガンだけでは少し肌寒く、私は袖をぎゅっと握りながら、グラウンドの隅に目をやった。
そこには、三脚の上に立派な天体望遠鏡が据え付けられていた。
千紘先輩が「文化部合同企画」と張り切って準備した“天体観測会”の会場。
けれどその実態は――
「科学部と天文同好会の、ゆる〜い合同観測会って感じだね」
「うん。参加者……少ないね」
「まあ、静かな方が星はよく見えるからさ!」
そう言って、千紘先輩は満足そうに月を見上げた。
照明の落とされた校庭に、ぼんやりと明るい月と、いくつかの星々が浮かんでいる。
天頂には夏の名残りのベガ、そして秋のペガスス座。
私たちは小さな折り畳み椅子に並んで座り、それぞれが星を見上げていた。
言葉は少なかったけれど、それが心地よかった。
この空間は、黙っていても壊れない。
焦って話題を探さなくても、沈黙を気にしなくてもいい。
……だからこそ、視線を向けたとき、胸が少しだけざわめいた。
伊織先輩が、隣にいた。
手元に広げた星図を眺めながら、ちらりと夜空を見上げる。
彼の目は、まるで宇宙に焦点を合わせるような、静かで遠い光を宿していた。
(綺麗だな……)
星のことじゃない。
伊織先輩のその横顔が、月明かりに照らされて――
私は、慌てて視線をそらした。
急に胸がどきどきしてきて、自分でも理由がよくわからない。
「おい、中川」
「は、はいっ!」
驚いて振り返ると、伊織先輩は望遠鏡を覗いたまま、手招きをしていた。
「ちょうど土星が見える。お前も、覗いてみろ」
望遠鏡の接眼レンズを覗き込むと、そこには小さくて、でもはっきりとした“輪っか”が見えた。
「……わあ……!」
感嘆の声が自然とこぼれる。
絵や図鑑でしか知らなかったそれが、いま、自分の目で見えている。
宇宙が、本当に“そこ”にある。
「土星は、好きだな」
伊織先輩がぽつりと言った。
「距離もあるし、派手でもない。でも、ちゃんと存在感がある。……そういうの、いいと思う」
私は、何か返したかったけれど、言葉がうまく出てこなかった。
代わりに、ただ静かに頷いた。
しばらく、誰も話さなかった。
でもその沈黙は、あたたかかった。
(こんな時間も、あるんだな)
まるで、星の光が胸に差し込んできたみたいに。
私のなかで、小さな何かが芽吹きはじめていた。
天体観測会の夜は、思っていた以上に静かで、穏やかだった。
夜風が髪を撫でるたびに、身体の奥のほうがすうっと冷えていく。
けれど、心の中は不思議と温かかった。
「……中川」
名前を呼ばれて、私はびくりと肩を揺らした。
伊織先輩が、隣で小さなノートを開いている。
それは、彼の「観察ノート」――という名の、天体記録と一緒に日々の小さな考察が詰まった秘密のノートだった。
「……見せてもらって、いいんですか?」
「別に。お前なら、いい」
その言い方がとても自然で、逆に心臓に悪い。
伊織先輩はそういうところがある。
いつだって淡々としていて、誰にでも同じように接しているように見えて、でもときどき、ふっと「特別」のようなものを差し出してくる。
ノートには、空の絵が描いてあった。
繊細な線で形作られた星座。コメントには、
《今日のベガは少しだけくすんで見えた。原因はたぶん、薄雲。あるいは、俺の目の加減かもな》
《中川がずっと黙って星を見ていた。話しかけるタイミングを失った。まあ、ああいう時間も悪くない》
……え?
思わず息をのんだ。私の名前――?
勝手にページをめくってしまったのかと焦る。でも、伊織先輩は何も言わなかった。
むしろ、少しだけ笑っていた。ほんのわずかに。
「前に言ってたよな。『黙ってても壊れない関係』が、ちょっと憧れだって」
……言った。たしか、七月の帰り道。誰にも聞かれたくない声の小ささで、こっそりと。
それを覚えてくれていたことに、胸の奥がきゅっとなる。
「観察って、相手のことをちゃんと見ようとする行為だから」
「……はい」
「お前も、観察されるの、慣れていけ」
――それは、警告じゃなくて。
たぶん、ちょっとした、宣言だった。
それから私は、観察ノートの隣に、自分の小さなメモ帳をそっと開いた。
ただの自由帳。誰にも見せるつもりのなかった、私の「気持ちの断片」が散らばるノート。
ページの端っこに、星の絵を描く。
横に、小さな字で書き添えた。
《伊織先輩は、土星みたいな人だ。少し遠くて、輪っかみたいに謎めいてて。でも、目を凝らすと、ちゃんとそこにいる》
たぶん、これが“憧れ”なんだろうな――
そう思った。
まだ「好き」と言えるほどの自信も理由もないけれど、それでも、この時間を忘れたくないって思う。
夜空のなかで、ひときわ明るい星が瞬いた。
伊織先輩も、同じ星を見ていた。
私の中に芽生えたばかりの想いは、まだ誰にも気づかれていない。
でも、たしかに存在している。
土星のように、静かに、静かに――。