『文化祭、それは心をひらく実験』
九月。
夏休みの自由研究も終わり、廊下には文化祭の準備に奔走する生徒たちの声が響いている。
私は、廊下の隅っこで立ち尽くしていた。
(……どうして、私が……ポスターなんて……)
視線の先には、科学部の部室。
先週の部会で決まった、「文化祭展示のメインポスター制作係」が、まさかの私。
理由は、ほんの些細なことだった。
「ゆらちゃんの自由研究ノート、めちゃくちゃ見やすかったよね!」
「字がきれいだし、図も分かりやすいしさ!」
「ポスターとか、絶対向いてるって!」
先輩たちの善意の爆弾投下によって、私はこうして部室の前で固まっている。
ちなみに、断るという選択肢は……なぜか出てこなかった。
たぶん――少し、うれしかったから。
* * *
「じゃーん! 題して“科学部特製・化学反応おみくじ”〜!」
千紘先輩がハサミ片手に、にこにこと紙を切っている。
伊織先輩はマイペースに実験器具を磨きながら、「失敗したら大吉が爆発するのも面白そうだね」などと言っている。
私は、机にポスター用の白紙を広げていた。
A2サイズ。大きい。でも、やってやれないことは……ない。
手を動かすうち、少しずつ肩の力が抜けていく。
(あ、図の配置はこうした方が見やすいかも)
(タイトルはちょっと遊び心入れてもいいかも……)
気づけば、周囲の喧騒も気にならなくなっていた。
文化祭なんて、自分には無縁だと思ってた。
でも今は、ポスターの向こうに、誰かが足を止めてくれるかもしれない未来を想像している。
黒のペンでタイトルを書く。
『科学の中の「ふしぎ」を探せ!』
……ちょっと青くさいかもしれない。でも、今の私にはぴったりな言葉だ。
「お、いいじゃんゆらちゃん!」
千紘先輩が後ろから覗き込んで、親指を立てる。
「ポスターって、“顔”だからさ。これで来場者が増えたら、超うれしくない?」
……うん、そうかもしれない。
「……がんばって、仕上げます」
そう言った声は、ほんの少しだけ、いつもより大きかった。
文化祭当日。
開場直前の教室で、私はポスターの前に立っていた。
(……手、汗すごい。呼吸、浅い……)
朝からずっと心臓が早足だ。
準備は間に合った。ポスターも完成した。展示ブースも、千紘先輩が持ってきたポップや小道具でにぎやかに彩られている。
でも――
(話しかけられたら、どうしよう)
(もし聞かれても、うまく答えられなかったら……)
頭の中で、失敗のシミュレーションがぐるぐる回る。
伊織先輩は「ま、何とかなるよ」と余裕の笑み。千紘先輩は「緊張してる顔も、科学的に興味深いね!」とカメラを構えてきて、速攻で止められていた。
教室のドアが開き、人の波が押し寄せる。
文化祭が、始まった。
* * *
「え、これって本当に色が変わるんですか?」
「うわ、すごい! 紫になった!」
「ねぇ、この図って誰が描いたの?」
最初は、ほんの少しだった。
子ども連れの親子、制服姿の後輩、クラスメイト、見知らぬ大人たち。
誰かがポスターの前で足を止めて、じっと読む。
その横顔に、私は気づいてしまう。
(……あ。なんか、うれしい)
わたしの描いた図や言葉が、“伝わってる”。
目が合った男子生徒に「これ、面白いですね」と言われて、思わず小さく会釈する。
すぐに喉が乾いた。でも、逃げ出そうとは思わなかった。
「この反応、なんでこんなに早くなるんですか?」
そう聞かれたとき、一瞬、声が詰まりかけた。
でも。
「えっと……触媒が……反応のハードルを、下げてるんです」
「それで、分子がぶつかりやすくなるから……結果的に、速くなる、んです」
相手は「へぇ、すごいなぁ」と笑った。
(伝わった……かな)
伝えようとしたことが、ちゃんと誰かに届いた気がして、心がじんわり温かくなる。
* * *
夕方。
人波がやや落ち着いた時間帯、ふと横を見ると――伊織先輩が、わたしのポスターの前で立ち止まっていた。
「……よかったよ。これ」
先輩は、ポスターの一番下に描いた、小さなフラスコのイラストを指でなぞる。
「お前、観察も表現も、両方できるんだな。言葉の選び方、丁寧だし」
思わず言葉に詰まる。
何か返したいのに、胸がいっぱいになってしまって、声が出なかった。
だけど、次の瞬間。
伊織先輩は、わたしの頭をぽんと軽く叩いた。
「もっと、出しゃばっていいんだぞ」
そう言って、いつもの無表情で奥へ歩いていった。
私は、思わず笑ってしまう。
ポスターの前に戻り、空気を深く吸った。
今日のわたしは、ちょっとだけ、ちゃんと“ここ”にいた。