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『青い空と、秘密の観察ノート』

八月。太陽は相変わらず容赦なく、空は絵の具をぶちまけたように青い。

 科学部の部室は静かで、誰もいない夏休みの午後の空気が、どこか特別に感じられた。


 けれど私は、そこにはいなかった。


 


 ──私は、家の部屋に引きこもっていた。


 


「……もう、これで三回目」


 試験管の中の液体が、またしても濁る。うまくいかない。

 ノートに「失敗」と小さく書いて、ふうと息をつく。


 自由研究のテーマは「温度変化による発泡反応の可視化」。

 何度も実験して、変化を観察して、でも――結果が出ない。


 


 夏の始め、あのとき千紘先輩が言った。


 


『夏の自由研究は、自分の“好き”を見つける時間だから』


 


 それを聞いた私は、家に帰ってからひとり、黙々と考えた。

 私が好きなのは、綺麗なもの。淡くて、小さくて、すぐ消えてしまいそうなもの。


 だから、反応によって一瞬だけ泡が立ち昇る様子を観察しようと思ったのだ。

 でも、失敗続きで、正直もう心が折れそうだった。


 


 ……私には、やっぱり無理だったのかな。


 


 そんなときだった。庭の向こうの道に、ひとつの影が見えた。


 


「……え?」


 窓を開けると、そこにいたのは――


 


「おーい、中川」


 麦わら帽子を片手に、ラフなTシャツ姿。科学部の伊織先輩だった。


 


「こ、こんなところで……なんで……?」


「偶然通っただけ。ていうか、ずっと部活来てなかっただろ? 生存確認」


 そんなこと言いながら、先輩は平然と庭に入ってきて、窓の下で私を見上げた。

 私は、焦ってノートや試験管をとっさに隠したけれど、先輩はちらっと私の机を見て言った。


 


「へえ、ちゃんとやってるじゃん。偉いじゃん」


「……でも、失敗ばかりで……」


「成功してからが研究、って思うとつらいよ。

 でも、失敗を続けた人だけが“観察”ってやつに出会えるんだよ。科学部的には、そっちのほうが本番」


 


 その言葉に、私は少しだけ目を見張った。


 


「ほら、観察ノート、見せて」


「え、でも……」


「へー。記録細かいな。すごいじゃん。

 泡が立つまでの秒数、日陰と日向で比較してる。いいセンスしてる」


 


 私の書いた観察記録を、伊織先輩は真剣に読んでくれた。

 誰かに見られるのは怖かったけど、なぜだか、少しうれしかった。


 


「気温の差で出方が違うってことはさ。もしかしたら泡の密度も変わってるかもよ?」


「……密度?」


「うん、例えば動画に撮って、あとでスローで比較してみるとか」


「……あ……!」


 


 その発想はなかった。けれど、目の前が一気にひらけた気がした。

 私の胸の中で、じゅわっと小さな泡が弾けたような気がした。


 


 ──まだ、終わってないかもしれない。


 


 青空の下。麦わら帽子の伊織先輩が、少しだけいたずらっぽく笑った。


 


「がんばれ、科学部一年・中川ゆらさん」


 


 ……はい、と、小さく答えた声は、自分でも驚くほどまっすぐだった。



夏の日差しは、相変わらず眩しくて。

 でも、あの日とはちょっとだけ違って見える。


 


 私は今、窓際の机に向かっている。

 ノートを開き、カメラを固定して、試験管を並べる。


 


「記録、開始……」


 


 カチリとタイマーを押す。

 いつもと同じ液体、いつもと同じ手順。でも、違うのは――


 


 私の目が、観察することに集中しているということ。


 


 動画の中で泡がふわっと立ちのぼる。

 早送り、スロー再生、並べて比較。日向と日陰、風の有無、試薬の温度。


 


 すると、見えてきた。


 


 「一定の条件下でだけ、泡が細かくなって密度が上がる」


 


 今まで気づかなかった。というより、気づこうとしていなかった。

 ただ失敗とだけ思い込んでいたあの現象は、きっと“結果”だったのだ。


 


「……これ……すごいかもしれない」


 


 自分で驚いていた。

 気がつけば、ノートに書き込みながら、にやにやしていた。


 動画のキャプチャを印刷し、表を作る。仮説を立て、条件を書き出す。

 時間が溶ける。机の上がぐちゃぐちゃになっても、心はどこまでも澄んでいた。


 


 ──たった一人で過ごした午後。

 でも、私はたしかに、世界のひとつのルールを見つけた気がした。


 


* * * 


 


 そして次の日。私はとうとう、科学部の部室のドアをノックした。


 


「……失礼します」


 


 誰かいるか不安だった。でも、ドアを開けた瞬間――


 


「おっ、中川! 生きてた!」


 


 千紘先輩の軽快な声。

 奥の席では伊織先輩がいつものように図鑑を読み、向こうのベンチには蓮斗くんが寝転んでいた。


 


 なんだか、懐かしい空気だった。


 


「ねえねえ、自由研究できたの? 見せてよ〜」


「……うん。あの、これ……まとめました」


 


 ノートと動画を見せる。千紘先輩が目を輝かせた。


 


「すご! めっちゃ細かく観察してるじゃん! しかもデータ化してる!」


「この密度差の出方、動画じゃないとわからなかったでしょ?」

 と、伊織先輩もさりげなく笑う。


 


 私は、うなずいた。


 


「……先輩のアドバイス、すごくヒントになりました。ありがとうございました」


「え、俺なにか言ったっけ?」


 


 とぼけた顔。でもその横顔は、やっぱりちょっとかっこよかった。


 


「……このノート、すごく面白いと思うよ」

 千紘先輩がページを繰りながら、ふわりと笑った。


「なんかさ、泡の中に“ゆらちゃんの夏”が詰まってるみたい」


 


 泡の中に、夏。

 私の夏。私だけの観察ノート。


 


 ──結果を出すって、こういうことだったんだ。


 


 私は、思わず笑った。

 外では蝉の声がしていたけれど、それすらも心地よかった。


 


 こうして、私の秘密の自由研究は、少しだけ誰かと分かち合うものになった。


 科学部の夏は、まだまだ続く。

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