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『中川ゆらと科学部の36か月』 ――わたしを変えたのは、たぶん、科学と、あなたたち。  作者: 南蛇井


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「さようなら、わたしの実験室」

三月の風は、どこか懐かしいにおいがした。


登校路を歩きながら、私はリュックの中にある白衣の重みに気づく。今日は卒業式。三年間過ごしたこの学び舎とも、そして、あの実験室ともお別れだ。


校門をくぐった瞬間、制服にピシッとアイロンをかけた在校生たちが「ご卒業おめでとうございます!」と声を揃える。ちょっと照れながら会釈を返すと、ナナミが人波の向こうから駆けてきた。


「ゆら先輩っ!」


いつも通り、全力のナナミ。泣いてるのか笑ってるのか分からないその顔に、私は思わず笑ってしまう。


「まだ卒業式、始まってないよ?」


「だって、なんかもう……泣いちゃうに決まってるじゃないですかっ!」


彼女の両手が、白衣を抱きしめるように握りしめられていた。ああ、私もそうだったな。二年前、千紘先輩が卒業するとき。あのとき、白衣が誰かの形をしているように見えて、離したくなかった。


式の最中、私は極力感情を落ち着けることに集中していた。


校長先生の長い話も、代表生徒の送辞も、どこか遠くの出来事のようだった。ただ、退場の直前、後ろから澄のしゃくりあげるような声が聞こえてきて、危うく涙腺が決壊するところだった。


式が終わっても、まだやることがある。


私は制服の下にそっと白衣を重ね着し、静かな実験室へ向かった。部室の鍵は、もう職員室に返却済み。でも結城先生が、特別に最後の一時間だけ許可してくれたのだ。


「いい別れを、しておいで」


その言葉を胸に、私は扉を開けた。


薬品棚、ビーカー、ホワイトボード。すべてが、三年間と変わらない風景なのに、もうすぐここは私の居場所じゃなくなる。


ゆっくり歩きながら、机に指を滑らせる。あの日、実験に失敗して机の上を泡だらけにしたっけ。ナナミと笑い転げながら拭いた思い出が、指先から立ち上がってくる。


椅子を引いて、ひとつの席に座る。


ここが、わたしの場所だった。


あの春、入部届を出すのに三日もかかって、ようやくこの部屋のドアを開けたときの震えを、私は一生忘れないと思う。


卒業式の式場から戻ってきた私は、制服の裾を揺らしながら、最後の足取りで科学室の前に立った。


 扉を開けると、そこにはもう誰もいない、けれど確かに“私たち”の気配が残っていた。窓から射し込む午後の光は柔らかく、棚の薬品やホワイトボード、そして使い古されたビーカーが、それぞれの記憶を湛えてきらめいていた。


 私はそっと歩を進め、黒い実験台に指先をすべらせる。つるりとした感触に、過去の無数の実験が甦った。失敗して爆発しかけたこと。思わず跳ね上がった液体に、ナナミと顔を見合わせて笑ったこと。澄の真剣な横顔。伊織の茶化す声。千紘の飄々とした助言。全部、ここにある。


 鞄から取り出した小さなスケッチブックを、私は最後のページで開いた。そこには、こう書いてある。


「“科学”は、わたしを変えてくれた。」


 誰に向けてでもない、けれど確かに心からの言葉だった。


 私は一度深く息を吸ってから、ホワイトボードの端にそっと書き込む。


 「科学部3年間、ありがとう。」


 その横に、にっこり笑う自分の似顔絵も添えて。


 戸締まりの確認を終え、部室の鍵を職員室に返すと、私は正門に向かって歩き出した。 


 春の風が吹いていた。少し強くて、でもどこか背中を押してくれるような、そんな風。


 ふと、空を見上げる。


 そこには、雲ひとつない青。


「……行こう。次の研究へ。」


 小さく呟いた言葉は、春風に乗って、どこまでも遠くへと流れていった。


 さようなら、わたしの実験室。


 そして、ありがとう。わたしを“わたし”にしてくれた、科学という世界へ。



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