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『中川ゆらと科学部の36か月』 ――わたしを変えたのは、たぶん、科学と、あなたたち。  作者: 南蛇井


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34/36

観測室からのエール

その朝の空気は、まるで実験前のガラスビーカーの中みたいに澄んでいた。


 科学部の観測室は、放課後になるとひっそりとした静寂に包まれる。今日も例外ではなかった。窓際のカーテンが風にふわりと揺れ、薄い光が床にゆらゆらと影を落とす。


「澄、こっちの機材の準備、お願いできる?」


「うん、了解。ナナミ、記録ノート持ってきた?」


「持ってきたよー。……って、もう、緊張する~!」


 ナナミがわざとらしく肩をすくめて見せる。彼女の白衣は少し丈が長くて、袖をくるくると折り返してあるのが、なんだか初々しい。澄は相変わらず無表情気味だけど、その目は静かに輝いていた。


 私は一歩引いた位置から、その光景を見つめていた。


 2年前、あの場所に立っていたのは私だった。誰かの後ろでおどおどしながら、機材の名前すらまともに言えなかった私。けれど、今ではこうして“次の誰か”を見守る側になっている。


「じゃあ、観測始めます。今日は気圧と湿度、あと空の彩度を中心にデータ取るよ」


 ナナミが少し頼りなさげに宣言する。だけど、その声には確かに「やってみたい」という意思が込められていた。


「了解。……澄、あのセンサーちょっと変じゃない?」


「あ、ほんとだ。ゆら先輩、これって……」


「たぶん、接触不良だね。コードのこの部分、軽く押さえてみて」


 私がそう助言すると、ナナミと澄が顔を見合わせて、ほっとしたように笑う。


「さすが、先輩……!」


「なんか、ゆら先輩がいると安心するね」


「……ありがと」


 自分でも驚くくらい、すんなりと言葉が返せた。昔の私だったら、きっと照れて黙り込んでいたはずなのに。


 しばらくして、観測が一段落すると、ナナミがふいにぽつりとつぶやいた。


「ねえ、科学って……やっぱり楽しいね」


 私はその言葉を聞いて、ハッと息をのんだ。


 まるで、心の奥に光が差し込んだような瞬間だった。


 そして、澄が続く。


「うん、私も……。データがつながる感じとか、自分の手で測れるのが好き」


 二人の笑顔が、夕日と重なってきらきらと輝いていた。


 私の胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 ああ、そうか。


 この場所があって、本当に良かった。


 私がこの部にいて、彼女たちと出会えて、本当に良かった。


 気づけば、目元が熱くなっていた。


 でも、それは悲しみじゃない。


 これはきっと、「未来へ向かううれし涙」だ。



 観測室には、少しだけ早い夕暮れが差し込んでいた。オレンジ色の光が斜めに伸びて、顕微鏡の銀色の縁を照らしている。


 澄とナナミが、それぞれの観測ノートを手に、最後の記録を黙々と書いていた。鉛筆のカリカリという音が、やけに心地よくて、ゆらはその音を聴いているだけで満ち足りた気分になった。


 たった一年前。白衣すら着慣れなかった二人が、今では顕微鏡のピントを合わせ、プレパラートの状態を判断し、結果を丁寧に記録するようになった。


(あの子たち、ちゃんと「観る」目を持ってる……)


 科学って、面白い――。そんな想いが彼女たちの中に芽生えた瞬間を、ゆらは何度も見てきた。それは教科書には載っていない、けれど確かに「伝えた」証だ。


「……終わった!」


 ナナミが大きく背伸びをしてノートを閉じると、澄も「ふぅ」とため息をついて、顕微鏡から顔を上げた。


「これで観測、全部おしまいですね」


「そうだね。あとはまとめて発表会用に整えるだけかな」


「なんか、ちょっと、寂しいような……」


 ナナミがそう言って天井を見上げた。彼女の目はどこか遠くを見ているようで、でも、口元は確かに笑っていた。


「でも……やっぱり楽しかったな、科学って」


 その言葉は、壁にもノートにも届かない、けれど確かにゆらの胸の奥に届いた。


 続けて澄も、ポツリと呟く。


「うん。最初は難しいってばっかりだったけど、今はちょっと好きかもしれないです。科学って」


 その瞬間、ゆらの視界がふっとにじんだ。


 涙――。不意に、温かい雫が頬を伝って落ちる。


「あっ、先輩……?」


 ナナミが慌てて椅子から立ち上がり、ゆらのそばへ駆け寄る。


「ご、ごめんね、なんか急に……」


 ゆらは照れくさそうに笑った。けれど、泣くのを止めることはできなかった。


「ううん、大丈夫、違うの。うれしくて……なんだと思う」


 ちゃんと伝えられた。

 この一年、悩んで、迷って、それでも諦めずに、科学の楽しさを「伝えたい」って気持ちでやってきた。誰かの心に届くなんて、自分には無理だと思ってた。でもいま、目の前で「好き」って言ってくれた後輩がいる。


 それは、どんな成功よりも嬉しい結果だった。


「ありがとう、二人とも。ほんとうに、ありがとう」


 ゆらがそう言うと、ナナミと澄は目を丸くしたあと、ふわっと笑って、同時にこう言った。


「こちらこそ、ありがとう、先輩!」


 その声が、夕焼けの観測室に反響する。


 白衣の袖口が涙で濡れていたけれど、それでもゆらの胸はあたたかかった。たとえ部活を引退しても、この想いは、きっとこの場所に残る。科学と、笑顔と、伝える勇気と一緒に。


 静かな観測室に、未来へ向かうエールが、確かに響いていた。

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