白衣に寄せ書き
部室の蛍光灯がピチッと音を立てて点いた。年の瀬の空気は冷たくて、フラスコよりも静かに透き通っていた。
「うわーっ、寒っ……!」
ナナミが息を吐きながら部室に飛び込んできた。マフラーぐるぐる巻きで、鼻の先が真っ赤だった。
「もう、また部室の窓ちょっと開いてたでしょー!?」
「空気の入れ替え、大事だと思って……ごめん」
「先輩、年末だからって張り切りすぎです~!」
そんなやりとりをしながら、ゆらは机の上にお菓子と紙皿を並べていく。今日の科学部は、年に一度の“科学部忘年会”なのだ。といっても、お菓子をつまみながらジュースで乾杯して、一年を振り返るささやかな会。
「今年もいろんなこと、あったね」
「ほんとですよ~。先輩、泣いたり笑ったり怒ったり……」
「怒った、かな?」
「ナナミの失敗に冷や汗かいて、めっちゃ真顔で“ナナミさん、これは危険です”って言ってたときの顔、忘れませんよ〜!」
「……あ、それはちょっと怒ってたかも」
あはは、とふたりして笑う。そこへ、伊織や他の後輩たちも次々と集まってきた。どこか名残惜しそうな雰囲気が、漂っている。
「じゃあ、乾杯しようか」
「はいっ!」
ジュースのペットボトルが紙コップに注がれ、せーので「かんぱーい!」の声が部室に響いた。
ポテトチップスの袋を開けながら、1年生たちは「ナナミ先輩って、部長さんになるのかなあ」「え~、それだったら今のうちに機嫌とっとこ!」なんて冗談を言っている。
その中で、ゆらは静かに後輩たちの姿を見ていた。
楽しそうに笑って、思い出を語り合う。あのころの自分は、こんな風に誰かと心を交わせていただろうか。誰かに寄りかかり、誰かの声に救われていたことに、ちゃんと気づけていただろうか。
そんなことを、ふと思う。
「……あの、ゆら先輩」
ナナミが、ひょこっと立ち上がった。手には何か紙を持っていて、もじもじしながらみんなの前に出る。
「みんなで、相談して。ちょっとしたサプライズなんですけど……」
「……これ、どうぞ!」
差し出されたのは、ゆらが実験のときにずっと着ていた白衣だった。
よく見ると、背中に――ぎっしりと、寄せ書き。
「えっ……」
「先輩が、卒業しちゃうの寂しいけど……でも、これまでずっとそばにいてくれて、ありがとうございましたっていう気持ちを込めて」
「だから……その白衣、私たちからの“ありがとう”なんです」
ゆらは、言葉が出なかった。
それは、嬉しさというには少し足りなくて。寂しさというには、ずっとずっと温かくて。
白衣に綴られたひとつひとつの文字が、心をそっとノックしてくる。
「“先輩の背中、かっこよかったです”……ふふっ、誰が書いたのこれ……」
「私です! でも、ほんとにそう思ってますよ」
気づけば、目がじんわりと潤んでいた。
涙をこらえようとしても、無理だった。
「…それじゃ、乾杯!」
紙コップがぶつかりあい、小さな部室に明るい声が響いた。
年末恒例、科学部の“しめくくり忘年会”。お菓子とジュースだけのささやかな宴だけれど、笑い声と実験談で埋め尽くされるこの空間は、どんな豪華なパーティよりもあたたかい。
「ゆら先輩、チーズ味のポップコーン食べますか?」
「わ、ありがとう。って、これナナミが持ってきたやつ?」
「そうです! ちょっと焦がしたのは内緒ですけど…」
「ふふっ、ちょうどいい香ばしさだよ。おいしい。」
こくん、と頷いてみせると、ナナミの顔がふにゃりと崩れた。ほんの数ヶ月前まで、話しかけるたびに緊張で顔をこわばらせていた彼女。今ではすっかり場のムードメーカーだ。
(…頼もしくなったなあ)
そう思っていたとき、不意に部室の電気がぱちんと消された。
「えっ、停電!?」
「サプラ~イズッ!」
暗闇を破るように、紙吹雪と拍手の嵐。手作りのケーキがろうそくの光に照らされて、ふわりと現れる。トッピングには“YURA先輩ありがとう”の文字。
「な、なにこれ……!?」
「今日、忘年会だけじゃないんです」
「“ゆら先輩、おつかれさま会”でもあるんです!」
「3年生がいなくなるの、やっぱ寂しくて……」
笑いながら話す後輩たち。その手には、なぜか私の白衣が――。
「え、え、ちょっと待って? これ私の白衣じゃない……?」
「そうですよ。部室のロッカーからこっそり借りました」
「盗難!? いや、でも……」
驚いて受け取ると、胸元から袖まで、色とりどりの寄せ書きがびっしりと――。
「“ゆら先輩の実験ノート、めちゃ読みやすかったです!”」
「“あの時、優しくしてくれてありがとう”」
「“白衣が似合いすぎてて、ずっとあこがれてました”」
「“私も、いつかゆら先輩みたいになります!”」
震える手で白衣を広げる。インクが滲んで、文字がぶれて見える。
(あれ、おかしいな。こんなに涙腺って脆かったっけ)
「も、もう……ずるいよ、こんなの……」
顔を手で覆うけれど、ぽたぽたと涙はこぼれて止まらない。
だけど、涙の奥にあるのは、確かな“誇り”だった。
白衣はただの衣装じゃなかった。
この3年間、私がここで過ごした時間、そのものだった。
みんなと笑って、失敗して、悩んで、喜んで。
そのすべてが、この白衣に染み込んでる。
「……ありがとう。私、ほんとに幸せだった」
ナナミがそっと、私の手を握ってくれる。
それは、あの日私がナナミに手を差し伸べた時の、あのぬくもり。
(この手を、未来に渡していくんだ)
その夜、私は寄せ書きの白衣をぎゅっと抱きしめて眠った。
夢の中でも、誰かの「ありがとう」が、そっと背中を押してくれる気がした。




