「ノートに残す、想いの式」
秋が深まり、校舎の窓から差し込む光もどこか儚げになってきた。科学部の部室では、ゆらが一人、机に向かっていた。
ノートが何冊も積まれている。ここに記録されているのは、過去二年間の彼女たちの軌跡――実験のメモ、考察、失敗と成功、そして……ちょっとした落書きや、余白に残されたつぶやきのような言葉たち。
「ここ、また温度足りなかったんだよね……」
ゆらはページをめくりながら、懐かしそうに微笑んだ。インクがにじんだ文字もある。湿度計の測定ミス、試薬の混合順序の逆転、ナナミの天然ボケ……どれも今ではいい思い出だ。
ふと、あるページに目が止まった。
《“理屈じゃなくて、楽しいって思える瞬間を、大事にしたい”――千紘》
それは、先輩の字だった。去年の文化祭前、試作段階のページに残された言葉。ゆらの胸がじんと熱くなる。
その隣のページには、伊織の記録も残っていた。
《“トライ&エラーの中に、ヒントは眠ってる。だから、失敗を怖がるな”》
几帳面な字で、まるで今ここに伊織がいて、真顔でゆらに語りかけてくれているようだった。
ページを閉じ、ノートにそっと手を添える。
「……うん。ちゃんと、受け取ってるよ」
彼女の声は小さく、それでいて確かな響きを持っていた。
過去の自分と、今の自分。先輩たちの言葉、ナナミたちの成長。すべてがこのノートに、確かに残っている。
ゆらは白衣の袖をまくり上げ、新しいページに向かった。
今度は、自分の言葉で書き残す番だ。科学部の歴史に、彼女自身の「想いの式」を。
シャープペンの芯が紙を滑る音だけが、静かな部室に響いていた。
ゆらの指先は迷いなく動いている。けれど書いているのは、科学的な公式でも観察記録でもない。
「中川ゆらの研究ノート(私的追記)」
その見出しの下に、彼女はこう書きはじめていた。
私がこの部室に初めて来たとき、正直、怖かった。
理屈の通じる世界にいたいと思っていたのに、ここにあるのは、実験失敗と、笑い声と、予測不能な毎日だった。
でも、それがよかったんだと思う。
ナナミの笑い声も、千紘先輩のまっすぐな視線も、伊織先輩の頑固なアドバイスも。
あの頃の私はきっと、自分が誰かと“同じ空間”を生きることに、まだ慣れていなかった。
でも今は、違う。
この部室が、私の原点になった。
科学という名前の、心の居場所になった。
ゆらはふと顔を上げた。窓の外には、ほんのり色づいた銀杏の並木。もうすぐあの木々も葉を落とし、冬を迎える。
「……伊織先輩なら、『感情に走りすぎ』って言うかもな」
小さく苦笑してから、彼女はさらに書き足す。
来年の春、私はこの学校を離れます。
けれどこのノートは、ここに置いていきます。
次にこのページをめくる誰かが、ここで少しでも笑ってくれたら嬉しいです。
科学は、続くものだから。
私たちの物語も、誰かの手で、いつかまた。
2025年11月5日 中川ゆら
書き終えたゆらは、ふっと息を吐いた。
ページをそっと閉じて、棚の一番上にそのノートを戻す。そこは、かつて千紘が自分のノートを置いた場所だった。
「さあ、今日の作業は終了……かな」
立ち上がり、白衣を脱いで壁のフックに掛ける。
その動作ひとつにさえ、どこか“区切り”のような、少しだけ切ない響きがあった。
部室のドアを閉める前に、彼女はもう一度だけ振り返る。
机、椅子、器具棚、ホワイトボード。
そして、あのノートたち。
「大丈夫。ちゃんと続いていくって、信じてるから」
誰にでもなく、でも確かに誰かに届くように。
中川ゆらは、微笑んだ。




