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『中川ゆらと科学部の36か月』 ――わたしを変えたのは、たぶん、科学と、あなたたち。  作者: 南蛇井


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32/36

「ノートに残す、想いの式」

秋が深まり、校舎の窓から差し込む光もどこか儚げになってきた。科学部の部室では、ゆらが一人、机に向かっていた。


 ノートが何冊も積まれている。ここに記録されているのは、過去二年間の彼女たちの軌跡――実験のメモ、考察、失敗と成功、そして……ちょっとした落書きや、余白に残されたつぶやきのような言葉たち。


「ここ、また温度足りなかったんだよね……」


 ゆらはページをめくりながら、懐かしそうに微笑んだ。インクがにじんだ文字もある。湿度計の測定ミス、試薬の混合順序の逆転、ナナミの天然ボケ……どれも今ではいい思い出だ。


 ふと、あるページに目が止まった。


 《“理屈じゃなくて、楽しいって思える瞬間を、大事にしたい”――千紘》


 それは、先輩の字だった。去年の文化祭前、試作段階のページに残された言葉。ゆらの胸がじんと熱くなる。


 その隣のページには、伊織の記録も残っていた。


 《“トライ&エラーの中に、ヒントは眠ってる。だから、失敗を怖がるな”》


 几帳面な字で、まるで今ここに伊織がいて、真顔でゆらに語りかけてくれているようだった。


 ページを閉じ、ノートにそっと手を添える。


「……うん。ちゃんと、受け取ってるよ」


 彼女の声は小さく、それでいて確かな響きを持っていた。


 過去の自分と、今の自分。先輩たちの言葉、ナナミたちの成長。すべてがこのノートに、確かに残っている。


 ゆらは白衣の袖をまくり上げ、新しいページに向かった。


 今度は、自分の言葉で書き残す番だ。科学部の歴史に、彼女自身の「想いの式」を。



 シャープペンの芯が紙を滑る音だけが、静かな部室に響いていた。


 ゆらの指先は迷いなく動いている。けれど書いているのは、科学的な公式でも観察記録でもない。


 「中川ゆらの研究ノート(私的追記)」


 その見出しの下に、彼女はこう書きはじめていた。


 私がこの部室に初めて来たとき、正直、怖かった。


 理屈の通じる世界にいたいと思っていたのに、ここにあるのは、実験失敗と、笑い声と、予測不能な毎日だった。


 でも、それがよかったんだと思う。


 ナナミの笑い声も、千紘先輩のまっすぐな視線も、伊織先輩の頑固なアドバイスも。


 あの頃の私はきっと、自分が誰かと“同じ空間”を生きることに、まだ慣れていなかった。


 でも今は、違う。


 この部室が、私の原点になった。


 科学という名前の、心の居場所になった。


 ゆらはふと顔を上げた。窓の外には、ほんのり色づいた銀杏の並木。もうすぐあの木々も葉を落とし、冬を迎える。


「……伊織先輩なら、『感情に走りすぎ』って言うかもな」


 小さく苦笑してから、彼女はさらに書き足す。


 来年の春、私はこの学校を離れます。


 けれどこのノートは、ここに置いていきます。


 次にこのページをめくる誰かが、ここで少しでも笑ってくれたら嬉しいです。


 科学は、続くものだから。


 私たちの物語も、誰かの手で、いつかまた。


                     

                       2025年11月5日 中川ゆら


 書き終えたゆらは、ふっと息を吐いた。


 ページをそっと閉じて、棚の一番上にそのノートを戻す。そこは、かつて千紘が自分のノートを置いた場所だった。


「さあ、今日の作業は終了……かな」


 立ち上がり、白衣を脱いで壁のフックに掛ける。


 その動作ひとつにさえ、どこか“区切り”のような、少しだけ切ない響きがあった。


 部室のドアを閉める前に、彼女はもう一度だけ振り返る。


 机、椅子、器具棚、ホワイトボード。


 そして、あのノートたち。


「大丈夫。ちゃんと続いていくって、信じてるから」


 誰にでもなく、でも確かに誰かに届くように。


 中川ゆらは、微笑んだ。



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