静かな部室、未来の音
十月の風は、夏の残り香を少しだけ引きずりながらも、確実に冷たさを増していた。
放課後、私はいつものように科学部の部室に入る。
扉を開けた瞬間、漂う静けさが胸に刺さった。
誰もいない。何の音もしない。
――そんな部室を見たのは、いつぶりだろう。
「……あれ、まだ誰も来てないんだ」
机の上にはナナミが昨日使ったレポート用紙、
棚にはミホが整理していた試薬の瓶。
そこに、確かに人がいた痕跡が残っているのに、
音だけがない。それが妙に寂しかった。
私は静かに椅子に腰を下ろし、窓の外を見た。
体育館の裏を通りすぎる生徒たちの声。
秋色に染まり始めた中庭。
ゆっくりと、時間だけが進んでいく。
――今、私は一人なんだな。
「……来年の今頃、私はここにいないかもしれないんだよね」
ぽつりと呟いた言葉が、部室の壁に吸い込まれていく。
ふと、ナナミが言っていたことを思い出した。
『国立、受かったよ。来年からは関東の大学! ちょっと遠いけど、やりたいことが見えてきた気がするんだ』
嬉しそうに笑っていたナナミの横顔。
その言葉に、心から「おめでとう」と言えたのに、
今こうして一人きりになると、どこかぽっかりと穴が開いてしまう。
ミホも、センパイも、みんな少しずつ「先の景色」を見つけて、そこに歩き出している。
私だけが、まだこの部室に残っている気がする。
取り残されたわけじゃないってわかってる。
でも、確かに、静かだった。
私は棚から一冊のノートを取り出した。
科学部の活動記録。私たちのショータイムの設計図。
ページをめくるたびに、笑った顔や、真剣な横顔が浮かんでくる。
――私も、何かを見つけなきゃいけない。
そう思ったそのとき。
「ゆらー! お待たせーっ!」
明るい声とともに、勢いよくドアが開いた。
「ナナミ……」
「なんかさ、急に来たくなっちゃって。……一緒に、最後の片づけ、しよ?」
彼女の手には、夏の名残みたいな花が一輪。
それがなぜか、じんわりと心を温めた。
月曜日の放課後、部室にはいつものようにナナミがいた。彼女は窓際で机に向かい、実験ノートを読みながらふむふむと小さくうなずいている。
「ナナミ、それ、何の記録見てるの?」
「去年の、ゆら先輩と伊織先輩の共同観察データです。何度見ても綺麗にまとまってて……私、こういうの、目指したいなって」
照れくさそうに笑いながら言うナナミの姿は、かつての自分に重なるようで、でも、少し違っていた。彼女のまなざしは、もっとまっすぐで、もっと強い。
(私も、変わったんだな)
その日は、なんとなく残っていた卒業アルバムの編集作業も終わり、帰り支度をしていると、ナナミが唐突に言った。
「来年、私も、後輩に“頼れる先輩”って思ってもらえるかなあ」
「きっと、思ってもらえるよ」
「じゃあ、ゆら先輩は?」
「え?」
「私にとって、ゆら先輩は、ずっと“なりたい先輩”です」
そう言って、ナナミはにこりと笑った。
その一言が、静かな部室の空気をふるわせた。私の胸の奥にも、何か柔らかい音が鳴ったようだった。
ふと、戸棚の奥にしまっていた白衣を取り出してみる。高校一年のとき、袖がぶかぶかで笑われた白衣。今は、腕も裾もちょうどいい。
――あのときの私が、ちゃんとここにいる。
部室の隅で、静かに積み重ねてきた時間たちが、そっと背中を押してくれる。
帰り際、部室のドアに手をかけたとき、不意にナナミが言った。
「来年の文化祭も、やりますよ。“科学×演劇”の第二弾!」
「えっ、もう決めてるの?」
「はいっ!先輩たちのあれ、すっごく面白かったから。負けないくらいのやつ、私たちでやりたいんです」
ゆらは思わず笑った。こんなにも、部室に“未来”の音が響いているなんて。
廊下に出た瞬間、秋の風が、白衣の袖を優しく揺らした。
(大丈夫。ここで過ごした日々が、これからも、私の中で生きていく)
ゆらは空を見上げた。夕焼けに染まる空は、まるで未来の始まりを告げているようだった。




