『きらめく泡と、わたしの気配』
六月、放課後の理科準備室。
天井の蛍光灯がちらちらと明滅し、試薬棚のガラス越しに西日が差している。
「……これ、混ぜるだけなんですか?」
私は、ビーカーの中に用意された薬品を見つめながら、そっと尋ねた。
「うん、洗剤とグリセリンと水。あとは界面活性剤がいい感じに働いてくれるはず。今日は“シャボン膜の観察”ね」
千紘先輩は、白衣のポケットから細いストローと金属のリングを取り出す。
科学部の今日の活動は、見た目にも楽しい“泡づくり”だった。
私の目の前にあるのは、教科書に載っていた「表面張力」の実験。
理屈では知っていたけれど、実際に目にするのは、初めてだった。
「じゃ、ゆらちゃん、やってみて」
促されるまま、私は細いガラス棒を液にひたし、そっと引き上げる。
静かに――音も立てず、透明な膜が張られていく。
「わ……」
光にかざすと、その膜は虹のようにきらめいた。
色の縞が、液体の流れに沿って、微妙に動いている。
――まるで、何かが呼吸しているみたい。
私は、思わずじっと見入ってしまった。
息をひそめるように、誰の邪魔にもならないように、ただ目の前の泡を見つめる。
ふいに背後から声がした。
「ゆらちゃん、それ、すごく綺麗にできてるよ」
振り向くと、いつの間にか来ていた顧問の福地先生が、腕を組んで立っていた。
「えっ、えと……あの……たまたま、です……」
私は慌てて視線をそらす。
先生に見られるのは、まだ少しこそばゆい。
「違うよ。ちゃんと角度とスピードが揃ってる。観察してたんでしょ?」
ドクン。
小さく心臓が跳ねた。
たしかに私は――ただ言われた通りにやっていただけじゃない。
液面の揺れ方、膜の薄さ、泡の“息遣い”みたいなものを、じっと見つめていた。
「気配を読むのが上手いんだね、君は」
福地先生の声は、低くて静かで、それでいてまっすぐ届く。
「気配……」
「うん。誰よりも静かにそこにいるから、見えることもある。そういう人の観察って、案外いちばん鋭かったりするんだよ」
その言葉は、どこかくすぐったくて、でも不思議と心地よかった。
“そこにいるだけ”だと思っていた私に、ちゃんと意味があるなんて。
ビーカーの中で、泡がふわりとまた一つ、生まれた。
まるで、私の中の何かに応えてくれるように。
実験台の上、泡の膜がまたひとつ、ふわりと光を帯びて揺れた。
私は、夢中で目を凝らしていた。
揺らぎ。反射。色の動き。
小さな変化を見逃さないように、息を潜めて。
「……わたし、変でしょうか」
気づけば、ぽつりと声が漏れていた。
「ううん。たぶん、そういうのが“科学”なんだよ」
千紘先輩は、隣の席で同じように泡を観察している。
先輩の白衣の袖が、ほんの少しだけ私の腕に触れていた。
その温度に気づいた瞬間――心が少し、あたたかくなる。
やがて、部室にいた誰かが手を挙げた。
「泡の厚さを測ってみたんだけど、最初のデータと今で、差があるみたい」
それは、理屈で語られる科学の時間の始まりだった。
測定。比較。仮説。確認。
それぞれが真剣にノートを開き、目を細め、意見を交わす。
その熱量が、私にはまだ少し怖くて、でも――ほんの少し、うらやましかった。
「ゆらちゃん、さっきの泡、写真撮ってたよね?」
「うん……なんか、色の模様が綺麗だったから……」
差し出すスマートフォンの画面を、皆がのぞき込んだ。
「うわ、なにこれ……!」「やば……模様の流れ、見えるじゃん……」
驚きと感嘆が、予想外に広がっていく。
私は思わず、縮こまりそうになる。
でも、千紘先輩がぽん、と背中を押した。
「ね、気づいてたんだ。泡の厚さと光の干渉の関係」
「……なんとなく、色の動きが違うような気がして」
「それ、めっちゃ大事な“観察”だよ」
そう言って先輩は、真剣な顔で言葉を続けた。
「データも理論も大事だけど、その前に“気づく目”がないと、意味ないから」
気づく目。
私は、それを持っていたんだろうか。
ただ静かに見つめていただけの目が――科学に触れていたなんて、夢みたいだった。
その日の活動が終わったあと、私はノートを開いた。
白紙のページの上に、泡の模様を描く。
そっと書き込む。
「気づいたこと」
「まだ言葉にならない変化」
「たぶん正解じゃないけれど、でも確かに見えた何か」
書きながら、私はそっと笑った。
部室のドアは、まだちょっと重たいけれど。
今日、私はたしかに中にいた。
――科学部の中に、“わたし”という居場所が。
(第3話・完)