8月/最後の自由研
――前編――
八月の朝は、あいかわらずまぶしい。
それでも、あの頃の私たちには、もう「暑いから行きたくない」なんて言い訳は通じなかった。
中川ゆらと小日向ナナミ。
科学部の、最後の夏の自由研究。
私たちは、2人だけで参加することにした――市の中高生合同の「科学フェスティバル」での発表会。
「“眠らないクラゲ”の活動電位測定って、ちょっとインパクトありすぎないかな……」
「でも先生、『このテーマなら通る』って言ってたよ。……ナナミが言い出したんだから、最後までちゃんとやるよ?」
白衣を着て部室に並ぶ私たちは、ちょっとだけ緊張しながらも、真剣だった。
睡眠をとらないクラゲ――アウレリア種の微弱な神経反応を、どうにか測定する実験。
論文を何度も読み返し、先輩の実験ノートを漁り、ありあわせの機材で何とか再現しようとしていた。
「ゆらセンパイ、ここの接続、ミスってるかも」
「え、嘘……? あ、ほんとだ、ありがとう」
いつもはおっとりしていたナナミが、真剣な目つきで回路を見ている。
彼女のそんな表情を見るたび、ゆらは少しだけ、鼓動が早くなった。
(この子、ほんとに変わったな……)
でも、それはおそらく――
「変わった」のではなく、「変わろうとしている私」に、ナナミも同じように手を伸ばしてくれたからだ。
一緒に進んでくれる誰かがいるから、自分も前を向ける。
科学部で学んだ、いちばん大きなことだった。
そして、研究が進むにつれ、問題は山のように発生した。
「ナナミ、それじゃ誤差が大きすぎるよ。もうちょっと再現性がないと……」
「えっ、でも時間も材料もないし、これ以上どうすれば……」
「それは……それは、私だって……!」
言い合いになったのは、夕方の部室。
扇風機がぐるぐると、気まずい空気をかき混ぜていた。
お互いに責任感が強くなった分、妥協できなくなった。
「先輩だから」「後輩だから」と線を引いていたころのほうが、ずっと楽だったかもしれない。
沈黙が続いたあと、ナナミがぽつりとつぶやく。
「ねえ、センパイ……わたし、怒られてもいいから、最後まで一緒にいたいよ。
ゆらセンパイと、最後までやりたいの。うまくいかなくても、思い出にしたくないんだ」
ゆらは、はっと息を飲んだ。
(ああ、そうか――)
これは“自由研究”なんかじゃない。
私たちが、ようやく“本気”になった証だ。
彼女の目をまっすぐ見返して、ゆらは笑った。
「うん。じゃあ……思い出じゃなくて、“成果”にしよう」
「うんっ!」
もう言い訳なんて、必要なかった。
2人の白衣が、夕焼けに照らされてオレンジ色に染まっていた。
校内の発表会場。
理科室を模した特設ブースには、夏休み中の自由研究としてまとめたパネルが立てられていた。テーマは「雨水のpHと環境要因の相関」。思えば、ナナミが「酸性雨ってなんか響きがかっこいい」なんて不純な動機で選んだのがきっかけだった。
「……人多いですね、センパイ……」
ナナミが袖をきゅっと掴んでくる。ゆらはそっと頷いた。
「うん。でも、大丈夫だよ。私たち、ちゃんと準備してきたから」
直前までナナミとぶつかり合ったのが嘘のように、今は隣に立つその背中が頼もしかった。観察地点の選定、測定方法の統一、グラフの作成、そして結論の導き方――思い出せば、意見がすれ違って夜遅くまで部室で議論した日もあった。
「では、次は中川さんと橘さんの発表です」
司会の先生の声に促され、ふたりは前に出る。スライドには、ふたりでまとめた調査の概要が映し出されていた。
「私たちは、雨水のpHが環境の違いによってどう変化するかを調べました……」
ゆらが口火を切り、ナナミがデータを補足する。最初は震えていたナナミの声も、やがて自然な調子を取り戻していく。
「……それから、ゆら先輩が言ってたんです。科学って、“楽しい”って思える気持ちが、いちばん大事だって。私も、この研究を通じて、そう思えるようになりました」
その言葉に、思わず視線が合う。
ナナミの目がまっすぐだった。
ゆらは少しだけ、微笑み返す。
発表が終わったとき、会場に拍手が広がった。先生方だけでなく、他の部の生徒たちからも声がかかる。
「わかりやすかったよ!」
「データのまとめ方、すごく丁寧だったね!」
ナナミはきょとんとしたあと、ぱっと笑顔になった。
「センパイ、なんか、ちょっと泣きそう……」
「それは私のセリフだよ……」
ゆらは苦笑しながら、ナナミの肩をそっと叩いた。
ふたりで作った研究。
ふたりでぶつかって、悩んで、それでも伝えきった。
最後の夏。
最後の自由研究。
きっと、これから先も忘れない。
「来年のナナミにも、頑張ってもらわなきゃね」
「え、来年もやるんですか!?」
「もちろん。科学部の伝統にしちゃおうか」
夕陽が会場の窓をオレンジ色に染めていた。
ひとつの夏が、静かに終わろうとしていた。




