引き出しに眠る志望理由書
七月の風が、窓の隙間からふわりと吹き抜けた。
その風に誘われるように、私は机の引き出しをゆっくりと開けた。
中には、いつかの自分が書いたままの紙が、一枚。
「志望理由書」とタイトルの入ったそれは、今の私にとって、少しだけ重たい存在だった。
──大学か、就職か。
担任の先生が配った進路希望調査票には、どちらかに○をつける欄があった。
でも、私はまだ、どちらにも○をつけられていなかった。
「……どうしようかな、私」
ふと、言葉がこぼれた。
私の未来を決めるための選択肢が、まるで無限にあるようで、実際にはどこにも進めないような気がしていた。
科学が好き。
その気持ちは、今でも胸の真ん中にある。
でも、だからといって、研究者になれるかといえば自信はないし、教員になるには向いてなさそうだし──
そもそも、向いてる向いてない以前に、「なにをやりたいか」が、はっきり見えないのだ。
私が引き出しの紙を見つめていると、ふいに背後から声がかかった。
「悩んでるなぁって顔、してるな」
振り向くと、そこには理科準備室の白衣姿、結城先生がいた。
ちょうど実験器具の整理に来たところだったらしい。
「進路のこと、ですか?」
私は小さく頷いた。
先生はそれを見ると、ふっと笑った。
「悩んでるってことは、ちゃんと考えてる証拠だ。逃げてないってことだよ」
「でも……考えれば考えるほど、よくわからなくなって」
「“好きなこと”を軸にして考えるのが、いいよ」
結城先生は、そう言って理科室の机に腰を下ろした。
「好きなこと」とは、あまりにも当たり前すぎて、逆に見えなくなっていた言葉だった。
「先輩。……中川、お前、科学好きだろ?」
先生の問いかけに、私は少しだけ迷って、でも、はっきりと頷いた。
「……はい。たぶん、いえ、やっぱり……好きです」
すると先生は、手元のガラスビーカーを指差してこう言った。
「俺が理科の教師になったのは、科学そのものも好きだけど、それ以上に“楽しさを伝えるのが楽しかった”からだな」
「楽しさを……伝える?」
「そう。中川にも、そんな一面あると思うよ」
「私に……?」
「あるさ。お前、科学部の後輩によく教えてるだろ。あれ、楽しそうじゃないか」
言われてみれば、ナナミに教えているとき、私はいつも自然に言葉が出ていた。
難しいことも、例え話にして伝えたくなる。
わからなかったことを、わかってもらえた瞬間──あの嬉しさ。
「……あ、もしかして、私……」
胸の奥で、何かが小さく弾けた。
それは、進路調査票の○よりもはるかに輪郭がはっきりした、自分の“想い”のようだった。
──“科学の楽しさを、誰かに伝える人になりたい”
「先生、ありがとうございます。ちょっとだけ……見えた気がします」
「よかった。じゃあ、迷ったときは、また相談に来いよ」
そう言って去っていく先生の背中が、いつもより少しだけ頼もしく見えた。
私は再び机に戻ると、引き出しから「志望理由書」を取り出す。
まだ書きかけのその紙に、新しいインクで、一行目を書き直した。
『私は、科学の楽しさを伝えられる人になりたい』
窓の外、夏の青空が少しずつ姿を見せ始めていた。
放課後の教室。誰もいない空間に、時計の針の音だけが響く。
中川ゆらは引き出しに手をかけて、そっと一枚の紙を取り出した。
半年前に書きかけて、途中でやめたままになっていた志望理由書。
あのときは、「なんとなく科学が好きです」としか書けなかった。
(でも、いまの私は……)
ゆらは天井を仰いだ。
科学部で過ごした日々、先輩としての経験、ナナミと交わした言葉、伊織先輩の背中、結城先生のひと言。
すべてが積み重なって、ひとつの答えを導き出した気がした。
「――“伝える人”になりたいんです」
数日前、進路相談でそう口にしたとき、結城先生は驚いたように目を見開き、すぐに優しく頷いた。
「いいじゃないか、中川さん。君みたいに、相手のペースを大切にできる人こそ、教育に向いているよ」
その言葉が、ゆらの心の奥に火を灯した。
目の前の紙に視線を戻す。
ペンを握る手が少し震えたが、彼女は深呼吸してから、迷いなく文字を綴り始めた。
「私は、科学の“楽しさ”を知っています。
それは知識の積み重ねではなく、誰かと一緒に“発見”し、“感動”を共有することだと。
私はそれを、科学部で学びました。」
言葉があふれた。
千紘先輩がくれた実験ノート、ナナミの無邪気な笑顔、玲音との口論、伊織との静かな時間。
それらすべてが、自分の未来に向けて手を振ってくれているように思えた。
(私が好きなのは、「答え」じゃない。「わからない」を一緒に見つめてくれる誰かと出会える時間だ)
最後の一文を書き終えたとき、ゆらの瞳には涙がにじんでいた。
けれどそれは、不安ではなく、温かな確信に近いものだった。
カーテンが風に揺れ、机の上に夕日が差し込む。
ゆらはペンを置き、志望理由書をゆっくり折りたたんだ。
それはもう、過去の自分から逃げるための紙ではない。
これからの自分に向けた、ひとつの宣言だった。




