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『中川ゆらと科学部の36か月』 ――わたしを変えたのは、たぶん、科学と、あなたたち。  作者: 南蛇井


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引き出しに眠る志望理由書

七月の風が、窓の隙間からふわりと吹き抜けた。

その風に誘われるように、私は机の引き出しをゆっくりと開けた。


中には、いつかの自分が書いたままの紙が、一枚。

「志望理由書」とタイトルの入ったそれは、今の私にとって、少しだけ重たい存在だった。


──大学か、就職か。


担任の先生が配った進路希望調査票には、どちらかに○をつける欄があった。

でも、私はまだ、どちらにも○をつけられていなかった。


「……どうしようかな、私」


ふと、言葉がこぼれた。

私の未来を決めるための選択肢が、まるで無限にあるようで、実際にはどこにも進めないような気がしていた。


科学が好き。

その気持ちは、今でも胸の真ん中にある。

でも、だからといって、研究者になれるかといえば自信はないし、教員になるには向いてなさそうだし──

そもそも、向いてる向いてない以前に、「なにをやりたいか」が、はっきり見えないのだ。


私が引き出しの紙を見つめていると、ふいに背後から声がかかった。


「悩んでるなぁって顔、してるな」


振り向くと、そこには理科準備室の白衣姿、結城先生がいた。

ちょうど実験器具の整理に来たところだったらしい。


「進路のこと、ですか?」


私は小さく頷いた。

先生はそれを見ると、ふっと笑った。


「悩んでるってことは、ちゃんと考えてる証拠だ。逃げてないってことだよ」


「でも……考えれば考えるほど、よくわからなくなって」


「“好きなこと”を軸にして考えるのが、いいよ」


結城先生は、そう言って理科室の机に腰を下ろした。

「好きなこと」とは、あまりにも当たり前すぎて、逆に見えなくなっていた言葉だった。


「先輩。……中川、お前、科学好きだろ?」


先生の問いかけに、私は少しだけ迷って、でも、はっきりと頷いた。


「……はい。たぶん、いえ、やっぱり……好きです」


すると先生は、手元のガラスビーカーを指差してこう言った。


「俺が理科の教師になったのは、科学そのものも好きだけど、それ以上に“楽しさを伝えるのが楽しかった”からだな」


「楽しさを……伝える?」


「そう。中川にも、そんな一面あると思うよ」


「私に……?」


「あるさ。お前、科学部の後輩によく教えてるだろ。あれ、楽しそうじゃないか」


言われてみれば、ナナミに教えているとき、私はいつも自然に言葉が出ていた。

難しいことも、例え話にして伝えたくなる。

わからなかったことを、わかってもらえた瞬間──あの嬉しさ。


「……あ、もしかして、私……」


胸の奥で、何かが小さく弾けた。

それは、進路調査票の○よりもはるかに輪郭がはっきりした、自分の“想い”のようだった。


──“科学の楽しさを、誰かに伝える人になりたい”


「先生、ありがとうございます。ちょっとだけ……見えた気がします」


「よかった。じゃあ、迷ったときは、また相談に来いよ」


そう言って去っていく先生の背中が、いつもより少しだけ頼もしく見えた。


私は再び机に戻ると、引き出しから「志望理由書」を取り出す。

まだ書きかけのその紙に、新しいインクで、一行目を書き直した。


『私は、科学の楽しさを伝えられる人になりたい』


窓の外、夏の青空が少しずつ姿を見せ始めていた。


放課後の教室。誰もいない空間に、時計の針の音だけが響く。

中川ゆらは引き出しに手をかけて、そっと一枚の紙を取り出した。

半年前に書きかけて、途中でやめたままになっていた志望理由書。

あのときは、「なんとなく科学が好きです」としか書けなかった。


(でも、いまの私は……)

ゆらは天井を仰いだ。

科学部で過ごした日々、先輩としての経験、ナナミと交わした言葉、伊織先輩の背中、結城先生のひと言。

すべてが積み重なって、ひとつの答えを導き出した気がした。


「――“伝える人”になりたいんです」


数日前、進路相談でそう口にしたとき、結城先生は驚いたように目を見開き、すぐに優しく頷いた。


「いいじゃないか、中川さん。君みたいに、相手のペースを大切にできる人こそ、教育に向いているよ」


その言葉が、ゆらの心の奥に火を灯した。


目の前の紙に視線を戻す。

ペンを握る手が少し震えたが、彼女は深呼吸してから、迷いなく文字を綴り始めた。


「私は、科学の“楽しさ”を知っています。

 それは知識の積み重ねではなく、誰かと一緒に“発見”し、“感動”を共有することだと。

 私はそれを、科学部で学びました。」


言葉があふれた。

千紘先輩がくれた実験ノート、ナナミの無邪気な笑顔、玲音との口論、伊織との静かな時間。

それらすべてが、自分の未来に向けて手を振ってくれているように思えた。


(私が好きなのは、「答え」じゃない。「わからない」を一緒に見つめてくれる誰かと出会える時間だ)


最後の一文を書き終えたとき、ゆらの瞳には涙がにじんでいた。

けれどそれは、不安ではなく、温かな確信に近いものだった。


カーテンが風に揺れ、机の上に夕日が差し込む。


ゆらはペンを置き、志望理由書をゆっくり折りたたんだ。

それはもう、過去の自分から逃げるための紙ではない。

これからの自分に向けた、ひとつの宣言だった。




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