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『中川ゆらと科学部の36か月』 ――わたしを変えたのは、たぶん、科学と、あなたたち。  作者: 南蛇井


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透明な雨と、心の変化式

六月。梅雨の雨は、朝からしとしとと静かに降り続けていた。


観察対象としては最適──とはいえ、校舎裏の雨水計測スペースにしゃがみこんで、しずくが落ちるのをじっと見つめるこの時間は、なんだか少し、不思議な静けさに包まれていた。


「……降水量、1時間で0.3ミリですね」

「うん、観測記録、お願い」


私はメモを取りながら、隣にいるナナミの横顔を盗み見た。半透明のレインコートのフードの下、彼女の頬は少しだけ赤い。


去年の今ごろ、私は一人でこの作業をしていた。部長に任された観察実験。黙々とデータだけを集める毎日。雨粒の意味なんて考える余裕もなかった。


でも今年は──


「ゆら先輩、雨粒って……なんか、生きてるみたいですね」

「……え?」


ナナミが、空を見上げた。レインコートのフード越しに、やわらかい笑みを浮かべて。


「なんていうか、風で揺れたり、地面に当たったり、消えたりして……でも、全部、同じじゃないんだなって。ひと粒ひと粒、違うんですね」


私は返事ができなかった。

ナナミの言葉が、そっと胸の奥に染みこんでいく。


科学部の実験なんて、正確で、無機質で、論理的で。感情なんか、邪魔になると思っていた。


でも今は──

彼女の口から出てくる「観察」は、どこかやさしくて、温かい。


「……変わったなぁ、ナナミ」

「え?」


「去年の私より、ずっと、すごいよ」


ナナミは、ふいに照れたように笑った。そして、小さな声で言った。


「だって……科学って、楽しいんですもん」


私は、思わず空を見上げた。


曇り空。灰色の雲。その隙間から、ふと差し込んだ光。


それが、どうしてか、涙のように見えた。



ナナミの「科学って、楽しいんですもん」という言葉が、頭の中で何度も何度も反響していた。


その笑顔は、曇り空の下でもまるで太陽みたいで、私はしばらく目をそらすことができなかった。


──それは、私がかつて忘れてしまっていたものだった。


科学が、好きだという気持ち。

なぜ実験にのめり込んでいたのか、なぜあんなにノートを埋めていたのか。

ナナミはそれを、ただ「楽しいから」と言ってくれる。


私は彼女に教えていたつもりだったのに、気がつけば、教わってばかりだった。


「……なんだろう、私」

思わず漏れた言葉は、自分でも驚くくらいかすれていた。


ナナミがこちらを振り返る。

彼女の視線に気づいた私は、慌てて顔をそむけた。


けれど、それでも──

頬を伝う、温かくてちょっと塩っぱい雫を、止めることはできなかった。


「先輩……? どうしたんですか?」


ナナミの声が、近づいてくる。

静かな雨音の中で、その足音だけが、確かに、私のほうへ向かっていた。


「……ごめん、ナナミ。なんでもないの。ちょっと、涙腺が雨に反応しただけ」


「えっ、そんな化学反応あるんですか?」


「あるの。たぶん、感情由来の、自律神経系変化式──略して“心の変化式”ってところ」


苦し紛れの屁理屈に、ナナミが小さく吹き出す。

「なにそれ、先輩らしすぎる」


そして、何のためらいもなく、彼女は私の手を取った。


「でも……その式、わたしも、ちょっと体験したことあるかもしれません」


「え?」


「先輩と一緒にいると、よく起こるんです。“なんだかわからないけど、心が温かくなる現象”っていうやつ」


私はもう、何も言えなかった。

ただ、雨の中で彼女と手を繋いで立っていることしか、できなかった。


──雨は、確かに降っていた。

でも、どこか透明で、静かで、優しい雨だった。


そして私は、その日ようやく気づいたのだった。


科学って、きっと──

“誰かと分かち合えるからこそ、楽しい”んだって。





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