透明な雨と、心の変化式
六月。梅雨の雨は、朝からしとしとと静かに降り続けていた。
観察対象としては最適──とはいえ、校舎裏の雨水計測スペースにしゃがみこんで、しずくが落ちるのをじっと見つめるこの時間は、なんだか少し、不思議な静けさに包まれていた。
「……降水量、1時間で0.3ミリですね」
「うん、観測記録、お願い」
私はメモを取りながら、隣にいるナナミの横顔を盗み見た。半透明のレインコートのフードの下、彼女の頬は少しだけ赤い。
去年の今ごろ、私は一人でこの作業をしていた。部長に任された観察実験。黙々とデータだけを集める毎日。雨粒の意味なんて考える余裕もなかった。
でも今年は──
「ゆら先輩、雨粒って……なんか、生きてるみたいですね」
「……え?」
ナナミが、空を見上げた。レインコートのフード越しに、やわらかい笑みを浮かべて。
「なんていうか、風で揺れたり、地面に当たったり、消えたりして……でも、全部、同じじゃないんだなって。ひと粒ひと粒、違うんですね」
私は返事ができなかった。
ナナミの言葉が、そっと胸の奥に染みこんでいく。
科学部の実験なんて、正確で、無機質で、論理的で。感情なんか、邪魔になると思っていた。
でも今は──
彼女の口から出てくる「観察」は、どこかやさしくて、温かい。
「……変わったなぁ、ナナミ」
「え?」
「去年の私より、ずっと、すごいよ」
ナナミは、ふいに照れたように笑った。そして、小さな声で言った。
「だって……科学って、楽しいんですもん」
私は、思わず空を見上げた。
曇り空。灰色の雲。その隙間から、ふと差し込んだ光。
それが、どうしてか、涙のように見えた。
ナナミの「科学って、楽しいんですもん」という言葉が、頭の中で何度も何度も反響していた。
その笑顔は、曇り空の下でもまるで太陽みたいで、私はしばらく目をそらすことができなかった。
──それは、私がかつて忘れてしまっていたものだった。
科学が、好きだという気持ち。
なぜ実験にのめり込んでいたのか、なぜあんなにノートを埋めていたのか。
ナナミはそれを、ただ「楽しいから」と言ってくれる。
私は彼女に教えていたつもりだったのに、気がつけば、教わってばかりだった。
「……なんだろう、私」
思わず漏れた言葉は、自分でも驚くくらいかすれていた。
ナナミがこちらを振り返る。
彼女の視線に気づいた私は、慌てて顔をそむけた。
けれど、それでも──
頬を伝う、温かくてちょっと塩っぱい雫を、止めることはできなかった。
「先輩……? どうしたんですか?」
ナナミの声が、近づいてくる。
静かな雨音の中で、その足音だけが、確かに、私のほうへ向かっていた。
「……ごめん、ナナミ。なんでもないの。ちょっと、涙腺が雨に反応しただけ」
「えっ、そんな化学反応あるんですか?」
「あるの。たぶん、感情由来の、自律神経系変化式──略して“心の変化式”ってところ」
苦し紛れの屁理屈に、ナナミが小さく吹き出す。
「なにそれ、先輩らしすぎる」
そして、何のためらいもなく、彼女は私の手を取った。
「でも……その式、わたしも、ちょっと体験したことあるかもしれません」
「え?」
「先輩と一緒にいると、よく起こるんです。“なんだかわからないけど、心が温かくなる現象”っていうやつ」
私はもう、何も言えなかった。
ただ、雨の中で彼女と手を繋いで立っていることしか、できなかった。
──雨は、確かに降っていた。
でも、どこか透明で、静かで、優しい雨だった。
そして私は、その日ようやく気づいたのだった。
科学って、きっと──
“誰かと分かち合えるからこそ、楽しい”んだって。




