「わたしは白衣を着た先輩」
放課後の理科室には、消え残る日差しが窓辺に沈んでいた。青白い蛍光灯と自然光の境界に、白衣の裾がふわりと揺れる。
「えっと……それで、先輩、ここに加えるのって、この液体ですよね……?」
ナナミが差し出したスポイトの先で揺れていたのは、無色透明の試薬。ラベルには「希硫酸」と書かれていた。
「あ、それは……ちょっと待って」
私はそっとナナミの手元をのぞき込み、手元の手順書をもう一度確認した。
「この工程では、希硫酸じゃなくて、炭酸水素ナトリウム液を使うみたい。ラベルが似てるから間違えやすいんだよね」
「あっ、ほんとだ……! ごめんなさいっ!」
ナナミは顔を真っ赤にしてスポイトを引っ込め、あわてて別の瓶を手に取った。
私はそっと笑った。どこか、あのころの自分に重なる。
去年の今ごろ、千紘先輩の隣で、私もこんなふうに慌てていた気がする。
「大丈夫だよ。ラベルの見間違いなんて、誰だってあるし。私なんて、間違えて硝酸を氷にかけたことあるよ」
「えっ、それって危なくないですか……?」
「うん、めっちゃ怒られた。でも、そのあと先輩がこっそりドーナツ買ってくれた」
「ええ〜、ずるいです……」
ナナミが小さく笑う。私はちょっと胸を張って、白衣の裾を整えた。
「ナナミちゃんは、落ち着いてる方だと思うよ。よく見てるし、丁寧にやってるし」
「……先輩にそう言ってもらえると、ちょっと嬉しいです」
透明なビーカーの中に、反応液が静かに満ちていく。泡の一つ一つが、ゆっくりと目に見える変化へとつながっていく。
ふと私は、自分の手元を見た。
白衣の袖口に、ちいさなインクの染みがある。たぶん去年、伊織がくれたノートにメモしたときについたやつ。
それを見て、私はそっと笑う。
あのころの私が、ここにいて。今は、先輩になった私がここにいる。
「次は、加熱の工程だね。バーナーの火加減、一緒に見ようか」
「はいっ!」
ナナミの声が、少しだけ大きくなる。
ゆらぐ炎の前で、白衣を着た私たちが、ひとつの実験に向き合っていた。
実験机の上で静かに泡立つビーカーを見つめながら、ナナミは肩を落としていた。失敗したのは、ほんの少しのタイミングのズレ。だけど、彼女の中ではそれがすべてだった。
「……ごめんなさい、ゆら先輩」
うつむいたまま、か細い声でそう言うナナミを見て、私はゆっくりと笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。私も去年、同じように失敗したから」
ナナミが顔を上げる。驚いたような、ほっとしたような顔。
「ほんとに?」
「ほんと。しかも私は、この実験、三回やり直したよ。泡が天井にまで飛んじゃったときもあった」
「……それは、すごいです」
ナナミの肩が少し緩んだ。私はそっと手を伸ばして、彼女の手に触れた。
「実験って、失敗しても、それが次につながるんだよ。ナナミがここまで準備してくれたから、私たち、たくさん学べたよ」
「……でも、私、先輩みたいに堂々としていられないです」
私はふっと笑った。
「私も昔はナナミと同じだったよ。声をかけるのも怖くて、実験中に泣きそうになって。……でもね、こうやって少しずつでいいから、前に進めば、それだけで十分だよ」
ナナミの目が、すこし潤んだように見えた。
「……はい」
やがて、ビーカーの中で泡が静かに消えていく。私たちはもう一度、薬品を量り直し、慎重に手順をなぞっていった。
ナナミの手はまだ少し震えていたけれど、それでも、彼女の目にはもう諦めの色はなかった。
──後輩に「大丈夫」と言えるようになった私。
少し照れくさくなって、そっと白衣の裾を握った。
私は今、確かに「白衣を着た先輩」になっているんだ。




