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『中川ゆらと科学部の36か月』 ――わたしを変えたのは、たぶん、科学と、あなたたち。  作者: 南蛇井


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「わたしは白衣を着た先輩」

 放課後の理科室には、消え残る日差しが窓辺に沈んでいた。青白い蛍光灯と自然光の境界に、白衣の裾がふわりと揺れる。


「えっと……それで、先輩、ここに加えるのって、この液体ですよね……?」


 ナナミが差し出したスポイトの先で揺れていたのは、無色透明の試薬。ラベルには「希硫酸」と書かれていた。


「あ、それは……ちょっと待って」


 私はそっとナナミの手元をのぞき込み、手元の手順書をもう一度確認した。


「この工程では、希硫酸じゃなくて、炭酸水素ナトリウム液を使うみたい。ラベルが似てるから間違えやすいんだよね」


「あっ、ほんとだ……! ごめんなさいっ!」


 ナナミは顔を真っ赤にしてスポイトを引っ込め、あわてて別の瓶を手に取った。


 私はそっと笑った。どこか、あのころの自分に重なる。


 去年の今ごろ、千紘先輩の隣で、私もこんなふうに慌てていた気がする。


「大丈夫だよ。ラベルの見間違いなんて、誰だってあるし。私なんて、間違えて硝酸を氷にかけたことあるよ」


「えっ、それって危なくないですか……?」


「うん、めっちゃ怒られた。でも、そのあと先輩がこっそりドーナツ買ってくれた」


「ええ〜、ずるいです……」


 ナナミが小さく笑う。私はちょっと胸を張って、白衣の裾を整えた。


「ナナミちゃんは、落ち着いてる方だと思うよ。よく見てるし、丁寧にやってるし」


「……先輩にそう言ってもらえると、ちょっと嬉しいです」


 透明なビーカーの中に、反応液が静かに満ちていく。泡の一つ一つが、ゆっくりと目に見える変化へとつながっていく。


 ふと私は、自分の手元を見た。


 白衣の袖口に、ちいさなインクの染みがある。たぶん去年、伊織がくれたノートにメモしたときについたやつ。


 それを見て、私はそっと笑う。


 あのころの私が、ここにいて。今は、先輩になった私がここにいる。


「次は、加熱の工程だね。バーナーの火加減、一緒に見ようか」


「はいっ!」


 ナナミの声が、少しだけ大きくなる。


 ゆらぐ炎の前で、白衣を着た私たちが、ひとつの実験に向き合っていた。



実験机の上で静かに泡立つビーカーを見つめながら、ナナミは肩を落としていた。失敗したのは、ほんの少しのタイミングのズレ。だけど、彼女の中ではそれがすべてだった。


「……ごめんなさい、ゆら先輩」


うつむいたまま、か細い声でそう言うナナミを見て、私はゆっくりと笑みを浮かべた。


「大丈夫だよ。私も去年、同じように失敗したから」


ナナミが顔を上げる。驚いたような、ほっとしたような顔。


「ほんとに?」


「ほんと。しかも私は、この実験、三回やり直したよ。泡が天井にまで飛んじゃったときもあった」


「……それは、すごいです」


ナナミの肩が少し緩んだ。私はそっと手を伸ばして、彼女の手に触れた。


「実験って、失敗しても、それが次につながるんだよ。ナナミがここまで準備してくれたから、私たち、たくさん学べたよ」


「……でも、私、先輩みたいに堂々としていられないです」


私はふっと笑った。


「私も昔はナナミと同じだったよ。声をかけるのも怖くて、実験中に泣きそうになって。……でもね、こうやって少しずつでいいから、前に進めば、それだけで十分だよ」


ナナミの目が、すこし潤んだように見えた。


「……はい」


やがて、ビーカーの中で泡が静かに消えていく。私たちはもう一度、薬品を量り直し、慎重に手順をなぞっていった。


ナナミの手はまだ少し震えていたけれど、それでも、彼女の目にはもう諦めの色はなかった。


──後輩に「大丈夫」と言えるようになった私。


少し照れくさくなって、そっと白衣の裾を握った。


私は今、確かに「白衣を着た先輩」になっているんだ。



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