あのころの私が、ここにいる
四月の風は、少しだけ肌寒くて、それでもどこか甘やかだ。新しい制服に身を包んだ一年生たちの群れが、校門を抜けてゆく。
私は、その流れを校舎の窓から見下ろしていた。肩にかかる髪が春風に揺れ、小さな光の粒が頬をかすめていく。
「……始まるんだな、また今年も」
独り言のように呟いてから、科学準備室に向かう。今日は、新入部員の見学初日。つまり、「部活紹介」という大イベントが待ち構えているのだった。
科学部は、相変わらず地味で、控えめで、ちょっとだけマニアックな香りがする。でも私は、そんな空間が好きだった。
教室に入ると、澄がすでに実験装置の準備をしていて、如月はスライドの最終チェックをしている。
「おはよ、ゆら先輩! 今日、絶対うまくいきますよ!」
元気いっぱいな如月の声に、自然と笑みがこぼれる。いつの間にか、「先輩」と呼ばれることに慣れてしまった自分が、少しだけ不思議だった。
「ありがとう。如月も準備、ばっちり?」
「もちろんです!」
その明るさに救われるように、私は自分の手元を見つめる。去年の今ごろ、あの席で黙って見学していたのは、間違いなく私だった。
何も話せなくて、ただ実験の様子を見ているだけだった私。そんな私に、千紘先輩が優しく話しかけてくれた。
「好きなこと、ここで見つけていけばいいよ」
その言葉は、今も私の胸の奥に、柔らかく灯り続けている。
だから、今度は私が、その灯りを渡す番だ。
放課後、部活紹介が始まった。
教室の前に立ち、簡単な説明とスライドを用いて、科学部の活動を紹介していく。如月が明るく笑いながら盛り上げ、澄がクールに実験装置を操作し、私は――ちょっとだけ、緊張しながらも、真っ直ぐに言葉を届けた。
「……科学って、最初は難しそうに見えるかもしれないけど、誰かと一緒にやってみると、少しずつ楽しくなってくるものなんです。私も、そうやって、ここにいます」
目の前の一年生たちが、静かにこちらを見ている。その中に、ひとり、うつむきがちな女の子がいた。
小柄で、髪の毛が頬を隠すように垂れていて――その姿は、まるで一年前の私のようだった。
部活紹介が終わり、ざわめきが少し落ち着いた頃。
私は、そっとその子の近くに歩み寄った。
「……あの、よかったら、見学していかない?」
びくっと肩を揺らして、その子が顔を上げた。
驚いたような、でも少しだけ安心したような瞳で、彼女は私を見た。
そして、ほんの少しだけ、頷いた。
――あのころの私が、ここにいる。
でも、今の私は、もう少しだけ前を向ける。
この春風の中、誰かの背中を、そっと押すことだってできる。
あのころの私が、ここにいる
新歓イベントが終わったあとの部室は、にぎやかだった空気がすっかり落ち着いて、静けさを取り戻していた。
ゆらは、そっと椅子に腰かけ、部室の隅に置かれたホワイトボードを見つめた。そこには、新入部員たちの名前がマーカーで書き込まれている。
「ナナミちゃん、か……」
ひときわ細い字で書かれたその名前を見て、ゆらは少し微笑んだ。
彼女の姿は、あのころの自分そっくりだった。ぎこちない笑顔、人の輪に入ることを躊躇う様子、でも、興味と好奇心を隠しきれない瞳――。
ゆらも、あんなふうにしてこの部室に立っていた。いや、もっと固まっていたかもしれない。視線を合わせるのも怖くて、話しかけられると心臓が跳ね上がった。
そのとき、部室のドアがそっと開いた。
「……あの、先輩?」
ナナミが、おそるおそる顔をのぞかせていた。
「あ、ナナミちゃん。まだ帰ってなかったんだ」
「はい、ちょっと……、部室、見に来てみたくて」
彼女はもじもじと立ち尽くしていたが、ゆらが椅子を引いて笑顔で言った。
「ここ、座ってみる?」
「……いいんですか?」
「うん。最初は緊張するよね。私も、すごくそうだったから」
ナナミは驚いたように目を見開いた。
「先輩が、ですか?」
「うん。最初、声出すのにも勇気がいったよ。質問ひとつするのにも、何度も言葉を頭の中で繰り返してた。……でも、だんだん、それが楽しくなってきたの。ここで、科学のことを一緒に考えるのが」
ナナミは静かに頷いた。
「私も……なんか、楽しそうだなって思ったんです。みんなが笑ってて、先輩がすごく、楽しそうにしてて」
その言葉に、ゆらの胸がふわりと温かくなった。
「あのね、ナナミちゃん。わからないことがあったら、なんでも聞いてね。私でよければ、いっぱい話そう」
「……はいっ」
ナナミの顔に、小さな笑顔が咲いた。
そしてその瞬間、ゆらは確かに思ったのだった。
――あのころの私が、いまここにいる。でも、もう一人じゃない。
この部室で得たもの。この部活で育ててもらったもの。
いま、誰かに返せる番がきたんだ。
ゆらはホワイトボードの自分の名前の隣に、小さくこう書き足した。
「科学部・副部長」
その文字は、少しだけ震えていたけれど、確かに、彼女自身の手で書かれたものだった。




