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『中川ゆらと科学部の36か月』 ――わたしを変えたのは、たぶん、科学と、あなたたち。  作者: 南蛇井


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あのころの私が、ここにいる

四月の風は、少しだけ肌寒くて、それでもどこか甘やかだ。新しい制服に身を包んだ一年生たちの群れが、校門を抜けてゆく。


 私は、その流れを校舎の窓から見下ろしていた。肩にかかる髪が春風に揺れ、小さな光の粒が頬をかすめていく。


「……始まるんだな、また今年も」


 独り言のように呟いてから、科学準備室に向かう。今日は、新入部員の見学初日。つまり、「部活紹介」という大イベントが待ち構えているのだった。


 科学部は、相変わらず地味で、控えめで、ちょっとだけマニアックな香りがする。でも私は、そんな空間が好きだった。


 教室に入ると、澄がすでに実験装置の準備をしていて、如月はスライドの最終チェックをしている。


「おはよ、ゆら先輩! 今日、絶対うまくいきますよ!」


 元気いっぱいな如月の声に、自然と笑みがこぼれる。いつの間にか、「先輩」と呼ばれることに慣れてしまった自分が、少しだけ不思議だった。


「ありがとう。如月も準備、ばっちり?」


「もちろんです!」


 その明るさに救われるように、私は自分の手元を見つめる。去年の今ごろ、あの席で黙って見学していたのは、間違いなく私だった。


 何も話せなくて、ただ実験の様子を見ているだけだった私。そんな私に、千紘先輩が優しく話しかけてくれた。


「好きなこと、ここで見つけていけばいいよ」


 その言葉は、今も私の胸の奥に、柔らかく灯り続けている。


 だから、今度は私が、その灯りを渡す番だ。


 放課後、部活紹介が始まった。


 教室の前に立ち、簡単な説明とスライドを用いて、科学部の活動を紹介していく。如月が明るく笑いながら盛り上げ、澄がクールに実験装置を操作し、私は――ちょっとだけ、緊張しながらも、真っ直ぐに言葉を届けた。


「……科学って、最初は難しそうに見えるかもしれないけど、誰かと一緒にやってみると、少しずつ楽しくなってくるものなんです。私も、そうやって、ここにいます」


 目の前の一年生たちが、静かにこちらを見ている。その中に、ひとり、うつむきがちな女の子がいた。


 小柄で、髪の毛が頬を隠すように垂れていて――その姿は、まるで一年前の私のようだった。


 部活紹介が終わり、ざわめきが少し落ち着いた頃。


 私は、そっとその子の近くに歩み寄った。


「……あの、よかったら、見学していかない?」


 びくっと肩を揺らして、その子が顔を上げた。


 驚いたような、でも少しだけ安心したような瞳で、彼女は私を見た。


 そして、ほんの少しだけ、頷いた。


 ――あのころの私が、ここにいる。


 でも、今の私は、もう少しだけ前を向ける。


 この春風の中、誰かの背中を、そっと押すことだってできる。


あのころの私が、ここにいる


新歓イベントが終わったあとの部室は、にぎやかだった空気がすっかり落ち着いて、静けさを取り戻していた。


ゆらは、そっと椅子に腰かけ、部室の隅に置かれたホワイトボードを見つめた。そこには、新入部員たちの名前がマーカーで書き込まれている。


「ナナミちゃん、か……」


ひときわ細い字で書かれたその名前を見て、ゆらは少し微笑んだ。


彼女の姿は、あのころの自分そっくりだった。ぎこちない笑顔、人の輪に入ることを躊躇う様子、でも、興味と好奇心を隠しきれない瞳――。


ゆらも、あんなふうにしてこの部室に立っていた。いや、もっと固まっていたかもしれない。視線を合わせるのも怖くて、話しかけられると心臓が跳ね上がった。


そのとき、部室のドアがそっと開いた。


「……あの、先輩?」


ナナミが、おそるおそる顔をのぞかせていた。


「あ、ナナミちゃん。まだ帰ってなかったんだ」


「はい、ちょっと……、部室、見に来てみたくて」


彼女はもじもじと立ち尽くしていたが、ゆらが椅子を引いて笑顔で言った。


「ここ、座ってみる?」


「……いいんですか?」


「うん。最初は緊張するよね。私も、すごくそうだったから」


ナナミは驚いたように目を見開いた。


「先輩が、ですか?」


「うん。最初、声出すのにも勇気がいったよ。質問ひとつするのにも、何度も言葉を頭の中で繰り返してた。……でも、だんだん、それが楽しくなってきたの。ここで、科学のことを一緒に考えるのが」


ナナミは静かに頷いた。


「私も……なんか、楽しそうだなって思ったんです。みんなが笑ってて、先輩がすごく、楽しそうにしてて」


その言葉に、ゆらの胸がふわりと温かくなった。


「あのね、ナナミちゃん。わからないことがあったら、なんでも聞いてね。私でよければ、いっぱい話そう」


「……はいっ」


ナナミの顔に、小さな笑顔が咲いた。


そしてその瞬間、ゆらは確かに思ったのだった。


――あのころの私が、いまここにいる。でも、もう一人じゃない。


この部室で得たもの。この部活で育ててもらったもの。


いま、誰かに返せる番がきたんだ。


ゆらはホワイトボードの自分の名前の隣に、小さくこう書き足した。


「科学部・副部長」


その文字は、少しだけ震えていたけれど、確かに、彼女自身の手で書かれたものだった。


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