わったね、と言われた
──三月。春の気配と別れの季節が、部室の空気を少しずつ変えていく。
「これで、よし……かな」
中川ゆらは、手に持ったホチキスをカチリと鳴らし、冊子の最後の一部を綴じた。
春の成果発表会が終わった後、科学部では毎年恒例となっている「一年の活動報告冊子」の編集が進められていた。
長机の上には印刷された紙の束。A4サイズのそれには、今年度の実験記録、写真、部員のコラム、成果のまとめなどが詰まっている。
以前の自分なら、こんな責任ある作業を「向いてない」と遠慮していたかもしれない。
でも──
「ゆら先輩、ここ、段落の間にスペース入れた方が見やすいかもです」
「うん、そうだね。ありがとう、如月さん。そこ、あとで直そうか」
ゆらは自然と微笑み、後輩のアドバイスを受け入れた。
彼女にとって、「先輩」と呼ばれることは今でも少しくすぐったい響きだけれど、嬉しくもある。
「……なんか、ゆら先輩って、ほんとに頼りになるようになったっていうか」
「えっ、ええっ? そんな……」
「ううん、ほんとに。去年の今ごろなんて、部室の隅っこでこっそり作業してたのに」
そう言って笑う如月澄の目に、からかうような色はなかった。
「変わったね、ゆら先輩」
その言葉は、ぽろりと落ちた春の花弁のように、心の奥にすとんと届いた。
──変わった。
自分でも、少しそう思う。
不安で、声も小さくて、人前に立つのが苦手で。
科学が好きなくせに、「好き」と言うことさえ臆病だった、あの頃の自分。
「……変われたのは、みんながいたから、かな」
ふと、呟くようにそう言うと、澄は目を丸くして「えっ」と声を漏らした。
「私一人じゃ、何もできなかったと思う。澄ちゃんがいたから、玲音くんがいて、伊織先輩がいて……」
それから、思い出す。
一年前の春。震える声で見学に来た自分を、千紘先輩が最初に笑って迎えてくれたことを。
──あの笑顔が、最初の一歩だった。
ドアが開く音がして、誰かが入ってきた。
「おーい、できたか?」
声の主は、卒業式を終えたばかりの、千紘先輩だった。
胸元には卒業証書の入った筒。けれどその表情は、いつも通りの朗らかさだった。
「冊子、無事に完成しました。部室に、全員の分、置いてあります」
「おー、頼りになる〜。さすがゆらちゃんだなぁ。ほんと、変わったよね」
まただ。
けれど、今度は、否定する気持ちがまったく浮かばなかった。
変わった。変わることができた。
この場所が、それをくれたのだ。
「先輩。卒業、おめでとうございます」
「ありがとう。……あとは任せたぞ、次の科学部の柱さん?」
ゆらは小さく深呼吸をして、うなずいた。
「はい。任せてください」
少しだけ、胸を張って。
夕暮れの科学部部室。
カーテン越しに射し込む光は赤く、冬の冷たさを帯びていたが、その中で交わされる会話はどこかあたたかかった。
「じゃあ、私はそろそろ行くね」
卒業式を終えた千紘先輩が、白い封筒を手にして立ち上がる。封筒には、何やら重みのある空気が詰まっているようだった。
「後輩のみんなにお手紙書いてきたの。ほんとは、ちゃんと直接言いたかったけど……泣いちゃいそうだから」
そう言って笑う千紘先輩の目尻は、すでに少し赤かった。
私たちひとりひとりに、封筒が配られる。名前の入った小さな文字。
私の手元にも、「中川ゆらへ」と書かれたそれが届いた。
「一年間、ありがとう」
そう言って頭を下げた千紘先輩に、私たちは自然と拍手を送っていた。
ぱち、ぱち、ぱち――。
控えめだけど、確かに胸に響く音だった。
やがて先輩が部室を後にすると、残された私たちは、静かな余韻の中で、それぞれの手紙をそっと開いた。
私はまだ、封を切る勇気がなかった。
ただじっと、それを見つめていた。
「先輩って、すごく大人だったよね」
澄がぽつりと呟く。
「でもさ、中川先輩も、すごく変わったよ」
如月が笑いながら言う。
「え……?」
私は思わず聞き返していた。
「入部したばっかりのころ、もっとこう……隅っこで本読んでるだけ、みたいな感じだったじゃん?」
「今はちゃんと、中心にいる感じするよ。発表も、まとめ役も、普通にやってたし」
「うんうん、頼れる感じ」
ああ、まただ。
また、胸がぎゅっとなる。
恥ずかしいような、でもうれしいような、そんな感覚。
「……ありがとう」
そう言うと、私はそっと、手紙の封を開いた。
中には、千紘先輩らしい、ていねいでまっすぐな言葉が並んでいた。
ゆらちゃんへ
最初は、静かで、声をかけるのもためらうくらいだったけど、
一年経って、今はもう、しっかり“科学部の顔”だと思う。
自信を持って、次の一年を過ごしてね。
「……変わった、のかな。私」
つぶやいた言葉に、澄がうなずいた。
「うん、すごく変わったと思う。いいふうにね」
それはたぶん、自分では気づけなかった“成長”の証。
私は少しだけ、胸を張ってみることにした。
そして、この場所がくれたすべてに――ありがとう、と思った。




