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『中川ゆらと科学部の36か月』 ――わたしを変えたのは、たぶん、科学と、あなたたち。  作者: 南蛇井


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「バレンタイン、科学と感情の境界線」

朝の空気は、凛としていて、少しだけ痛い。


 二月の風が吹き抜ける登校路。まだ白い息が立つ時間帯。私――中川ゆらは、手袋の中でそっと手のひらを握りしめる。制服のポケットに、硬く冷たい感触。小さな包みが一つ。


 科学的には、温度の移動は熱の移動であり、高い方から低い方へと流れる。けれど、今の私は、逆らってでも届けたいと思っている。自分の心から、誰かの心へ――熱を、想いを、伝えたいと。


 「バレンタインだから、って理由は……言い訳にできると思ってたのに」


 思わず呟いた言葉は、白く空に溶けていく。心の中はそれどころじゃないのに。


 科学部の部室に向かう途中、何度も自問自答した。


 これは「感情」だろうか?

 それとも「仮説と実験」だろうか?

 成功率は? 失敗したらどうなる? その後の関係性は? ――私は何を求めているの?


 頭の中がぐるぐるする。まるで、実験の手順が全て曖昧になってしまったような、そんな不安。


 でも、足は止まらなかった。


 今日こそ、渡そう。

 この小さな包みに、私の全部を詰め込んだのだから。


 


◆ ◆ ◆


 


「おはよ、ゆらちゃん」


 部室のドアを開けると、そこには澄先輩がいた。いつもよりも、少しにやにやしている。……気づかれてる?


 「お、おはようございます」


 「あれ? 今日は……手作り?」


 先輩は、私のポケットをちらりと見て言った。私は慌てて手で隠す。


 「ちがっ、ちがくはないんですけど……! いや、あの、なんというか、渡すつもりで――」


 「うん、うん。いいと思うよ。むしろ、今しかないから」


 澄先輩は、にっこりと笑って頷く。


 「後悔したくないでしょ?」


 私は、思わずその目を見つめてしまう。まっすぐで、優しくて、でもどこか寂しさを含んだ眼差し。


 「……はい」


 気づけば私は、背筋を伸ばしていた。


 実験でも、観察でもない。

 これはきっと、私自身の「意思」の問題なのだ。


 


◆ ◆ ◆


 


 伊織先輩が、いつもいる場所にいた。


 窓際の席。光の当たり方を考慮して配置された部室の机。膝の上にはいつものノート。そして、目を細めながら、何かのデータをまとめている様子。


 「……先輩」


 呼びかけた声は、思ったより小さく、けれどはっきりと届いた。


 伊織先輩は顔を上げる。そして、ふっと笑った。


 「ああ、中川さん。お疲れさま」


 「えっと……その、ちょっといいですか?」


 私は、ポケットからチョコを取り出す。手作りで、小さなリボンを巻いただけの飾り気のないもの。でも、心だけは全部こめた。


 「今日……バレンタインなので。よかったら、受け取ってください」


 先輩は、しばらくチョコを見つめていた。


 何も言わず、ただ見つめていた。


 私は、耐えきれなくなりそうだった。でも、それでも視線をそらさなかった。


 そして――


 伊織先輩は、笑った。


 それはとても、穏やかで、でもどこか悲しさを含んだ笑みだった。


 「ありがとう。とても、嬉しいよ」


 その言葉のあとに続くのが、何かは――わかっていた。


雪は降っていない。だけど、空気は白く澄んでいて、吐いた息がかすかに白くなった。


 私は、伊織先輩にチョコレートを手渡した直後の自分を、今でも夢の中の出来事のように感じている。


「……ありがとう、中川さん」


 先輩は、あの柔らかな笑みでそう言った。


 それだけだった。


 告白なんてしていない。ただ、科学部の一年生として、感謝の気持ちをチョコに込めた。それだけ。


 なのに――いや、だからこそかもしれない。あの「ありがとう」には、すべてが詰まっていた。


 言葉以上のものが。


 少しの間、沈黙が流れた。あたりには他の生徒の姿もなく、ただ、私と先輩、そして冬の冷たい風だけがそこにあった。


「中川さんって、不思議だよね」


 そう言った先輩の表情は、どこか遠くを見つめていた。


「最初は、“この子、本当に理科が好きなのかな?”って思ってた。なんとなく、空気がふわふわしてるし、声もちっちゃいし……」


「……あ、えっと、それは……」


「でも、ずっと見てきたよ。どんなに失敗しても、諦めないで考えて、誰よりも真剣に、科学を楽しもうとしてる。僕も……そんな君を見て、すごく励まされたんだ」


 その言葉に、胸の奥があたたかくなって、少しだけ苦しくなった。


 それなのに。


「でもね」


 先輩の声が、ほんの少しだけ、揺れた。


「ありがとう。……でも、ごめんね」


 次の瞬間、私はすべてを理解した。


 それ以上、何かを言う必要もなかった。いや、言葉が出てこなかった。


 好きだった。その気持ちは確かだった。


 けれど、先輩はもう、前を向いていた。私が想いを募らせていた間に、先輩は自分の未来を見つけ、進もうとしていた。


 その背中を、私の気持ちで引き止めることはできない。


 だから私は、うなずいた。


「……わかってます。大丈夫です」


 その一言に、どれだけの感情が込められていたかなんて、自分でもわからない。ただ、涙だけは流さないように、必死に目を見開いていた。


 先輩は、いつものように優しく笑った。


「ありがとう。……中川さん」


 その日、私は一つの恋に、科学的な“終止符”を打った。


 でも、それは失敗なんかじゃない。


 それは――私がこの一年で、たしかに“前へ進んだ”証だった。


 感情は、数式では測れない。恋の答えに、唯一解なんてない。


 それでも、私の中でひとつの「実験」は終わり、結果が出た。


 次の研究に進むための、一歩を踏み出したのだ。


 チョコレートの包装紙を握りしめながら、私は空を見上げる。


 白い雲が、ゆっくり流れていた。




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