天体観測、ふたりの影
が明けて、冬は本気を出してきた。
空気は冷たく澄んで、白い吐息はまるで何かを語るように空へ溶けていく。
この夜、私は科学部の部室にいた。
ただし、いつものように顕微鏡や試験管が並ぶ実験の夜ではない。
「わあ……見える、見えるよ、澄ちゃん……」
「うん。すごく、綺麗」
窓を大きく開け放った部室の隅、望遠鏡の向こうに浮かぶ星々。
冬の星座は空にくっきりと瞬いていて、オリオン座がまるで守護者のように夜空の中央に立っていた。
澄が静かに星の名前を教えてくれる。私は彼女の声に耳を澄ましながら、そっとノートを開く。
それは、伊織先輩からもらったノートだった。
研究メモと、雑記と、ちょっとした観察日記が綴られた小さな宝箱。
冬休みに入る直前、ふとした拍子に「ゆらに預けておく」と手渡されたもの。
「今のうちに、何か残しておくといいよ。自分だけの視点でね」
そう言って先輩は笑った。
その言葉の意味を、私はずっと考えている。
ページをめくると、見慣れた先輩の文字が現れる。
「星は過去を見せる。
光が届くまでに何千年もかかることがある。
つまり、今この瞬間に見ている星は、もうそこに存在しないかもしれない──
それでも、私たちはそれを“今”として受け取って、感動している」
私は、その言葉の横に小さくペンを走らせた。
「それでも、見ることに意味があると思います。
いまここにいない誰かの思い出を、光の中に見つけられるから──」
ふと横を見ると、澄も何かをノートに書いていた。
手帳かと思ったが、少し覗いてみると、スケッチだった。
「それ……星?」
「うん。さっき見えたの、描いてみたの」
と照れくさそうに見せてくれる。
かすれた色鉛筆の線で描かれた夜空。素朴だけど、やさしい絵だった。
「ねえ、澄ちゃん……」
「なに?」
「星って、過去の光なんだって。
でも、私たち、ちゃんと未来も見られるかな。いつか……」
その言葉に、澄はしばらく黙って空を見上げていた。
それから、ぽつりと答える。
「見えるんじゃないかな。
だって……ゆら先輩が今ここにいるの、きっと“過去の努力”のおかげでしょ?
だったら、今の私たちの光も、きっと未来に届くよ」
「……うん」
気づけば部室の明かりは落とされていて、私たちの影が床に長く伸びていた。
暖房の切れた空間で少し身を寄せ合いながら、私たちは黙って空を見上げる。
星が、遠くでまたたいている。
それは、いま私たちが生きている証のようで──未来への合図のようでもあった。
澄と並んで寝転んだ芝生の上、星空は少しずつ冬の空気に滲み、やわらかな静けさがあたりを包んでいた。
「中川先輩ってさ」
突然、澄がぽつりと口を開いた。視線は上空、オリオン座のあたりに留まっている。
「私、最初は“ただの無口な人”って思ってたけど……ぜんぜん違った」
「え?」
「なんかこう……言葉じゃない部分で、ずっと見ててくれてるんだなって」
星を見上げながら、それでもどこか真っ直ぐな気持ちを投げかけてくる後輩に、ゆらは少し戸惑った。褒められ慣れていない自分が、照れたような微笑みを浮かべる。
「見てたっていうか……一緒にいたら、なんとなく伝わってきたんだよ。澄ちゃんの頑張ってるところ」
「ふふ、そうかも。でも、私はもっと知りたいって思うんだよね。科学のことも、先輩たちのことも、私自身のことも」
言葉を交わすうちに、ふたりの間に流れる空気が不思議とあたたかくなっていく。冬の空の下なのに、寒さを感じない。
ふと、ゆらはポケットから伊織にもらったノートを取り出した。澄が興味深そうに覗き込む。
「これ、伊織先輩がくれたの。いろんな実験メモと、ちょっとした日記みたいなのが書いてある」
「へえ……伊織先輩って、あんがい私たちのこと見てたんだね」
ページをめくると、「澄は素直だけど、その分だけ傷つきやすい子だと思う」と書かれている行に目がとまった。驚いたように澄が息を呑んだ。
「……なんか、バレてたみたい」
「うん。でも、それは弱さじゃなくて、“感じられる力”だって思うよ」
そう言うと、澄は照れくさそうに笑った。
「中川先輩、いつの間にそんなふうに話せるようになったの?」
「え? ……あ、もしかして、ちょっとだけ、私も変わったのかも」
「うん、変わった。ちゃんと見てたよ、私も」
言葉が静かに交わされ、二人の心が交差する。天体観測という名の静かな儀式の中で、星たちが祝福のように瞬いていた。
ゆらは目を閉じ、胸の中でそっと呟いた。
(進もう。怖くても、わからなくても。誰かと一緒に、考えながら進んでいくんだ)
夜空の星たちは、ゆらのその決意を、きっと見守っていたに違いない。




