静かな拍手、確かな手応え
教室の空気は、冬の朝のように冷たく張り詰めていた。発表会の朝、私は手のひらの中でUSBメモリをぎゅっと握りしめていた。パワーポイントのデータ。何度も練習して、細かく調整して、背景色もフォントも、理屈で選んで、最後は「自分で決めた」デザイン。それでも、前夜は眠れなかった。
「……行こっか、ゆら先輩」
声をかけてくれたのは澄だった。彼女も今日、ポスター発表に参加する。
「うん、がんばろうね」
私の声は、少し震えていたけど、それを気づかれないように頷いた。廊下の向こうには、すでに人が集まり始めている。来場者、先生、保護者、そして他の班の生徒たち。科学部の一年の成果を、今日、わたしたちは見せる。
私たち分析班のテーマは「環境水のpH変化と生活排水の関係性について」。難しいテーマに聞こえるけれど、実際には地域の河川の水質を測りながら、家庭や学校から出る水がどれくらい影響しているかを追った内容だ。
「中川さん、準備できた?」
発表前、舞台袖で玲音が声をかけてくれる。いつもどおりの落ち着いた声。でも、その指先は、少しだけ震えていた。
「……うん。玲音こそ、大丈夫?」
「……そっちは大丈夫じゃなさそうだけど」
「う……」
笑って返してくれたから、少しだけ肩の力が抜けた。
照明が落ち、司会の先生が登壇者の名前を読み上げる。自分の名前が呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。けれど――
(もう、戻れない)
そう思ったら、不思議と足が前へ出た。
スライドの最初のページ。白地に青いフォントで、シンプルにタイトルだけが映し出されている。それを見て、私は深呼吸を一つ。
「中川です。今日は、私たちの班の研究についてお話しします」
会場は静かだった。誰も喋らない。スマホも動かない。みんな、こちらを見ていた。怖かった。けれど、目を逸らさず、声をしっかり前に出す。
スライドを一枚、また一枚と進めていくたびに、少しずつ、いつもの自分に戻っていく。
自分たちでデータを取り、自分たちでまとめたグラフ。それを指差しながら説明していく時間は、まるで自分の手で「今年のわたし」をなぞるような感覚だった。
発表が終わり、静かな拍手が教室に広がる。派手な歓声も、賑やかな反応もない。でも、それは本物の「評価」だった。誰かを煽るでも、騒がせるでもなく、ただ内容を聞いて、理解して、拍手をくれた。私はその音を、胸にしっかりとしまった。
舞台から降りたあと、廊下で澄が駆け寄ってきた。
「先輩、すごく堂々としてました! わたし、びっくりしました」
「……ほんと?」
「はい。声、震えてなかったし。スライドも見やすかったし……えっと、すごく、“科学してる”って感じでした!」
言葉の選び方がちょっと変だけど、それでも澄の笑顔は真っ直ぐで、あたたかかった。
私の頬が、すこしだけ緩む。
「……ありがとう。わたしも、そう思えるようになったんだ」
去年までなら、壇上に立つことなんて考えられなかった。でも、今の私は、誰かに“見られて”も、怖くない。
科学という言葉の裏側にある、「伝える勇気」を――私は、きっと少しだけ掴んだ気がした。
発表が終わった瞬間の静寂は、まるで時間が一瞬止まったようだった。
それから、ぽつりぽつりと──拍手が湧き上がった。最初は控えめに、けれど次第に音が広がっていく。
壇上の私に、たしかに届いてくる拍手の波。
「中川さん、お疲れさまでした」
司会の先生の言葉に頭を下げ、ゆっくりと壇を降りる。
その足元は、信じられないくらい震えていた。終わった。終わったんだ。
通路の端で待ってくれていたのは、玲音だった。彼女はにこりともせず、でも目を合わせた瞬間、ぽつんとつぶやいた。
「……堂々としてたよ、すごく」
私の肩が、ふるりと揺れる。
それは緊張の余韻でも、安堵の吐息でもなく、たぶん嬉しさだった。
「ありがとう、玲音ちゃん……」
私はその場で、手に持っていたファイルを胸に抱きしめた。中には、最後まで推敲を重ねたスライドの原稿。色とフォントと、構成と──どれも私なりに考え抜いた成果だった。
その後、控室に戻ると、科学部のメンバーが拍手で迎えてくれた。伊織先輩も、紗良ちゃんも、如月さんも。
「先輩、すごかったです! ほんとに堂々としてて!」
如月澄が、まるで自分のことのように満面の笑みを浮かべて言ってくれる。
私は照れくさくて、でもどうしようもなく嬉しくて、視線をそらしてしまった。
「ありがと。でも、ほんとに緊張してたよ……」
「ううん、私もあんな風に発表できるようになりたいって思いました」
言葉が、胸の奥にすっと入ってくる。
少し前まで、人前に立つことさえ怖かったのに──今は、誰かの目標に“なれた”んだ。
拍手も、言葉も、スライドの色も──全部が重なって、今、ようやく一つになった気がする。
それは「自信」と呼べるものかもしれない。小さくて、でも確かな芽のようなもの。
そして、私の心にはひとつの問いが芽生えていた。
もしこれが“できた”のなら、私は──これから、何が“できる”だろう?
そんな風に思える自分が、少しだけ誇らしかった。
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