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『中川ゆらと科学部の36か月』 ――わたしを変えたのは、たぶん、科学と、あなたたち。  作者: 南蛇井


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フォントと発表と、部室の夜

11月に入り、秋も深まってきたある日のこと。科学部では恒例の「理科発表会」に向けて、発表資料の準備が本格化していた。


「やっぱり、これ、明朝体にした方が読みやすいかな……?」


部室のパソコン前で、私はスライドを見つめながら小さく呟く。ディスプレイには実験の過程をまとめたグラフと、その下に簡単な説明文。


「でも、堅すぎるかも……かといって、丸ゴシックだと遊びっぽいし……」


フォント。そう、フォントである。発表内容の本質とはまったく関係のない部分――かもしれないけれど、されどフォント。印象を左右する、意外に重要な要素だ。


「中川先輩。フォント、迷ってるんですか?」


声をかけてきたのは、後輩の如月澄だった。彼女はプリントした資料の束を手にしていて、その表紙にも綺麗に整った文字が並んでいる。


「うん……読んだ人にわかりやすくしたくて。でも、どれを選んでも『これ!』って決め手がなくて」


私は苦笑しながら、いくつかのフォントの例を見せた。澄は真剣な顔で画面を見つめる。


「……やっぱり、先輩の資料って丁寧ですね。字の大きさとか、行間の感じとか。見てて疲れないです」


「本当? そう言ってもらえると、ちょっと救われるなあ」


澄の言葉に、胸の奥がほんのりあたたかくなる。伝えるって、難しいけれど、それをちゃんとやろうとしている自分のことを、誰かが見ていてくれる。それだけで、少し自信が湧いた。


でも、それでもフォントは決まらない。


部室の中には、他の班の部員たちも残っていて、それぞれの作業に集中している。高瀬さんは試薬の写真整理をしていて、玲音はノートPCで何かを書いていた。


「……ちょっと聞いてみようかな」


ふと思い立って、私は玲音に声をかけた。


「ねえ、玲音。スライドのフォントって、どうしてる?」


「え? フォント?」


玲音は意外そうにこちらを見た。


「そんなの、だいたいYu Gothicにしてるよ。無難だし、読めればいいって思ってる」


「そうなんだけど……なんか、伝わり方ってあるじゃない?」


私は言葉を探しながら、画面をくるりと向けて彼に見せた。


「実験の内容とか、グラフの見せ方とか、そういうのも大事だけど……読み手が“信頼できそう”って思ってくれるようにしたいというか」


玲音はしばらく無言でスライドを見つめたあと、ふっと小さく笑った。


「……中川、変わったね」


「え?」


「入部した頃は、誰にも見られたくないって言ってたのに、今じゃ“ちゃんと伝えたい”って思ってるんでしょ。ちょっと感動した」


「……そ、そんなつもりじゃ……」


不意に言われて、耳が熱くなる。言葉にするのが難しい。けれど、彼の言葉が嘘じゃないことはわかる。


私自身も、どこかで気づいていたのだ。


この部で、仲間と実験して、笑い合って、悩んで。少しずつだけど、私は“伝えたい自分”になってきている――そんな予感がしていた。


「じゃあさ」


玲音はキーボードを叩き、自分の使っているテンプレートを私の画面に送り込んできた。


「これ、使ってみれば? 俺のやつ。図の配置とか、テキストの入れ方とか、参考になるかもよ」


「え、いいの?」


「もちろん。……一緒に作ったほうが、絶対いいのができるって思ってるから」


そう言って微笑む彼の横顔を見て、私は小さく頷いた。


「ありがとう。……頑張ってみる」


どのフォントが正解かなんて、最後までわからないかもしれない。でも、伝えたいと思って選ぶその姿勢が、きっと誰かに届く。


そう思えた夜だった。



パソコンの前に並んで座ったまま、玲音と私は無言だった。

ときおりクリック音と、スライドをめくるキーボードの軽い打鍵音だけが部室に響く。


「……なんで、ここを太字にしようと思ったの?」


玲音の問いに、私は一瞬言葉に詰まる。


「え、えっと……『大事なところだから』って……思って……」


「ふうん」


短い返事とともに、玲音はマウスを動かして太字の部分を元に戻す。


「でも、“大事”を強調すればするほど、他が見えなくなる。科学って、流れも大事なんだよ」


まるで彼女の言葉には下書きがあるみたいに、迷いがなかった。

私は思わず見とれてしまい、あわてて視線をスライドに戻す。


私が用意していたスライドは、どこか「私を見てください」と言わんばかりだった。

強調、装飾、色分け、アニメーション……。

まるで“プレゼン風”に仕立てあげられたその資料は、玲音の目にはきっと、表面だけをなぞったように映ったのだろう。


「ナレーションも同じ。大事なのは“伝える”ことで、“目立つ”ことじゃない。ゆら先輩なら、それ、わかるんじゃない?」


優しく、でも確かな声だった。

それは、私の中にある“見せかけの勇気”を見透かすようだった。


「……うん、わかってる。わかってるのに、怖くて……」


ぽつりと漏れた本音に、玲音がようやく私の方を見た。

その瞳には、驚きも軽蔑もなかった。ただ、静かに耳を傾けてくれるまなざし。


「失敗するのが、怖いんだよね」


「うん……」


「だったら、失敗してもいいプレゼンにすれば?」


「え?」


「完璧にしようとするから怖いんだよ。スライドはサポート。話すのが苦手なら、スライドに頼ってもいい。だけど、見せたいものは“自分の理解”でしょ?」


玲音の言葉が、部屋の静けさの中にすっと染み込んでいく。


私は、ゆっくりと画面に目を戻し、キーボードに手をかけた。


「……じゃあ、まずこのグラフ、こっちに持ってこようかな。最初に『結果』を見せて、それから“どうやって出たか”を話す方が、わかりやすいかも」


「いいと思う」


玲音が小さくうなずく。その一言だけで、なぜか少し勇気が湧いてきた。


私たちは、遅くまで部室に残ってスライドを組み直した。

その途中、くだらないことで笑ったり、お菓子を食べたり、時には意見がぶつかることもあったけれど、今夜の時間は、間違いなく“私たちの研究”を語るためのものになっていった。


最後のスライドに入れた一文。


「理科の時間に聞いた“なんで?”を、少しだけ深く考えてみた結果です。」


私の声で、この一文を語ろう。震えても、つかえてもいい。

その中に、伝えたい思いがあるのだから。


「……ありがとう、玲音ちゃん」


「まだ発表、終わってないよ?」


「うん。でも……もう怖くはないかも」


そんな私の言葉に、玲音が少し驚いたような顔をして、それから小さく笑った。


「へえ、成長したね、先輩」


なんて言われて、思わず「もー」と口を尖らせる。

でも心の中は、ふんわりあたたかかった。


夜の部室に、スライドの光が淡く揺れていた。


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