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わたしと白衣と、沈黙の実験台

白衣って、なんだか“賢い人”の象徴だと思っていた。


 テレビに出てくる科学者や、実験室の研究員、どこか別世界の人たち。


 ――私には、一番遠い場所にある服だと思っていた。


 


 でも今、目の前でその白衣を手渡されている。


 


「はい、これ。ちょっと大きいかもだけど、予備の白衣」


 千紘ちひろ先輩が、にこにこと言いながら差し出してくる。


 


「え、あの、でも、わたし……」


「大丈夫。着るだけで、なんか“科学部っぽく”なるから」


 そう言われて、私はおずおずとそれを受け取った。


 


 生地は意外としっかりしていて、少し重たい。


 身につけた瞬間、ひやりとする感触。


 それは、少しだけ背筋を伸ばしてくれた。


 


 部室の実験台には、理科室から運ばれてきたビーカーとフラスコ、アルコールランプ、何かの試薬。


 班に分かれての実験らしい。けれど、「班」という言葉に、私はまた縮こまってしまう。


 


(わたし、話しかけてもいいのかな……)


(何をすればいいんだろう……)


 


 周りはすでに話し合って手を動かしていて、私はその輪の外側――机の端っこで、ひっそりと立っていた。


 それでも千紘先輩が近くにいてくれるだけで、不思議と少し安心する。


 


「ね、ゆらちゃんは……理科、好き?」


 唐突に聞かれて、私はすこし考えた。


 


「……中学のとき、実験は、ちょっとだけ、楽しかったです」


「うん、いいね。それで十分!」


 


 千紘先輩は、まるで何か大発見でもしたかのように微笑んでくれた。


 その笑顔に、私は思わずうつむいてしまった。うれしいけれど、まぶしい。


 


 私の前に、一つのビーカーが置かれる。


 中には透明な液体。隣の男子が説明してくれる。「この試薬を入れると、温度が上がるんだって」


 私は小さくうなずいて、その小瓶を手に取る。


 でも、手が――震えていた。


 


 液体がぽたり、落ちる。


 ビーカーの中で、静かに反応が起こる。


 


 ……温かい。


 ほんのりと、手のひらのそばまで、熱が届いた。


 


「成功だよ」


 小さな声が、横から聞こえた。


 


 成功? 私が? ……ほんとうに?


 私は実験に「参加」していた。ただ見ていただけじゃなく、触れて、感じて――。


 


 沈黙のなか、少しずつ世界の音が聞こえはじめる。


 


(わたし、いま……科学部にいるんだ)


 


 胸の奥に、ぽつりと灯る、小さな火があった。


 実験が終わったあとの、片づけの時間。


 他の部員たちが手早く道具を洗って棚に戻していく中、私はスポイトを水洗いしながら、まだ胸の中の熱が冷めないのを感じていた。


 


「ゆらちゃん、洗い物ありがと」


 千紘先輩が、後ろから優しく声をかけてくる。


 


「あ、いえ、あの……これくらい、わたし……」


「“これくらい”って言い方、ゆらちゃんよくするね」


 


 ふいに指摘されて、私はどきりとする。


 


「え……?」


「さっきも言ってた。“わたしなんて”とか“これくらい”とか」


 


 たしかに、私はよくそうやって自分を小さく包もうとする。


 無意識のうちに、「何もできない人間」として立ち回ることに慣れてしまっている。


 


 でも、千紘先輩は――そんな私を、責めるでもなく、ただやわらかく微笑む。


 


「この部って、変な人ばっかりでさ。発明ばっかりやってる人、化学マニア、昆虫オタク、生物研究ガチ勢……いろんな子がいるけど、共通してるのは、“自分の好き”をちゃんと持ってるってこと」


 


「……わたし、そんなもの……ないです」


「じゃあ、ここで探していこうよ」


 


 そう言って、千紘先輩が差し出してきたのは――白衣だった。


 最初に渡された予備じゃない。先輩の手で、ちゃんとサイズを調べて、新しく準備してくれた私専用の一着。


 


「え……これ……」


「今日のゆらちゃん、すっごくかっこよかったよ。初めての実験でちゃんと成功させて。あのときの顔、ちょっと“科学者っぽかった”」


 


 私は思わず、口元をおさえる。


 笑っていたのだ、自分でも気づかないくらい、小さく――でもたしかに。


 


「部活って、無理に“何かできる人”にならなくていいと思うよ。最初は、いるだけでもいい。ゆらちゃんが“いる”だけで、私は嬉しいから」


 


 その言葉が、白衣よりもあたたかかった。


 


 私はゆっくりと白衣を抱きしめた。


 それは、まだ馴染まない、少し大きな白い布。


 でも、これから少しずつ、自分の形にしていけるような気がした。


 


 沈黙の実験台の前で、私の中の“声”が、ようやく芽吹き始めた。


 


(科学って、すごい)


(わたしにも、きっと触れられる世界なんだ)


 


 部室の窓から、柔らかな春の光が差し込んでいた。


 その光のなかで、白衣の袖がふわりと揺れた。



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