ノートと、彼女の涙
秋の気配が静かに校庭に降りてくる。風が頬を撫でるたびに、金木犀の匂いがふわりと香る。季節の移ろいを告げるように、理科準備室の窓辺には、夏の日差しに焼かれた観察ノートが並んでいた。
私はそのひとつを開き、じっとページをめくる。丁寧に描かれた植物のスケッチ、実験ごとの細かな記録、そして最後に小さな文字で記された反省と感想。――如月澄の文字だ。
「真面目だなあ、澄ちゃんは」
つい独り言が漏れた。観察ノートは、書く人の心が映る。彼女のノートには、不器用だけれど真摯な思いがにじんでいた。
……でも、最近の彼女は少し、元気がない。
実験中にぼんやりすることが増えた。何かを考えているようで、でも誰にも言えずに飲み込んでしまっているような、そんな顔をしていた。
「澄ちゃん、大丈夫かな……」
科学部の放課後。私たちはそれぞれの班に分かれて作業を進めていたけれど、私はずっと澄の様子が気になっていた。気になりすぎて、ビーカーの中身を間違えそうになるくらいに。
でも、どうすれば声をかけられるのかが分からなかった。
私も、昔は誰にも言えないことを心に抱えていた。うまく話せなくて、うまく伝えられなくて、黙って笑ってごまかして……それでも、誰かに気づいてほしかった。
だから――
その日の帰り、私は静かに澄の隣に並んだ。
「……澄ちゃん」
「っ、あ……ゆら先輩」
少し驚いた顔で振り向いた彼女の頬に、秋の夕焼けが射していた。
「ちょっとだけ、寄り道しない?」
私はそう言って、校舎裏の小さな花壇へと彼女を連れて行った。そこは、生物班の子たちがこっそり育てている植物たちが並んでいる場所。色とりどりの花が、夕日に照らされてきらきらと輝いていた。
「ここ、綺麗ですね……」
ぽつりと呟いた澄の声が、風に溶けた。私はそっと観察ノートを差し出す。
「澄ちゃんのノート、すごく丁寧だった。よく見て、考えて、感じたことを言葉にしてて……なんか、私も見習わなきゃって思った」
澄は一瞬、何かを言いかけて――でも、口を噤んだ。
「私、最近の澄ちゃんのこと、ちょっと心配してたんだ」
静かな時間が流れる。風が揺れて、花が揺れて。
やがて、澄の肩がかすかに震えた。
「……どうして、分かったんですか……」
その声は、ほんの少し涙を含んでいた。
放課後の科学室に残っていたのは、私と澄ちゃん、そして静かに漂う消毒薬の香りだけだった。
窓から差し込む夕陽が机の上を淡く染め、澄ちゃんが手にした観察ノートが、その光の中でゆっくりと開かれていく。
でも、ページはめくられず、彼女の指は表紙に添えたままだった。
「……ねえ、澄ちゃん」
私は、声をかけるというより、そっと名前を置くように言った。
「そのノート、ずっと頑張って書いてたよね。途中、私、こっそり見てた。……ちゃんと、書いてたよ。いっぱい」
澄ちゃんは、すぐには答えなかった。けれど、わずかに震える肩が、何よりも雄弁だった。
「でも……先生、何も言ってくれなかった。誰にも、褒められなかった……」
ようやく絞り出すように発せられたその言葉は、あまりにも小さくて、でも胸の奥を鋭く刺してきた。
「私、意味あったのかな。こんなに頑張って、意味……あったのかな」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸がぎゅっと苦しくなった。まるで、自分が一年生だったころを見ているみたいだったから。
「……あったよ。ちゃんと、あったよ」
私は隣の椅子に腰を下ろし、観察ノートの上にそっと手を重ねる。
「意味があるかないかなんて、自分で決められないこともある。でも……それを見てた人は、ちゃんといた。私が、見てたから」
「先輩……?」
「何度も放課後残って、顕微鏡の焦点が合うまでずっと頑張ってたよね。書いたこと、間違ってないか何度も見直してた。……それって、すごいことだよ。私、感動してた。『ああ、この子、本当に科学が好きなんだな』って」
その瞬間、澄ちゃんの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「……先輩、そんなふうに……見てくれてたんだ」
「うん。だから、自信持っていいよ」
私はそっと、澄ちゃんの肩に手を置いた。
涙は止まらなかったけれど、彼女の表情は、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
そして、澄ちゃんはノートのページを、ようやくそっとめくった。
そこには、小さな文字で丁寧に書かれた観察記録が、ずらりと並んでいた。
まるで、誰かの心の成長の軌跡みたいに。
静かな教室の中で、ふたり、ただそれを見つめていた。
私たちはまだ言葉がうまく伝えられないことも多いけれど。
でも、こうして“見ている”ことで、届く気持ちも、きっとある。
今日、澄ちゃんは泣いた。
でもそれは、ひとつ大きくなるための涙だった――そんな気がした。




