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『中川ゆらと科学部の36か月』 ――わたしを変えたのは、たぶん、科学と、あなたたち。  作者: 南蛇井


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ノートと、彼女の涙

 秋の気配が静かに校庭に降りてくる。風が頬を撫でるたびに、金木犀の匂いがふわりと香る。季節の移ろいを告げるように、理科準備室の窓辺には、夏の日差しに焼かれた観察ノートが並んでいた。


 私はそのひとつを開き、じっとページをめくる。丁寧に描かれた植物のスケッチ、実験ごとの細かな記録、そして最後に小さな文字で記された反省と感想。――如月澄の文字だ。


 「真面目だなあ、澄ちゃんは」


 つい独り言が漏れた。観察ノートは、書く人の心が映る。彼女のノートには、不器用だけれど真摯な思いがにじんでいた。


 ……でも、最近の彼女は少し、元気がない。


 実験中にぼんやりすることが増えた。何かを考えているようで、でも誰にも言えずに飲み込んでしまっているような、そんな顔をしていた。


 「澄ちゃん、大丈夫かな……」


 科学部の放課後。私たちはそれぞれの班に分かれて作業を進めていたけれど、私はずっと澄の様子が気になっていた。気になりすぎて、ビーカーの中身を間違えそうになるくらいに。


 でも、どうすれば声をかけられるのかが分からなかった。


 私も、昔は誰にも言えないことを心に抱えていた。うまく話せなくて、うまく伝えられなくて、黙って笑ってごまかして……それでも、誰かに気づいてほしかった。


 だから――


 その日の帰り、私は静かに澄の隣に並んだ。


 「……澄ちゃん」


 「っ、あ……ゆら先輩」


 少し驚いた顔で振り向いた彼女の頬に、秋の夕焼けが射していた。


 「ちょっとだけ、寄り道しない?」


 私はそう言って、校舎裏の小さな花壇へと彼女を連れて行った。そこは、生物班の子たちがこっそり育てている植物たちが並んでいる場所。色とりどりの花が、夕日に照らされてきらきらと輝いていた。


 「ここ、綺麗ですね……」


 ぽつりと呟いた澄の声が、風に溶けた。私はそっと観察ノートを差し出す。


 「澄ちゃんのノート、すごく丁寧だった。よく見て、考えて、感じたことを言葉にしてて……なんか、私も見習わなきゃって思った」


 澄は一瞬、何かを言いかけて――でも、口を噤んだ。


 「私、最近の澄ちゃんのこと、ちょっと心配してたんだ」


 静かな時間が流れる。風が揺れて、花が揺れて。


 やがて、澄の肩がかすかに震えた。


 「……どうして、分かったんですか……」


 その声は、ほんの少し涙を含んでいた。


放課後の科学室に残っていたのは、私と澄ちゃん、そして静かに漂う消毒薬の香りだけだった。


 窓から差し込む夕陽が机の上を淡く染め、澄ちゃんが手にした観察ノートが、その光の中でゆっくりと開かれていく。

 でも、ページはめくられず、彼女の指は表紙に添えたままだった。


「……ねえ、澄ちゃん」


 私は、声をかけるというより、そっと名前を置くように言った。


「そのノート、ずっと頑張って書いてたよね。途中、私、こっそり見てた。……ちゃんと、書いてたよ。いっぱい」


 澄ちゃんは、すぐには答えなかった。けれど、わずかに震える肩が、何よりも雄弁だった。


「でも……先生、何も言ってくれなかった。誰にも、褒められなかった……」


 ようやく絞り出すように発せられたその言葉は、あまりにも小さくて、でも胸の奥を鋭く刺してきた。


「私、意味あったのかな。こんなに頑張って、意味……あったのかな」


 その言葉を聞いた瞬間、私は胸がぎゅっと苦しくなった。まるで、自分が一年生だったころを見ているみたいだったから。


「……あったよ。ちゃんと、あったよ」


 私は隣の椅子に腰を下ろし、観察ノートの上にそっと手を重ねる。


「意味があるかないかなんて、自分で決められないこともある。でも……それを見てた人は、ちゃんといた。私が、見てたから」


「先輩……?」


「何度も放課後残って、顕微鏡の焦点が合うまでずっと頑張ってたよね。書いたこと、間違ってないか何度も見直してた。……それって、すごいことだよ。私、感動してた。『ああ、この子、本当に科学が好きなんだな』って」


 その瞬間、澄ちゃんの目から、ぽろりと涙がこぼれた。


「……先輩、そんなふうに……見てくれてたんだ」


「うん。だから、自信持っていいよ」


 私はそっと、澄ちゃんの肩に手を置いた。


 涙は止まらなかったけれど、彼女の表情は、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。


 そして、澄ちゃんはノートのページを、ようやくそっとめくった。

 そこには、小さな文字で丁寧に書かれた観察記録が、ずらりと並んでいた。

 まるで、誰かの心の成長の軌跡みたいに。


 静かな教室の中で、ふたり、ただそれを見つめていた。


 私たちはまだ言葉がうまく伝えられないことも多いけれど。

 でも、こうして“見ている”ことで、届く気持ちも、きっとある。


 今日、澄ちゃんは泣いた。

 でもそれは、ひとつ大きくなるための涙だった――そんな気がした。




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