「サイエンスショー、舞台に立つ私」
教室の窓から射し込む光が、黒板に貼られた予定表をぼんやりと照らしていた。赤いマーカーで囲まれた一つの文字が、私の目に突き刺さる。
「文化祭準備 サイエンスショーリハーサル」
逃げたくなった。いや、正確には、逃げ腰だった。足元がざわざわして、呼吸がちょっとだけ浅くなる。
「……ナレーション、か」
何度口にしても、現実味がない。
「ナレーション役、ゆら先輩がいいと思います!」
そう言ったのは後輩の如月澄だった。入部して半年、すっかり打ち解けたかと思いきや、こういうときだけ妙に推してくる。
「声に表情があるっていうか、聴いてて落ち着くんです」
それは褒め言葉なのだろう。きっと。けれど、私にとって「声を出す」ことは、できれば避けたい分野のひとつだった。
教卓の前で説明する伊織先輩や、明るく指示を出す高瀬くんの姿を見て、何度ため息をついたことか。
あんなふうに、私にはできない。声が震える。視線が怖い。言葉が途中で消えてしまいそうになる。
だけど、引き受けてしまった。
あのとき、澄の目があまりにまっすぐだったから。期待を拒絶するには、強すぎた。
――せめて、裏切らないようにしなくちゃ。
教室の隅、配られた台本を両手で持って、私は深く息を吸い込んだ。目を閉じて、文章を脳に焼きつけるように読む。
「次の実験では――」
「次の実験では……」
口の中だけで真似してみる。けれど、声に出すのはまだ怖い。人がいる場所では特に。
そんな私の様子を察したのか、伊織先輩が声をかけてくる。
「中川。読み合わせ、してみる?」
「……あ、いえ。もう少し、自主練したくて」
先輩はそれ以上何も言わず、うなずいてくれた。
そうして私は、放課後の準備教室で一人、何度も言葉をなぞる。
**「舞台に立つ」**ということ。
それは、私にとって理科の実験よりも、ずっとずっと非現実的な行為だった。
でも、あのとき澄が言ってくれた。
「先輩の声が、舞台の雰囲気をつくるんですよ。科学って、伝えることだと思うから」
あの言葉を、私はまだ信じきれずにいたけれど。
信じようとしていた。
不安と、それを上回る小さな決意を胸に、私は今日も教室に残って、台本を握りしめる。
ナレーションのセリフに、私の“声”を重ねるために。
舞台の幕が上がる瞬間、ゆらの鼓動は高鳴っていた。体育館の天井に響く軽やかなファンファーレ。照明がゆらの立つ演台をふんわり照らし、ざわめいていた観客の声がすっと引いていく。
(いま……始まった)
照明の眩しさに、一瞬だけ目を細める。でも、台本はしっかり頭の中にある。仲間たちの動きも、何度も練習した。脚が震えるのはいつものことだし、声が裏返るかもしれない。でも、それでも、彼女の足は一歩も引かなかった。
マイク越しに最初のセリフを告げる。
「みなさんこんにちは、科学部です! 本日は、“音と光の不思議な関係”をテーマにお送りします」
声は……出た。客席からは、パチパチと拍手。そしてそこに、澄の笑顔があった。最前列、まっすぐにゆらを見ている。
幕の後ろでは、男子たちが光のプリズム実験の準備をしている。ひとつひとつの段取りが、まるで時を刻むメトロノームのように整然としていて、ゆらはナレーションでその動きをすくい上げ、観客へと導いていく。
「この白い光は、実はたくさんの色の光が混ざってできています。ご覧ください、このプリズムに通すと──」
スクリーンに虹が現れる。観客席から、歓声。
(よかった……!)
ゆらは息を吸って、次のセリフへとつなぐ。まるで科学そのものが、彼女の背中をそっと支えてくれているようだった。
本番中、思い出したことがある。
それは、一年前の自分。初めて科学部の部室をノックした日。先輩たちの前でうまく言葉が出なかったあの日。自分はずっと「誰かの陰にいればいい」と思っていた。でもいま、舞台のど真ん中で、自分の声で、誰かの心を動かしている。
(私……ちゃんとここにいるんだ)
フィナーレ。最後のセリフを、堂々とした声で届ける。
「科学って、ちょっと不思議で、ちょっと楽しい。今日、そう思っていただけたなら……それが私たちの実験成功の証です!」
拍手が湧きあがる。
舞台袖に戻った瞬間、澄が飛びついてきた。
「すごかったです、先輩! 声、全然震えてませんでした!」
「うん……ありがとう」
ゆらは、小さく笑った。頬は熱かったけど、それはきっと照明のせいじゃない。
誰もいなかったら、泣いていたかもしれない。でもそれは、怖さからじゃなくて、うれしさから。
それはたしかに、彼女が手にした「はじめての自信」だった。




