合宿と、夜の海のささやき
海風が肌をなでるように吹き抜ける午後。
真夏の空の下、私たち科学部は、年に一度の恒例となった合宿へとやってきた。場所は、潮の香りがほんのり漂う海辺の民宿。涼しげな蝉の鳴き声と、遠くから聞こえる波の音が、非日常の空気を演出している。
「ゆら先輩、窓際の部屋、いいですか?」
新入部員の如月澄が、控えめに声をかけてきた。彼女はどこか、去年の私に似ている。小柄で、内気で、でも瞳の奥には強い憧れの色を宿している――そんなところが。
「うん、一緒に荷物置きに行こっか」
私は澄と笑い合いながら、ふたりで畳の部屋へと入った。ざらりとした障子越しに海が見える。汗ばんだ首筋をタオルでぬぐいながら、私は窓を開けた。
「あっ、潮の匂い……」
澄がうっとりと目を細める。
その横顔を見て、ふと思い出す。去年の私も、こんなふうに窓辺で海を眺めていた。緊張と不安にぎゅっと胸をしめつけられていたっけ。
あの頃、私にはまだ「好きなこと」や「なりたい姿」なんて、はっきりとした形がなかった。ただ、科学部の雰囲気が落ち着くから、そこにいた。それだけだった。
でも、今は少し違う。
「……澄ちゃん、準備できたら実験の打ち合わせ行こっか」
「はいっ!」
彼女の返事が、潮風と共にふわりと部屋に広がる。
午後は、海の観察フィールドワーク。班ごとに潮だまりの観察、微生物の採取、塩分濃度の測定などを行う。照りつける太陽のもと、Tシャツがすぐに汗で湿ったけれど、誰も文句を言わなかった。みんな夢中だった。科学がそこに“あった”から。
澄はノートにびっしりとスケッチを描き込んでいた。ときどき私の方をちらりと見ては、手を動かす。
「……先輩って、すごいですね」
「え? どこが?」
「いつも落ち着いてて、でも優しくて……。私、まだ慣れないことばかりで」
その言葉に、少し胸が熱くなる。
だって私も、まだ全然慣れてなんかいない。落ち着いてなんかいない。澄の前だから、そう見せようと頑張ってるだけで。
「ありがとう。でも、私だってまだ迷ってばかりだよ」
夕焼けの海を前に、私はぽつりとそう言った。
夜、浜辺でレクリエーションがあったあと、自由時間になった。
みんなが花火をしている中、私は少し離れて海辺の岩場に腰かけた。湿った風、波の音。
頭の中に浮かぶのは、あの人のこと。
――伊織先輩。
卒業して、進学して、遠くに行ってしまったけれど。
今でも、ふとしたときに思い出す。
先輩が「ゆらの観察眼はすごいよ」と言ってくれたこと。
何気ない一言が、今の私を支えている。
そんなとき、後ろから足音がした。
振り向くと、そこには澄がいた。
「ここ、隣、いいですか?」
「うん、もちろん」
ふたり並んで座ると、澄はぎこちなく口を開いた。
「……私、先輩みたいになりたいんです」
思わず息を呑んだ。
「……なんで?」
「だって、あこがれなんです。わたし、すぐ不安になるし、自分の意見も言えなくて。でも、ゆら先輩は、自分の言葉をちゃんと持ってて……。ああ、わたしも、こうなれたらって……そう思ったんです」
――涙が出そうだった。
そんなふうに思ってくれる後輩がいるなんて。
「……ありがとう。ほんとに、ありがとうね」
潮風に紛れて、私の声は少し震えていたかもしれない。
でも、それでも――
私は今、たしかに誰かにとって“憧れ”になっている。
それは、かつての私が欲しかった光だった。
日が暮れてからの海は、昼間の賑やかさを忘れたように静まりかえっていた。砂浜に並んだ小さな足跡だけが、今日という一日の余韻を残している。
科学合宿の夜は、花火や肝試しで騒がしかったが、それもひと段落して、いまは自由時間。部屋に残ってカードゲームをしている班もいれば、砂浜へ抜け出して星を眺める班もいた。
私は、ひとりで外に出ていた。
手にしたペットボトルの水をちびちび飲みながら、海の匂いを吸い込む。真っ暗な海面には、月がぼんやりと反射していて、その光景はどこか現実味がなかった。
(あの子……如月さん)
昼間、私に言った。
「中川先輩みたいになりたいです」
その言葉が、ずっと頭から離れない。
私のように、人前で話すのが苦手で、意見を言うことにためらいがある後輩。でも、彼女は変わろうとしている。真っ直ぐで、前向きで、時折はにかみながらも、目はまっすぐだった。
そんな彼女に憧れられる自分が、ふさわしいのか。
私は――。
「中川先輩、こんなところにいたんですね」
その声に驚いて振り向くと、そこには澄がいた。薄手のパーカーを羽織っていて、髪が風に揺れている。どこか眠たげな顔で、でも、笑っていた。
「夜の海、見てみたくて……先輩がいそうな気がして」
「私が?」
「はい。中川先輩って、なんとなく、夜の海に似てますから」
私は、ぽかんとしてしまった。
「えっと、それはどういう……?」
「静かで、深くて、だけど光をちゃんと映すところ。昼間はまぶしくて見えないけど、夜になるとちゃんとわかるんです。そういうところが、好きです」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
思えば、これまでの一年、私なりに少しずつ変わろうとしてきた。伊織先輩や、千紘さん、みんなが背中を押してくれて、少しだけ前を向けるようになった。
その小さな一歩を、誰かがちゃんと見ていてくれた。
「……ありがとう、如月さん」
「わ、いえっ、そんな、こちらこそです!」
ぱたぱたと手を振って慌てる澄を見て、私はようやく笑うことができた。
そのあと、ふたりで並んで砂浜を歩いた。
波音にかき消されないように、ぽつぽつと会話をつないでいく。好きな実験の話や、将来のこと。彼女の話を聞きながら、私は何度も何度も頷いた。
やがて、風が冷たくなってきて、そろそろ戻ろうと立ち上がるとき、澄がふと立ち止まった。
「私、がんばります。いつか、中川先輩みたいになれるように」
夜の海に、きらりと星が落ちたように感じた。
「……ううん。私も、がんばるよ」
あの日、何も言えなかった私じゃなくて。
こうして、誰かに言葉を返せる自分になれている。それが、うれしかった。
空を見上げると、いくつもの星が瞬いていた。
合宿の夜、わたしたちは小さく波に揺れながら、きっと前へと進んでいる。




