表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『中川ゆらと科学部の36か月』 ――わたしを変えたのは、たぶん、科学と、あなたたち。  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/36

合宿と、夜の海のささやき

海風が肌をなでるように吹き抜ける午後。

真夏の空の下、私たち科学部は、年に一度の恒例となった合宿へとやってきた。場所は、潮の香りがほんのり漂う海辺の民宿。涼しげな蝉の鳴き声と、遠くから聞こえる波の音が、非日常の空気を演出している。


「ゆら先輩、窓際の部屋、いいですか?」


新入部員の如月澄が、控えめに声をかけてきた。彼女はどこか、去年の私に似ている。小柄で、内気で、でも瞳の奥には強い憧れの色を宿している――そんなところが。


「うん、一緒に荷物置きに行こっか」


私は澄と笑い合いながら、ふたりで畳の部屋へと入った。ざらりとした障子越しに海が見える。汗ばんだ首筋をタオルでぬぐいながら、私は窓を開けた。


「あっ、潮の匂い……」


澄がうっとりと目を細める。

その横顔を見て、ふと思い出す。去年の私も、こんなふうに窓辺で海を眺めていた。緊張と不安にぎゅっと胸をしめつけられていたっけ。


あの頃、私にはまだ「好きなこと」や「なりたい姿」なんて、はっきりとした形がなかった。ただ、科学部の雰囲気が落ち着くから、そこにいた。それだけだった。


でも、今は少し違う。


「……澄ちゃん、準備できたら実験の打ち合わせ行こっか」


「はいっ!」


彼女の返事が、潮風と共にふわりと部屋に広がる。


午後は、海の観察フィールドワーク。班ごとに潮だまりの観察、微生物の採取、塩分濃度の測定などを行う。照りつける太陽のもと、Tシャツがすぐに汗で湿ったけれど、誰も文句を言わなかった。みんな夢中だった。科学がそこに“あった”から。


澄はノートにびっしりとスケッチを描き込んでいた。ときどき私の方をちらりと見ては、手を動かす。


「……先輩って、すごいですね」


「え? どこが?」


「いつも落ち着いてて、でも優しくて……。私、まだ慣れないことばかりで」


その言葉に、少し胸が熱くなる。

だって私も、まだ全然慣れてなんかいない。落ち着いてなんかいない。澄の前だから、そう見せようと頑張ってるだけで。


「ありがとう。でも、私だってまだ迷ってばかりだよ」


夕焼けの海を前に、私はぽつりとそう言った。


夜、浜辺でレクリエーションがあったあと、自由時間になった。

みんなが花火をしている中、私は少し離れて海辺の岩場に腰かけた。湿った風、波の音。

頭の中に浮かぶのは、あの人のこと。


――伊織先輩。


卒業して、進学して、遠くに行ってしまったけれど。

今でも、ふとしたときに思い出す。

先輩が「ゆらの観察眼はすごいよ」と言ってくれたこと。

何気ない一言が、今の私を支えている。


そんなとき、後ろから足音がした。

振り向くと、そこには澄がいた。


「ここ、隣、いいですか?」


「うん、もちろん」


ふたり並んで座ると、澄はぎこちなく口を開いた。


「……私、先輩みたいになりたいんです」


思わず息を呑んだ。


「……なんで?」


「だって、あこがれなんです。わたし、すぐ不安になるし、自分の意見も言えなくて。でも、ゆら先輩は、自分の言葉をちゃんと持ってて……。ああ、わたしも、こうなれたらって……そう思ったんです」


――涙が出そうだった。

そんなふうに思ってくれる後輩がいるなんて。


「……ありがとう。ほんとに、ありがとうね」


潮風に紛れて、私の声は少し震えていたかもしれない。

でも、それでも――

私は今、たしかに誰かにとって“憧れ”になっている。


それは、かつての私が欲しかった光だった。

日が暮れてからの海は、昼間の賑やかさを忘れたように静まりかえっていた。砂浜に並んだ小さな足跡だけが、今日という一日の余韻を残している。 


 科学合宿の夜は、花火や肝試しで騒がしかったが、それもひと段落して、いまは自由時間。部屋に残ってカードゲームをしている班もいれば、砂浜へ抜け出して星を眺める班もいた。


 私は、ひとりで外に出ていた。


 手にしたペットボトルの水をちびちび飲みながら、海の匂いを吸い込む。真っ暗な海面には、月がぼんやりと反射していて、その光景はどこか現実味がなかった。 


(あの子……如月さん)


 昼間、私に言った。


 「中川先輩みたいになりたいです」


 その言葉が、ずっと頭から離れない。


 私のように、人前で話すのが苦手で、意見を言うことにためらいがある後輩。でも、彼女は変わろうとしている。真っ直ぐで、前向きで、時折はにかみながらも、目はまっすぐだった。


 そんな彼女に憧れられる自分が、ふさわしいのか。


 私は――。


「中川先輩、こんなところにいたんですね」


 その声に驚いて振り向くと、そこには澄がいた。薄手のパーカーを羽織っていて、髪が風に揺れている。どこか眠たげな顔で、でも、笑っていた。


「夜の海、見てみたくて……先輩がいそうな気がして」


「私が?」


「はい。中川先輩って、なんとなく、夜の海に似てますから」


 私は、ぽかんとしてしまった。


「えっと、それはどういう……?」


「静かで、深くて、だけど光をちゃんと映すところ。昼間はまぶしくて見えないけど、夜になるとちゃんとわかるんです。そういうところが、好きです」


 あまりにも真っ直ぐな言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


 思えば、これまでの一年、私なりに少しずつ変わろうとしてきた。伊織先輩や、千紘さん、みんなが背中を押してくれて、少しだけ前を向けるようになった。


 その小さな一歩を、誰かがちゃんと見ていてくれた。


「……ありがとう、如月さん」


「わ、いえっ、そんな、こちらこそです!」


 ぱたぱたと手を振って慌てる澄を見て、私はようやく笑うことができた。


 そのあと、ふたりで並んで砂浜を歩いた。


 波音にかき消されないように、ぽつぽつと会話をつないでいく。好きな実験の話や、将来のこと。彼女の話を聞きながら、私は何度も何度も頷いた。


 やがて、風が冷たくなってきて、そろそろ戻ろうと立ち上がるとき、澄がふと立ち止まった。


「私、がんばります。いつか、中川先輩みたいになれるように」


 夜の海に、きらりと星が落ちたように感じた。


「……ううん。私も、がんばるよ」


 あの日、何も言えなかった私じゃなくて。


 こうして、誰かに言葉を返せる自分になれている。それが、うれしかった。


 空を見上げると、いくつもの星が瞬いていた。


 合宿の夜、わたしたちは小さく波に揺れながら、きっと前へと進んでいる。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ