偏光板と、あの人の進路
夏の午後は、どこかスローモーションで進む。
廊下を流れる空気も、窓辺のカーテンも、時間までもが、だるそうに揺れていた。
「中川〜!偏光板のスライド、どこにしまったか知らない?」
理科準備室で、美穂先輩が段ボールの中をごそごそやっている。
「えっと……光学キットの中じゃなかったですか?」
「あ、それかも!ありがと〜!」
科学部は、文化祭の展示準備の真っ最中だった。
今年のテーマは『目に見えないものを、見えるように』。
そのひとつとして、偏光板を使った光の実験装置を作っている。
私はカッターを手に、展示パネルの背景用ボードを切っていた。
ふと手を止めて、部室の隅を見やる。
伊織先輩が、一人ノートパソコンと睨めっこしていた。
手元には、分厚い問題集と英語の参考書。
文化祭準備そっちのけで、ずっと勉強しているのだ。
「伊織、ちょっとは手伝って〜。中川がひとりで工作してるよ?」
「……ごめん、あとでやる。今、ちょっと区切りのいいとこだから」
返事はぶっきらぼうだったけれど、声に刺々しさはなかった。
それよりも、焦りのようなものが混じっていた気がする。
「中川、伊織ね、こないだ言ってたの。**“理学部物理学科、狙ってる”**って」
美穂先輩が、ひそひそ声で言った。私は思わず手を止める。
理学部?物理? あの伊織先輩が?
「……すごい、ですね」
口にしてから、なんとも言えない気持ちが胸に広がった。
“すごい”は、素直な賞賛だった。
でも同時に、どこか遠くへ行ってしまうような感覚があった。
伊織先輩は、まっすぐ前を見ている。
私はどうだろう。
ただ、目の前のことを黙々とこなしているだけじゃないのか。
偏光板を手に取り、光にかざす。
角度を変えると、見えていたものが消えていく。
——見えるものと、見えないもの。
どちらが“本当の自分”に近いんだろう。
「中川、大丈夫?」
「えっ、あ、はい……!」
私は慌てて笑って見せた。
でも、心のどこかに小さなざわめきが残っていた。
伊織先輩の背中を見つめながら、
それが、ほんの少し「焦り」だったことに、自分でも気づいてしまっていた。
夏の気配が色濃くなり始めた放課後、科学部の実験室には、文化祭に向けた装置の試作品がずらりと並んでいた。
「偏光板の重ね合わせで、見える模様が変わるんですって」
後輩の澄が、目をきらきらさせて語る。
「ねえ先輩、これ、ゆら先輩が考えたんですよね?」
「う、うん……でも、伊織先輩のアイディアに少し助けてもらって……」
「えへへ。やっぱり伊織先輩ってすごいんですね」
――その名前を聞くたびに、胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。
伊織先輩が理系の難関大学を目指していると知ってから、ずっと、心がざわついていた。
自分がどこへ向かおうとしているのか、わからなくなっていた。
あの人は、進む道をはっきり見つめているのに。
私は、ここで何をしているのだろう。
「……ねえ、ゆら」
ふいに声をかけられて振り向くと、そこに伊織先輩がいた。
「ちょっと、手伝ってくれない? 教室の装飾、まだ途中でさ」
「あっ……はいっ!」
装飾係として移動しながらも、会話は自然と進路の話へと及んだ。
「俺さ、将来、環境工学やりたいんだ」
「環境工学……ですか?」
「水や空気、エネルギーの問題を、理論だけじゃなく現場で解決する仕事。フィールドワークとかも多くてさ」
ゆらは目を丸くする。
「わたし……てっきり、もっと机に向かってる感じの研究職かと……」
伊織は笑った。
「意外だった? でも、現場ってワクワクするだろ。自分の目で確かめたいし、体を動かすの、案外好きなんだ」
その言葉に、ゆらは小さく頷いた。
「……なんか、かっこいいですね」
「ゆらも、自分の“好き”を信じてみるといいよ」
不意に言われたその言葉が、胸に刺さった。
「“好き”って……でも、そんな、わたしには……」
「あるだろ? 観察も得意、手先も器用。後輩の澄ちゃんだって、ゆらのことすごく慕ってるじゃん」
「……でも、進路のこと、何にも決められてなくて……」
「決まってなくたっていい。焦る必要なんてないよ」
夕暮れの光が、窓から差し込む。
偏光板の実験で作った装飾が、教室の壁に不思議な模様を描き出していた。
「光って、見方によって形が変わる。人の進む道も、そうなのかもしれないね」
「……形が変わる?」
「うん。でも、どんな形になったとしても、それが“自分の選んだ光”なら、大丈夫だよ」
その言葉は、優しく背中を押してくれた。
私にはまだ、はっきりした“進路”はない。
でも、科学部での日々の中で――
誰かに伝えること、支えること、そして、ものをじっくり見つめることの楽しさを、確かに感じてきた。
だから――今はそれで、いいのかもしれない。
「伊織先輩……あの、ありがとうございます」
「うん。応援してるよ、ゆら」
その笑顔に、迷いの霧がすうっと晴れていくような気がした。
文化祭の準備は、もうすぐ完成。
そして、少しずつだが――私の心の中にも、輪郭のある光が、差し込み始めていた。




