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『中川ゆらと科学部の36か月』 ――わたしを変えたのは、たぶん、科学と、あなたたち。  作者: 南蛇井


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偏光板と、あの人の進路

夏の午後は、どこかスローモーションで進む。

廊下を流れる空気も、窓辺のカーテンも、時間までもが、だるそうに揺れていた。


「中川〜!偏光板のスライド、どこにしまったか知らない?」


理科準備室で、美穂先輩が段ボールの中をごそごそやっている。


「えっと……光学キットの中じゃなかったですか?」


「あ、それかも!ありがと〜!」


科学部は、文化祭の展示準備の真っ最中だった。

今年のテーマは『目に見えないものを、見えるように』。

そのひとつとして、偏光板を使った光の実験装置を作っている。


私はカッターを手に、展示パネルの背景用ボードを切っていた。

ふと手を止めて、部室の隅を見やる。


伊織先輩が、一人ノートパソコンと睨めっこしていた。


手元には、分厚い問題集と英語の参考書。

文化祭準備そっちのけで、ずっと勉強しているのだ。


「伊織、ちょっとは手伝って〜。中川がひとりで工作してるよ?」


「……ごめん、あとでやる。今、ちょっと区切りのいいとこだから」


返事はぶっきらぼうだったけれど、声に刺々しさはなかった。

それよりも、焦りのようなものが混じっていた気がする。


「中川、伊織ね、こないだ言ってたの。**“理学部物理学科、狙ってる”**って」


美穂先輩が、ひそひそ声で言った。私は思わず手を止める。


理学部?物理? あの伊織先輩が?


「……すごい、ですね」


口にしてから、なんとも言えない気持ちが胸に広がった。


“すごい”は、素直な賞賛だった。

でも同時に、どこか遠くへ行ってしまうような感覚があった。


伊織先輩は、まっすぐ前を見ている。

私はどうだろう。

ただ、目の前のことを黙々とこなしているだけじゃないのか。


偏光板を手に取り、光にかざす。

角度を変えると、見えていたものが消えていく。


——見えるものと、見えないもの。

どちらが“本当の自分”に近いんだろう。


「中川、大丈夫?」


「えっ、あ、はい……!」


私は慌てて笑って見せた。

でも、心のどこかに小さなざわめきが残っていた。


伊織先輩の背中を見つめながら、

それが、ほんの少し「焦り」だったことに、自分でも気づいてしまっていた。


夏の気配が色濃くなり始めた放課後、科学部の実験室には、文化祭に向けた装置の試作品がずらりと並んでいた。


「偏光板の重ね合わせで、見える模様が変わるんですって」


後輩の澄が、目をきらきらさせて語る。


「ねえ先輩、これ、ゆら先輩が考えたんですよね?」


「う、うん……でも、伊織先輩のアイディアに少し助けてもらって……」


「えへへ。やっぱり伊織先輩ってすごいんですね」


――その名前を聞くたびに、胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。


伊織先輩が理系の難関大学を目指していると知ってから、ずっと、心がざわついていた。


自分がどこへ向かおうとしているのか、わからなくなっていた。


あの人は、進む道をはっきり見つめているのに。

私は、ここで何をしているのだろう。


「……ねえ、ゆら」


ふいに声をかけられて振り向くと、そこに伊織先輩がいた。


「ちょっと、手伝ってくれない? 教室の装飾、まだ途中でさ」


「あっ……はいっ!」


装飾係として移動しながらも、会話は自然と進路の話へと及んだ。


「俺さ、将来、環境工学やりたいんだ」


「環境工学……ですか?」


「水や空気、エネルギーの問題を、理論だけじゃなく現場で解決する仕事。フィールドワークとかも多くてさ」


ゆらは目を丸くする。


「わたし……てっきり、もっと机に向かってる感じの研究職かと……」


伊織は笑った。


「意外だった? でも、現場ってワクワクするだろ。自分の目で確かめたいし、体を動かすの、案外好きなんだ」


その言葉に、ゆらは小さく頷いた。


「……なんか、かっこいいですね」


「ゆらも、自分の“好き”を信じてみるといいよ」


不意に言われたその言葉が、胸に刺さった。


「“好き”って……でも、そんな、わたしには……」


「あるだろ? 観察も得意、手先も器用。後輩の澄ちゃんだって、ゆらのことすごく慕ってるじゃん」


「……でも、進路のこと、何にも決められてなくて……」


「決まってなくたっていい。焦る必要なんてないよ」


夕暮れの光が、窓から差し込む。


偏光板の実験で作った装飾が、教室の壁に不思議な模様を描き出していた。


「光って、見方によって形が変わる。人の進む道も、そうなのかもしれないね」


「……形が変わる?」


「うん。でも、どんな形になったとしても、それが“自分の選んだ光”なら、大丈夫だよ」


その言葉は、優しく背中を押してくれた。


私にはまだ、はっきりした“進路”はない。


でも、科学部での日々の中で――


誰かに伝えること、支えること、そして、ものをじっくり見つめることの楽しさを、確かに感じてきた。


だから――今はそれで、いいのかもしれない。


「伊織先輩……あの、ありがとうございます」


「うん。応援してるよ、ゆら」


その笑顔に、迷いの霧がすうっと晴れていくような気がした。


文化祭の準備は、もうすぐ完成。


そして、少しずつだが――私の心の中にも、輪郭のある光が、差し込み始めていた。


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