伝えること、守ること
それは、思っていたよりも簡単な失敗だった。
理科室の一角、私たちはいつも通り、静かに実験を進めていた。テーマは「簡易な電池の製作」。レモンと銅板と亜鉛板、そして導線。中学生の自由研究でもやるような、基本中の基本。
「中川先輩、こっちってこれで合ってますか?」
後輩の澄が、少し不安そうに回路のメモを見せてくる。その手は少し震えていて、まだ半田ごてに触れるのも恐る恐るだった。
「うん、大丈夫だよ。……でも、ここ、導線がちょっと剥きすぎかな。ショートするかも」
「し、ショート……!」
「大丈夫、落ち着いてやれば何も起こらないから」
そう言ったのは、ほんの数分前だった。
次の瞬間、焦げたような匂いと、ぱちっという音が聞こえた。
その直後、澄の叫び声――というほどではない、小さな悲鳴が耳をかすめた。
「澄ちゃん、離れて!」
思わず体が動いた。
慌てて跳ねた導線が薬品瓶に当たり、それが倒れ、棚の上に置いてあったビーカーがかしゃんと割れた。そこまでが、たった数秒の出来事。
静まり返る部屋。私の心臓の音だけが、ひどく大きく聞こえた。
「ご、ごめんなさい……っ」
澄が、青ざめた顔で私を見上げていた。足元には、割れたガラスの破片とこぼれた液体。幸い、誰もケガはなかった。
「大丈夫、怪我してない? 触らないで、そこは私が片づけるから」
澄はかぶりを振り、でも目には涙がにじんでいた。責任感の強い子だ。誰よりも慎重で、真面目で、だからこそ今にも自分を責めて泣き出しそうだった。
私はふと思った。
ここで「あなたのせいじゃない」と言うことが、正しいのかどうか。
だって、確かに原因は彼女の操作ミスだった。けれど、それを見逃したのは私だ。彼女が不安そうにしていたのに、私は「大丈夫」と言ってしまった。
「……ごめんね。私がもっとちゃんと見てればよかった」
「え……?」
「責任は、私が取る。部長にも先生にも、私から説明するよ」
澄は首を振った。
「でも、わたしが……わたしが……!」
「いいの。私が先輩で、君が後輩なんだもの。守るのは私の役目だから」
口にして、私は少し驚いた。守る、なんて。いつの間に、そんなふうに思えるようになっていたのだろう。
昨年の私なら――誰かの前に立つなんて、考えられなかった。だけど今は。たった一歩でも、誰かの盾になれるなら、それがきっと、「先輩」ということなのだと思えた。
――5月、伝えること、守ることの意味を知る
実験室の空気は、ガラス管の割れる音とともに一瞬で緊張に染まった。
「如月さん、大丈夫⁉」
中川ゆらは反射的に如月澄の前に手を伸ばし、飛び散る薬液から守った。その一瞬の判断で、自身の白衣の袖が濡れ、赤く腫れ始める。
「せ、先輩――っ!」
澄の声は震えていた。ゆらは痛みに顔をしかめながらも、微笑を浮かべる。
「平気。これくらいなら、すぐ洗えば大丈夫」
すぐに顧問の先生と上級生が駆けつけ、応急処置がなされる中で、澄は青ざめた顔のまま俯いていた。
事故の原因は、澄のビーカー加熱のミス。だがそれを知っていても、ゆらは誰にも責任をなすりつけなかった。
「私が確認を怠ったから。あとは私が説明します」
班の報告会で、そう言い切ったゆらに、顧問の先生は一瞬驚いた顔をしたが、深く頷いた。
後輩をかばったことで、注意を受けたのはゆらだった。だが、その出来事を経て、澄はゆらの元に泣きながら謝罪しにきた。
「……私、先輩に守られただけじゃなくて、先輩の“覚悟”を見てしまいました」
「覚悟……?」
「はい。自分が悪いって、わかっていても、誰かのために前に立つって、すごく、怖いことだと思うんです。でも、先輩はそれを……」
涙ながらに語る澄の姿に、ゆらは胸の奥で何かが溶けていくのを感じた。かつての自分が、ただ逃げることしかできなかったあの春とは、もう違う。
その週末、班のメンバーが、ゆらに向かって声を揃えた。
「ゆら、これからも頼りにしてるから」
ゆらは一瞬、戸惑った表情を浮かべたが、すぐに小さく笑った。
「うん……ありがとう」
それは、自分を守ることで精一杯だった少女が、誰かを守る人になるまでの、小さな一歩だった。




