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『中川ゆらと科学部の36か月』 ――わたしを変えたのは、たぶん、科学と、あなたたち。  作者: 南蛇井


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13/36

新入部員、わたしが迎える春

 春の風は、やわらかくて、すこしくすぐったい。

 中庭を渡ってくる風に、私の髪がさらりと浮かび上がる。花壇にはチューリップが揺れていて、桜の花びらが地面にちらちらと落ちていた。


「はぁ……」


 私は理科準備室の窓をふっと開け、目の前の風景に小さくため息をこぼす。理由はわかっている。緊張しているからだ。何にかって――新入生勧誘、である。


 今日はクラブ活動の紹介日。新入生が校内を巡って部活の見学をする、大事な日だ。先輩たちはもう卒業し、科学部には今、私と千紘先輩の二人だけ。いずれは私が部長になる。その自覚は、ある。……あるけど、でも、慣れないことに緊張するのは、どうしようもない。


「中川、準備できたか?」


 後ろから声をかけてきたのは千紘先輩。白衣のポケットにチョコ菓子を詰め、今日はなぜかご機嫌だ。いつもより髪も丁寧にまとめていて、もしかして、誰かに見られるのを意識してるのかも……なんて。


「はい。ポスターと展示物も机に並べました。あと、資料も人数分……」


「うん、よくやった。完璧だな」


 ぽんと頭を撫でられた。先輩の手は相変わらずあたたかくて、それだけで少し、気持ちが落ち着いた。


「……大丈夫だよ、中川。去年よりずっと堂々としてる」


「え……」


 思わず顔を上げた私に、千紘先輩はにやりと笑ってみせた。


「見てればわかる。最初は人の目も見られなかったのに、今じゃちゃんと案内までできてるじゃん」


「……そんなこと、ないです」


「あるって。俺が保証する」


 そんなふうに言われると、なんだかこそばゆい。でも、不思議と頬が緩むのを止められなかった。


 ――そして。


 部活見学の時間、科学部の部室に訪れたのは、思っていたより少なかった。何組かの男子グループ、そして――


「……あ」


 ひとり、所在なげに立っている少女がいた。


 小柄で、肩までの黒髪をまとめたその子は、私よりもさらにおとなしく見えた。そわそわと視線をうろうろさせ、手に持ったパンフレットをぎゅっと握りしめている。


 他の見学者たちが展示に興味津々な様子で近づいてくる中、彼女だけは、部屋の隅で立ち止まったままだ。


 ――わかる。その気持ち。


 去年の私も、そうだったから。


「……こんにちは。科学部へようこそ」


 私は意を決して、彼女に声をかけた。自分でも驚くくらい、声が震えていなかった。


「え、あ……」


 彼女がはっと顔を上げた。目が合った。その瞳に、一瞬の戸惑いと、隠しきれない安心が浮かぶのが見えた。


「もしよかったら、少しだけ見ていきませんか? 今年の自由研究の展示もあるんです」


「……う、うん」


 かすかにうなずいたその子に、私はにっこりと笑い返した。


 そのとき胸にふと浮かんだのは、去年の私に手を差し伸べてくれた、伊織先輩の姿だった。


 ――今度は、私の番だ。


 私は、心の中でそっと、そう呟いた。


翌日、放課後の科学準備室。新入部員の澄は、机にかじりついていた。教科書とノートを広げ、何やら熱心に数式を書き込んでいる。


「……これって、熱伝導率の式?」


 思わず声をかけると、澄はびくりと肩を揺らした。


「あ……ご、ごめんなさい、勝手に……」

「ううん、大丈夫。興味があるの?」

「うん……あ、でも、あの、物理ってわけじゃなくて、なんとなく、熱って……感覚的に面白いなって……」


 感覚的。理論じゃなくて。私が最初に科学に惹かれた理由も、どこかそんな曖昧な“感じ”だった。静電気がぱちっと走る感じや、氷が溶けていく様子がきれいだと思ったこと。理屈じゃなく、ただ「好き」で始まった。


「それって、すごく大事だと思うよ」

「え……?」

「科学って、感じるところから始まると思う。私も、最初はよく分かんなくて。でも、“なんか好き”っていうのが、一番の理由だったな」


 澄は、ほっとしたように小さく笑った。それは、まるで自分の過去を見ているようで、胸の奥が温かくなった。


「ねえ、澄ちゃん。科学部に入ってくれてありがとう」


 私のその言葉に、彼女は小さく首をかしげた。


「……どうして?」

「澄ちゃんが来てくれて、嬉しかったから。私、去年の今ごろは、誰ともろくに話せなかったんだ。でも、今こうして澄ちゃんに話しかけられてる。それって、たぶん……澄ちゃんのおかげだよ」


「わたしのおかげ……?」


 ぽつりと呟いた澄の目に、少しだけ光が差した気がした。

 かつて私が先輩に背中を押してもらったように、今度は私が誰かの背中をそっと支えられる存在になっている。そんな自分を、少しだけ好きになれた気がした。


 その日の帰り道。空気はまだ冷たいけれど、空には確かに春の気配があった。

 そして私の胸の中にも、小さな芽が、静かにふくらんでいた。

 それは――「誰かの居場所になりたい」という、優しい願いの芽だった。

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