新入部員、わたしが迎える春
春の風は、やわらかくて、すこしくすぐったい。
中庭を渡ってくる風に、私の髪がさらりと浮かび上がる。花壇にはチューリップが揺れていて、桜の花びらが地面にちらちらと落ちていた。
「はぁ……」
私は理科準備室の窓をふっと開け、目の前の風景に小さくため息をこぼす。理由はわかっている。緊張しているからだ。何にかって――新入生勧誘、である。
今日はクラブ活動の紹介日。新入生が校内を巡って部活の見学をする、大事な日だ。先輩たちはもう卒業し、科学部には今、私と千紘先輩の二人だけ。いずれは私が部長になる。その自覚は、ある。……あるけど、でも、慣れないことに緊張するのは、どうしようもない。
「中川、準備できたか?」
後ろから声をかけてきたのは千紘先輩。白衣のポケットにチョコ菓子を詰め、今日はなぜかご機嫌だ。いつもより髪も丁寧にまとめていて、もしかして、誰かに見られるのを意識してるのかも……なんて。
「はい。ポスターと展示物も机に並べました。あと、資料も人数分……」
「うん、よくやった。完璧だな」
ぽんと頭を撫でられた。先輩の手は相変わらずあたたかくて、それだけで少し、気持ちが落ち着いた。
「……大丈夫だよ、中川。去年よりずっと堂々としてる」
「え……」
思わず顔を上げた私に、千紘先輩はにやりと笑ってみせた。
「見てればわかる。最初は人の目も見られなかったのに、今じゃちゃんと案内までできてるじゃん」
「……そんなこと、ないです」
「あるって。俺が保証する」
そんなふうに言われると、なんだかこそばゆい。でも、不思議と頬が緩むのを止められなかった。
――そして。
部活見学の時間、科学部の部室に訪れたのは、思っていたより少なかった。何組かの男子グループ、そして――
「……あ」
ひとり、所在なげに立っている少女がいた。
小柄で、肩までの黒髪をまとめたその子は、私よりもさらにおとなしく見えた。そわそわと視線をうろうろさせ、手に持ったパンフレットをぎゅっと握りしめている。
他の見学者たちが展示に興味津々な様子で近づいてくる中、彼女だけは、部屋の隅で立ち止まったままだ。
――わかる。その気持ち。
去年の私も、そうだったから。
「……こんにちは。科学部へようこそ」
私は意を決して、彼女に声をかけた。自分でも驚くくらい、声が震えていなかった。
「え、あ……」
彼女がはっと顔を上げた。目が合った。その瞳に、一瞬の戸惑いと、隠しきれない安心が浮かぶのが見えた。
「もしよかったら、少しだけ見ていきませんか? 今年の自由研究の展示もあるんです」
「……う、うん」
かすかにうなずいたその子に、私はにっこりと笑い返した。
そのとき胸にふと浮かんだのは、去年の私に手を差し伸べてくれた、伊織先輩の姿だった。
――今度は、私の番だ。
私は、心の中でそっと、そう呟いた。
翌日、放課後の科学準備室。新入部員の澄は、机にかじりついていた。教科書とノートを広げ、何やら熱心に数式を書き込んでいる。
「……これって、熱伝導率の式?」
思わず声をかけると、澄はびくりと肩を揺らした。
「あ……ご、ごめんなさい、勝手に……」
「ううん、大丈夫。興味があるの?」
「うん……あ、でも、あの、物理ってわけじゃなくて、なんとなく、熱って……感覚的に面白いなって……」
感覚的。理論じゃなくて。私が最初に科学に惹かれた理由も、どこかそんな曖昧な“感じ”だった。静電気がぱちっと走る感じや、氷が溶けていく様子がきれいだと思ったこと。理屈じゃなく、ただ「好き」で始まった。
「それって、すごく大事だと思うよ」
「え……?」
「科学って、感じるところから始まると思う。私も、最初はよく分かんなくて。でも、“なんか好き”っていうのが、一番の理由だったな」
澄は、ほっとしたように小さく笑った。それは、まるで自分の過去を見ているようで、胸の奥が温かくなった。
「ねえ、澄ちゃん。科学部に入ってくれてありがとう」
私のその言葉に、彼女は小さく首をかしげた。
「……どうして?」
「澄ちゃんが来てくれて、嬉しかったから。私、去年の今ごろは、誰ともろくに話せなかったんだ。でも、今こうして澄ちゃんに話しかけられてる。それって、たぶん……澄ちゃんのおかげだよ」
「わたしのおかげ……?」
ぽつりと呟いた澄の目に、少しだけ光が差した気がした。
かつて私が先輩に背中を押してもらったように、今度は私が誰かの背中をそっと支えられる存在になっている。そんな自分を、少しだけ好きになれた気がした。
その日の帰り道。空気はまだ冷たいけれど、空には確かに春の気配があった。
そして私の胸の中にも、小さな芽が、静かにふくらんでいた。
それは――「誰かの居場所になりたい」という、優しい願いの芽だった。




