科学部のドアはまだ重たい
高校に入学して三日目。
教室の窓から見える桜の花は、昨日よりずいぶん色あせて見えた。風に煽られ、ひらひらと教科書の余白に落ちる花びらは、まるで間違って印刷された模様みたいに思えた。
「……あ、あの……こ、この席……いいですか……?」
新しいクラスの朝。空いた席に座ろうとしただけなのに、心臓が口から逃げ出しそうだった。誰かの目に触れるたびに、喉が乾いて、手のひらに変な汗が滲む。
わたし――中川ゆらは、いわゆる「人見知り」の最上級クラスである。
入学式の日、緊張しすぎて自分の名前を噛んだ。「なかが……な、ななな……なかがわゆら、です」
拍手とともに、司会の先生がやさしい笑顔でフォローしてくれたけど、あれはもう一生思い出したくない。多分、わたしの人生の黒歴史上位3位以内には確実に入る。
そんなわたしが、どうして「部活見学」なんて大それたことを考えたのか。
それは、クラスの中で誰とも話せない時間が、あまりにも長すぎたからだ。
お昼ごはんは、教室の隅っこでそっと食べる。話しかけられるのが怖くてイヤホンをつけて、でも実際には何も音楽を流さず、ただの「話しかけないでくださいバリア」を貼る。
そんな自分に、ちょっとだけ――ほんの少しだけ――自己嫌悪してしまったのだ。
(高校では、ちょっとだけ変わろうって……思ったのに)
何かに所属すれば、自動的に「居場所」みたいなものができるかもしれない。
誰かと会話する「きっかけ」になるかもしれない。
そう思って、下校のチャイムが鳴ったあと、部活動見学に出かけることにしたのだった。
目指すは――科学部。
理科は、わりと好きだった。中学のとき、こっそり月の観察ノートをつけたり、石ころを集めては「これ、火成岩かな?」なんて妄想したり。
友達がいなかったから、自然と観察対象は空とか植物とか、動かないものが多かった。
そのときのことを思い出しながら、わたしは理科棟の端にある、古びた扉の前に立った。
プレートには、くすんだ銀色の文字で「科学部」。
……ドアノブが、思ったより冷たかった。
(入る……? 入らない……?)
中から何かの「爆発音」が聞こえた。
思わず身を引く。中の声が聞こえる。
「ちょっと! フラスコ焦がしてどうするのよ!」
「だから言っただろ、0.5グラムって! なんで5グラム入れるの!?」
ああ、無理かも。
陽気そうな声。勢いのあるツッコミ。笑い声。
そんなの、わたしにはまぶしすぎる。入った瞬間、会話を求められて、自己紹介して、わたしの声が震えて、失笑されて、もうその部屋に一生入れなくなる未来が見えた。
結局――わたしはその扉を開けることができなかった。
帰り道、靴箱の前で、肩を落としたまま、ふと見上げた空に、また桜が舞っていた。
花びらが一枚、わたしのローファーの上に落ちた。すぐに風にさらわれて、どこかへ行ってしまう。
――わたしの心も、それくらい軽かったらよかったのに。
科学部のドアは、思っていたよりずっと重かった。
開けるには、わたしの勇気はまだ足りなかった。
(でも……明日は、もう一回だけ、チャレンジしてみようかな)
ほんの少しだけ、足の指先をドアの隙間に引っかけるくらいの勇気を抱えて、わたしは校門を出た。
昼休みが終わり、午後の授業が始まって、終わって、ホームルームが過ぎて。
教室を出るタイミングを逃しつづけていた私は、最後の一人になってしまった。
教室の隅の席で、しばらくかばんを見つめていた。
(……また逃げるの?)
心のどこかで、そんな声がした。誰かの声じゃない。たぶん、自分の声だ。
校舎の三階、一番奥の部室棟へ続く廊下。
私は、夕陽のオレンジに染まるその道を、昨日と同じように――でも、ちょっとだけ違う足取りで歩いた。
科学部の部室。昨日、逃げたあの扉の前に立つ。
ノックしようとして、手を引っ込める。
(……やっぱり……)
でも、その瞬間、ドアの向こうから声がした。
「で、電池と豆電球は……それとスイッチがあれば……!」
「回路図は合ってるけど、電圧足りてないよそれ」
「お前らさぁ、まず掃除してから始めよ?」
にぎやかだけど、なぜか、どこかやさしい声たち。
気がつけば、私はノックしていた。
「――どうぞー!」
昨日と同じく、ドアが開く。
でも、昨日と違って、逃げなかった。
「……あの、昨日……」
「あ、昨日来てた子! よかった、来てくれて」
笑顔で言ったのは、昨日、理科準備室から飛び出してきたあの女の先輩だ。
「いきなりごちゃごちゃしててごめんね、ビビったでしょ?」
私はこくんとうなずいた。嘘はつけなかった。
「うち、変な人ばっかだからさ。でもさ、ちょっと面白いよ」
先輩はそう言って、部室の中を指差す。
その先には、なにかの装置を試作している男子、試験管を並べてにやにやしている人、模型を動かしている人、本を読んでる人、ぼーっとしてる人。みんな、バラバラだ。でも、楽しそうだった。
私はおそるおそる、ドアを一歩、また一歩と超えた。
その瞬間、心の中の“重たい扉”が、少しだけ開いた気がした。
「名前、なんていうの?」
「……中川、ゆら、です」
「ゆらちゃん。いい名前。じゃあ――ようこそ、科学部へ!」
その言葉が、胸にすっと届いた。
私は、ようやく、微笑むことができた。